備後福山城  広島県福山市   


リビングふくやま 2024・8・23
福山城 築城402年 ”数字”でお知ろう!
門の数 7→1

天守の高さ 64.42m

櫓の数 20→4

重要文化財に指定されている建物の数 2と1

狭間の数 六角形7 丸95 四角 60

藩主の人数 16

旧天守を支えた礎石の数 19 

天守を覆う鉄板の枚数 約2,000

城内にある桜の本数 300

最多入場者数 191,980人

井戸の数 1

最速1万人突破 13日目

鐘櫓の一日の鳴鐘回数 4

開門時間6時  閉門時間22時

8月28日「福山築城記念日」、31日「福山築城記念イベント」




2023/12/20(水) 打合せ終わり カード貰う。年末ジャンボ宝くじ買う。
福山駅観光案内所 カードゲットする。

マンホールカード    ウロウロした思い出として記録したマンホール。

「オシロボッツ」とは?

オシロボット福山城
胸部の伏見櫓と御湯殿、肩の月見櫓、胴体の天守南面から構成される
白き姿の<不羈なる白>と、天守北面を覆う鉄板が如き黒き姿の<鉄壁
の黒>、二つの形態を持ち、いかなる攻撃をも防ぐ無敵の盾「不羈鉄心
(ふてきてっしん)」を操る。自由なる魂と鉄の心を併せ持つオシロボット。




日本最強の城▼瀬戸内海 城ツアー7/31(月) 午後10:00-午後10:45
城は誰もが楽しめるアミューズメント・スポット。
全国に3万以上あると言われる城の中からえりすぐりの名城をピックアップ、驚きの秘密や知られざる魅力に迫ります!

クルーズ気分で城探訪。この夏、絶対行きたくなる瀬戸内海の城へ。
「今治城」航路が集中する港町に築かれた日本屈指の海城。築城の名手が施した石垣の工夫とは?
▼「能島城・甘崎城」村上海賊が拠点とした城は、海を熟知した者しか近寄れない鉄壁の守り。
▼「福山城」美と強さを兼ねそろえた白亜の巨城は、瀬戸内をにらむ重要拠点。城と海の深〜い関係に迫る。
放送後には、あなたの“最強の城”をHPで投票受付します!
【MC】恵俊彰 赤木野々花アナウンサー
【ゲスト】高橋英樹 村井美樹 久保井朝美(気象予報士)
【専門家】千田嘉博 (城郭考古学者 奈良大学教授・名古屋市立大学特任教授)


コネクト「#広島推し 福山城スペシャル」2023・4・28(金)19時30分〜55分
みなさんからの広島にまつわるとっておきの人・もの・場所などを集めた#広島推し
▽今回は広島が誇る一大観光地・今年築城401年を迎えた福山城を大特集!
▽これまで5000か所以上の城を訪れたお城マスターこと千田嘉博先生がその魅力を徹底解説
▽石垣を見れば分かるものとは?
▽福山城にあるとっておきの「隠れ推しスポット」とは?
▽白い壁に秘密あり!?
▽福山城名誉城代に就任!ロンブー田村淳の推しポイントは?

お城マスター 千田嘉博さん ナレーション:福山生まれ 福山潤 
perfume のっち 福山市出身 「めちゃくちゃかっこよく見えて」
福山名誉城代:ロンドンブーツ一号二号
小野文恵:広島県出身 福山青春の街
まだまだお城初心者:安藤結衣アナ



「鉄板」だけじゃない  白い壁と黒い鉄板のコントラストがいい
初代藩主水野勝成 家康の22才年下のいとこ 合戦に強く戦場ではいつも「一番やり」にこだわった

石垣を見ると○○がわかる
なんといってもお城の石垣
伏見櫓の石垣 築城当時の石垣 石垣を見るとお城の歴史が見える
石垣の隅の部分 一個々くわしく見ると積み方に違いがある 隙間がない美しさ見事

石の形  自然石  割石  切石

強さを決める大事なところですのでしっかり積みたい
歴史の違い 長い短い交互に積んでいる 算木積み
切石を整然と積み上げるっていうのが日本のお城の石垣の到達地点
福山城 最終的にこんなキレイな石垣を積めるところまで到達したんだ


いいねがほしい!?激レア物件
御湯殿 蒸し風呂 いまでいうサウナ
城壁から外へでてきている 懸造りという建て方 清水寺
こういう建物を実際に見ることができるのは非常に珍しい

お風呂が懸造りになっていてその様子を実際に見ることができるのは
全国でも福山城だけ


京都伏見城から移された建物
伏見城は豊臣秀吉が政権の本拠のお城として整備
家康が城主になったときもあったし江戸幕府にとってとても大きな意味を持ったお城
伏見城にあった建物を特別にもらってくることができた
将軍様からプレゼントされた福山城水野家だった

伏見櫓すごく歴史的な価値がある 中に入れない

近くに行って下さい
足軽目線になって「ここが攻めやすい」「ここにまず攻めてきた人を集める」
お城側の作戦を考えることと攻める側の作戦 両方の思いが合わさったときに
脳内で戦国時代がスパークする「ここを攻めるときにはこんな大変なことありそうな」
考えるお城の楽しいところを探し始めるので視点もってほしい

強さと大きさにヒミツあり
「10万石のお城とは思えないくらいの広さがある」
なんでこんな大きいのでしょうか?

天守が白いというところが推しのポイントの一つ!
究極の強いお城を目指していた表れ


白い壁と強さ!
火をつけられてしまう どれだけ石垣で守っていても建物は焼けてしまいますから
火に強いお城をつくりたい、木の外側を白い漆喰で全部塗った コーティングした。
漆喰が1kgあったらどれくらい塗れる?20cm四方しか塗れない
漆喰1kgおよそ700円(番組調べ)
ある理由がある
西国には外様大名が残っていた福山城は睨みをきかす役割を幕府からになっていた
街道を行くから大名たちに見せることによって福山城はすごいお城だ 見せるだけで
強さがわかちゃうそういうお城
天守の最上階がちょっと大きかったです
南五つ 西四つ 日本の天守の中でも最大級
安土城 大坂城 三つづつ
おおきな期待をよせられた 大きなお城


2024年7月22日(月)福山城に泊まる城泊!殿様気分の全容いかに

戦災で多くの建物が失われた福山城だが、
免れた重要文化財二つを城泊で活用。
2日目にはもう一つの(伏見櫓)を学芸員が特別に案内する。

福山城に宿泊し殿様気分が味わえる「城泊」が7月から始まりました。しかし、予約は入っておらず、
利用促進のため、国内外へPR作戦です。
■掛け声
殿のおなーりー!

裃(かもしも)の家臣に迎えられ、殿様気分で城に入るのは、広島県の観光連盟の職員や旅行会社の社員などです。
福山城で22日、「城泊」のオープンレセプションが開かれました 約30名が参加。

「城泊」は文字通り、城に宿泊することです。お殿様になりきって城に入る「入場体験」。
天守最上階でゆっくりと過ごせる「ナイトラウンジ」などを楽しめます。
宿泊は7月から始まりましたが、問い合わせはあるものの、予約がないのが現状です。

■城泊を運営 ふくやま芸術文化財団
「歴史体験に基づいた形で、宿泊者の方に体験してもらえるようなコンテンツを用意している。早くお客さんに、ぜひお越しいただきたい」

「城泊」の魅力をPRするため、担当者が施設を案内します。

魅力の1つが、御湯殿です江戸時代と同じ蒸し風呂を再現したサウナを新たに設置しました
御湯殿の浴室公開(約8u)檜造りで江戸時代の蒸し風呂を再現再現したサウナのほか、湯船でシャワーを備える。

■参加者
「床がない?」
■担当者
「かけづくりといって、石垣から上がせり出しているようなイメージですね」

また、こだわりは料理にも。夕食は、「殿様御膳
幕末に老中首座を務めた
福山藩主・阿部正弘が、来日したペリーをもてなしたとされる料理を再現。
郷土料理うずみ、地元の鯛や保命酒、神石牛など季節に合わせて提供。

 タイや野菜など地元の食材をふんだんに使いました


■旅行会社の社員
「美味しいです。こういうところに来たら、地のものを食べたいと思うので本当にいいと思う」

■広島県観光連盟の職員
「全国的にもすごく珍しい取り組みだと思うので、我々が持っているホームページやSNSを通じて
できるだけたくさんの観光客に魅力を伝えていきたい」

■旅行代理店
外国人観光客に人気の神勝寺(沼隈町)などと組み合わせれば、福山ならではのツアーになる

湯殿からのビューがお城が目の前に大迫力で見られるので
それはすごくすてきだなと思いました
お客様も喜ばれるんじゃないかなと思います


「こちらでちゃんとカスタマイズさせていただきながら できるかぎりお客様の(望む)城主体験に
近づけられようにしていきたい」

歴史に基づいたさまざまなコンテンツを準備していますので、そういったところを楽しんでいただければ
歴史文化を全国に発信できればという思っています。そのため今回この城泊事業開催しておりますので
海外の方も多く来ていただきたい。

課題
市内周遊する観光客少ない 市内の滞留時間多くする

築城400年耐震改修など事業28億円余 有効活用する
城泊の収益の一部を城の保存整備する

「城泊」は、1泊2食付き2人分のプランで132万円からで、定員は4人。予約は公式ホームページなどから受け付けています。



2024年4月19日 福山城「城泊」予約スタート 入城体験にサウナも
      7月1日の営業開始を前に、国内外の富裕層にアピールしていく。

        福山城キャッスルステイ   <基本料金>1泊2日 2名利用 1,200,000円(税別)


2024・1・17
城泊(しろはく)】福山城に宿泊し殿様気分を味わえる
4月から予約を開始し、6月から宿泊できる予定です。
基本プランは2人1泊2食付きで132万円から。定員は4名程度で
天守最上階での生演奏などを楽しめます。
予約は公式ホームページか専用ダイヤルから受け付ける予定です。

 城泊は築城400年を記念し2022年に大規模改修された天守と周辺施設を活用。
着物姿で記念撮影し、国重要文化財の筋鉄(すじがね)御門から入城する。
宿泊場所の月見櫓(やぐら)で地元産食材を使った夕食を堪能し、
天守最上階で琴などの生演奏を聞きながらお酒を味わう。

 福山藩主のための「御湯殿」内に入浴施設を設ける予定。
2日目は和洋の館や日本庭園を備えた国登録有形文化財「福寿会館」で朝食を楽しむ。


大洲城キャッスルステイ
1泊2日 2名利用(朝食1回 夕食1回)おひとり 660,000円(税込)



 いいね!探訪記 2023・2・10(金)朝日新聞より


天守がみえたら降車の合図


「ふくやま、ふくやまです」
列車到着のアナウンスが流れる新幹線ホーム。降車した男性客のひとりが足を止め、
スマホを取り出した。
レンズの先にあるのは、ホームの正面にどっしりと鎮座する福山城(広島県福山市)
の城郭だ。白壁の鮮やかな天守や櫓などがくっきりと見える。
JR福山駅のI駅長を訪ねると、おすすめの撮影場所を紹介してくれた。新幹線の上りホーム
の東寄り、14号車が停車する付近だ。「あそこなら、城の立体的な配置が見渡せますよ」

城に面した駅北口は「福山城口」とも呼ばれる。外に出ると、すぐ正面にそびえる高さ
12mの石垣が人々を出迎える。まさに「駅近の城」だ。

初代福山藩主が城を建てたのは400年前の1622年、江戸から明治に時代が移り、本丸を除く
周辺の土地は払い下げられ、鉄道が敷かれた。かつて内堀や三之丸だった場所を日々、3万人
の乗客が行き交う。
時代は城の運命をさらに変えた。第2次大戦末期の1945年、米軍の焼夷弾空襲で天守は焼け落ちた。
火炎で赤く変色した石垣が今も残る。
現在の天守は戦後再建された2代目だ。昨年、築城400年を祝って大改修され、初代天守の北側の壁に
施されていた防御のための鉄板張りが復元された。
市は城の抜群の立地を生かして、
宿泊施設として活用する「城泊」を新年度中にも始める。
音楽番組「ベストヒットUSA」で知られるDJ、小林克也さん(81)は福山の出身だ。帰省して
新幹線の窓から天守が見えるてくると「帰ってきた」とホッとするという。
時代を経て、その役割は変わっても、城は街のシンボルであり続ける。

JR福山駅には上下線ともに、昼間はおよそ1時間に1本の新幹線のぞみが
停車する。東京駅から約3時間半、博多駅から約1時間半。
駅北口から福山城天守
までは徒歩5分ほど。
天守の北側にまわると、正面の白とは対照的な黒褐色の
鉄板張りを見ることができる。

味わう
福山藩ゆかりの郷土料理は「うずみ」と呼ばれる汁かけごはんだ。倹約が尊ばれた時代、
ごはんの下に具材をうずめて隠し、汁をかけて食べたのが始まりと言う。福山市内の飲食店
で提供しており、福山ニューキャッスルの和食堂「鞆の浦」で「鯛うずみ」(1800円)を
いただく。タイの照り焼きやエビの天ぷらなど豪華な具材とごはんが別々の器で提供され、
自分で盛りつけてだし汁をかける。カツオだしをかける。カツオだしが香るやさしい味だ。
問い合わせ084・922・2121へ。


福山城をかたどったもなか「朱雀院」(10個入り。2376円)
朱雀院は福山城の別名。地元の和菓子店「福富」の品で、大粒の小豆をザラメで炊いたあんが
上品な甘さ。




広島県観光ボランティア協議会ホスピタリティー研修会 現地研修
ホスピタリティ
ホスピタリティとは、心のこもったおもてなしという意味です。
hospesを語源
ホスピスとは、そもそも歴史的に、巡礼の旅に出た人が、病気や飢えで動けなくなった時に、
現地の修道院で面倒を見たことに源を発しています。

【令和4年度ホスピタリティー研修会】
日時:令和4年12月9日(金)10:00〜15:00
場所:広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
(講演会)10:00〜12:00 
開運仕事術〜しあわせの仕組み学び、人生を豊かに〜
講師:尼崎えびす神社 宮司 太田垣 亘世(おおたがき のぶよ)
講演内容:心理学を取り入れた「おもてなし」について
(現地研修)13:30〜15:00 
福山城博物館友の会による現地ガイド
A:福山城博物館コース
B:福山城博物館+福山城周辺史跡コース


11月27日(日)福山城博物館友の会創立55周年記念講演会
ふくやま芸術文化ホール 小ホール
講師:萩原さちこ
水野勝成の福山城築城
■福山城の概要
〇福山城の立地と構造
〇元和期の築城が意味するもの〜築城時の情勢〜
◇全国の城(近世の城)の築城ラッシュ
@1590(天正18)年前後〜 豊臣秀吉の全国統一に伴う築城
〇高松城(香川県高松市)
〇会津若松城(福島県会津若松市)
〇浜松城(静岡県浜松市)
〇広島城(広島県広島市)
*1598(慶長3)年の文禄・慶長の役の終息後
A1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い後の徳川政権による転換 (1603(慶長8)年に江戸幕府開府)
■配置換えによる城の変化
〇広島城
〇岡山城
■豊臣家との決戦に備えた、大坂城への包囲網
〇姫路城(兵庫県姫路市)
〇彦根城(滋賀県彦根市)
■東海道沿いの主要な城に見る、体制強化と配置の変化
〇山内一豊の掛川城→高知城
〇堀尾吉晴(忠氏)の浜松城→松江城(島根県松江市)
B1615(慶長20)年の一国一城令と武家諸法度の公布
→大坂夏の陣で豊臣家滅亡。
 同年に江戸幕府から一国一城令と武家諸法度が公布され、城の歴史は終わる。
〇島原城(長崎県島原市)
〇丸亀城(香川県丸亀市)
〇明石城(兵庫県明石市)

〇鉄板張り天守の防御性
■なぜ北側の外壁のみ鉄板張りとしていたのか?
■「正保城絵図」にみる本丸北側の防御性
〇築城時の石垣
・福山市の調査から、天守台、本丸、二の丸を中心に、ほぼ築城当時の石垣が現存していることが判明。
・築城当時またはそれに近い時期に積まれた石垣は、割石に打込接の布積みと乱積み。
 隅角部の算木積みの完成度も高い。
・伏見櫓台、筋鉄御門の石垣、天守台、二の丸隅角部などには「はつり」も見られ、中には「すだれ」も。
注目点は、場所により石垣の要素が大きく異なり、
天守台や虎口周辺、二の丸南向きの石垣がとくに丁寧に加工されて積まれていること。

福山城は、南向きに築かれた城。
南面を中心に西・東面の各段を総石垣としており、南側からの眺望が重視されていることは石垣からも明白。


福山城天守は、本丸北寄りに建てられ、背後は堀や石垣が少なく、間近が城外と
なっていることから、北側の守りが手薄であり、この方面からは、直接天守への
攻撃が可能な土地が残されていた。そのため、天守北側の鉄板は、北側からのに
攻撃に備えるため防備の構えであったと考えられる。元治元年(1864)に藩儒・
江木鰐水が著した「守城論」は、長州軍からの砲撃を想定した献策の書であり、
天守の北の勇鷹社や西側の小丸山といった城北の丘陵地に砲台を設置されること
への対処をするよう献策している。これらの丘陵に砲台を設置されることで、
直接天守へ砲撃される脅威を感じていた。



江戸時代に使われた元号は「元和」から「慶応」までの35個だ。

元和 寛永 正保 慶安 承応 明暦 万治 寛文 延宝 天和 貞亨 元禄
宝永 正徳 享保 元文 寛保 延亨 寛延 宝暦 明和 安永 天明 寛政
享和 文化 文政 天保 弘化 寛永 安政 万延 文久 元治 慶応

大坂の陣で豊臣家が滅び、名実ともに戦国時代が終わり、泰平の時代が訪れた。
嘉永6年(1853年)、アメリカのペリーが来航する。開国になったことで日本は
激動の時代を迎える。国内は開国派と攘夷派に分裂し、さらに幕府の弱腰に反発
するとともに朝廷に期待する勢力が攘夷派と結びついたために尊王攘夷運動が
過激となった。尊攘派はやがて幕府打倒を目指すようになり、慶応3年(1867年)
大政奉還により江戸幕府は消滅した。

後水尾(ごみずのお)天皇の即位にともなう代始の改元として行われたが、「元和
は中国の唐王朝で使われていた元号をそのまま転用している。こうした例は後にも
先にもない。こうなった理由は、改元直後の元和1年7月17日(1615年9月9日)に幕府
が公布した禁中並公家諸法度にある。そこには「改元は、漢朝年号の内、吉例を以て
想定むべし」とあり、改元への幕府の介入が明記されている。元和は、徳川幕府の
意向が反映されているのだろう。しかし、「今後週礼を重ねて慣れてきたら先例に
従ってよい」との追記もなされており、元和以降の改元は、従来どおり朝廷主導で
行われることになった。




11月19日(土)14時〜 藩校サミット
オープニング 新作能「福山」
開会の辞
開催地挨拶
主催者挨拶
歓迎の挨拶
主賓紹介・挨拶
旧藩主紹介・旧藩当主代表挨拶
中庸素読
記念シンポジュウム
「福山の歴史を紡いだ藩主たち〜水野家・松平家・阿部家〜」
福山宣言の発表
次期大会開催地発表
引継書受渡
閉会の辞

 革包茶絲威二枚胴具足
(かわづつみちゃいとおどしにまいどうぐそく)
 金箔押鯰尾形変わり兜
(きんぱくおしなまずおなりかわりかぶと)
刈谷藩時代、関ケ原の戦いの時、
大垣城攻めに水野勝成が使用したもので、
わき腹に鉄砲傷がある。
兜は表面を熊毛植とする唐冠形(とうかんなり)変わり兜で、
前立(まえたて)には相手を威圧する獅噛(しかみ)を挿す。
胴は横板を鋲で留める横矧胴(よこはぎどう)を革包とし、
朱塗で整える。胴上部の前立挙(まえたちあげ)には
水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”が施され、
国宝「日向正宗」(三井美術館蔵)と共に水野勝成が
残した数少ない「武将の証」である。また本作品は
福山水野氏改易後も水野家家宝として保管していた
もので1963年(昭和38年)水野家から賢忠寺に寄贈された。
 
 鉄製の内鉢に、上端が少し後方に反った木製の
長大な外鉢を張り懸け、その上から打出眉を設けて
成形した後、更に総体に金箔を押す。朱塗地に黒で
菱形を描いた木製の円形前立は、水野家の裏紋である
永楽銭紋≠表わす。また江戸時代中期に記された
『西備名句(せいびめいく)』によると首の周りを保護する
(しころ)の最下段には黒い烏骨鶏の毛が植えられていた
とある。水野家家臣磯村中太夫が水野勝成から拝領した
ことが『磯村家譜』にみられ、本作品の価値を一層高めている。



井原市出部(いずえ)に勝成が若い時にこの地方を放浪し、雨宿りしたという「でんぐら堂」というものがある。
でんぐら堂ものがたり

記念事業イベント
水野勝成と徳川家康、徳川四天王の軌跡ー戦国から泰平へー
10月2日(日)13時30分開演 リーデンローズ大ホール
第一部
「徳川家康の天下取りを支えた徳川家臣団」
第二部
「水野家と徳川家、その関係と絆について」
第三部
「戦国時代を駆け抜けた徳川四天王

上段 左から 水野勝成  徳川家康
下段 左から 井伊直政  酒井忠次 本多忠勝 榊原康政


2023年 大河ドラマ どうする家康


三河一向一揆

高天神城の戦い

小牧長久手の戦い

関ケ原の戦い

清州同盟

長篠の戦い


2022・8・28(日)福山城400年博オープニングイベント  開幕祭  
体験型ミュージアムに生まれ変わった天守が一般公開。
大坂夏の陣で活躍した水野勝成をモチーフ一番槍レース火縄銃など体験型コンテンツで戦国武将になりきろう!

福山城築城400年記念事業の総括について   事業の規模と効果
福山城築城400年記念事業費 約33億円 
33億円のコストに対し約3倍の経済波及効果
を達成した。
市内外の法人・個人から11億8千万円(2022年12月末時点)の寄付が集まった









狭間について、天守2階(東西各1、南2)、3階(南1)、4階(東西各1)に最大幅が0.85尺(約260mm)の
正六角形の大きさで、破風の外壁面をへこませ復元。この正六角形の狭間は珍しい形状である。

火縄銃 人々を驚愕させた勝成の武勇
戦場において多くの武勇を遺した勝成であるが、晩年においてもそれを示す資料がある。それが「慶安三(1650)年五月七日
水野勝成87歳時鉄砲の的」である。縦横約12cm、中央に黒丸が描かれた木製の板で、鉄砲による貫通穴が確認できる。
裏面には試し撃ちの記録が墨書されており、それによると勝成87歳の時、20間(36.4m)先から打ち抜き、
人々を驚愕させたとのことである
。勝成は慶安4(1651)年3月15日に没しているため、その1年前に残した武の証である。

 


月見櫓
1階 江戸末期の福山藩主、阿部正弘が幕府の老中首座として
米国のペリー提督一行を横浜で接遇した宴席を再現した。

2階は大洲城などが先行して取り組む「城泊」ができるよう、
和室にベッドや座卓を置いた。落ち着いた、高級感のある
部屋に仕上がっている。

2022/10/17(月)福山城泊 試してみました
外国人アドバイザー招いて実証実験。二人は城主になりきり袴など和服着用 喜多流大島能楽堂の能楽
を鑑賞。月見櫓で神石牛などを使った夕食を味わった。天守の最上階で夜景を楽しんだ。
市はおもてなしの課題を探り、来年以降、本格実施に入る。
国内の他の事例では二人で一泊100万円するプランがある。


5階 天守最上階は、市内を360度見渡せる展望台。天空の間。
福山市立福山城博物館閉館後の17時30分から21時30分
使用料  35,000円/日(税込)
福山城天守最上階「天空の間」利活用事業(福山城天守最上階「天空の間」の夜間一般使用)について





2022・8・23(火)福山城博物館友の会内覧会

8月22日(月)全国高校野球選手権 仙台育英 全国制覇 
深紅の大優勝旗がついに「白河の関」を越えた

8月1日
福山城博物館 新しいホームページのご案内です。
福山城博物館では、映像・体験コンテンツを来館者の皆さまが十分に楽しめる環境をつくると
ともに、新型コロナウイルス感染防止対策の一環として、当面、事前予約による入館を基本とさせて
いただきます。
事前予約ページ   事前予約の受付開始は 8月5日(金)0時 からです。






6月22日〜8月27日の期間は福山城天守前広場(本丸)内へ入場できません
8月28日の福山城博物館リニューアルオープンに向け、来場者の方の利便性と満足度
を高めるため、天守閣広場(本丸)内の整備や天守前へのスロープ設置など環境整備を
行うため 


2022・6・26 NHK コネクト撮影

2022/7/13 筋鉄御門修復 終り

復元的整備(鉄板張り)の内容
・安全性と再現性に配慮した北側鉄板の復元的
 整備を行うことを基本方針とした。
・素材は鉄板(外壁用建材)
・大きさ幅114mm、長さ1302mm、厚み0.6mmの細長
 い鉄板 約2,000枚を張り付ける。
・粒粒とした鮫肌状の凹凸や、年月を経過して
 形成された鉄のムラのある質感を再現するため、
 鉄エイジング塗装を施す。
羽重ね(下の鉄板の上に上の鉄板が重なる様)
 を再現するため、上下を重ね、その重ねの位
 置も古写真に基づいて再現する。
・鋲により壁面に留められていたことを再現する
 ため、鋲頭を再現し、鉄エイジング塗装を施す。
 

福山城天守は、本丸北寄りに建てられ、背後は堀や石垣が少なく、間近が場外となっていることから、
北側の守りが手薄であり、直接天守への攻撃が可能な土地が残されていた。
そのため、天守北側の鉄板は、北側からの攻撃に備えであったと考えられる。
元治元年(1864)に藩儒・江木鰐水が著した「守城論」は、長州軍からの砲撃を想定した献策の書であり、
天守の北の勇鷹社や西側の小丸山といった城北の丘陵部に砲台を設置されることへの対処するよう献策している。
これらの丘陵に砲台を設置されることで、直接天守へ攻撃される脅威を感じていた。

史資料に見る北側鉄板について
「備後福山之覚書」(池田家文書岡山大学附属図書館蔵)
「一同所蔵御天守北ノ方ハ鉄包残ル三方ハ白土ニ相見五重ノ御城也」
当該資料は、元禄11年(1698年)に水野家が断絶し、福山城請取役として福山を訪れた岡山池田藩が福山城下の
記録をしたものである。天守の北の方(北面)は鉄で包み、三方(東、南、西面)は、白土(漆喰か)とみられ
五重の天守であると記録されている。当該資料は、現時点で判明している、鉄板張りについて触れた最古の資料であある
鉄板は、天守の北面のみを包んでいたことが確認でき、その他の白土(漆喰か)との対比が記録されており興味深い。
本覚書は、福山城下の様子などの細かい記録もされ、城請け取りの状況を詳細に記録する意図で書かれており、記録性の
高い史料である。この覚書から少なくとも、水野家が藩主であった期間には、既に鉄板が張られていたことを確認することができる



鉄の入手先 中国山地の鉄供給網
上下で、鉄屋兵三郎へ立ち寄り、多くの鉄材が置いてあるのを見て、「わしに少しくれまいか。」と言うと、「それはお安いことですが、
ご浪人の身でなにになさるんですか。」「わしが城を築く時に要害の不安な方面を鉄でつつむんじゃ。」というと、「鉄ならなんぼでも
あげますけに、それよりも、はよう大名になんなされ。」と言ってからかった。その後二十数年にして、この時の浪人が福山城を築くと
聞いて、兵三郎は腰を抜かさんばかりに驚いて命を待つまでもなく、多量の鉄を福山に送ったという。「物語 水野勝成」より

2023・12・16(土)朝日新聞 フロントランナー  城郭模型作家 島 充(しまみつる)さん 

史実に基づき 空気まで再現  「城はかつて存在した『できごと』なのです」

島さんは自らの模型について「可能な限り史実に基づいている」と話す。すでに失われた天守などの中には、各部の大きさが不明となったものが
少なくない。
「それでも、建物の古写真や発掘などで出土した遺構・遺物が客観的資料として使えます。古写真から瓦の枚数を一枚一枚数え、そこに出土した
瓦の寸法を加味して検討すれば、屋根全体の大きさも割り出せる」

模型製作者だからこそ、わかることもある」という。たとえば、天守北側に防御用の鉄板を張っていたことで知られる
広島県の福山城。「古写真をもとに模型を作ったら、天守の北と南で瓦の枚数が違っていた。おそらく重さのバランスをとるため
だったのでしょうが、そんな、人の手が感じられるところに、魅力を感じます


 築城時 鉄板の総重量考察   鍛造された鉄板 3.5トンから5.24トン

1500枚×0.1484u(1枚の平均鉄板大きさ)×2mm(厚み)×7.85(鉄の比重)≒3.5トン
  
厚さ3mmでは5.24トン
データ
(福山城天守北面鉄板使用状況試算)福山市文化振興課から
天守の1層階〜4層階までの北側壁面に張り付けられていたであろう鉄板の枚数試算
(壁面の広さ)1層階壁面積:長さ20.06m×縦4.813m=96.5488u
       2層階壁面積:長さ17.84m×縦3.343m=59.639u
       3層階壁面積:長さ15.62m×縦2.6746m=41.777u
       4層階壁面積:長さ13.400m×縦2.006m=26.88u
       計                  224.8456u

窓や格子や枠にも鉄板が張り付けてあったので、その面積を1/2として見ると
224.8456u−(窓17か所の面積(40.1827u÷2=20.0914)=204.7542u

1枚の平均的鉄板11.4p×130p=0.1484uが鋲止めしてあったとして、
204.7542u÷0.1484u=1379.75枚≒1400枚 更に2階・3階の千鳥破風の壁面も
鉄板で覆われており、掛瓦と破風板部分には鉄板は使われていないので、破風内加え
約1500枚程度と考えられる。

鉄板一枚の大きさ もっとも標準的な板 幅11.3p(三寸七分五厘)、
長さが最大130.2p(四尺三寸)と推測している。
厚みについて 1.5〜2mm 寄贈鉄板の厚み参考 
板の幅の中央部分2mm、周縁部に近づくつれて薄くなっていき、
最も薄い縁部は1.5mm これは、割鉄をを打ち延ばしていった際にできたものである
左右に重ねることから、全体の差異調整する効果があったものと考えられる。
鉄板が張られた城郭遺構にあって、筋鉄を張り付けているものは、厚みが3mm以上の
厚いものが多いのに対して、総鉄板張りとなる遺構では、1mmから2mmの厚みの薄いものが
選択された考えられる。



国重要文化財 福山城筋鉄御門修復現場公開   2022年6月18日(土)
1、修復現場見学(漆喰の修復状況など)仕上げ塗り実演
2、修復工程の写真パネル展示、道具、材料展示
3、子ども向け漆喰塗り体験(大人も体験可能)
1回あたり3名×2グループ、全8回 定員:48名 抽選




福山城周辺七社めぐり


@三蔵稲荷神社(さんぞういなりじんじゃ)リビングふくやま  稲荷神社のお狐さん
備後の国の守護神

水野勝成は21才のとき父の勘気をうけ、放浪と武者修行の
旅に出た。戦があると聞けば四国に行き、九州に渡った。ある
ときは京都の山門で浮浪者の群れと一緒に暮らし、また虚無僧
となって托鉢し、堂塔や山野に寝た。だがそんな時も片時も肌
身離さず持っていたのが三蔵稲荷のご神体であったという。勝
成は福山築城とほとんど時を同じに、城の背後に、この三蔵稲
荷をまつった
。そして阿部時代になっても代行鎮守として直祭
され、現在に続いている。三蔵稲荷神社は水野勝成の時代から、
連綿としてここにある。

A石鎚神社 福山城遥拝所(いしづちじんじゃ ふくやまじょうようはいし)
家内安全 厄除祈願 病気平癒の神

主に家内安全、厄除祈願、病気平穏の神である。昭和の初期、
愛媛県西条市の石鎚神社より福山城鐘つき堂の横に勧請(かんじょう)され、
昭和58年現在の地に移設された。開創は極めて古く、山岳
信仰中日本最古の一つである。福山地方は石鎚山を含む四国山
脈が壁となり、台風等による風水害が少なく、各所には遥拝所が
設けられている。


B阿部神社(あべじんじゃ)
学業成就の神

文化10年創建の阿部神社は昭和32年備後神社と合併して、
備後護国神社と改めました。御祭神は福山藩主阿部家の遠祖の
大彦命を主神とし阿部家中興の祖正勝公を始め代々の祖霊をお
祀りしています。御神徳は四道将軍としての国家平定また歴代
藩主の御功績によるもので厄除開運・安産健康など中でも正弘
公(老中首座、明治日本の基礎づくり)は藩校誠之館を創設し
近代教育の礎を築き学問の神様として崇められています。



C備後護国神社(びんごごこくじんじゃ)
先人の慰霊 後世に伝える

明治元年、福山藩主阿部正垣公の創立で石見益田の戦・函館の
戦に戦死した40柱の英霊を祀ったのが始まりで、その後、
佐賀・台湾・西南の役、日清・日露近くは大東亜戦争に至るま
で国家公共のため殉じられた御英霊をお祀りしてあります
。当
初、新宮と称し旧吉津村に建立された招魂社は明治26年福
山城の一角に移転し明治34年「官祭福山招魂社」昭和14
年には「福山護国神社」と改称し、戦後は占領軍の指示に従い
「備後神社」と称して、昭和32年阿部神社と合併するまで
城内に祀られていました。

D福山八幡宮(ふくやまはちまんぐう)
栄ゆく 郷土の鎮め

福山藩主水野家が備後福山総鎮守として造営したお社。福山城
の北、松廻尾山に「東の宮」「西の宮」が並び建ち、「両社八幡」
と称されてきた。今に造営時(1863)の姿がよく保全され、
江戸期の貴重な文化財としても近年注目を集めている
。瀬戸内
海の中心地、備後福山の総氏神として今も昔も変わらぬ信仰あ
つき人々の心の拠り所。

E聰敏神社(そうびんじんじゃ)
経済の守神 必勝の神

現在の福山の基礎を築かれた福山開祖「水野勝成公」を祀るお
社。常に一番槍をめざし、勇猛果敢。戦場では「いくさ勝成」
「鬼日向」と恐れられ、治世に在っては名君の誉れも高く、領民か
ら慕われ、文武両道に秀で、聡明で俊敏であった
ことを称え、
朝廷より「聰敏大明神」の神号を賜わった。家紋は勝ち草とも
いわれる沢潟。水野家再興の地、茨城県結城にも福山より分霊し
た聰敏神社が祀られている。

F艮神社(うしとらじんじゃ)
福山の鬼門守護

天永年間(1110年頃)、藤原家荘園内に牛頭天王社として木
之庄町に建立。建武元年(1334年)、今の地に伊邪那岐命を
併祀の上、遷座し近隣各郷一帯の産土神秋津洲神社と改称さ
旧福山最古の神社。福山築城以降(元和5年、1619年)
城郭の鬼門艮の方位を鎮める艮神社と改称、広く厄除神社
として
崇敬されております。


2022/5/25(水)福山城縄張


福山城の石垣

福山城は、山を造成し本丸・二之丸・三之丸の三段の石垣で構成された平山城である。
雛壇(ひなだん)状に三段の石垣で構成された平山城は、江戸時代の軍学では「一二三(ひとみ)段」と呼ばれ、
最も望ましい城の形態とされていた。
通常、外様の大城郭でも三之丸は石垣で造らず、土塁のままの場合が多いが、
福山城は北側を除く三之丸も石垣で築いた城であった。
石垣は、瀬戸内地域で産出する花崗岩を主とする石材が用いられ、その表面を「割石(わりいし)」加工し、
ハツリを施して平坦に調整している。積み方は、「打込接(うちこみはぎ)」の「布積」と「乱積」技法を併用
して構成されており、隅は完成度の高い「算木積」である。
1873年(明治6年)の廃城後の民有地化や公園化、1945年(昭和20年)の空襲による被災等があり
改変が著しい部分の存在するが天守台・本丸・二之丸を中心に、ほぼ築城当時の石垣が存在している。
福山城は、天守や櫓・門、内堀や外堀等が南側からの眺望を重視した構えとなっており、
築城当時の石垣のうち特に天守台や伏見櫓・
筋鉄御門のある虎口周辺、二ノ丸南面の石垣は丁寧な加工による構築が行われている。

福寿会館と五千石蔵跡
国登録文化財
洋館:1997年(平成9年)7月15日登録
本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵:2012年(平成24年)2月23日登録

この場所は福山城の二ノ丸北側に位置し、江戸時代に福山藩の米蔵が軒を連ねていた。
五千石蔵は幕府から預かった備蓄米を収めていた蔵で、享保17年(1732年)に対馬で起き
た家事の救済や、享保18年(1733年)に長州で起きた飢饉の救済の際に福山城の備蓄米
が捻出されている。寛延3年(1750年)には蔵の大半が取り壊され明治年間には周囲の土
地が民間に売却された。
福寿会館は、五千石蔵の跡地に、海産物商で財を成した安部(あんべ)和助が昭和初期(本館は
1935年(昭和10年)から1937年(昭和12年頃まで)に別荘として建造したものである。
1953年(昭和28年)に、当時の所有者であった渋谷昇から福山市へ寄贈された。敷地面積
は7,395平方メートルで、本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵・洋館があり、すべて国の登
録有形文化財となっている。
本館は廊下や天井にいたるまで、今日では入手不能な材料を多用し数寄屋建設であり、現
在において極めて大きな価値をもつ建物である。

近世上水道跡
城下町は福山湾内の干拓地に形成されたため、城下町経営にあたっては飲料水の供給が重要
な課題であった。そこで初代藩主水野勝成は、芦田川から運河状の水路を開削し城の背後の蓮
池(どんどん池)に溜め
4か所の取水口から分水した。東町・西町・古吉津町方面の侍屋敷
ならびに町屋敷に石で築いた溝を通し、所々に井戸状の貫洞(ジョイント)を設け、ここから土管
や木管・竹菅により各戸送られた。
こうした水道の敷設工事は、城下町の建設とともに進めら
れ、福山城が完成した元和8年(1622年)頃には、全国の城下町の中でも指折りの速さで竣
工したと考えられている。
その後も松平家・阿部家時代と引き継がれ厳重に管理された。維持管理費用は藩や町で、各
戸が負担し、修理や新設、また定期的な清掃や水底の土砂の除去が行われた。水道は明治以
後も使用され、1925年(大正14年)の近代的水道完成まで続いた。

眼下の水路は蓮池から分水された旧水道跡で、東の取水路へつながり、東町や外堀へ導水
された。


福山城旧天守の礎石
空襲により焼失した福山城の旧天守が、城郭建築の集大成といえる完成された構造で築かれ
ていた。天守の中心を支える心柱と、身舎(もや)を形造る柱は、地階から最上階までほぼ位置を変え
ずに立ち、これらを太い梁でつなぐことで、構造的に安定した強固なつくりとなっていた。
この天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、1966年
(昭和41年)の再建にあったて、天守北側の現在地に、同じ配置のまま180度向きを変えて
移設され、現在に至っている。
心柱と身舎(もや)柱を支えていた19個の礎石は、正方形に近い形状で、上面を平らに整え、地上
に40cmほど露出するように据えられていた。また、身舎(もや)を囲む廊下の25個の礎石は一回り
小さく、上面を平らに整えられている。これらは天守の姿を知るうえで、貴重な遺構である。
身舎(もや):桁行五間×梁間四間(およそ11m×9m)
廊下部分:桁行七間×梁間六間(およそ16m×14m)

 天守台に残されていた礎石   矢穴と呼ばれる楔(くさび)を打ち込むための穴の跡です
旧天守礎石は1622(元和8)年の築城時のもの  矢穴は時代によって大きさや形に特徴があります。 
矢穴の大きさは、時代が新しくなるにつれて小さくなる傾向があります。
慶長5年(1600年)頃から寛永期(1624〜1645年)のものは、
上部の長辺8〜12cm、短辺5cm、深さ6〜10cmぐらいの大きさです。
 



東坂三階櫓跡と多門櫓
東坂三階櫓は、二ノ丸東側のほぼ中央に建てられた三重の櫓である。その西側には神辺城
から移したと伝える二重の鹿角菜(ふのり)櫓(阿部家藩主時代の名称:外一番二重御櫓)があり、その
間に東坂上り楯門が設けられていた。東坂を上って北に折れると、東坂上り楯門があり枡形と
なって二之丸へと上る。
この櫓と北の鬼門櫓(阿部家藩主時代の名称:外三番三重御櫓)との間には二階附きの多聞
櫓(阿部家藩主時代の名称:渡櫓)が連なっていた。多門櫓は、細長い屋根の櫓で、石垣の上
に立ちふさがって敵を食い止めるもの
で、当時の築城術では最も厳重な構えである。福山城の多
門櫓、総延長が291間(約573m)余りにも及び、大坂城・名古屋城・江戸城といった幕
府の築城した大城郭や熊本城・姫路城に次ぐ全国有数のものであった。多門櫓で守られた廓は、
当時の大砲、鉄砲、弓などの武器ではとても歯がたたなかった
。ふだんは主に倉庫として使用さ
れていた。
これらの櫓は明治初期の古写真に姿が写るが、1873年(明治6年)の廃城令以降に取り壊
された。
東坂三階櫓跡(外二番三重御櫓):桁行五間半×梁間五間(およそ11m×10m)
二階付多門櫓(渡櫓):桁行二十二間半×梁間四間(およそ44m×8m)


福山城天守
福山城天守は、近世城郭における天守建築が技術的に最も発展した時期の天守である。
五重五階地下一階の天守は、一階を九間×八間(およそ20m×18m)とし、五階の平面で
ある五間×四間
(およそ10m×9m)の身舎(もや)を中心に、各階の廊下が上階へ向けて規則正しく減
っていく層塔型天守に分類される。地階は天守台穴蔵の上部に窓を設ける半地下とし、初重の窓
は2段となり徳川大坂城天守や二条城天守とも共通する。
また天守の付属施設として、東側に二重三階の「付櫓(つけやぐら)」を設け、南側には入口となる「付庇(つけひさし)
を設ける複合式天守である。
一部の破風には珍しい六角形の銃眼(狭間)があり、内部の二階以上に床の間を設け、最上
階には上段や火灯窓、廻縁(まわりえん)を設ける。
外観で何より特徴的なのは、他に例を見ない北側壁面の鉄板張りである鉄板が張られた
理由は北側の防備を強化するためと考えられる。

天守は、現在、福山城博物館として、刀や甲冑、美術工芸品など宝物を展示し、福山城の
歴史や歴代藩主の実績を紹介している。また、最上階からは、福山の市街地を一望することが
できる。
五重五階地下一階 層塔型・複合式天守(高さ:およそ33.7m
1873年(明治6年)廃城令で取り壊しを免れる
1931年(昭和6年)旧国宝に指定
1945年(昭和20年)8月8日、空襲により焼失
1966年(昭和41年)福山市制50周年に、鉄筋コンクリート造で再建
2018年(平成30年)8月28日、県内初の「景観重要建造物」に指定
2022年(令和4年)耐震工事に合わせて、往時の姿へ再建


黄金水
黄金水は、本丸の水源を支えてきた福山城で最も重要な井戸で
ある。明治5年(1872年)に福山藩儒であった江木鰐水(えぎがくすい)が残し
た記録によれば、城内に黄金水にまさる井戸はなく、水野勝成が
福山城を築城した際に、井戸の中に黄金を埋めて水気を清めたこと
から「黄金水」と呼ばれたと記されている。

また、安永三年(1774年)に描かれた福山藩の古絵図には
本丸に五つの井戸が記録されているが、いずれも水量が少なく
石組みの井戸(黄金水)のみが用水として有用であると書かれてい
る。大正時代の調査では、井戸の深さは約13m、水深は約5mで、
水質が良好であったと記されており、現在も涸れずに水を湛えている。

八方よしの松
どの方向から見ても形が美しいという意味で「八方よしの松」と
呼ばれている。
傍らに建つ石碑の碑文によると「この松は、かつて福山藩主で
あった阿部正倫(まさとも)公で、鑑賞し親しんだ後、石井俊蔵・土肥
甚吉の両氏の所領となり、1901年(明治34年)11月3日にここに
植えた。添石は蓑島(現:簑島)産で阿部家から贈られた」との
来歴が記されている。
寺社奉行、老中を務め、藩校弘道館を創設した阿部家第四代
藩主阿部正倫ゆかりの松として大切に守られてきた。
史跡福山城跡を構成するものは建物や石垣だけでなく、こう
した樹木も重要な要素である。

イヌマキ
イヌマキはマキ科の常緑針葉高木で、本州中南部・四国・九州
および沖縄に分布する。樹皮は灰色色で薄くはがれ、葉は広線形で
皮質である。庭木としてよく植栽され、庭園などにも植栽される。
また、防火・防風・防音の機能をもつ樹種としても知られる。淡
い黄色の材は重くて堅く、耐久性や耐水性に優れ、蟻の害に強い
ことから、木造住宅の建築材としても利用されることがある。
成長が遅いといわれているが、目通り周囲が約2m、樹高約20m
の巨木で、福山城内の樹木の中で最も古いと推定されている。
本丸御殿の庭木として植えられていた可能性が考えられる。
これまで害虫被害や伐採、福山空襲による戦火を免れ、福山城
の歴史を見守り続けてきた樹木である。

鏡櫓と多門櫓跡
本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築の伝承はなく、築城時の新築と考えられる。
古写真を見ると、一階東側の屋根には破風を設け、屋根の収まりが極めて特徴的な外
観である。
1873年(明治6年)の廃城令で取り壊され、その跡地は遥拝所となった。
1973年(昭和48年)に福山市名誉市民・村上銀一の寄付により再建された。
現在は、「鏡櫓文書館」として利用され、郷土の貴重な資料を多数所蔵している。
鏡櫓には多門櫓が連結され天守近くまで続く。現在の東側の登口付近で折れ曲がり石垣が
一段高くなっていた。
折れ曲がり付近に亭(ちん)櫓(阿部家藩主時代の名称:内三番御物見)があり、本丸御殿の奥向き
の建物と廊下でつながり物見の役割をしていた。
長大な多門櫓は、福山城の外観を特徴づけ、城の防備をより高めている
二重に階、入母屋造、本瓦葺
鏡櫓:桁行六間×梁間四間(およそ12m×8m)
多門櫓(渡櫓)
鏡櫓から折曲まで:桁行十五間×梁間二間(およそ30m×4m)
折曲から天守まで:桁行二十一間一尺×梁間二間二尺六寸(およそ41m×45m)

月見櫓
月櫓は福山城本丸南東隅に位置しする二重櫓であり、その北側には付櫓を備えている。多く
の文献に伏見櫓と同じく伏見城から移築されたと書かれ、近世地誌である「備陽六郡志」には
伏見城から移築された櫓には「戸柱などに松の丸との書付があった」と記されている。
明治初期に撮影された古写真によると、一階の壁には壮大な唐破風が据えられている。二階は天守最上階と
同じく壁を設けず、南面と西面には高蘭付の縁を巡らせた優美な姿であった。水野時代の絵図
にも「月見櫓」と書かれ、その名とおり月見を目的とした櫓である。
1873年(明治6年)の廃城後もしばらく残されていたが、その後取り壊され1888年(明治
21年)に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建てられた。1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲
で葦陽館は焼失し、1966年(昭和41年)には天守や御湯殿とともに再建された。
月見櫓:桁行六間×梁間五間(およそ12m×10m)
付櫓:桁行五間×梁間三間(およそ10m×6m)



御湯殿
御湯殿は、本丸南側中央に位置し、本丸御殿の一部である。
近世地誌である「備陽六郡志」をはじめ多くの史料に、伏見城からの移築であると記されて
いる。建物は物見部分と風呂屋部分に分かれ、物見部分は全国の城郭でも珍しい石垣から張り
出した「懸け造り」となっており、福山城の南からの景観を特徴づけている。その上段からは
城下が一望できた。
風呂屋部分は蒸し風呂であったが、明治以降は料亭として使用されたために内部は改変され
詳細な記録は残っていない。全国的に見ても風呂屋の遺構は極めて少ない。
1863年(明治6年)の廃城令による取り壊しを免れ、以降「清風楼」という名の料亭となっ
た。天守に続いて1933年(昭和8年)には伏見櫓や筋鉄御門とともに旧国宝に指定されたが、
1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲により焼失し、1966年(昭和41年)に天守や月見
櫓とともに再建された。資料不足のため細部に違いはあるものの、当時の雰囲気をよく再現して
いる。
入母屋造、本瓦葺
物見部分:桁行四間半×梁間三間半(およそ9m×7m)
風呂屋部分:桁行三間半×梁間二間半(およそ7m×5m)


本丸御殿跡
福山城本丸に所狭しと甍を並べた御殿は「本丸御屋形」と呼ばれた。水野家時代に三之丸東
側へ新たに屋敷が築かれ、その機能は移転された
。阿部家時代に城内は相当荒廃し、本丸御
屋形の奥向きの建物が撤去されたと、近世地誌である「備陽六郡志」には記されている。また
「安永三年絵図」によれば、さらに撤去は進み南側の四棟のみとなるが、御殿として最低限の
機能は残していた。
1873年(明治6年)の廃城により取り壊され、現在は礎石を残すのみである。
建物の配置、室内や板戸に描かれた画題は、二条城二之丸御殿や名古屋城本丸御殿などに
共通する点が多く、極めて型式的なものである。玄関の広間「虎之間」には虎の絵を描き、謁見
の間である大書院「皇帝之間」では亭鑑図を描く。表向きの居室である表居間「伏見御殿」に
は落ち着いた山水が描かれていた。
「安永三年絵図」では表居間「伏見御殿」と書き、箱棟とよばれる屋根の一部には徳川家の
家紋である「葵紋」と使われ、伏見城から移築されたとしている。現在も福山城で使われてい
たと伝わる杉戸がいくつか残っている。

 お湯殿の横:ソテツの花は珍しいですか?この花こそ、約10年に1度しか咲かないといわれる「ソテツの花」なのです!



鐘櫓 阿部家藩主時代の名称;鐘搗堂

福山城を描く最古の絵図である「正保城絵図」には描かれていないものの、
水野時代後期の絵図では「釣鐘」とかいてあるのが確認できる。阿部家時代
の絵図(元文年間絵図)では、上階の屋根を檜皮葺きか?葺で描いている
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかあるが、多門櫓(阿部家藩主時代の
名称:渡櫓)の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しい。西側の棟は
火灯櫓(阿部家藩主時代の名称:丸九番二重御櫓)ね続く多門櫓の一部である。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時(約1時間)の太鼓を打った
「福山領分語伝記」は書き、「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いている。
1873年(明治6年)廃城令では取り壊されず残され、1945年(昭和20年)8月8日
の福山空襲にも焼失を免れた。
内部は時鍾番(鐘撞き番)の住居として改変されていた。その後、荒廃が進み
1979年(昭和54年)修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定

された。現在、鐘搗きは自動化され午前6時・正午・午後6時・午後10時の時を
告げている。

参考 備陽六郡志
鐘搗堂
鐘:

伏見櫓  阿部家藩主時代の名称:内拾番三重御櫓
伏見櫓は福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されていた。
築城時に伏見櫓から移築された櫓の一つである。
外観で特徴的なのは、柱形や長押を漆喰で塗り出す、真壁造と呼ばれる1階と2階の外壁の
意匠である。その意匠は古式と評されることが多い
が、その実例は極めて少ない。同じく伏見城
から移築されたと伝わる月見櫓は大壁造であり、伏見櫓は別格であったことがうかがえる。
1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に筋鉄御門と御湯殿とともに
旧国宝に指定された。筋鉄御門や鐘櫓とともに、1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、現在は
国の重要文化財である。
1951年(昭和26年)から行われた修理の際に、2階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻字が見つかり、
伏見城からの移築であることが立証された。伏見城から移築された伝承を持つ建物はあるが文献や刻字に
よって立証される全国唯一の現存建物であり、日本城郭史においても極めて貴重な存在である。
三重三階隅櫓 入母屋造、本瓦葺、南北千鳥破風付、望楼型
三階:桁行四間×梁間四間(およそ8m×8m)
二階:桁行八間×梁間四間半(およそ15m×9m)
一階:桁行八間×梁間四間半(およそ15m×9m)

筋鉄御門
筋鉄御門は本丸へ入る正門である。門柱には欅(けやき)の太い柱を用い、脇戸を設け、門扉には十数条
の筋鉄が打ちつけられている
。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押を漆喰で塗り出し、方杖は無く、窓は素木である。
狭間は設けていないが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っている。屋根瓦には水野家の家紋である
「立ち沢瀉」が使用されている
。内部は門の上部を一段と高くとり床張りとし、その左右は土間ととなる。
1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定された。
伏見櫓や鐘櫓とともに1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年(昭和26年)
から解体修理が行われた。その際に、多くの材が交換されてはいるが、当初材を多く残しており、これらは別の
建物から再利用された転用材が含まれることが分かった。転用材の柱は、西面南側窓に外部からも確認できる。
櫓門、入母屋造、本瓦葺
二階櫓部:桁行十間×梁間三間(およそ20m×6m)

神辺一番櫓跡と櫓群
神辺一番櫓は、二之丸南西部に位置する三重櫓である。
近世地誌である「備陽六郡志」によると、神辺より移された櫓で寺社方の帳面を納めていたと
伝える。
阿部家時代には櫓へ番号を付けて呼ぶようになったが、「下宮家文書」によると、この櫓の南
東にある「櫛形櫓」(阿部家藩主時代の名称:外九番二重櫓)や「神辺櫓」・「伏見櫓」など
一部の重要な櫓には固有の名前を付して呼ばれていた。
明治初期の古写真には、神辺一番櫓から多門櫓(阿部家藩主時代の名称:渡櫓)で西坂口門
と神辺二番櫓(阿部家藩主時代の名称:外七番二重櫓)につながり、本丸には伏見櫓から連
なる多門櫓が写り、その重厚な姿をみせている。
1873年(明治6年)の廃城令で取り壊され、現在は二之丸西側から北にかけての石垣を失
っているが、二之丸の櫓の大半を西側へ集中させており、多くの三重櫓や二重櫓が塀でつながる
姿は、西国へにらみをきかせるという福山城築城の目的をよく表している。

水野勝成見参

放浪中の勝成を引き立てた肥後国主
佐々成政(さっさなりまさ)
勝成が放浪時代に仕えたうちの一人。成政が肥後国主
となった後に起きた肥後国人一揆では、菊池城攻めで
一番槍の功を立てるなど、一揆の鎮圧に大きく貢献した。
 
大坂の陣でともに戦った独眼竜
伊達政宗
大坂夏の陣で行われた合戦の一つ・道明寺の合戦でともに
戦い、城方の先陣・後藤又兵衛や薄田兼相らを討ち
取った。また、城方の後陣・真田幸村や毛利勝永の進
軍を阻むなどの戦功を立てた。幸村や勝永が撤退す
る際、勝成は追撃を主張したが、正宗ら諸将は応じ
なかったという。
 
勘当され放浪していた勝成を引き取った天下人
豊臣秀吉
父親から勘当されて出奔後、豊臣秀吉に仕え、雑賀
攻めや四国征伐などに従軍した。戦後、摂津国豊島郡
内(現大阪府)に七百石の知行を許されている。
 
 勝成に旗印を与えた戦国の覇者
織田信長
高天神城攻めでは織田家の家臣として戦い、十六なが
らも首級を挙げ、感状をもらった。また戦功の証とし
て「永楽銭の旗印」の使用を許可されたが、勝成は恐
れ多いと「裏永楽銭の旗印」を使用している。
 水野家と深いつながりのある徳川家の当主
徳川家康
勝成は母方のいとこにあたる。勘当状態だった勝成と
父・忠重を和解させ、忠重の死後、三河刈谷三万石を
相続させた。家康の子・秀忠の命により、勝成は備後へ
入り、福山城を築城した。
勝成の義理の弟となった虎退治の猛将
加藤清正
勝成の妹は清正の正室・清浄院。勝成自身も清正に
仕えていた時期がある。加藤家が改易となった際に、勝
成は子・勝俊とともに熊本城の受け取り役を務めた。

 
 大坂の陣で勝成の陣を護衛した生涯無敵の剣豪
宮本武蔵
大坂夏の陣には、武蔵は勝成の子・勝俊の護衛役とし
て参陣した。武蔵の養子・宮本三木之助は、水野勝成の
家臣・中川志麻之介の子で、大坂の陣後に武蔵の養子
となった。福山市には武蔵が腰かけたされる「宮本武蔵
腰掛石」がある。

 放浪中の勝成を引き立てた熟慮断行の勇将
黒田長政
勝成は放浪時代に仕えたうちの一人。豊前で国人一揆
が発生した際は、長岩城攻めに従軍。城を攻めあぐね
た黒田軍が一時撤退する際に、黒田家の後藤又兵衛と
殿(しんがり)を争っている。
 放浪中の勝成を引き立てた商人出身の知将
小西行長
成政の後に仕え、千石賜わった。天草五人衆が反乱を
起こした際には、総大将・小西主殿介(小西行長の弟)
の副将として出陣し、反乱の鎮圧に貢献している。

2022/5/15(日)バットマンが福山に登場!!
昔、福山城のある山は
蝙蝠山と呼ばれました。

この蝙蝠山の「蝠」の字が、
「福」に似ていることから、
「福山」という町が誕生しました!
蝙蝠山→福山

1917年(大正6年)にできた福山市の市章がバットマンの
ロゴマークと似てる!
と市民の間で話題に!
その縁で、バットマンに登場する
2022・2・1 ゴッサムシティと福山市が
世界初の友好都市になりました!

Gotham CITY

今後、バットマンが市内各地に出動します!


令和の大普請による天守の復元的整備箇所
@5層階の柱、長押を木地色(きじいろ)に塗装
A花頭窓と引戸からなる往時の配置を復元する
B1層階から4層階の窓及び竪格子を木地色に塗装
C破風の壁面に正六角形の狭間を復元
D高欄は転倒防止の安全柵のまま木地色に塗装
E2階層の南北の窓を2面、1面の窓形状に復元

福山城天守最上階の鯱展示
天守最上階の東西に設置されていましたが、現在実施中の福山城博物館耐震改修
工事で破損・劣化が見受けられたこから取替えた鯱です。
この鯱は平成の始め頃に設置され、今回の改修まで福山城を守ってきました。


天守閣の鯱(しゃちほこ)は雄と雌の一対ですか?
雄雄または雌雌ですか?質問あった

双眼鏡で見た。

狛犬の配置によく似ています。阿形 吽形
雌雄の一対でした。

天守閣南面から見て右(東側)が口を開けた雄(阿)、左(西側)が口を閉じた
雌(吽)でした。



2022年3月6日(日)11:00〜13:00築城普請始め式福山護国神社前広場
ロシア軍のウクライナ侵攻10日目
ロシア軍が欧州最大のポリージャ原子力発電に続き「南ウクライナ原発」の占拠も試みている。
 ウクライナ避難民150万人超え
広島県まん延防止解除 約2ヶ月ぶり

築城400年のプレイベントとして2019年開く予定だったが、
台風や新型コロナ感染拡大で延期され、ようやく開催できた。

江戸時代に木や石で立派なお城を造った職人の技を体感した。


手斧はじめ
・手斧初めの義
・丸太に墨付け
・斧打ち
・手斧打ち
・締めの儀

手斧始め(ちょうなはじめ)」
手斧始めは「木造り始め」ともいわれ、大工が
木工事を始める際に行う儀式です。
その起源は平安時代にさかのぼり木の素性を
見極め、樹魂を鎮めるための祭事であったと
いわれ、儀式の司祭も大工が執り行っていまし
た。現在は木工事の始めだけでなく、仕事始め
の儀式として正月に行われたりしています。


大石割り
重さ約6トンの大石を昔ながらの技法で割ります。

瀬戸内海の石の産地
瀬戸内海の諸島部や沿岸部には有名な石の産地が多くあり、昔は石の運搬の問題から特
に海に近い産地が重宝がられました。
石の産地が多いため瀬戸内海のお城には立派な石垣を持つお城が多くあります。

知ってる!? 悠久の時が流れる石の島〜海を越え,日本の礎を築いた せとうち備讃諸島〜


福山城の石垣の産地は築城時福山藩の領内だった北木島、神辺町中条、赤坂などの石が使われて
いるそうです。勝成は領地の範囲で尾道と笠岡を変えてほしいといったのはひょっとして北木島の石
福山城にふんだんに使いたかったからもしれませんね。
福山から一番近い石の産地が北木島で石の運搬も非常にやりやすかったと思います。
石垣の輸送(イメージ図)石の切出し〜船積み

石材は石山の丁場(石の採掘場)から切り出されます。切り出
すといっても石を切るのではなく石を運びやすいサイズに割っ
ていました。それは熟練の石工が石目を読み、石目に沿って
穴をあけそこに鉄製のくさびを打ち込み割る方法でした。

石垣用の石は築城現場で使いやすいように大体1m×1m×2m
のサイズに切り出され重さも5〜6tはあったようです。
石垣の輸送(イメージ図)石舟〜陸上輸送

「百人持石」とは江戸城天下普請から、築城の効率を上げるため
に定められた、石材サイズと言われています。
人夫百人で運べる重さ(約1m×1m×2m)と言われています。
「百人持石」の運搬は海上は石船で海上は石船で地上では修羅(しゅら)と呼ばれる
そりのようなものに乗せて丸太の上を滑らせていました。

「百人持石」はひとつで隅石(石垣の中で一番大きなサイズ)が8個と
れるくらいのサイズと形です。

当時最新の石の付き方の一つが「算木積み」で隅石を算木積みにすることでより強固な石垣になりま
した。その算木積みの要になる隅石のサイズが取りやすい石の塊が「百人持石」のサイズでした。

木材の切出し  造材
伐倒作業・・・原木を切り倒します

造材作業
・枝払い 枝を切り落とし幹だけにします
・玉切り 一定の長さに切断します
・剥皮  樹皮を取り木材の滑りをよくします

道も車もなかった江戸時代にどうやってたくさんの木材を山奥から町まで運んだのか?
運搬(山おろし)
集材作業
・木寄せ
木材を寄せ集める作業で「ボサ抜き」と「山落とし(木落し)」にわかれます。サボ抜きは、ササや灌木、
払われた枝等から材木を引っ張り出す作業で、山落としは、傾斜面を落としたり引っ張ったりする作業
です。
・修羅出し
勾配の急な場所で、谷筋に沿って丸太を縦に並べて樋(とい)のようにし、その上を木材を滑らせて土場
(木材の一時集積場)まで下す設備。これを使って丸太を山から運ぶことを「修羅出し」といった。「木屋」
と呼ばれる職人がトビで丸太を一本一本滑り落とし、最後は修羅として使った丸太を上から崩して土場
へおろした。

運搬(山おろし)A
木馬(ウマ、キンマ)
山から丸太を運搬するための木
製のソリ。はしご状に丸太を組
んだ木馬道を人力で牽引した。
険しい崖や谷を通すときには桟
橋やつり橋をつくり、木馬を通し
た。林道ができるまで、山から
の運搬方法は木馬がよく使われ
た。時には油をまいて滑りや
すくして運んでいた。

谷に落とされた木材は川幅の狭い上流では丸太を一本づつ流す
管(くだ)流し」で下流に流していました。岩が流れを邪魔している
場所は丸太で修羅をつくり乗り越させました。

鉄砲堰(てっぽうせき)」江戸時代から明治の初めまで行われていた
方法で、山奥の水が少なく沢の場合、沢に丸太を組んで堰(せき)を
つくり、貯めた水と一緒に木材を一気に押し流して山奥から下流に木
材を運んでました。

運搬(網場)C
上流から流されてきた木材を下流の川幅のある場所(網場)で集めます。

集めた木材でいかだを組んで、つないでさらに下流まで運びます。

お城の始まり
戦いにおいて守る側の優位性を高めるために
地理的、位置的に有効な場所を陣地とした。
その陣地をさらに守りやすくするための工夫を
ほどこしたものが砦となり、さらに長期戦に備え
て設備、建物を建てたものが城となった。
その城も時代ともに進化し、工夫され最終的には
守る側に不利な地形でさえも土地の造成を行い
城にすることも可能となった。

 土塁から土塁の前に堀を掘ることでより優位になる
 柵より板塀にさらに土塀にすることでさらに優位になる
 戦においての高所の優位性
 さらに武器の優位性が加わると効果大
 人工的に有利な地形や場所にする事が城の始まりでした

人は昔から安全で住みやすい場所にするために土地の造成をしてきました。
自然と戦い続けたその技術と経験が城づくりにも活かされていました。
@穴を掘った土を横に盛るだけで堀と土塁が効率よく出来ました。

A盛土は地盤がゆるいので、タコで十分
に突き固めながら盛って頑丈な土塁に
していきます。

B西日本の地質は真砂土が多く崩れや
すいので、斜面の土が崩れるのを防ぐ
ために石垣にしました。

C石垣が組んであるので堀に水を入れ
ても淵が崩れにくくなります。

D地盤が安定して石垣により斜面が崩れ
にくくなるとぎりぎりまで建築物を建て
られるようになります。

堀づくり普請(土木工事)
昔のものづくりは自然にあるもの(木、
石、土など)を上手に生かして使って
いました。お城や町、家をつくるための
材料はもちろんの事、工事で使う道具
も自然の材料で作っていました。

・土づき、たこ・・・地面を突き固める、石垣や
          道、建物の基礎作りに使う
・ふご、モッコ・・・石や土、砂などを運ぶときに使う
・かけや、木づち・・・木組みの時に木をたたくのに使う
・くわ、まんのう、つるはし、すき、じょれん
・・・土を掘ったり、ならしたり、木の根や石、を取り除く時に使う

普請(土木)現場で物を運ぶ道具
もっこ、ふご
わらむしろの四隅に吊り網を付けた形
状の運搬用具、かご型や箱もある。

吊り網に棒を通し、
前後2人で担いで
持ち上げ、運搬す
る。主に農作業や
土木工事で石や土
砂を運搬する時に
使う。明治時代に
なっても土木現場
で使われていた。

背負子(しょいこ)
重いものを背負うため
の道具でバランスよく
背負うことができる。




2022/1/11(火)WESTEXPRESS銀河 山陽コースが大阪〜下関間で運行!
コンコースで土産物販売 琴で『春の海』他を演奏。ボランティアガイド は、上り新幹線ホーム
で おもてなし ! 10分間ですが、福山城 の見どころをガイドしました。

 



2022年福山城築城400年

福山城400年博

「令和の大普請」が完了!

2022/1/8〜1/9 会場:ふくやま芸術文化ホールリーデンローズ大ホール
福山城400年博スタートイベント×出張!お城EXPOは規模縮小で実施します】
新型コロナウィルス感染症の感染拡大に伴い,1月8日(土)・9日(日)に実施する 

城の基礎知識
城は、もともと軍事的施設として発展し、さまざまな工夫が施されてきました。戦乱の時代の終結は、城に政治・
経済・文化の中心としての役割を付加させ、今日見られる城の姿が完成しました。
現在みられる大部分の城は市街化し、規模は縮小していますが、かつては本丸・二の丸、三の丸というように非
常に大きな区画を有し、堀や石垣、土塁で囲い込まれていました。内部には大小さまざまな武家屋敷街が広がり、
城を中心とした武士たちの生活が息づいていました。
城は、一国の機能のすべてが凝縮された重要な役割をもつ場所だったのです。

原始・古代の城
「城」のはじまりは、地面を掘り、土を盛って囲った区画とされています。
原始の柵や堀から、弥生時代になると、堀と土塁や柵で防御した
環濠集落が誕生し、池上遺跡や吉野ケ里(よしのがり)遺跡のような、
より防御性の高い集落も出現します。さらに、稲作には不向きな丘陵部
にあえて防御性を求めて高地性集落も営まれるようになりました。
大和朝廷の成立により、天皇の住居兼政治の場として宮城が営まれ、
豪族たちもこぞって防御性の強い居館を構築しました。7世紀、白村江
の戦いの後、大陸軍の本土侵攻を恐れた朝廷は、大宰府を中心に大野
(おおの)城など6城を築き危機にそなえます。石垣造の城壁で囲い
込まれたこれらの城は、古代山城と呼ばれています。ほぼ同一構造の
城が西日本に広く分布しており、6城同様に大陸軍の侵攻にそなえた
もの、また、大和政権が地域支配を目的に築いたものとの見方もあり
ます。鬼ノ(きの)城は特に圧倒的な規模を誇りました。
奈良時代になると、国や郡単位で築地や塀で囲まれた官衙(役所)
が築かれます。7世紀以降、東北地方に朝廷の拠点となる多賀(たが)
城と、出羽柵(でわのさく)、秋田城、志波(しわ)城など、官庁としての
機能と防御構造を併せもち、蝦夷に対する軍事的な拠点となる城柵が
東北各地に築かれました。
11世紀に起こった前九年・後三年の役では、柵や堀が設置され、楼櫓
までも配された新たな形態の城柵が築かれました。



中世の城
鎌倉時代、御家人となった武士たちは、足利館(あしかがやかた)
に見られるような、水堀と土塁で囲まれた方形の姿をした館を構えました。
鎌倉幕府の支配力が低下すると、後醍醐天皇は赤坂城、千早城に籠り
幕府に対抗、ここに南北朝時代の山城が誕生します。急峻な山岳地形を
利用した山城で、簡便な柵や櫓を設けただけの戦闘のための臨時施設
でした。
南北朝時代が終結し、室町政権が安定すると、将軍の館として
「花の御所」が造営されます。方一町(約100m四方)ほどの規模で、
会所、観音堂、寝殿などの建物とともに、広い園地が設けられてい
ました。守護大名たちも各地に「花の御所」を模した守護館を築き、
周囲には重臣屋敷、職人や一般人が居住する町場も形成されました。
代表例として、大内館(おおうちやかた)、武田氏館(たけだやしき)、
一乗谷(いちじょうだに)城の朝倉氏館(あさくらやかた)などが挙げ
られます。
戦乱が恒常化すると、臨時ではなく恒常的な防御施設としての山城が
築かれ、防御構造が強化されました。山中(やまなか)城などに見られ
るように、尾根上を削り曲輪(くるわ)(削平地)を設け、敵の侵入を阻む
ために斜面を切り欠いて切岸(きりぎし)とし、尾根筋を堀切(ほりきり)
や竪堀(たてぼり)・横堀で遮断し土塁を設けました。攻防戦の要となる
虎口(こぐち)(出入口)には特に工夫が施され、馬出(うまだし)や横矢掛
(よこやがかり)が発達しました。
完成後に達した戦国山城は全山の要塞化が図られ、山麓部に居館、
山上の尾根全体に大小の曲輪群、山上部にも領主の居住空間が設け
られました。郡山(こおりやま)城は、全山要塞化が図られた全国最大級
の山城でした。

山城はだいたい「比高100m以上の山上に築かれた城」を指すみたいです。
比高(盛土や崖などの高さと近くの平らな所の差のこと)





近世の城
戦国末期になると、城は領国の政治・経済的中心とすべく整備されてきました。
そこで、平野の中の小高い丘に立地する「平山城(ひらやまじろ)」が誕生してき
ます。
天正4年(1576)、織田信長が、日本の城の形態・構造を大きく変える安土
(あづち)城の築城を開始。中心には五重の高層建築「天主(てんしゅ)」が峻立、
全山が総石垣で囲まれました。天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を
築城すると、地域独自の技術は駆逐され、大坂城を築き上げた技術が全国統一
基準となり、石垣や天守をもつ城が全国に普及していきました。堀や土塁、石垣を
築いて平地や河口部にも築城されるようになり「平城(ひらじろ)」が誕生。周辺に
侍屋敷や商人・町人の集住する巨大城下町を取り込んだ平城は、領国の政治・
経済・文化の中心として機能することになりました。
豊臣配下の大名により築かれた熊本城や姫路城など多くの城は、極度に軍事的
色彩が強く、巨大な天守・櫓(やぐら)を構え、高石垣をフルに利用して、複雑な
折れを持たせました。対して、徳川幕府が築いた名古屋城二条城などは、
単純な縄張(なわばり)に長大な多門櫓(たもんやぐら)や雁木(がんぎ)(石段)を
設けて戦闘正面を強固にした。明確に無駄を省いた幕府系城郭でした。
慶長20年(1615)、豊臣家が滅亡すると、江戸幕府は元和の「一国一城令」を
発布、一国に一つの城のみ残し、支城はことごとく破壊させました。以後、原則と
して新規築城は禁止され、修復も幕府の許可が必要になりました。
幕末になると、外国からの脅威に備えて海防強化のための築城が実施され
ました。嘉永3年(1850)に完成っした松前(まつまえ)城は和式築城最後の城で、
日本城郭の最終到達点となりました。
函館奉行所の防備を固める目的で、安政4年(1857)、江戸幕府は、欧州で
発達した稜堡形式をモデルにした五稜郭(ごりょうかく)の築造を開始。幕府が
最終的に選択したのは、和式の築城術ではなく、西洋の築城術でした。


城の基本設計
縄張
城は、その立地場所が決まった段階で、城内の区画となる曲輪(くるわ)の組み合わせ
を考え、最終的な城の構造が決定されます。縄を張ることにによって配置を定めたため
「縄張(なわばり)」と呼ばれてます。
本丸を中心に据え、それを取り囲むように二の丸、三の丸が配置されたものを「輪郭
(りんかく)式」本丸と二の丸、三の丸が直列する形えお「連郭(れんかく)式」、隅に本丸を
おき、本丸を囲い込むように二の丸、二の丸を囲むように三の丸をそれぞれ外側
に配置した形は「悌郭(ていかく)式」、また曲輪が渦巻き状に連なるものを「渦郭(かかく)
式」と呼びますが、多くの城は、地形に左右されるためこれら4種の変形もしくは混合
となっています。



城のシンボル
天守
天守の起源は不明ですが、近世の天守建築の祖形は織田信長の安土城に求める
ことができます。天下統一のシンボルとなった豪華絢爛な天守は、戦国時代の終焉を
天下万民に知らしめました。
豊臣秀吉は大坂城、聚楽第等、権力の象徴として次々天守を建造。これにより
政治・経済・文化の中心である城郭のシンボルとしての天守が定着し、以後全国津々
浦々に築かれました。
江戸城では、3代徳川家光まで将軍が代わるごとに天守が建て直され、将軍交代を
告げる役目を担いました。諸国の大名たちも、領国支配の象徴として天守を欲し、天守を
何らかの事情で建てられない場合でも、御三階櫓なる代用の櫓まで出現しました。

望楼型
入母屋造の大きな屋根をもつ一階建てか二階建ての建物の上に、二階建てか三階建ての
建物(望楼)を載せる

層塔型
入母屋造の建物をもたず、各階(各重)を規則的に積み重ねる


天守の形式
独立式天守  丸岡城宇和島城、高知城
複合式天守  犬山城彦根城 備中松山城 松江城
連結式天守  名古屋城 熊本城 広島城
連立式天守  姫路城 松山城


物見と射撃の拠点

櫓(やぐら)の起源を物見とするなら、弥生時代から縄文時代にまでさかのぼります。
中世の絵巻物にも登場し、当初は武器庫であったと考えられます。有事には攻撃の
陣地ともなり、戦国期になると、防備の要としてより発展していきます。
天守(てんしゅ)のない城はあっても、城門とともに城の防御を担う櫓のない城はなく、
物見と高所からの弓や鉄砲による射撃のため、周囲をよく見渡せ、城壁に近づいた敵
に有効に攻撃できるよう、多くの石垣や土塁の隅部に建てられました。
基本は二重櫓ですが、簡易な一重櫓や、巨大な城では三重櫓、城壁の上に長く続く防衛線
として威力のある多門櫓も建てられ、大型の三重櫓は天守に匹敵する規模を誇りました。

二重櫓(赤穂城) 三重櫓(名古屋城)
多門櫓(人吉城) 一重櫓(備中松山城)

城の出入り口の守りの要

門は城の出入り口を守る最も重要な施設です。有事の際は、最前線の防御施設と
なるため、時代とともに工夫が凝らされ、単純な形式からより複雑で強固な姿に変化
してきました。
国の施設であった古代の都城や城の門は、朱雀門や羅城門のような大規模な礎石
をもつ特別な建物でした。中世城郭では、木戸ののち上に簡単な小屋を載せた城門
が登場、近世城郭では、最も完成された門とされる四角形の広場の外と内に城門を
構えた枡形門がつくられ、さらに門の周囲を多門櫓(たもんやぐら)で囲み隅櫓
(すみやぐら)までそなえた厳重な構造にまで発展しました。
門の基本的構造はどれもほとんど同じで、基本構造の上に載せるもので区別されます。
櫓門(上田城)  薬医門(高松城) 埋門(岡城)
高麗門(駿府城) 冠木門(掛川城)

城の建物と防御の基盤
石垣

石垣は大和朝廷の古代山城にはすでに多用されていました。しかし、その後長らく土造
が主流となり、戦国末期に再び土留めや門など城郭の主要部のみに使用されはじめます。
織田信長・豊臣秀吉により5mを越える高石垣も可能な石垣技術が導入されると、
全国統一規格となって普及し、それまでの地方独自の石垣は淘汰されていきました。
慶長(1596〜1615)前半期、石垣隅部の強度を増す算木積がほぼ完成、より高い
石垣の構築が可能となりました。
当初は自然石を積み上げる野面積(のづらづみ)でしたが、やがて加工した石材を
用い隙間に小石を詰める打込接(うちこみはぎ)が、関ケ原の戦い後には、規格加工石材
を使用する切込接(きりこみはぎ)が登場しました。
野面積(高知城) 打込接(姫路城)
切込接(駿府城) 算木積(仙台城)


城の守りをより強固に複雑に
枡形・馬出・横矢

城の虎口(こぐち)(出入口)は、攻撃戦の最前線です。単純な「平虎口(ひらこぐち)」
は城内へ直進できましたが、やがて前面に土塁を設けたり、内側と外側の土塁をずらす
「喰違虎口(くいちがいこぐち)」で通路を折れ曲がらせる工夫が図られました。敵の
直進を防ぎ、2か所以上から敵に側面攻撃や背面攻撃を仕掛ける「横矢掛(よこや
がかり
)」のためでした。
横矢掛をより有効にするために構築されたのが「枡形(ますがた)」です。枡形の
最終到達点が枡形門で、外側と内側に門を設け、多門櫓(たもんやぐら)や塀で囲い
込みました。侵入した敵は三方から狭撃されます。
虎口の前面に防御と出撃の拠点となる曲輪(くるわ)を構えたものが馬出(うまだし)です。


順の虎口
弓を左手前に引くことから右折より左折の方が有利になるので,
虎口は寄せ手が右折するようにくふうする。
これを城兵の立場から順の虎口と呼び,反対を逆の虎口と呼ぶ。
近世の枡形虎口はほとんど順の虎口になっている。





もっとも多用された防御設備
堀と土塁

中世の城は山上部分に築かれるものが多く、尾根筋から敵が侵入しないよう空堀を
掘り、掘った土を城内側に積み土塁としました。尾根筋を切断する堀切、斜面の横
移動を防ぐために等高線に対して直角に掘る竪堀、等高線に沿って曲輪を囲い込む
横堀を、巧みに組み合わせて防御機能を図られました。
近世城郭は多くが平坦地に築かれ、城域を区切る遮断線となる横堀で2重、3重に
囲い込まれ、湧水や排水処理も兼ねた水堀が多数を占めました。
土塁は防御施設として最も多用され、近世城郭では大規模な土塁が出現。崩れ防止
と曲輪内から敵への攻撃のしやすさから、法面(土塁の斜面)の角度は45〜60度に
収められました。
水堀(松本城) 空堀(滝山城)
障子堀(山中城) 土塁(春日山城)

堀と土塁の造成
土造主体の城では、土を切り盛りして防御施設を設けた。
その典型が堀と土塁で、曲輪の外側に掘った堀の残土を
城内側に盛った土塁としたのである。土処理を兼ねた、まさに
一石二鳥の造成方法であった。

御土居跡

敵の侵入を防ぐからくり
石落・狭間・忍返

城にはいる所に侵入者を撃退する施設が設けられていました。
石落(いしおとし)は、天守(てんしゅ)や櫓(やぐら)等の外壁の一部を土台から張り
出して床に開口部を設け、敵兵を監視、石や鉄砲で攻撃するもの。狭間(さま)は矢や
鉄砲を放つための穴で、天守や櫓・土塀の壁面に設けられました。石落としも狭間の一種
といえます。
忍返(しのびかえし)(武者返)は、城壁を登ってくる敵兵を阻止するために天守や櫓、
門などに取り付けられた槍の穂先状のものです。石垣の上部を跳ね返したり、天守や櫓
の一階部分を石垣より外へ張り出させて、石垣を登らせないようにしたものもあります。
石落・狭間・忍返は、それぞれが補完しあうことで防御構造を強固なものとしました。
石落(二本松城) 狭間(姫路城)
忍返(高知城) 忍返(武者返)(人吉城)



福山城から見る福山藩
このコーナーでは福山城の遺物を通じて、福山城と福山藩のとの関係につ
いて紹介します。福山城は元和8(1622)年の築城から、今夏竣工予
定の令和の大普請に至るまで、幾度もの改修や建造が行われ現在まで存
続しました。
その過程で、慶長7(1602)年頃に徳川家康が再建した伏見城から移築さ
れた伏見櫓から、昭和20(1945)年8月8日の福山大空襲での焼失を経て、
戦後の復興された天守・月見櫓・御湯殿・鏡櫓と、様々な時代の建造物で構成
されています。展示資料は、築城から現在までの福山城の歴史を伝えます。
展示資料が伝えているのは福山城の歴史だけではありません。昨秋に福山市
鞆の浦歴史民俗資料館で開催された特別展「鞆鍛冶屋〜船釘・錨の日本一〜」で
は、福山城の建造に鞆の浦の鍛冶職人、鞆鍛冶が製作した鉄板釘などが使用
された可能性を指摘する展示が行われました。また、昨春には大谷地区で195
基もの福山藩による石造の砂留
が発見されたことが発表されました。こちらは
今後の研究がまたれますが、江戸時代の技術を伝える可能性を示しています。
展示する福山城の遺物を通じて、福山城だけでなく福山藩・福山市の歴史
へと皆様の興味が広がるきっかけとなれば幸いです。
福山市最大規模の砂留

福山城の鯱と鬼瓦
今回展示している資料はすべて福山城に関するものです。これらは鯱・瓦・
鉄製品の3種類に分けることができます。2つの鯱のうち「伏見櫓」は、昭
和25(1950)年から同29(1954)年にかけて文化財保護委員会(現、文化庁)
による伏見城の修理に取り外された鯱です。「福山城内関係鯱」は福山大空襲
後に回収されたものであるため、どの建物の鯱であるかは不明です。
江戸時代における福山城の改修については不明な点が多くあります。江戸時
代中期に福山藩士宮原内■が記した郷土史「備陽六郡志」には享保15(1730)
年に奥居間、奥台所、長局が解体されて江戸に移されたことや、慶応4(1868)
年の戊辰戦争に際して城の北側の防備が強化されたことが確認できる程度です。
ですが、水野家の家紋が入った「沢潟紋入鬼瓦」や「阿部家家紋入鬼瓦」が
併存していることから、屋根瓦の劣化や破損した所から修復していたことが確
認できます。また、改修の規模や頻度については、鯱と瓦が福山藩内で製作さ
れたことを示す資料が発見されていないため分かりません。
水野家と阿部家の家紋が入った鬼瓦は、明治6(1873)年の廃城令後に福山
城から取り外されたものであり、「澤瀉紋入鬼瓦」は城下の建物で使用されてい
ました。廃城令後に城郭の建物や門などが売却され、別の場所に移築された例
は多くありますが、瓦が転用された例は大変興味深いです。

福山城の鉄製品
今回展示する資料のうち、鉄製品は釘・蝶番(ちょうつがい)・取って・補強
用鉄板・鎹(かすがい)になります。これはすべて昭和20(1945)年8月
8日の福山大空襲による、福山城の火災後に回収されたものです。そのため、
使用されていた場所や用途が確認できるものはほとんどありません。
「鉄釘」は形状から、瓦を止めるために使用されていたものと推測されます。
また、「補強用鉄板」は2022年8月に修復される福山城の北面に防御用として
設置されていたものではなく、天守の柱と梁の間を補強するために用いられて
いました。全長70cm以上もの非常に大きな「鉄製鎹」は、大きさからして天守
の柱を固定するために使用されていたと考えられています。
これらの福山城内で用いられている鉄製品については、近年になって福山市
南部の鞆の浦の鍛治が製作した可能性について検討されており、この点につい
ては今後の研究がまたれます。
また、近年になって福山藩によって作られたと考えられる砂留が大量に発見
されており、こちらについても、福山城の石垣や堀などの土木技術との関連性
や福山藩による普請の体制などについて研究がまたれます。
お城EXPO実行委員会は、8月の福山城博物館のリニューアルによって、これ
らの点についての調査・研究が進むことを願ってやみません。

 福山城内鯱 沢潟紋入鬼瓦 明治6年(1873)の廃城令後に城から取り外され、城下の建築物に使用されていました。





水野勝成が1619年(元和5年)、
備後10万石の領主となって
福山と命名。


この門は本丸に入る正門。

伏見城から移築されたされた
ものといわれている。



福山城の歴史を見守り続けた 城内の樹木  広報 ふくやま 2021・11月号
寺社奉行、老中を務め、藩校弘道館を創設した阿部家第4代藩主阿部正倫ゆかりの松

八方にらみの松
駒廻の松こままわしのまつ)」
石碑が建ち、表面に「是松(このまつ)、曾(かつ)て舊(きゅう)藩主阿部正倫公(あべまさともこう)が得、
之(これ)を賞()で親しむ後、石井俊蔵(いしいとしぞう)、土肥甚吉(とひじんきち)、二氏の所有に属し、
于茲(ここに)に植え令()む。添石(そえいし)、即ち蓑島(みのしま)の産、阿部家の贈る所なり」
裏面に「明治三十四年十一月天長佳節(てんちょうかせつ)の日に植える」

この松から南へ20m離れたところに「イヌマキ」という樹があります。
成長が遅いと言われていますが、目通り周囲が約2mあり、樹齢は八方にらみの松よりも古いと
推定されています。本丸御殿の庭木として植えられていた可能性が考えられます。

この2本の樹は害虫被害や伐採、福山空襲による戦火を免れ、福山の歴史を見守り続けてきました。


阿部家第4代藩主阿部正倫(あべまさとも)
ゆかりの松

「八方にらみの松」
「駒廻の松(こままわしのまつ)」
どの方向から見ても形が美しいという意味



2021/7/24(土)  23日夜 東京五輪開幕。新型コロナの影響で無観客で行われた。
           高藤直寿 日本金メダル1号 柔道男子60kg級






2021/4/6
福山城天守の防御鉄板を発見
天守北面に張られていたとされる鉄板2枚が見つかった
鉄板は幅7・6センチ、長さ24・3センチ、厚さ1・5〜2ミリと、幅11・3センチ、長さ25・4センチ、
厚さ2・5〜2・8ミリの2枚。穴が数カ所あり、一部でびょうも残る。空襲の熱や経年劣化などで変形が見られる。
今後、鉄の成分分析を行い産地や製造年代の特定を目指す。

◆期間:11月20日(金)〜2021年1月31日(日)信長の野望×福山城下まちあるきクイズラリー
信長の野望についてはこちら
※初代藩主水野勝成とのゆかりなど紹介しています。


ふくやま本通商店街さんぽ




幻想的 福山城をライトアップ 伏見櫓、湯殿、月見櫓



福山城博物館(天守閣)は
耐震工事・リニューアル工事のため下記の期間、長期休館いたします。
【期間】2020年8月1日(土)〜2022年夏頃(予定)

令和の大普請プロジェクト 〜クラウドファンディングによる寄附
“全国唯一”といわれる福山城の「天守北側鉄板張り」などの外観復元を行います。

福山城令和の大普請





休館期間:令和2年(2020年)1月14日(火)から3月5日(木)上階より発見された
アスベスト除去工事のため、休館



福山城の避雷針倒れる 

2019年9月25日 - 23日午前8時ごろ、福山市の福山城天守閣の屋根に設置している避雷針1本が北側に
倒れかかっているのが見つかった。市は落下の恐れがあるとして、天守閣北側を当面の間立ち入り禁止にし、
避雷針の状況を調査する。



「武器・武具展-戦場(いくさば)の華-」甲冑の世界−その魅力と意匠−日本甲冑武具研究保存会
一般的に刀剣・鉄砲等を総称して武器、甲冑・陣羽織等を総評して武具とよびますが、それ
らは武士にとって命を守るために備える重要なものでした。しかし決して実用的なものだけで
なく、変わり兜や鉄砲に見られる華美な装飾、きらびやかな陣羽織などそこにはそれらを所有・
愛用していた者の個性や宗教観、美意識が見られます。

甲冑の変遷
平安時代 上級武将は大鎧に星兜、下級武士は胴丸
鎌倉時代 上級武士は大鎧、胴丸鎧、胴丸も使用。下級武士は胴丸、腹巻
室町時代 上級武士は胴丸、腹巻に筋兜。下級武士は簡素な胴丸、腹巻、腹当
戦国時代 胴丸、腹巻も使用するが当世具足が普及する。変わり兜が出現
江戸時代 当世具足 復古鎧

〇甲冑の製作者 甲冑師
南北朝頃 兜鉢に「−」「大」などと切ったのが初出。室町時代後期から作者銘が出現、
天文年間「吉久」「房宗」など、永禄〜天正年間に上州鍛冶、雪下鍛冶 奈良の春田派、
岩井派など奈良甲冑師が主流になる。江戸時代は江戸を中心に各地、各藩に分布、特に
明珍(珎)派が全国に波及する。

〇甲冑の製作(威し、縫製、組紐、絵韋など) 絵韋(えがわ):鎧や兜の吹返し表面に張られた鹿の皮革。

〇甲冑製作に必要な材料、技術
 鍛金、彫金、漆、皮革、組紐、染織 ほか

変わり兜のいろいろ
 安土桃山時代から 桃形兜(ももなりかぶと)、突ぱい形兜(とっぱいなりかぶと)などからさまざまな形象兜が作られる

〇現存する有名な戦国武将の甲冑
武田信玄、勝頼 上杉謙信、景勝 織田信長 毛利元就、隆元 豊臣秀吉 徳川家康 加藤清正
伊達政宗 細川忠興 黒田官兵衛、長政 水野勝成 ほか

2018年(平成30年)8月28日  8月28日(旧暦)に福山城と名付けられた
広島県内で初めて,福山城天守を景観重要建造物に指定しました。
城が命名された日付にちなんで旧暦8月28日にあたるこの日(10月7日)、天守入口に標識を取り付けた。


福山城周辺新たな高さ制限の方針 2018/8/28
福山城周辺のマンションやビルの高層化を抑え、天守閣などの景観を守るため、
城の東西に隣接する地域に景観法に基づく「高さ制限」を導入する方針を明らかにした。
JR福山駅北側の天守閣を中心とする半径400メートル以内のエリアで高さ23メートルまで、
半径600メートル以内のエリアでは31メートルまでとする方針です。


福山城伏見櫓、筋鉄御門の国宝化に向けて調査開始
伏見櫓と筋鉄御門の一般公開・樹木整備作業の安全祈願祭
⇒日時 2018年8月19日(日)
⇒場所  福山城公園天守閣広場(筋鉄御門付近)
⇒内容 9:00 安全祈願祭
9:30 専門家による伏見櫓と筋鉄御門の説明
10:00 伏見櫓と筋鉄御門の公開
12:00 終了(予定)


9月5日(木)
遺構の保存と景観整備のため樹木整備 
接触しているクロマツについて風雨による影響を考慮し伐採しました

2019/12/25 筋鉄御門のしっくいの一部が剥がれ落ちた    2021・1月 ひっかき傷 防犯カメラ設置

 伏見櫓と筋鉄御門一般公開に約200人

県内に広島城、三原城にあるが江戸時代
の建物が元の位置に残っているのは
福山城の伏見櫓と筋鉄御門だけ。

伏見櫓
層塔型  望楼型 違いは?
東・西・南に多くの窓を開き
 筋鉄御門
戦さのない時代 石落としがない。
部材 丸太のまま
12条の筋鉄を鋲打ちし、
乳金具を飾っている

梁が曲がった巨木使い荒々しい戦国
の雰囲気を感じる


2019/11/3(日)国重要文化財福山城伏見櫓・筋鉄御門公開



2018/11/3(土) 国重要文化財福山城伏見櫓・筋鉄御門公開
本丸には筋鉄御門の他に、本丸北西に棗御門(なつめごもん)現在礎石のみ残存、
鐘櫓北側にあたる本丸西側には御台所門(おだいどころもん)現在石垣で塞がれている、天守の
南側には現存していませんが天守曲輪門(てんしゅくるわもん)ありました。



筋鉄御門
福山城本丸の正面で、西向きに建つ脇戸付の「櫓門形式」の門です。
屋根は入母屋造で、本瓦葺きの棟に鯱瓦を上げています。
下層は、一対の鏡柱と添柱を建て、各柱には根巻金具を付けるとともに、
四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みには大小の乳金具を打ち付けています。
冠木(かぶき)の上に出し梁、梁の端に腕木の構造で、前後とも木製目板葺の庇を設けています。
門扉は、鏡柱側に肘金、扉側に肘壷がそれぞれ2箇所ついた肘釣式の観音開き扉です。脇戸は、
内開きの一枚建てで、こちらも筋鉄を打っています。いずれも内側から閂を通して封じるようになっています。
梁行き上下二本の貫で柱を繋ぎ、貫の間は吹き抜けになっています。
上部は木地露出の根太天井で、上層の床となっています。
上層は、桁行10間(約19.7m)、梁行三間(5.9m)で、柱・土台・上下の長押とも木地型を出した白漆喰塗込め
となっています。下方の左右櫓台は石垣積み、内部の床は拭板敷き、小屋梁天井、軸上は柱毎に水平に
腕木を出し、出桁を受けて一軒の疎?(まばら)軒を作り、白漆喰塗りとしてます。
窓は、正面の柱間三間と右端の一間、南側一間の箇所に、腰長押の上に縦格子の窓を作っています。
出入り口は、北西に一箇所設け、片引戸を建てています。外回りは、屋根妻、破風板、懸魚はすべて白漆喰塗込めです。
筋鉄御門の南側から北側に向かって本丸へ上がる道の突き当りは、石垣土坡(いしがきどは)になっていて伏見櫓方向へ折れ曲がる
石垣が連なり、枡形を形成しています。この石垣上には、かつては多門櫓が連続して建てられ伏見櫓と繋がっていました。



城のあるまち福のまち
福山城築城400年記念事業


史跡 福山城跡保存活用計画を策定

2018/6/9(土)福山城築城400年記念プレ事業「福山城の内堀跡等を巡ろう!
福山城は二重の堀(外堀・内堀)に囲まれたお城でした。内堀の大部分は地下に眠っていますが、その痕跡等を巡ります。
福山駅北口の地下遺構発掘調査結果も説明します。※11時〜

2018年(平成30年)6月9日土・10日日 10時〜19時
2022年(平成34年)に迎える福山城築城400年に向け 福山城を中心とした駅南北ゾーンの一体化を考える実証実験
福山駅周辺を楽しく「まち歩き」しませんか?  



明治21年(1888年)頃 蓮根畑として利用されていた。明治30年(1897年)側図・内堀には水田マークがある。


6月10日(日)正午〜午後3時 福山城築城400年記念事業実行委員会
福山城南側道路 車両通行止め 二之丸お散歩エリア「石引き・石割り体験
「あんな大きなものをどこからどうやって運んだんだろう?」
「どんなふうにして積み上げたのかな?」
巨大な石を築くには相当な技術が必要だったことがうかがえます。

午後1時から石の産地笠岡市北木島産の大きな石の下に丸太を敷いて、縄を掛け、
石引を体験します。重さ2.4トンの巨岩を人力だけで引っ張る。

石を加工するための石割り体験も随時行われます。
あらかじめ開けておいた丸い穴にセリ矢を差し込んで上からハンマーで叩いて衝撃を加えることで隙間を広げる。
金属音を何度も何度も響かせてようやく割れる。


おもてなし好印象を与えるための心掛け
お出迎え
   ・わかり易い場所で、目立つように
   ・歓迎の心を言葉と笑顔で伝える
   ・自己紹介、コースの説明

ガイド開始
   ・明るく、楽しく、さわやかに出発
   ・人数確認、時間管理を行う
   ・周囲の迷惑にならないように
   
ガイド終了
   ・印象に残るように終わる
   ・ガイド全体のまとめとお礼(感想を伺う)→お客様に言ってもらう
   ・プラスの情報を伝える→お土産、美味しいもの 「何もないと言わせない」
   お土産は JR福山駅の商業施設さんすて福山

お見送り
   ・お別れの挨拶
   ・お客様が見えなくなるまで手を振り見送り




2018/4/13(金)福山城の耐震化2022年完了目指す
          「震度6強〜7程度の地震で倒壊や崩壊する危険が高い」3,4階の中間階の耐震性が弱かった。
2018/3/24 (土) 福山城博物館来館400万人突破 来館者が1966年11月の開館から400万人を突破した。
2018/1/23(火)地階展示室  福山工高生、400年前の姿 やぐら・門・屋敷、忠実に
プラスチックやベニヤ板などを材料に、五層の天守閣をはじめ、御殿や櫓(やぐら)といった
約40の建物を再現している。縦約90センチ、横約80センチ、高さ約30センチ。

250分の1サイズで城下町まで作り込もうという徹底ぶり。
2022年の築城400年に向け、関係者も「ムードの盛り上げに一役買ってもらえれば」

古写真や専門家の話を参考に天守閣の細部まで緻密に仕上げている。こけらぶきの4階屋根は茶色に、
鉄板だった北面の壁を黒色に塗装することで、往時の姿をよく伝えている。

国重要文化財として本丸に現存する伏見櫓、三の丸にあった家老の屋敷など計100棟以上を
プラスチックやベニヤ板で細部まで作り込み、絵の具などで彩色を施している。

「思い出に残る作品になった。城を訪れた人に模型を見て福山の歴史を知ってもらえれば」

「非常に精巧に作られており、博物館の展示の目玉になる。築城の節目を盛り上げる機運にも弾みがつく」


2018/1/16(火)福山城築城400年記念事業ロゴマークの決定
福山城の歴史をモノクロで表しました。そして,福山市の花である「ばら」と,伝統工芸をローズピンクとブラウンで表現してみました

福山城築城400年記念事業キャッチフレーズの決定について
城のあるまち 福のまち
2017/7/12(水)枝広市長「築切」(つっきり)再現する意向を明らかにした
築切 外堀と瀬戸内海に通じる運河(入川)を遮断していた堰(長さ約45m・幅約10m・高さ約3m)
瀬戸内海からの敵の侵入と、干潮時の堀の水がなくなることを防ぐ目的
築城された1622年から40年代までに築造され、土を堤防のように盛り、側面を石で覆ったという。
昭和時代初期までに堀とともに埋められたとされる。

2017/3/21〜3/31 二の丸南側と国宝・伏見櫓の周辺 眺望確保へ32本 樹木伐採・剪定

2017/2/23(木)第1回福山開府400年・福山城築城400年事業推進企画委員会
2022年(平成34年)に迎える福山城築城400年を盛り上げていくための基本方針やスケジュールについて協議


2016/12/21(水)
枝広直幹市長 年度内に新組織示唆 福山城築城400年に向け催し

2016/10/7(金)
福山城跡保存活用で初会合
福山市教委では、再建後、50年が経過した天守閣について、
来年度、耐震診断を予定、結果によっては委員会で耐震補強や木造での建て替えも議論されるということです。

委員から
「城が新幹線の中からも見てもらえるよう、樹木の伐採をするなど景観を整えるべき」
「市民に関心を持ってもらうためには城の歴史や建築の特徴など、さまざまな情報を分かりやすく伝える城の価値をもっと発信すべき」

2022年は築城400年 知らないことも多い!?『福山城のキ・ホ・ン
日本で一番最後に築城が許された?
福山城の一面が鉄で覆われていた?
伏見櫓は、伏見城から移築された証拠がある?

石垣の「算木(さんぎ)積み」とは?
福山城に残された戦争の爪痕(つめあと)とは?
「大天守」から離れているはずがの「小天守」がくっついている?
空襲で焼失する前のお城は町民が管理していた?


今年(2016)は再建50周年 町を見守り続ける福山城

天守閣は北側が鉄板で覆われていた。幕末の1868(慶応4年)、徳川譜代の福山藩は、新政府軍(長州)から朝敵とみなされ、
攻撃を受けた。福山城の北側から砲撃で大砲の弾が天守閣を打ち抜き、戦前の焼失前の天守ではその際の弾痕や砲弾を見ること
ができたという。

1873(明治6年)の廃城令により、天守閣・伏見櫓・筋鉄御門・湯殿・鐘櫓などを残し、ほかの多くの建物は売却・解体、お堀も含め、
敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用されました。天守などは買い手がつかなかった。
明治以降は敷地・建物とも荒廃。中心部は「福山公園」としてよみがえりました。

月見櫓は「葦陽館」といわれる貸会議場が建てられた。
伏見櫓は骨董店が営業していたこともあった。

お堀の大部分はレンコン畑に。その後、くわいが植えられるようになり、福山の特産品の一助に。

昭和に入り福山城の歴史的・文化的価値が見直され1931(昭和6)年に天守が国宝に。後に、伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿も国宝に指定。

1945(昭和20)年8月8日の福山空襲で、焼夷弾の直撃により天守閣が焼失。幸い、伏見櫓・筋鉄櫓・鐘櫓は被災は免れた。

戦後間もなく、焼失を免れた伏見櫓と筋鉄御門は解体修理された。

市制50周年記念事業として、1966(昭和41年)に、天守閣・月見櫓などが再建。
天守台の石垣や、戦前の国宝指定の際の実測図、古写真など残っていたため、それらを元に再建されました。

2022年に築城400年を迎える福山城。福山のまちや暮らしの原点ともいえる。
福山の歴史は、この城から始まった。

日本一  駅から天守閣が近い城

1887(明治20)年の「私設鉄道条例」公布により民間の山陽鉄道会社が設立され、神戸〜下関間に山陽鉄道(現山陽本線)の
敷設が計画されます。 1888(明治21)年11月に神戸〜姫路間が開通すると1891(明治24)年3月には岡山、同年9月には福山、
1894(明治27)年6月には広島までレールを延ばします。 もちろん工事は万事順調に進んだわけではありませんでした。
とりわけ難航したのが用地買収です。福山駅の建設では福山藩のシンボルであった福山城の石垣を壊し、路線が町を分断して繁栄
を阻害するなどと反対の声が上がりました。 しかし山陽鉄道の敷設には、日本と清国の関係が悪化するさなかだったこともあり
政府と軍部の強い意志がありました。福山町でも東京から帰郷した学生有志が、町の発展のためには早急に鉄道を敷設する必要が
あるという声を上げ、積極的に支持しました。当時の社会情勢による要請から最短ルートを最短時間で敷設するには、石垣を壊して
内堀を埋め立てる必要があったのです。 日清戦争が始まる2カ月前には、山陽鉄道は大陸への兵たん基地があった宇品港を擁する
広島まで開通します。こうして山陽鉄道は兵員・軍用貨物の輸送を進めるために軍用列車として運行し始め、今日の山陽本線につながります。
 これらのいきさつより福山城は今では「日本一 駅から天守閣が近い城」として知られるようになったのです。

祝 山陽鉄道 福山駅開通130周年「福山駅の歴史展」2021・9・1〜9・20

よみがえる福山城

在りし日の福山城の雄姿


御本丸  東西1丁弐拾参間、南北一丁弐拾六間  二千六百二十四坪


月見櫓は、角地にあり到着を知らせる”着見”櫓の意味がある。
湯殿や、天守の飾りである唐破風や千鳥破風などとともに町民が見える南側に集めた。
戦が終わり、きれいな城を意識している。

徳川家康のいとこである水野勝成着任は、外様大名が多い西国ににらみを効かせる
「西国鎮衛」の意味があり

当時10万石の領主は3階建ての城しか許されていなかった、5重5階地下1階。
伏見櫓の高さこそ、本来10万石の天守閣の高さ。
幕府の援助を得た勝成は特例、福山城は特別な城です。

福山城天守 最上階の5階には朱色の高欄をめぐらせ、北面の壁は鉄板で覆われていた。


天守閣の高さ   建物のみの高さ・・・14間3尺(26.36m) 石塁とも総高・・・18間3尺(33.64m

天守建坪:364坪6合

    天守閣の高さ 天守台加えると   
江戸城  約45m   約58m  寛永15年(1638年)に徳川家光公がつくった「寛永度の天守」
江戸城   68m   徳川家康 慶長期1607-1609年頃
 江戸城:松江歴史館の江戸始図 江戸城中心部の城郭構造を細部まで明快に
描いてある。大天守・小天守・多聞櫓
大坂城   37.5m  54.8m  鯱を含み高さ
熊本城   29.5m   小天守…高さ19.1m 
姫路城   31.5m  46.4m 姫山(標高45.6m) 上に建っています 海抜92m
広島城   26.6m  39m  
福山城   26.4m  33.6m  常興寺山高さ 約20m
蝙蝠山(こうもりやまと称していましたが,「蝠」は福に通じることから「福山」
と称されました
松本城   25m  29.4m  
松江城   22.4m 約30m  天守位置の標高 28.4m
岡山城   20.5m  33.45m  石垣平均約13m



五重五階地下一階で小天守(付櫓)に庇を連結させた複合天守閣で、各層1間(=6尺=1.8182m)ずつ逓減する均整のとれた
スタイルが特徴である。


福山城の規模(7万8千坪 25.5ヘクタール)  マツダスタジム 11.1倍

  単位:坪   単位:u
本丸   2,624  8,659.2
二之丸   8,809 29,069.7 
三之丸  31,931 105,372.3 
小丸山  7,180  23,694.0 
内堀 3,259  10,754.7
外堀   20,163 66,537.9 
沼(小丸山裏)  3,500  11,550.0 
 合計  77,466 255,637.8

2016/12/4(日) 13:30〜
講演会・散策  福山城 石の声を聴く 築城400年記念に向けて
ふくやま文学館 1階研修室

穴太(あのう)とは何か?
5世紀の終わりから6世紀にかけ、朝鮮半島より移り住んだ渡来氏族に石工技術に特化した氏族が近江の西国
(現 滋賀県大津市坂本)付近に土着し、この辺り一帯で石工技術を伝授した氏族がおりました。それが穴太氏族です。

当時は石室古墳の構築に従事しており、大津の滋賀里から坂本にかけて数多くの古墳群が点在しております。

時は667年、中大兄皇子が飛鳥から近江に都を移し大津京が出来た出来ごと

それまで古墳造りをしていた穴太氏だたが最澄による比叡山延暦寺の創建で石垣普請を担う事となり比叡山
で参道 修行堂 塔頭等の基礎工事並びに石積工事にたずさわっていた。

比叡山焼き討ちにも耐え抜いた石積みを安土城築城に登用した織田信長は、それまでの穴太の石工職人に
役職を与え穴太方 穴太役 穴太頭 そしてその全ての石積職人を総称して穴太衆と申し渡したと言われています。

現在では石垣のみを残す形の安土城ですが当時織田信長が築き上げた安土城は相当立派なお城で
一山全部を城にし、その全てを石垣で築いたことは当時として初めての事だったと聞いております。

そんな石垣を積んだ石積職人の穴太衆達はまたたくまに全国に名を轟かせるほどの城造りに欠かせない存在と
なっていきました。

穴太衆石垣石積とは
石垣:石積みが出来上がった完成した状態の事
石積:石を積む技法や石を積む状態のこと

穴太衆石垣石積の特徴とは
@自然石をほとんど加工せず積み上げる
A石面より石控えを長くせよ
B石の合端は一番より二番より奥で合わせよ
C鎧の如く据え付けよ
D裏込め栗石は丁寧に手詰めで行え
E介石は石尻と水平に打ち込め

穴太衆石垣石積の口伝より一部抜粋

艫(とも)介石:栗石より少し大きい石が敷かれます。
積み石と積み石の間にすき間が生じるため、このすき間を充填させる控えの短い石を
「間石」または「相間石」、「胴介石」といいます

福山城の石積技法
福山城が築城されたのは元和8年(1622年)この頃になると、今までの野面積みではなく、新たに打ち込みハギ
切り込みハギと言った石材を四角に加工して積む技法が取り入れられています。

戦国時代に城石垣職人を一世風靡した穴太衆も時代と共に変わってきました。

世は太平の江戸時代に入り、武家諸法度の一国一城令が発令されてからは新たに城を築けなくなって それに伴い
石積み工事も激減していきました。また世の中は、「美」を意識するようになり、石積みも野暮ったい
野面積みから打ち込みハギや切り込みハギの様な美しい仕上がりの石積みにと変わっていきました。

本来は自然石(野面石)の石を積みあげるのが穴太衆ですがこのように加工石を積む石積みも穴太衆の技術によるものです。

石の声を聴く…石積みメジャーで測るとおちつかない、石は音がして座った。人の意見を聴く(音を聴け)スムーズに行く。

刻印がされた石垣のある城の条件とは、ひとつの城を全国各地の大名が協力して建設した城です。
このような建設工事を当時は「天下普請(てんかぶしん)」と呼んでいました。

この「天下普請」は、江戸幕府を開いた徳川家直轄の城(自分や一族などの城)を全国の大名に
作らせることによって、上下関係をはっきりさせると同時に、建設費用や労働力を捻出させて、
力を弱めようとしたものです。

品の字の形した積み方


日本の建築文化を支え続ける石
日本の近代化が進んだ明治後期から昭和初期にかけて,日本銀行本店本館をはじめ,
明治生命館などの日本を代表する近代洋風建築等が建てられましたが,
そこには瀬戸内海の島々,とりわけ備讃諸島で産まれた花崗岩が使われてきました。
 一方で,我が国が世界に誇る石造建造物である,近世城郭の石垣。その代表が,
大坂城の石垣です。大坂城は,徳川幕府が西国・北国の大名63藩64家を大動員して,
元和6年(1620)から寛永6年(1629)の間に再建しました。大名たちは競うように
巨大な石を運び込み,壮大な石垣を築き上げました。この石垣にも,
遠く離れた備讃諸島から運ばれてきた石材が大量に使われています。

知ってる!? 悠久の時が流れる石の島〜海を越え,日本の礎を築いた せとうち備讃諸島〜

講演会 ―石垣からみる福山城― ボランティアガイド研修会   2015/11/1(日)13:30〜
エフピコRIM(リムふくやま)9階 スカイホール スタジオA
石垣や天守閣など、お城がどのように造られたのか分りやすく講演







筋鉄御門 
天守 
 天守閣は空襲で焼けた 石材は花崗岩 赤く変色してます。
 天守台石垣

福山城と城下町

福山八幡宮本殿裏には水野勝成公を祀った聰敏(そうびん)神社がある

艮神社は福山城築城のときの鬼門の守護神として建てられた

アイネスフクヤマ」福山繊維ビルが駅前再開発により2011年(平成23年)4月新しく建て直されました。
ローマ字で繊維を逆から並べた。

山陽新幹線開業昭和49年 2015年 40周年

福山グリーンライン
観光目的で1974年(昭和49年)に開通した、当時は有料道路だった1980年(昭和55年)無料開放された
春になるとグリーンライン沿いや後山公園に桜が咲き展望台からは瀬戸内海の多島美と桜を一緒に楽しめる
鞆町水呑町を結ぶ14kmのドライブコース 眼下に鞆の浦を眺める風光明媚なルート

彦山(ひこさん)430m、福山地デジ中継局がある山です。熊ヶ峰438m。

築切り(つっきり)
外堀の水位を一定に保つことを目的に入川を遮断して長さ45m、幅10m、高さ3mの堰。1622年から40年代ごろまで
整備されたが昭和初期までに埋められた。また別のいわれも
入江の浜川は外堀まで通じ、漁船が入江から外堀の中に入り東堀端の上魚屋町に船を繋いで商いをした。
その喧騒が城中本丸まで聞こえた。やかましくて仕方がないので、勝成は浜川から漁船が外堀の中に入れないよう
にこれを仕切った。上魚屋町は北御門の先にあった。魚河岸の繁栄は本橋北の下魚屋町へ移った。

約21億円をかけて整備した  2011年7月オープン
福山市駅南地下送迎場  送迎用駐車場 13台 15分無料 送迎用乗降場 5分以内の利用 
「利用しにくい」という声 多い

瀬戸内海のふるさと「福山」へようこそ

胎蔵寺    胎蔵寺釈迦如来胎内施入品の発見

胎蔵寺釈迦如来胎内施入版本大蔵法華経奥書
(貞治三年・一三六八年三月十六日)
日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来像中
・大檀那杉原親光(ちかみつ)が菩提寺常興禅寺に納めた本尊仏
・椙原保の位置特定=常興寺山(現福山城)一帯



福山市は広島県の東南端、岡山県に接する県東部の中核都市です。福山の地名は福山城にある
常興寺山が、「蝙蝠山(こうもりやま)」とも言い「蝠」が「福」に通じることから、「福山」の名で
呼ばれるようになったと言われています。福山城の天守閣は、現在、福山城博物館となっており、また、
その西隣にはふくやま美術館広島県立歴史博物館などだが並び、多くの人が訪れます。
また、市内の南に位置する鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、古くから海上交通の
要所として栄え、多くの古寺・史跡が残る港町です。
さらに伝統漁法の「しばり網」も残っており、
瀬戸内海屈指の観光地になっています。このほか、紅葉が素晴らしい山野峡県立自然公園
本堂・五重塔が国宝に指定されている明王院、ばらの花いっぱいのばら公園など、四季を通じて
見どころがいっぱいの「瀬戸内のふるさと福山」です。

福山城関係絵図

福山城今と昔

福山城古写真

正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、
城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています





総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。
特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。
惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。


明治期以降の古い地形図(明治30年)と現在の地図を並べて比較できるページ。
武家屋敷は田畑に変わっている。


北面(搦手・からめて)の一部を除いて、本丸・二の丸を取り囲む形で二重のお堀(内堀・外堀)がめぐっていたが、
明治中期の民間払い下げ、山陽鉄道の敷設(明治24年)などによって埋められた。







福山城西外堀跡の石垣   福山城三之丸西御門櫓台跡


福山城三之丸北御門外枡石塁跡
福山城三之丸東外堀内側の石垣遺構

水野家70年間に随分水田が開発された。備後領内十五万三千石(十万石から)。
治水工事を施して田畑の増大を図っています、その一人は神谷治部で土木水道工事の手腕をふるっています。
芦田川の改修工事 現在の如く山寄せに一直線として中津原から大曲がりに南下する川に直したのも彼の指図
で行ったといわれています。

日本で二番目に水道ができた 本庄二股で上井手と下井手に分けた。
全国で水道を設けている城下町はほとんどなく江戸の神田上水道に次いで日本で二番目に水道ができた。






1600年 関ケ原の戦い
1601年 福島正則が安芸・備後領主として広島城に入る
1603年 江戸幕府の成立
1615年 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡)武家諸法度
1617年 福島氏改易
1619年(元和5年)水野勝成56歳 備後福山藩領主として大和郡山より入封
    伏見城廃止する
1620年 福山城築城始まる
1622年 8月28日福山城の完成を幕府に報告、地名を「福山」と名付ける




転封(てんぽう)とは?
江戸時代の大名は現代のサラリーマンと同じく、幕府の命令によって
人事異動が行われました。これを転封といい、その際領地が加増(増加)
・減少される場合もあります。転封の命令が出されると、大名は家臣たち
も含めて、領地を移しました。これは、幕府が大名家の軍事力を弱める
という目的や、幕府の要職に就いた大名家への恩賞といった意味合いがあります。

水野家の縁(えにし)
水野家は江戸時代、老中や若年寄といった幕府の要職を務めた大名家です。
もともとは、現在愛知県の知多半島から西三河にかけて勢力をもっていた
豪族で、東の松平家(後の徳川家)、西の織田家に挟まれながらも活躍
していました。徳川家康の母・於大(おだい)は水野家の出身です

愛知県刈谷市 刈谷藩
水野忠政から初代刈谷藩主水野勝成へ刈谷の礎を築く
天文2年(1533)の刈谷築城以降、水野忠政ら水野家の拠点となりました。
江戸時代になると水野勝成が刈谷藩3万石を与えられます。元和元年(1615)
勝成が大和郡山へ転封した後は、弟の水野忠治が刈谷藩を継ぎ、寛永9年(1632)
吉田藩(現愛知県豊橋市)へ転封されるまで藩主を務めています。


奈良県大和郡山市 大和郡山藩
水野勝成 大坂夏の陣の功績で転封
刈谷藩主であった水野勝成は元和元年(1615)におこった大坂夏の陣で、
大坂城に攻め込め入り桜門に一番乗りの旗を立て、大いに功績を挙げました。
その恩賞として、大和郡山は政治的・軍事的に重要な地で、城の修復などを
行いました。

和歌山県新宮市 新宮藩
水野重央 紀州徳川家の附家老
重央は徳川家康の信頼が厚く、家康の子・頼宣(よりのぶ)の後見人をつとめました。
慶長14年(1609)頼宣が駿府国(現静岡県)を中心に50万国与えられると、頼宣から
浜松に2万5千石を与えられました。頼宣が紀州55万5千石に転封される際には、重央(しげなか)
も新宮3万5千石に移され、幕末まで紀州藩の附家老(つけがろう)を務め、藩主を支えました。

愛知県岡崎市 岡崎藩
水野忠善(ただよし)享保の改革を支えた老中も
水野忠元は2代将軍徳川秀忠の側近として活躍し、元和2年(1616)下総(しもうさ)山川藩(現結城市)
3万5千石の大名となりました。その後、寛永12年(1635)田中藩(現静岡県藤枝市)、同19年(1642)には
吉田藩(現愛知県豊橋市)へ転封となっています。それからわずか3年後の正保2年(1645)には、岡崎藩5万石
へ転封となっています。岡崎藩主であった水野忠之(ただゆき)は、
8代将軍徳川吉宗の側近として享保の改革を支えました。

茨城県結城市 結城藩
水野勝長 幕末まで続く
水野勝成の時代に刈谷→大和郡山→福山と転封し、福山で5代続きました。しかし、
元禄11年(1698)跡取りが居ないまま藩主が死去したため、領地召し上げとなりました。
ただ、家の再興は許され、能登国内(現石川県)1万石の大名となりました。
元禄13年(1700)には結城藩1万8千石に転封となり、幕末まで続きます。


愛知県東浦町 緒川藩
水野忠政の出身地
水野忠政は明応2年(1493)に緒川で生まれ、松平家と手を結んで西三河・知多半島の安定を図りました。
天文2年(1533)刈谷城を築城します。忠政の8男忠分(ただちか)は緒川城の城主となりますが、
天正6年(1578)に戦死しました。忠分の子文長(わけなが)が
跡を継ぎますが、慶長11年(1606)新城(しんしろ)藩(現愛知県新城市)へ転封となりました。



福山城は、1622年(元和8年)に藩主水野勝成が築城しました。福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山
朱雀院
(すじゃくいん)久松城、またの名を葦陽(いよう)とも言います。福山城より南には芦田川が
形成した三角州が広がり、現在の市街地の中心部は、葦の茂る干潟だったようです。水野勝成は、
この干潟を干拓し城下町として整備しました。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、
すぐ近くまで船が来ました。現在、入江はなくなりましたが、船町・入船町・天下橋などの地名に当時を
しのぶことができます。

鉄覆山(てっぷくさん):天守閣の北は鉄で覆われている。北面は山並が迫り防御上の弱点とされ
                北面は厚さ3mmの鉄板が最上階を除いて壁面全体に張られていた。

鉄板ばりの天守
城の北側は塀も築かれず防御に弱かったので、
それを補うために天守北側四層までには鉄板が貼り付けられていました。鉄板が貼られていたので黒かった。
江戸城天守における黒塗り銅板貼りの事例だけで、他に類を見ない試みであり工法でありました。

朱雀院(しゅじゃくいん):南の守護神

久松城(ひさまつじょう):「松寿長久」(しょうじゅちょうきゅう)久しく栄える城

鉄の守りをかため朱雀南方を制し久松は松寿長久の意をこめて名づける

元和5年(1619)
7月22日,水野勝成が備後7郡と備中一部10万石に封ぜられる
8月4日,水野勝成が上陸し神辺城に入る

干潟だった芦田川のデルタ地帯。福島正則の支城であった神辺城からの櫓を移築。
第2代将軍徳川秀忠の命により豊臣政権のシンボルだった伏見城からも伏見櫓や本丸御殿を移築。
五層の天守の周辺に配しました。

輪郭式平山城

地階(9×8間)
1階(9×8間)
2階(8×7間)
3階(7×6間)
4階(6×5間)
5階(5×4間)
1層から5層まで1間ずつ逓減していた

この逓減率の低さも福山城天守の大きな特徴で、
天守台の面積は9×8間と近隣の広島城(13×11間)
や岡山城(13×9間)などと比べても半分程度であるにもかかわらず、
最上階は逆に5×4間と広島城(3×3間)・岡山城(3×3間)より大きかった。


本丸に12基の櫓、二の丸、三の丸を合わせると26基の櫓が立ち並んだといいます。

櫓の数が最も多い城郭は広島城で76棟、世界遺産である姫路城が61棟、ついで津山城は60棟。




福山城(17世紀後半)
鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)

福山城は、江戸幕府初代将軍の徳川家康の従兄弟にあたり「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られた水野勝成により
築城され、1622年(元和8年)に完成しました。西日本で最初に配置された譜代大名の水野勝成は石高10万石の大名でしたが、
城の規模は30万石に匹敵するおよそ78,000坪(257,400m2)を誇り、「西国鎮衛」としての重要な任務を負った城郭といえます。
福山城の特徴の一つに、櫓(やぐら)の多いことがあります。20数基に及ぶ三重櫓・二重櫓、城郭で最も厳重な防備施設といえる
多聞櫓(城郭の石垣上につくる長屋状の櫓、多門櫓とも記す)が本丸と二之丸の東南部を除くほぼ四周を囲み、その総延長は291間余
(570m)にも及びました。総延長300間近くになる多聞櫓は全国の城郭でもまれな規模であり、10万石の大名の居城としては
破格の巨城であったといわれています。
1873年(明治6年)に廃城し、ほとんどの櫓が取り壊され、さらに1945年(昭和20年)の戦災により天守閣や御湯殿などを焼失しました。
当時の櫓のうち現存するものは、F筋鉄御門(国重要文化財)、G伏見櫓(国重要文化財)、鐘櫓(市重要文化財)です。
@天守閣、D月見櫓、E御湯殿は、1966年(昭和41年)に福山市市制50周年記念事業として外観復元されたものです。
※櫓:城郭の要所に設けられた、防御や物見の役割を担う建物。通常の窓のほか、攻撃用の小さな開口を複数個所に設けてます。

多聞櫓の名称の起こりは、大和国多聞城(たもんやまじょう)において松永久秀(ひさひで)が城門を固める石塁の上にこの様式の櫓
を創始したことによると伝えられている。





歴代藩主               水野氏の沢瀉紋
                     水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから、
                     武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれた。
                     「面高」とも書く。水辺に自生し、夏には白い花を咲かせる。花弁は三枚が基本。群生が
                     弓矢を立てたように見えることから、武将に人気があった。


初代 水野 勝成(1619〜1639)   永禄7年(1564) 
                     三河国(愛知県)の刈谷城主水野忠重の長男として生まれた。
                     徳川家康は従兄弟にあたる。
                     戦場では滅法強いが、大変な乱暴者。
                     若き日、父の金庫番に「俺は嫡子だ。父の物は俺の物。金を出せ」と迫り、
                     「拒んだ金庫番をの首を打ち落とし、
                     出奔。父に勘当され諸国放浪の身となる。一時は家康のいとこなのに禄高わずか一八石の
                     下男に落ちぶれた。
                     正月の祝い膳でも下男は水だけ。勝成は茶を所望したが茶坊主はくれない。
                     「俺ほどの侍に飲食の恥をかかせるな」というと茶坊主はからからと笑い「下男のくせに侍のつもりか」。
                     勝成は茶坊主を一刀両断。また出奔(新井白石『藩翰譜』)。
                     35歳までそんなすさんだ生活の繰り返し。だが時は戦国。豊臣と徳川の抗争が始まった。
                     勝成は家康のもとに馳せ参じ、水野日向守と名乗って、関ヶ原の合戦、大坂の陣で大活躍。
                     「鬼日向」の名は天下にとどろいた。その軍功で備後(福山)10万石の大名となり落ち着いた。
                     子孫に「水野勝成遺書」をのこし自分の武士道を説いた。勝成は「武士には17の恥がある」という。
                     1、主君の命でも受けるべきでない命令は断って去るべき、それをせず、主家に留まる事。
                     1、人の手柄をねたむ事。
                     1、自分の武力の程を知らず、ちょっとした強さを大分強いと勘違いして自慢すること。
                     1、味方が多い所では強気になり味方がいない所では弱気になる事。
                     1、心立ては如何なる大将軍にも恥ずべかざるように。

                     武士の勤務にだけはまじめ。
                     「勤め向きは半時(=1時間)早く出て一時遅く退去と心得て交代すべき事」
                     (『視聴草』)と戒めている。

                     慶安4年(1651)88歳で没し菩提寺である賢忠寺に葬られた。

                     定福寺  

          西町の浄土宗・定福寺(じょうふくじ)には2基の巨大な五輪塔があります。
          いずれも水野勝成の妻を葬った墓で、向かって右側が香源院(こうげんいん)、
          左側が良樹院(りょうじゅいん)の墓です。
          勝成は福山城主になる前、父忠重から勘当され備後・備中各地を流浪していました。
          1597年(慶長2年)備中成羽城主三村家に寄食中、藤井入道斎利直の娘であった
          於登久(おとく)と結ばれ、翌年には勝俊が誕生します。
          その2年後、父忠重が石田光成一派の加々野江弥八郎に殺されたため、妻子を備中に残し
          父の遺領である三河国刈谷に帰り後を継ぎます。
          勝成は大和郡山から福山へ移り、勝俊は於登久とともに鞆館(ともやかた)へ入ります。
          参勤交代制により、於登久は江戸住まいとなり、1647年(正保4年)に大坂で死去します。
          勝俊は母の遺骨を引き取って、香源院として定福寺に手厚く葬りました。
          一方、勝成は別に於珊(おさん)を妻に迎えます。備中成羽城主三村家親(いえちか)の
          娘であり、生前歯痛に悩まされたようで、晩年「後世歯を病むものあれば、我墓に祈るべし」
          と言い残し、歯痛の神とあがめられたといいます。於珊は於登久より13年も早い1634年(寛永11年)
          に死没し、良樹院とおくりなさました。

          2018/7月18日水曜 NHK総合1午後10時25分〜 午後11時10分
          歴史秘話ヒストリア戦国ラストサムライ 絶対曲げない水野勝成
          徳川家康のいとこにして知られざる戦国武士 水野勝成(みずの・かつなり)。
          戦場ではいつも「一番やり」の猛将だった。勝成が生きたのは、乱世から太平へ時代が激動しつつあったころ。
          勝成の人生も、家を追い出されたり、放浪したり、大名になったりとまさに激動。しかし、世のしくみが、価値観が変わろうとも、
          勝成は決して己を曲げなかった。よわい70を過ぎてなお戦場に出た「戦国ラストサムライ」をご紹介。

          戦国ラストサムライ水野勝成 これぞ男の生きる道徳川家康の22歳下のいとこ・水野勝成(みずの・かつなり)
          初陣の武田家との戦いから「島原の乱」まで生涯合戦にあけくれた戦国ラストサムライその剛情だが、

          戦国ラストサムライ 最後の戦場(ステージ)へ
          江戸幕府によって戦国の幕は下ろされ、勝成はあらたに福山(広島県)10万石の大名に封ぜられます。
          いくさ一点張りの勝成と思いきや、福山では「名君」としての顔も。しかし「戦い」はまだ勝成を離しませんでした。
          大坂の陣からも20年がたち勝成も70歳を過ぎたころ「島原の乱」が起こります――。

          しなやかで誇り高き生き方に迫ります。
          【井上あさひ】絶対曲げない水野勝成


2代      勝俊(1639〜1655)
                 
妙政寺は福山城の築城で残った木材を使用して建立され境内には2代目藩主水野勝俊が祀ってある
                   勝俊の娘万寿が病になった際にこの寺院で祈祷を行ったことから菩提寺となった

3代      勝貞(1655〜1662)
4代      勝種(1662〜1697)
5代      勝岑(1697〜1698)・・兄6人が全員早世したため、数え1歳で藩主となるが、翌年急死し、福山藩は改易。

       国史跡 摂津 郡山宿本陣の宿帳にあります。
       元禄11年8月6日に別所孫右衛門が備後福山城請取目付の為に宿泊し、青山播磨守が同年8月21日に
       福山城へ御上使として行った帰りに泊っているのも、大名淘汰の例で、この時は水野松之丞勝岑
       福山101,000石を嗣子無しとの理由で淘汰されたのである。  しし【嗣子】家のあとを継ぐ子。あとつぎ。


初代 松平 忠雅(1700〜1710) ・・松平清照の長男。父が病弱なため、祖父松平忠弘の跡を継いで1692(元禄5)年、
                     出羽山形藩(山形市)10万石の城主となる。1700(元禄13)年、山形より福山へ移封。
                     1710(宝永7)年には伊勢桑名藩主に転じた。
                     違い鷹の羽紋
                    鷹の羽(たかのは)は、猛禽類である鷹の羽根のことで、
                    日本の和弓に用いられる矢の矢羽根(やばね)の材料である。
                    鷹の羽紋の例(丸に違い鷹の羽)
初代 阿部 正邦(1711〜1715)・・武蔵国岩槻藩阿部3代藩主阿部定高の2男。福山藩入封の翌1711(正徳元)年福山入り。
2代      正福(1716〜1748)
3代      正右(1749〜1769)
4代      正倫(1770〜1803)
5代      正精(1804〜1826)
6代      正寧(1827〜1836)
7代      正弘(1837〜1857)・・25歳で江戸幕府の老中となり、27歳で老中首座に就任。第12代将軍徳川家慶、13代将軍徳川家定
                    治世の幕末動乱期、幕政を統括して「安政の改革」断行した。攘夷派と開国派の綱引きに翻弄される
                    中、老中在任のまま急死、39歳だった。
                    大河ドラマ 「西郷どん」 老中首座 阿部正弘(藤木直人) 
                    大河ドラマ 「篤姫」    老中首座 阿部正弘(草刈正雄)

阿部正弘上屋敷跡 新丸ビルです。





8代      正教(1858〜1861)
9代      正方(1862〜1868) 上下宿専教寺 で慶応元年(1865)12月11日本陣を置き一泊した。
10代      正垣(1869〜

2002年度秋季特別展「水野氏五代展」―築城380周年記念―

福山城博物館へ行きました。

福山藩の国境 訪ね歩き       城下町を水害から守る   鞆道     「久松用水」訪ね歩く

水野藩と宮本武蔵   笠岡道  尾道道・九州道  千田街道・上方へ  藪路道・石州道

幕末の福山の史跡を訪ねて 備後福山藩の干拓   登録有形文化財(佐波浄水場跡地)の一般開放

ふくやま歴史まつり 第1回   城下町「福山」の旧町名を訪ねて

  福山城の規模(マツダスタジアムの11.1
  坪  m2 
本丸   2,624  8,659.2
二之丸   8,809  29,069.7
三之丸  31,931  105,372.3
小丸山  7,180  23,694.0
内堀   3,259  10,754.7
外堀  20,163  66,537.9
沼(小丸山裏)   3,500  11,550.0
 合計  77,466  255,637.8

マツダスタジアム 建築面積:22,964m2

姫路城敷地
内堀以内の面積は約23ha(23万平方メートル)約7万坪
外堀以内の面積は約233ha(233万平方メートル)約70万坪



水野家断絶時における所領分割
阿部時代は分割され、阿部藩(10万石)・肥後中津藩(2万石)・天領(3万石)





城郭」と「陣屋」の相違はどこにあるでしょうか
双方とも有するものは堀です
享保2年(1717)の『武家諸法度』には、「城主は石塁・石壁の壊れたときは奉行所に達し、
その指図を受ける。櫓・塀・門以下は(届許可の上)先規のごとき補修してよい」
とあり、塀と櫓が城郭と陣屋を分かつものだということが分ります。
つまり石垣の上に塀と櫓があればそれは
なければまず
陣屋といっていいのです
近世以前の豪族、そして戦国大名は実力にふさわしい拠点に城郭をもち、それを
本城として領内の要害・要点に小城、出城を築いて武将たちを配置しました。
徳川政権が確立し、泰平の世となりますと、全国大小の城郭はかえって天下の
不安の材料に変じます。元和元年(1615)幕府は世に言う「一国一城」を発し
原則として主城以外は廃城にしています。
大名とは「五万石以上にして一城の主」と
定義していたように読めなくもない。
一万石以上五万石未満の、城をもたない
陣屋クラスの者は、場合によって「小名」
と記すこともあります。
・1石=10斗=100升=1000合
・1人の役扶持米は1日5合、1年で約1.8石。1石(=1000合)
 で200日分
・米1俵は3斗7升(幕府の公定値)、1石=約2.7表、
 役料200俵は約74石文
・金貨1両=4分=16朱。御四季施代24両2分は、1石=1両
 とすると24.5石分

層塔型は下から上までほぼ一体的な形。元和・寛永年間以降に主流となった型式で、
お寺の五重塔を想像していただけると解りやすいと思います。
宇和島城天守
弘前城天守
名古屋城天守
和歌山城天守
松山城天守

望楼型というのは、上層部と下層部の形が違っていて、具体的には入母屋造の下層部の上に、
物見櫓(ちいさな望楼)が乗っているようなスタイルの天守です。
犬山城天守
姫路城天守
岡山城天守
備中松山城天守
松江城天守
高知城天守
熊本城天守

桜さく日本に生まれ男かな
巌谷小波(いわやさざなみ)の句碑
月見櫓南下の二の丸に建てられており、
桜満開で賑わう福山城を詠んだものです。
児童文学の大家。児童文学の開拓者
として業績を残しています
この句碑がある二の丸一帯は、そこに
屋敷を構えていた田中八九郎
(福山製紙創業者)が、大正時代に入り
桜木を植え始め市内でも有名な桜の名所
となりました。
 2011年4月9日(土) 満開です。

3・11大震災で自粛ムード。
ボンボリなし照明は白熱電灯だけ






 
08/10/26(日)
福山菊花展覧会(10・25〜11・15)
子どもと一緒に久しぶりに天守閣から城下を視察
09/11/7(土)
従兄弟が来福し菊花展へ 又 当たりました。
半券を持って抽選・・小型菊を当たりました。
2002年度秋季特別展「水野氏五代展」
―築城380周年記念―

元和8年(1622)8月 3年の歳月をかけて完成

京都・伏見城から海路・陸路を利用して建物移築
伏見三層櫓・月見櫓・御殿・御風呂屋
・大手門・渡櫓・塀180間。

福山城の本丸・・・西側の備えを最も強固にした
西側の脅威に備えた城、西側に三重櫓四、
二重櫓五の計7棟の櫓が並び上段では櫓の間は
全て堅固な渡櫓とされている。

神辺城から多くの櫓移築された。

外堀・内掘を巡らして満潮時海水を入れ 
干潮時には芦田川の水を引き入れていつも満水とした。

福島正則は土地の結びつきのない大名。
徳川氏に協力的な態度をとっていたきた福島氏も出身は
豊臣秀吉の子飼いの外様です。広島城無断修築の口実の
もとに元和五年(1619)改易に処せられ、信濃国川中島で
四万五千石の大名として、身は高井野村に蟄居となり淋しく
安芸備後を去っていきました。領地を安芸と備後に分けて、
安芸と備北・備西の浅野氏、備南十万石に水野勝成を転封
せしめています。
一国一城で城を壊してまでいた時に新しい福山城を建てさせる
ことなど異例なことであります。神辺城は山陽道の上にそびえ
ていますが、海路にほど遠く瀬戸内海の守りに不向きでした。

現在の場所に新城を建てる事になるので伏見城建築の一部を
移築させ年貢を援助しての大建築工事となったのです。

山陽道(神辺城)と瀬戸内海水路(鞆城)に偏っていてその両方
の要地として現在の福山城が選ばれた、軍事的な要衝であった。

城郭の適地選定
神辺城に代えて品治郡桜山、沼隈郡箕島、深津郡野上村常興寺山
の三カ所が候補地に挙げられた。宮内(新市町)桜山は北に偏り、
箕島は内陸から離れた小島でいずれも不適となった。

天守閣から東方面  
総面積(26.5ha)約八万坪
安芸の浅野氏が豊臣秀吉の正室北の政所の出た家、
岡山の池田が外様の雄であってみれば両大藩の間に
布置された水野は 「西国の鎮衙」たる任務であった。 

 





 福山城鐘櫓  (市重要文化財)昭和54年10月26日指定
近世城郭では唯一本丸内にある鐘櫓である。当時は鐘撞堂と
呼ばれていたようだ。鳴鐘時刻は、6時・12時・18時・22時と
なっている。
本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り、太鼓を懸け、
時の鐘と半時(1時間)の太鼓をうっていたといわれる。
石見国(島根県西部)大森銀山の応急監督を命ぜられ、
人数をくりだす必要があったためという。
鐘は、儒者山室如斎、菅茶山の銘を刻んだものもあったが、
現在は無銘である。昭和54年改修工事完了。

桁行4.26m、梁間4.209m、二階建て、入母屋造。(但し渡櫓は
指定より除く)
この鐘櫓は築城当時の福山城絵図にも描かれている遺構で、
上層にある鐘は城下や近隣諸村に”時の鐘”を告げ、また
緊急時に武士を招集する太鼓も合わせ備えていた。
明治以降、屋根の葺替えや附属の建物の後補など変容と
荒廃が激しかったが、昭和54年旧規に修復(当初のこけらぶきか
檜皮ぶきを銅板にぶきに改めた)された。
城地に鐘櫓が所在するのは全国的に稀である。
 

 福山城伏見櫓 見学会 05/11/12(土)
2007年5月12日(土)  福山城外堀(福山駅前)発掘調査現地説明会   
2008年4月19日(土)     同上   第2次発掘調査 現地見学会  
2009年5月10日(日)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第3次発掘調査 現地説明会 
2009年10月4日(日)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第3‐2次発掘調査 現地見学会
2009年11月21日(土)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第4次発掘調査 現地見学会 
2021年(令和3年)11月27日(土)  史跡福山城石垣(二之丸西垣上段石垣)の発掘調査現地見学 
 筋鉄御門(重要文化財)
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付、櫓門、福山城本丸
の正面で福山築城に際して、伏見城から移建した
ものといわれている。柱の角に筋鉄を施し、
扉に数十本の筋鉄をうちつけいるためその名が
生まれたものである。左に渡櫓、右に多門を連接
さしたもので、後代の枡型多門の型をとらない
初期様式のものである。
 

 湯殿
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と
風呂の間とにわかれていた。
伏見城から移した建物で以前は国宝指定。

明治時代になると清風楼という料亭に転用された

井伏鱒二 「黒い雨」より抜粋
福山城も空襲されたそうだ。五層の天守閣は三層目の窓から
焼夷弾が入って燃えあがり大きな火柱を挙げて崩れ落ちた。
京都の伏見城から移して来た淀君の湯殿櫓も焼けそれに続く
涼廊も月見櫓も焼け石崖も白っぽく焼けただれている。
残ったのは伏見櫓という三層の櫓とくろがね御門という城門
だけである。
 

 月見櫓

本来は着く人見る「着見櫓」
入江からやってくる人を見るの意味。
藩主等の到着を見極める役割をしていた。
昭和41年天守閣とともに復元された。
  広報ふくやま 2022年4月 歴史散歩
今も水を湛える 黄金水
 黄金水:黄金と同じくらい貴重で枯れない
本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸に
は4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に2ヶ所あった
といわれる。城郭における井戸はその城の良否
あるいは戦闘の際の生命をささえるものとして
重用視され、この黄金水は渇水時にも水をたたえた
すばらしい井戸であった。
水野勝成が福山城を築城した際に、
井戸の中に黄金を埋めて水気を清めたこ
とから「黄金水」と呼ばれた
 



 幕末の福山の史跡を訪ねて 2010/04/03(土)
 幕末の福山をたずねて   2015/3/15(日)
先人の森小丸山
福山の発展にかかわった3人をたたえる碑がある
1.福山藩の開祖水野勝成の功績をたたえた「水野勝成寿碑
2.阿部正弘を補佐して幕末の教育改革など励んだ江木鰐水
をたたえた「鰐水江木先生碑
3.1869(明治2)年に西洋医学の学校兼病院の建設に当たった
寺地舟里をたたえる「舟里寺地先生之碑」があります。
明治維新 長州軍の攻撃をうけた
福山藩の動向を決した歴史的な丘である
北の防御は 弱点であった。
慶応3年正月9日の未明、
長州兵が福山城を攻撃開始。
福山藩儒で執政職に就いた
関藤藤陰(せきとうとういん)は
「大義滅親論(たいぎめっしんろん)」を唱え藩論を統一した
うえで長州との和議を成立させ、福山城下を戦火から救った。
三吉町の市民図書館跡地にある「藤陰関藤先生碑」は
1982年にこうした功績をたたえ建てられました。
碑文は盟友だった阪谷朗廬(さかたにろうろ)1822-1881
が書いた「吉備之国第一流ノ人」文字が刻まれています。

九代藩主阿部正方は慶応2年6月3日
益田に入り
遠征中に脚気を患い帰城し、
11月22日、福山城で卒去します。
20歳でした。後嗣(こうし)がないため
幕府へは喪を隠して天守閣西北の
「小丸山」の竹薮に仮埋葬をします。
正方の墓は明治2年(1869)10月になって
本庄村小阪山(北本庄三丁目)に改葬され、
神道墓の清楚な墓域が造られた。
廃藩置県に伴い阿部家は東京に移住。
墓地の管理・祭祀は本庄村の田圃一町五反歩を墓田とします。
ここから得られる利益をもって永く祭祀の費用に充てられる
こととし、 関藤藤陰の撰文になる「小阪山墓田碑
が建てられました。この碑は本庄八幡神社参道上り口に
建てられていましたが、現在は本庄交番の北西側、
四つ堂の隣りに移設してあります。
 

 旧内藤家長屋門
役人の藩邸
身分・格式によって門構えは異なる。200石以上の武士は、
門の両袖が長屋になっている長屋門に住んでいた。

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