備後福山城  広島県福山市   2002/10/13(日) 2015/11/1(日) 2016/12/4(日)2018/6/10(日)
                                2018年8月19日(日)



「武器・武具展-戦場(いくさば)の華-」甲冑の世界−その魅力と意匠−日本甲冑武具研究保存会
一般的に刀剣・鉄砲等を総称して武器、甲冑・陣羽織等を総評して武具とよびますが、それ
らは武士にとって命を守るために備える重要なものでした。しかし決して実用的なものだけで
なく、変わり兜や鉄砲に見られる華美な装飾、きらびやかな陣羽織などそこにはそれらを所有・
愛用していた者の個性や宗教観、美意識が見られます。

甲冑の変遷
平安時代 上級武将は大鎧に星兜、下級武士は胴丸
鎌倉時代 上級武士は大鎧、胴丸鎧、胴丸も使用。下級武士は胴丸、腹巻
室町時代 上級武士は胴丸、腹巻に筋兜。下級武士は簡素な胴丸、腹巻、腹当
戦国時代 胴丸、腹巻も使用するが当世具足が普及する。変わり兜が出現
江戸時代 当世具足 復古鎧

〇甲冑の製作者 甲冑師
南北朝頃 兜鉢に「−」「大」などと切ったのが初出。室町時代後期から作者銘が出現、
天文年間「吉久」「房宗」など、永禄〜天正年間に上州鍛冶、雪下鍛冶 奈良の春田派、
岩井派など奈良甲冑師が主流になる。江戸時代は江戸を中心に各地、各藩に分布、特に
明珍(珎)派が全国に波及する。

〇甲冑の製作(威し、縫製、組紐、絵韋など) 絵韋(えがわ):鎧や兜の吹返し表面に張られた鹿の皮革。

〇甲冑製作に必要な材料、技術
 鍛金、彫金、漆、皮革、組紐、染織 ほか

変わり兜のいろいろ
 安土桃山時代から 桃形兜(ももなりかぶと)、突ぱい形兜(とっぱいなりかぶと)などからさまざまな形象兜が作られる

〇現存する有名な戦国武将の甲冑
武田信玄、勝頼 上杉謙信、景勝 織田信長 毛利元就、隆元 豊臣秀吉 徳川家康 加藤清正
伊達政宗 細川忠興 黒田官兵衛、長政 水野勝成 ほか

2018年(平成30年)8月28日  8月28日(旧暦)に福山城と名付けられた
広島県内で初めて,福山城天守を景観重要建造物に指定しました。
城が命名された日付にちなんで旧暦8月28日にあたるこの日(10月7日)、天守入口に標識を取り付けた。


福山城周辺新たな高さ制限の方針 2018/8/28
福山城周辺のマンションやビルの高層化を抑え、天守閣などの景観を守るため、
城の東西に隣接する地域に景観法に基づく「高さ制限」を導入する方針を明らかにした。
JR福山駅北側の天守閣を中心とする半径400メートル以内のエリアで高さ23メートルまで、
半径600メートル以内のエリアでは31メートルまでとする方針です。


福山城伏見櫓、筋鉄御門の国宝化に向けて調査開始
伏見櫓と筋鉄御門の一般公開・樹木整備作業の安全祈願祭
⇒日時 2018年8月19日(日)
⇒場所  福山城公園天守閣広場(筋鉄御門付近)
⇒内容 9:00 安全祈願祭
9:30 専門家による伏見櫓と筋鉄御門の説明
10:00 伏見櫓と筋鉄御門の公開
12:00 終了(予定)


9月5日(木)
遺構の保存と景観整備のため樹木整備 
接触しているクロマツについて風雨による影響を考慮し伐採しました


 伏見櫓と筋鉄御門一般公開に約200人

県内に広島城、三原城にあるが江戸時代
の建物が元の位置に残っているのは
福山城の伏見櫓と筋鉄御門だけ。

伏見櫓
層塔型  望楼型 違いは?
東・西・南に多くの窓を開き
 筋鉄御門
戦さのない時代 石落としがない。
部材 丸太のまま
12条の筋鉄を鋲打ちし、
乳金具を飾っている

梁が曲がった巨木使い荒々しい戦国
の雰囲気を感じる



2018/11/3(土) 国重要文化財福山城伏見櫓・筋鉄御門公開
本丸には筋鉄御門の他に、本丸北西に棗御門(なつめごもん)現在礎石のみ残存、
鐘櫓北側にあたる本丸西側には御台所門(おだいどころもん)現在石垣で塞がれている、天守の
南側には現存していませんが天守曲輪門(てんしゅくるわもん)ありました。



筋鉄御門
福山城本丸の正面で、西向きに建つ脇戸付の「櫓門形式」の門です。
屋根は入母屋造で、本瓦葺きの棟に鯱瓦を上げています。
下層は、一対の鏡柱と添柱を建て、各柱には根巻金具を付けるとともに、
四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みには大小の乳金具を打ち付けています。
冠木(かぶき)の上に出し梁、梁の端に腕木の構造で、前後とも木製目板葺の庇を設けています。
門扉は、鏡柱側に肘金、扉側に肘壷がそれぞれ2箇所ついた肘釣式の観音開き扉です。脇戸は、
内開きの一枚建てで、こちらも筋鉄を打っています。いずれも内側から閂を通して封じるようになっています。
梁行き上下二本の貫で柱を繋ぎ、貫の間は吹き抜けになっています。
上部は木地露出の根太天井で、上層の床となっています。
上層は、桁行10間(約19.7m)、梁行三間(5.9m)で、柱・土台・上下の長押とも木地型を出した白漆喰塗込め
となっています。下方の左右櫓台は石垣積み、内部の床は拭板敷き、小屋梁天井、軸上は柱毎に水平に
腕木を出し、出桁を受けて一軒の疎?(まばら)軒を作り、白漆喰塗りとしてます。
窓は、正面の柱間三間と右端の一間、南側一間の箇所に、腰長押の上に縦格子の窓を作っています。
出入り口は、北西に一箇所設け、片引戸を建てています。外回りは、屋根妻、破風板、懸魚はすべて白漆喰塗込めです。
筋鉄御門の南側から北側に向かって本丸へ上がる道の突き当りは、石垣土坡(いしがきどは)になっていて伏見櫓方向へ折れ曲がる
石垣が連なり、枡形を形成しています。この石垣上には、かつては多門櫓が連続して建てられ伏見櫓と繋がっていました。



城のあるまち福のまち
福山城築城400年記念事業


史跡 福山城跡保存活用計画を策定

2018/6/9(土)福山城築城400年記念プレ事業「福山城の内堀跡等を巡ろう!
福山城は二重の堀(外堀・内堀)に囲まれたお城でした。内堀の大部分は地下に眠っていますが、その痕跡等を巡ります。
福山駅北口の地下遺構発掘調査結果も説明します。※11時〜

2018年(平成30年)6月9日土・10日日 10時〜19時
2022年(平成34年)に迎える福山城築城400年に向け 福山城を中心とした駅南北ゾーンの一体化を考える実証実験
福山駅周辺を楽しく「まち歩き」しませんか?  



明治21年(1888年)頃 蓮根畑として利用されていた。明治30年(1897年)側図・内堀には水田マークがある。


6月10日(日)正午〜午後3時 福山城築城400年記念事業実行委員会
福山城南側道路 車両通行止め 二之丸お散歩エリア「石引き・石割り体験
「あんな大きなものをどこからどうやって運んだんだろう?」
「どんなふうにして積み上げたのかな?」
巨大な石を築くには相当な技術が必要だったことがうかがえます。

午後1時から石の産地笠岡市北木島産の大きな石の下に丸太を敷いて、縄を掛け、
石引を体験します。重さ2.4トンの巨岩を人力だけで引っ張る。

石を加工するための石割り体験も随時行われます。
あらかじめ開けておいた丸い穴にセリ矢を差し込んで上からハンマーで叩いて衝撃を加えることで隙間を広げる。
金属音を何度も何度も響かせてようやく割れる。


おもてなし好印象を与えるための心掛け
お出迎え
   ・わかり易い場所で、目立つように
   ・歓迎の心を言葉と笑顔で伝える
   ・自己紹介、コースの説明

ガイド開始
   ・明るく、楽しく、さわやかに出発
   ・人数確認、時間管理を行う
   ・周囲の迷惑にならないように
   
ガイド終了
   ・印象に残るように終わる
   ・ガイド全体のまとめとお礼(感想を伺う)→お客様に言ってもらう
   ・プラスの情報を伝える→お土産、美味しいもの 「何もないと言わせない」
   お土産は JR福山駅の商業施設さんすて福山

お見送り
   ・お別れの挨拶
   ・お客様が見えなくなるまで手を振り見送り




2018/4/13(金)福山城の耐震化2022年完了目指す
          「震度6強〜7程度の地震で倒壊や崩壊する危険が高い」3,4階の中間階の耐震性が弱かった。
2018/3/24 (土) 福山城博物館来館400万人突破 来館者が1966年11月の開館から400万人を突破した。
2018/1/23(火)地階展示室  福山工高生、400年前の姿 やぐら・門・屋敷、忠実に
プラスチックやベニヤ板などを材料に、五層の天守閣をはじめ、御殿や櫓(やぐら)といった
約40の建物を再現している。縦約90センチ、横約80センチ、高さ約30センチ。

250分の1サイズで城下町まで作り込もうという徹底ぶり。
2022年の築城400年に向け、関係者も「ムードの盛り上げに一役買ってもらえれば」

古写真や専門家の話を参考に天守閣の細部まで緻密に仕上げている。こけらぶきの4階屋根は茶色に、
鉄板だった北面の壁を黒色に塗装することで、往時の姿をよく伝えている。

国重要文化財として本丸に現存する伏見櫓、三の丸にあった家老の屋敷など計100棟以上を
プラスチックやベニヤ板で細部まで作り込み、絵の具などで彩色を施している。

「思い出に残る作品になった。城を訪れた人に模型を見て福山の歴史を知ってもらえれば」

「非常に精巧に作られており、博物館の展示の目玉になる。築城の節目を盛り上げる機運にも弾みがつく」


2018/1/16(火)福山城築城400年記念事業ロゴマークの決定
福山城の歴史をモノクロで表しました。そして,福山市の花である「ばら」と,伝統工芸をローズピンクとブラウンで表現してみました

福山城築城400年記念事業キャッチフレーズの決定について
城のあるまち 福のまち
2017/7/12(水)枝広市長「築切」(つっきり)再現する意向を明らかにした
築切 外堀と瀬戸内海に通じる運河(入川)を遮断していた堰(長さ約45m・幅約10m・高さ約3m)
瀬戸内海からの敵の侵入と、干潮時の堀の水がなくなることを防ぐ目的
築城された1622年から40年代までに築造され、土を堤防のように盛り、側面を石で覆ったという。
昭和時代初期までに堀とともに埋められたとされる。

2017/3/21〜3/31 二の丸南側と国宝・伏見櫓の周辺 眺望確保へ32本 樹木伐採・剪定

2017/2/23(木)第1回福山開府400年・福山城築城400年事業推進企画委員会
2022年(平成34年)に迎える福山城築城400年を盛り上げていくための基本方針やスケジュールについて協議


2016/12/21(水)
枝広直幹市長 年度内に新組織示唆 福山城築城400年に向け催し

2016/10/7(金)
福山城跡保存活用で初会合
福山市教委では、再建後、50年が経過した天守閣について、
来年度、耐震診断を予定、結果によっては委員会で耐震補強や木造での建て替えも議論されるということです。

委員から
「城が新幹線の中からも見てもらえるよう、樹木の伐採をするなど景観を整えるべき」
「市民に関心を持ってもらうためには城の歴史や建築の特徴など、さまざまな情報を分かりやすく伝える城の価値をもっと発信すべき」


今年(2016)は再建50周年 町を見守り続ける福山城

天守閣は北側が鉄板で覆われていた。幕末の1868(慶応4年)、徳川譜代の福山藩は、新政府軍(長州)から朝敵とみなされ、
攻撃を受けた。福山城の北側から砲撃で大砲の弾が天守閣を打ち抜き、戦前の焼失前の天守ではその際の弾痕や砲弾を見ること
ができたという。

1873(明治6年)の廃城令により、天守閣・伏見櫓・筋鉄御門・湯殿・鐘櫓などを残し、ほかの多くの建物は売却・解体、お堀も含め、
敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用されました。天守などは買い手がつかなかった。
明治以降は敷地・建物とも荒廃。中心部は「福山公園」としてよみがえりました。

月見櫓は「葦陽館」といわれる貸会議場が建てられた。
伏見櫓は骨董店が営業していたこともあった。

お堀の大部分はレンコン畑に。その後、くわいが植えられるようになり、福山の特産品の一助に。

昭和に入り福山城の歴史的・文化的価値が見直され1931(昭和6)年に天守が国宝に。後に、伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿も国宝に指定。

1945(昭和20)年8月8日の福山空襲で、焼夷弾の直撃により天守閣が焼失。幸い、伏見櫓・筋鉄櫓・鐘櫓は被災は免れた。

戦後間もなく、焼失を免れた伏見櫓と筋鉄御門は解体修理された。

市制50周年記念事業として、1966(昭和41年)に、天守閣・月見櫓などが再建。
天守台の石垣や、戦前の国宝指定の際の実測図、古写真など残っていたため、それらを元に再建されました。

2022年に築城400年を迎える福山城。福山のまちや暮らしの原点ともいえる。
福山の歴史は、この城から始まった。


在りし日の福山城の雄姿


御本丸  東西1丁弐拾参間、南北一丁弐拾六間  二千六百二十四坪


月見櫓は、角地にあり到着を知らせる”着見”櫓の意味がある。
湯殿や、天守の飾りである唐破風や千鳥破風などとともに町民が見える南側に集めた。
戦が終わり、きれいな城を意識している。

徳川家康のいとこである水野勝成着任は、外様大名が多い西国ににらみを効かせる
「西国鎮衛」の意味があり

当時10万石の領主は3階建ての城しか許されていなかった、5重5階地下1階。
伏見櫓の高さこそ、本来10万石の天守閣の高さ。
幕府の援助を得た勝成は特例、福山城は特別な城です。

福山城天守 最上階の5階には朱色の高欄をめぐらせ、北面の壁は鉄板で覆われていた。


天守閣の高さ   建物のみの高さ・・・14間3尺(26.36m) 石塁とも総高・・・18間3尺(33.64m

天守建坪:364坪6合

    天守閣の高さ 天守台加えると   
江戸城  約45m   約58m  寛永15年(1638年)に徳川家光公がつくった「寛永度の天守」
江戸城   68m   徳川家康 慶長期1607-1609年頃
 江戸城:松江歴史館の江戸始図 江戸城中心部の城郭構造を細部まで明快に
描いてある。大天守・小天守・多聞櫓
大坂城   37.5m  54.8m  鯱を含み高さ
熊本城   29.5m   小天守…高さ19.1m 
姫路城   31.5m  46.4m 姫山(標高45.6m) 上に建っています 海抜92m
広島城   26.6m  39m  
福山城   26.4m  33.6m  常興寺山高さ 約20m
蝙蝠山(こうもりやまと称していましたが,「蝠」は福に通じることから「福山」
と称されました
松本城   25m  29.4m  
松江城   22.4m 約30m  天守位置の標高 28.4m
岡山城   20.5m  33.45m  石垣平均約13m



五重五階地下一階で小天守(付櫓)に庇を連結させた複合天守閣で、各層1間(=6尺=1.8182m)ずつ逓減する均整のとれた
スタイルが特徴である。


福山城の規模(7万8千坪 25.5ヘクタール)  マツダスタジム 11.1倍

  単位:坪   単位:u
本丸   2,624  8,659.2
二之丸   8,809 29,069.7 
三之丸  31,931 105,372.3 
小丸山  7,180  23,694.0 
内堀 3,259  10,754.7
外堀   20,163 66,537.9 
沼(小丸山裏)  3,500  11,550.0 
 合計  77,466 255,637.8

2016/12/4(日) 13:30〜
講演会・散策  福山城 石の声を聴く 築城400年記念に向けて
ふくやま文学館 1階研修室

穴太(あのう)とは何か?
5世紀の終わりから6世紀にかけ、朝鮮半島より移り住んだ渡来氏族に石工技術に特化した氏族が近江の西国
(現 滋賀県大津市坂本)付近に土着し、この辺り一帯で石工技術を伝授した氏族がおりました。それが穴太氏族です。

当時は石室古墳の構築に従事しており、大津の滋賀里から坂本にかけて数多くの古墳群が点在しております。

時は667年、中大兄皇子が飛鳥から近江に都を移し大津京が出来た出来ごと

それまで古墳造りをしていた穴太氏だたが最澄による比叡山延暦寺の創建で石垣普請を担う事となり比叡山
で参道 修行堂 塔頭等の基礎工事並びに石積工事にたずさわっていた。

比叡山焼き討ちにも耐え抜いた石積みを安土城築城に登用した織田信長は、それまでの穴太の石工職人に
役職を与え穴太方 穴太役 穴太頭 そしてその全ての石積職人を総称して穴太衆と申し渡したと言われています。

現在では石垣のみを残す形の安土城ですが当時織田信長が築き上げた安土城は相当立派なお城で
一山全部を城にし、その全てを石垣で築いたことは当時として初めての事だったと聞いております。

そんな石垣を積んだ石積職人の穴太衆達はまたたくまに全国に名を轟かせるほどの城造りに欠かせない存在と
なっていきました。

穴太衆石垣石積とは
石垣:石積みが出来上がった完成した状態の事
石積:石を積む技法や石を積む状態のこと

穴太衆石垣石積の特徴とは
@自然石をほとんど加工せず積み上げる
A石面より石控えを長くせよ
B石の合端は一番より二番より奥で合わせよ
C鎧の如く据え付けよ
D裏込め栗石は丁寧に手詰めで行え
E介石は石尻と水平に打ち込め

穴太衆石垣石積の口伝より一部抜粋

艫(とも)介石:栗石より少し大きい石が敷かれます。
積み石と積み石の間にすき間が生じるため、このすき間を充填させる控えの短い石を
「間石」または「相間石」、「胴介石」といいます

福山城の石積技法
福山城が築城されたのは元和8年(1622年)この頃になると、今までの野面積みではなく、新たに打ち込みハギ
切り込みハギと言った石材を四角に加工して積む技法が取り入れられています。

戦国時代に城石垣職人を一世風靡した穴太衆も時代と共に変わってきました。

世は太平の江戸時代に入り、武家諸法度の一国一城令が発令されてからは新たに城を築けなくなって それに伴い
石積み工事も激減していきました。また世の中は、「美」を意識するようになり、石積みも野暮ったい
野面積みから打ち込みハギや切り込みハギの様な美しい仕上がりの石積みにと変わっていきました。

本来は自然石(野面石)の石を積みあげるのが穴太衆ですがこのように加工石を積む石積みも穴太衆の技術によるものです。

石の声を聴く…石積みメジャーで測るとおちつかない、石は音がして座った。人の意見を聴く(音を聴け)スムーズに行く。

刻印がされた石垣のある城の条件とは、ひとつの城を全国各地の大名が協力して建設した城です。
このような建設工事を当時は「天下普請(てんかぶしん)」と呼んでいました。

この「天下普請」は、江戸幕府を開いた徳川家直轄の城(自分や一族などの城)を全国の大名に
作らせることによって、上下関係をはっきりさせると同時に、建設費用や労働力を捻出させて、
力を弱めようとしたものです。

品の字の形した積み方


講演会 ―石垣からみる福山城― ボランティアガイド研修会   2015/11/1(日)13:30〜
エフピコRIM(リムふくやま)9階 スカイホール スタジオA
石垣や天守閣など、お城がどのように造られたのか分りやすく講演







伏見櫓
細長い1階平面 1階と2階が同大
二重目の入母屋造の屋根に直交して三重目が載る
一階と二階の外壁に柱と長押(なげし)の形を見せる
窓が大きい(上下の高さが大)

櫓としては、熊本城宇土櫓と並び現存する最古の櫓である。
武器庫として用いられたようようであるが、明治時代になると、
ビリヤード場や骨とう品売場などに使われた。
 算木積(さんぎつみ)
隅石(すみいし)
石垣の出角部分(隅石)の積み方である。
慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、
城郭の石垣に見られる。長方体の石の長辺と短辺を
交互に重ね合わせることで強度を増している。
 石垣の反り 高さ1/2ぐらいから反り始め
扇の勾配 清正交(せいしょうこう)流  
武者返し 

 慶長後期から強くなる 10m超え
 矢穴(やあな) 矢:鉄製のクサビ
大きさ:1寸×4寸:17世紀前期 1寸×2寸:18世紀〜
 矢穴(やあな)
予定の位置で割れなかった例 

瓦松 石垣の間に生えている
石垣の表面

はつり 
石垣の表面

すだれ 
江戸時代の軍学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)著
『ツ録外書(けんろくがいしょ)』でこのように分類
城の石積みは
野面積(のづらづみ) 自然石をあまり河口しないで使う 
天正期(1573〜1592)に「穴太積み」として完成
打込接(うちこみはぎ) 採石場で割りとった石を使う石を少し加工して
                 接合面をふやす
切込接(きりこみはぎ) すき間なく石を接合する
亀甲積( きつこうづみ ) 亀の甲羅のように六角形に整形した石材を積み
               上げていく
谷積 落し積    石材を斜めにずらしながら積み上げるものです 
            谷積では高石垣はできない 19世紀中期〜
乱積(らんづみ)横方向に目地が通らない
布積(ぬのづみ)一段ずつ並べる横に目地がある
筋鉄御門 
天守 
 天守閣は空襲で焼けた 石材は花崗岩 赤く変色してます。

福山城と城下町

福山八幡宮本殿裏には水野勝成公を祀った聰敏(そうびん)神社がある

艮神社は福山城築城のときの鬼門の守護神として建てられた

アイネスフクヤマ」福山繊維ビルが駅前再開発により2011年(平成23年)4月新しく建て直されました。
ローマ字で繊維を逆から並べた。

山陽新幹線開業昭和49年 2015年 40周年

福山グリーンライン
観光目的で1974年(昭和49年)に開通した、当時は有料道路だった1980年(昭和55年)無料開放された
春になるとグリーンライン沿いや後山公園に桜が咲き展望台からは瀬戸内海の多島美と桜を一緒に楽しめる
鞆町水呑町を結ぶ14kmのドライブコース 眼下に鞆の浦を眺める風光明媚なルート

彦山(ひこさん)430m、福山地デジ中継局がある山です。熊ヶ峰438m。

築切り(つっきり)
外堀の水位を一定に保つことを目的に入川を遮断して長さ45m、幅10m、高さ3mの堰。1622年から40年代ごろまで
整備されたが昭和初期までに埋められた。また別のいわれも
入江の浜川は外堀まで通じ、漁船が入江から外堀の中に入り東堀端の上魚屋町に船を繋いで商いをした。
その喧騒が城中本丸まで聞こえた。やかましくて仕方がないので、勝成は浜川から漁船が外堀の中に入れないよう
にこれを仕切った。上魚屋町は北御門の先にあった。魚河岸の繁栄は本橋北の下魚屋町へ移った。

約21億円をかけて整備した  2011年7月オープン
福山市駅南地下送迎場  送迎用駐車場 13台 15分無料 送迎用乗降場 5分以内の利用 
「利用しにくい」という声 多い

瀬戸内海のふるさと「福山」へようこそ

胎蔵寺    胎蔵寺釈迦如来胎内施入品の発見

胎蔵寺釈迦如来胎内施入版本大蔵法華経奥書
(貞治三年・一三六八年三月十六日)
日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来像中
・大檀那杉原親光(ちかみつ)が菩提寺常興禅寺に納めた本尊仏
・椙原保の位置特定=常興寺山(現福山城)一帯



福山市は広島県の東南端、岡山県に接する県東部の中核都市です。福山の地名は福山城にある
常興寺山が、「蝙蝠山(こうもりやま)」とも言い「蝠」が「福」に通じることから、「福山」の名で
呼ばれるようになったと言われています。福山城の天守閣は、現在、福山城博物館となっており、また、
その西隣にはふくやま美術館広島県立歴史博物館などだが並び、多くの人が訪れます。
また、市内の南に位置する鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、古くから海上交通の
要所として栄え、多くの古寺・史跡が残る港町です。
さらに伝統漁法の「しばり網」も残っており、
瀬戸内海屈指の観光地になっています。このほか、紅葉が素晴らしい山野峡県立自然公園
本堂・五重塔が国宝に指定されている明王院、ばらの花いっぱいのばら公園など、四季を通じて
見どころがいっぱいの「瀬戸内のふるさと福山」です。

福山城関係絵図

福山城今と昔

福山城古写真

正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、
城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています


北面(搦手・からめて)の一部を除いて、本丸・二の丸を取り囲む形で二重のお堀(内堀・外堀)がめぐっていたが、
明治中期の民間払い下げ、山陽鉄道の敷設(明治24年)などによって埋められた。



福山城西外堀跡の石垣   福山城三之丸西御門櫓台跡


福山城三之丸北御門外枡石塁跡
福山城三之丸東外堀内側の石垣遺構

水野家70年間に随分水田が開発された。備後領内十五万三千石(十万石から)。
治水工事を施して田畑の増大を図っています、その一人は神谷治部で土木水道工事の手腕をふるっています。
芦田川の改修工事 現在の如く山寄せに一直線として中津原から大曲がりに南下する川に直したのも彼の指図
で行ったといわれています。

日本で二番目に水道ができた 本庄二股で上井手と下井手に分けた。
全国で水道を設けている城下町はほとんどなく江戸の神田上水道に次いで日本で二番目に水道ができた。






福山城は、1622年(元和8年)に藩主水野勝成が築城しました。福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山
朱雀院
(すじゃくいん)久松城、またの名を葦陽(いよう)とも言います。福山城より南には芦田川が
形成した三角州が広がり、現在の市街地の中心部は、葦の茂る干潟だったようです。水野勝成は、
この干潟を干拓し城下町として整備しました。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、
すぐ近くまで船が来ました。現在、入江はなくなりましたが、船町・入船町・天下橋などの地名に当時を
しのぶことができます。

鉄覆山(てっぷくさん):天守閣の北は鉄で覆われている。北面は山並が迫り防御上の弱点とされ
                北面は厚さ3mmの鉄板が最上階を除いて壁面全体に張られていた。

鉄板ばりの天守
城の北側は塀も築かれず防御に弱かったので、
それを補うために天守北側四層までには鉄板が貼り付けられていました。鉄板が貼られていたので黒かった。
江戸城天守における黒塗り銅板貼りの事例だけで、他に類を見ない試みであり工法でありました。

朱雀院(しゅじゃくいん):南の守護神

久松城(ひさまつじょう):「松寿長久」(しょうじゅちょうきゅう)久しく栄える城

鉄の守りをかため朱雀南方を制し久松は松寿長久の意をこめて名づける

元和5年(1619)
7月22日,水野勝成が備後7郡と備中一部10万石に封ぜられる
8月4日,水野勝成が上陸し神辺城に入る

干潟だった芦田川のデルタ地帯。福島正則の支城であった神辺城からの櫓を移築。
第2代将軍徳川秀忠の命により豊臣政権のシンボルだった伏見城からも伏見櫓や本丸御殿を移築。
五層の天守の周辺に配しました。

輪郭式平山城

地階(9×8間)
1階(9×8間)
2階(8×7間)
3階(7×6間)
4階(6×5間)
5階(5×4間)
1層から5層まで1間ずつ逓減していた

この逓減率の低さも福山城天守の大きな特徴で、
天守台の面積は9×8間と近隣の広島城(13×11間)
や岡山城(13×9間)などと比べても半分程度であるにもかかわらず、
最上階は逆に5×4間と広島城(3×3間)・岡山城(3×3間)より大きかった。


本丸に12基の櫓、二の丸、三の丸を合わせると26基の櫓が立ち並んだといいます。

櫓の数が最も多い城郭は広島城で76棟、世界遺産である姫路城が61棟、ついで津山城は60棟。




福山城(17世紀後半)
鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)

福山城は、江戸幕府初代将軍の徳川家康の従兄弟にあたり「鬼日向」の異名を持つ猛将で知られた水野勝成により
築城され、1622年(元和8年)に完成しました。西日本で最初に配置された譜代大名の水野勝成は石高10万石の大名でしたが、
城の規模は30万石に匹敵するおよそ78,000坪(257,400m2)を誇り、「西国鎮衛」としての重要な任務を負った城郭といえます。
福山城の特徴の一つに、櫓(やぐら)の多いことがあります。20数基に及ぶ三重櫓・二重櫓、城郭で最も厳重な防備施設といえる
多聞櫓(城郭の石垣上につくる長屋状の櫓、多門櫓とも記す)が本丸と二之丸の東南部を除くほぼ四周を囲み、その総延長は291間余
(570m)にも及びました。総延長300間近くになる多聞櫓は全国の城郭でもまれな規模であり、10万石の大名の居城としては
破格の巨城であったといわれています。
1873年(明治6年)に廃城し、ほとんどの櫓が取り壊され、さらに1945年(昭和20年)の戦災により天守閣や御湯殿などを焼失しました。
当時の櫓のうち現存するものは、F筋鉄御門(国重要文化財)、G伏見櫓(国重要文化財)、鐘櫓(市重要文化財)です。
@天守閣、D月見櫓、E御湯殿は、1966年(昭和41年)に福山市市制50周年記念事業として外観復元されたものです。
※櫓:城郭の要所に設けられた、防御や物見の役割を担う建物。通常の窓のほか、攻撃用の小さな開口を複数個所に設けてます。

多聞櫓の名称の起こりは、大和国多聞城(たもんやまじょう)において松永久秀(ひさひで)が城門を固める石塁の上にこの様式の櫓
を創始したことによると伝えられている。





歴代藩主               水野氏の沢瀉紋
                     水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから、
                     武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれた。

初代 水野 勝成(1619〜1639)   永禄7年(1564) 
                     三河国(愛知県)の刈谷城主水野忠重の長男として生まれた。
                     徳川家康は従兄弟にあたる。
                     戦場では滅法強いが、大変な乱暴者。
                     若き日、父の金庫番に「俺は嫡子だ。父の物は俺の物。金を出せ」と迫り、「拒んだ金庫番をの首を打ち落とし、
                     出奔。父に勘当され諸国放浪の身となる。一時は家康のいとこなのに禄高わずか一八石の下男に落ちぶれた。
                     正月の祝い膳でも下男は水だけ。勝成は茶を所望したが茶坊主はくれない。
                     「俺ほどの侍に飲食の恥をかかせるな」というと茶坊主はからからと笑い「下男のくせに侍のつもりか」。
                     勝成は茶坊主を一刀両断。また出奔(新井白石『藩翰譜』)。
                     35歳までそんなすさんだ生活の繰り返し。だが時は戦国。豊臣と徳川の抗争が始まった。
                     勝成は家康のもとに馳せ参じ、水野日向守と名乗って、関ヶ原の合戦、大坂の陣で大活躍。
                     「鬼日向」の名は天下にとどろいた。その軍功で備後(福山)10万石の大名となり落ち着いた。
                     子孫に「水野勝成遺書」をのこし自分の武士道を説いた。勝成は「武士には17の恥がある」という。
                     1、主君の命でも受けるべきでない命令は断って去るべき、それをせず、主家に留まる事。
                     1、人の手柄をねたむ事。
                     1、自分の武力の程を知らず、ちょっとした強さを大分強いと勘違いして自慢すること。
                     1、味方が多い所では強気になり味方がいない所では弱気になる事。
                     1、心立ては如何なる大将軍にも恥ずべかざるように。

                     武士の勤務にだけはまじめ。
                     「勤め向きは半時(=1時間)早く出て一時遅く退去と心得て交代すべき事」(『視聴草』)と戒めている。

                     慶安4年(1651)88歳で没し菩提寺である賢忠寺に葬られた。

                     定福寺  


          西町の浄土宗・定福寺(じょうふくじ)には2基の巨大な五輪塔があります。
          いずれも水野勝成の妻を葬った墓で、向かって右側が香源院(こうげんいん)、
          左側が良樹院(りょうじゅいん)の墓です。
          勝成は福山城主になる前、父忠重から勘当され備後・備中各地を流浪していました。
          1597年(慶長2年)備中成羽城主三村家に寄食中、藤井入道斎利直の娘であった
          於登久(おとく)と結ばれ、翌年には勝俊が誕生します。
          その2年後、父忠重が石田光成一派の加々野江弥八郎に殺されたため、妻子を備中に残し
          父の遺領である三河国刈谷に帰り後を継ぎます。
          勝成は大和郡山から福山へ移り、勝俊は於登久とともに鞆館(ともやかた)へ入ります。
          参勤交代制により、於登久は江戸住まいとなり、1647年(正保4年)に大坂で死去します。
          勝俊は母の遺骨を引き取って、香源院として定福寺に手厚く葬りました。
          一方、勝成は別に於珊(おさん)を妻に迎えます。備中成羽城主三村家親(いえちか)の
          娘であり、生前歯痛に悩まされたようで、晩年「後世歯を病むものあれば、我墓に祈るべし」
          と言い残し、歯痛の神とあがめられたといいます。於珊は於登久より13年も早い1634年(寛永11年)
          に死没し、良樹院とおくりなさました。

          2018/7月18日水曜 NHK総合1午後10時25分〜 午後11時10分
          歴史秘話ヒストリア戦国ラストサムライ 絶対曲げない水野勝成
          徳川家康のいとこにして知られざる戦国武士 水野勝成(みずの・かつなり)。
          戦場ではいつも「一番やり」の猛将だった。勝成が生きたのは、乱世から太平へ時代が激動しつつあったころ。
          勝成の人生も、家を追い出されたり、放浪したり、大名になったりとまさに激動。しかし、世のしくみが、価値観が変わろうとも、
          勝成は決して己を曲げなかった。よわい70を過ぎてなお戦場に出た「戦国ラストサムライ」をご紹介。

          戦国ラストサムライ水野勝成 これぞ男の生きる道徳川家康の22歳下のいとこ・水野勝成(みずの・かつなり)
          初陣の武田家との戦いから「島原の乱」まで生涯合戦にあけくれた戦国ラストサムライその剛情だが、

          戦国ラストサムライ 最後の戦場(ステージ)へ
          江戸幕府によって戦国の幕は下ろされ、勝成はあらたに福山(広島県)10万石の大名に封ぜられます。
          いくさ一点張りの勝成と思いきや、福山では「名君」としての顔も。しかし「戦い」はまだ勝成を離しませんでした。
          大坂の陣からも20年がたち勝成も70歳を過ぎたころ「島原の乱」が起こります――。

          しなやかで誇り高き生き方に迫ります。
          【井上あさひ】絶対曲げない水野勝成


2代      勝俊(1639〜1655)
                 
妙政寺は福山城の築城で残った木材を使用して建立され境内には2代目藩主水野勝俊が祀ってある
                   勝俊の娘万寿が病になった際にこの寺院で祈祷を行ったことから菩提寺となった

3代      勝貞(1655〜1662)
4代      勝種(1662〜1697)
5代      勝岑(1697〜1698)・・兄6人が全員早世したため、数え1歳で藩主となるが、翌年急死し、福山藩は改易。

       国史跡 摂津 郡山宿本陣の宿帳にあります。
       元禄11年8月6日に別所孫右衛門が備後福山城請取目付の為に宿泊し、青山播磨守が同年8月21日に
       福山城へ御上使として行った帰りに泊っているのも、大名淘汰の例で、この時は水野松之丞勝岑
       福山101,000石を嗣子無しとの理由で淘汰されたのである。  しし【嗣子】家のあとを継ぐ子。あとつぎ。


初代 松平 忠雅(1700〜1710) ・・松平清照の長男。父が病弱なため、祖父松平忠弘の跡を継いで1692(元禄5)年、
                     出羽山形藩(山形市)10万石の城主となる。1700(元禄13)年、山形より福山へ移封。
                     1710(宝永7)年には伊勢桑名藩主に転じた。
                     違い鷹の羽紋
                    鷹の羽(たかのは)は、猛禽類である鷹の羽根のことで、
                    日本の和弓に用いられる矢の矢羽根(やばね)の材料である。
                    鷹の羽紋の例(丸に違い鷹の羽)
初代 阿部 正邦(1711〜1715)・・武蔵国岩槻藩阿部3代藩主阿部定高の2男。福山藩入封の翌1711(正徳元)年福山入り。
2代      正福(1716〜1748)
3代      正右(1749〜1769)
4代      正倫(1770〜1803)
5代      正精(1804〜1826)
6代      正寧(1827〜1836)
7代      正弘(1837〜1857)・・25歳で江戸幕府の老中となり、27歳で老中首座に就任。第12代将軍徳川家慶、13代将軍徳川家定
                    治世の幕末動乱期、幕政を統括して「安政の改革」断行した。攘夷派と開国派の綱引きに翻弄される
                    中、老中在任のまま急死、39歳だった。
                    大河ドラマ 「西郷どん」 老中首座 阿部正弘(藤木直人) 
                    大河ドラマ 「篤姫」    老中首座 阿部正弘(草刈正雄)

阿部正弘上屋敷跡 新丸ビルです。





8代      正教(1858〜1861)
9代      正方(1862〜1868) 上下宿専教寺 で慶応元年(1865)12月11日本陣を置き一泊した。
10代      正垣(1869〜

2002年度秋季特別展「水野氏五代展」―築城380周年記念―

福山城博物館へ行きました。

福山藩の国境 訪ね歩き       城下町を水害から守る   鞆道     「久松用水」訪ね歩く

水野藩と宮本武蔵   笠岡道  尾道道・九州道  千田街道・上方へ  藪路道・石州道

幕末の福山の史跡を訪ねて 備後福山藩の干拓   登録有形文化財(佐波浄水場跡地)の一般開放

ふくやま歴史まつり 第1回   城下町「福山」の旧町名を訪ねて

  福山城の規模(マツダスタジアムの11.1
  坪  m2 
本丸   2,624  8,659.2
二之丸   8,809  29,069.7
三之丸  31,931  105,372.3
小丸山  7,180  23,694.0
内堀   3,259  10,754.7
外堀  20,163  66,537.9
沼(小丸山裏)   3,500  11,550.0
 合計  77,466  255,637.8

マツダスタジアム 建築面積:22,964m2

姫路城敷地
内堀以内の面積は約23ha(23万平方メートル)約7万坪
外堀以内の面積は約233ha(233万平方メートル)約70万坪



水野家断絶時における所領分割
阿部時代は分割され、阿部藩(10万石)・肥後中津藩(2万石)・天領(3万石)




桜さく日本に生まれ男かな
巌谷小波(いわやさざなみ)の句碑

月見櫓南下の二の丸に建てられており、
桜満開で賑わう福山城を詠んだものです。

児童文学の大家。児童文学の開拓者
として業績を残しています
この句碑がある二の丸一帯は、そこに
屋敷を構えていた田中八九郎
(福山製紙創業者)が、大正時代に入り
桜木を植え始め市内でも有名な桜の名所
となりました。

 2011年4月9日(土) 満開です。

3・11大震災で自粛ムード。
ボンボリなし照明は白熱電灯だけ






 
08/10/26(日)
福山菊花展覧会(10・25〜11・15)
子どもと一緒に久しぶりに天守閣から城下を視察

09/11/7(土)
従兄弟が来福し菊花展へ 又 当たりました。
半券を持って抽選・・小型菊を当たりました。

  

2002年度秋季特別展「水野氏五代展」
―築城380周年記念―

元和8年(1622)8月 3年の歳月をかけて完成

京都・伏見城から海路・陸路を利用して建物移築
伏見三層櫓・月見櫓・御殿・御風呂屋
・大手門・渡櫓・塀180間。

福山城の本丸・・・西側の備えを最も強固にした
西側の脅威に備えた城、西側に三重櫓四、
二重櫓五の計7棟の櫓が並び上段では櫓の間は
全て堅固な渡櫓とされている。

神辺城から多くの櫓移築された。

外堀・内掘を巡らして満潮時海水を入れ 
干潮時には芦田川の水を引き入れていつも満水とした。

福島正則は土地の結びつきのない大名。
徳川氏に協力的な態度をとっていたきた福島氏も出身は
豊臣秀吉の子飼いの外様です。広島城無断修築の口実の
もとに元和五年(1619)改易に処せられ、信濃国川中島で
四万五千石の大名として、身は高井野村に蟄居となり淋しく
安芸備後を去っていきました。領地を安芸と備後に分けて、
安芸と備北・備西の浅野氏、備南十万石に水野勝成を転封
せしめています。
一国一城で城を壊してまでいた時に新しい福山城を建てさせる
ことなど異例なことであります。神辺城は山陽道の上にそびえ
ていますが、海路にほど遠く瀬戸内海の守りに不向きでした。

現在の場所に新城を建てる事になるので伏見城建築の一部を
移築させ年貢を援助しての大建築工事となったのです。

山陽道(神辺城)と瀬戸内海水路(鞆城)に偏っていてその両方
の要地として現在の福山城が選ばれた、軍事的な要衝であった。

城郭の適地選定
神辺城に代えて品治郡桜山、沼隈郡箕島、深津郡野上村常興寺山
の三カ所が候補地に挙げられた。宮内(新市町)桜山は北に偏り、
箕島は内陸から離れた小島でいずれも不適となった。

天守閣から東方面  

総面積(26.5ha)約八万坪

 



安芸の浅野氏が豊臣秀吉の正室北の政所の出た家、
岡山の池田が外様の雄であってみれば両大藩の間に
布置された水野は 「西国の鎮衙」たる任務であった。 

城郭」と「陣屋」の
相違はどこにあるでしょうか

双方とも有するものは堀です
享保2年(1717)の『武家諸法度』には、
「城主は石塁・石壁の壊れたときは奉行所に達し、
その指図を受ける。
櫓・塀・門以下は(届許可の上)先規のごとき補修してよい」
とあり、塀と櫓が城郭と陣屋を分かつものだということが
分ります。
つまり石垣の上に塀と櫓があれば
それは

なければまず
陣屋といっていいのです

近世以前の豪族、そして戦国大名は実力に
ふさわしい拠点に城郭をもち、それを
本城として領内の要害・要点に小城、出城を築いて
武将たちを配置しました。
徳川政権が確立し、泰平の世となりますと、
全国大小の城郭はかえって天下の
不安の材料に変じます。元和元年(1615)幕府は世に言う
「一国一城」を発し
原則として主城以外は廃城にしています。
大名とは「五万石以上にして一城の主」と
定義していたように読めなくもない。
一万石以上五万石未満の、城をもたない
陣屋クラスの者は、場合によって「小名」
と記すこともあります。
・1石=10斗=100升=1000合
・1人の役扶持米は1日5合、1年で約1.8石。1石(=1000合)
 で200日分
・米1俵は3斗7升(幕府の公定値)、1石=約2.7表、
 役料200俵は約74石文
・金貨1両=4分=16朱。御四季施代24両2分は、1石=1両
 とすると24.5石分
 福山城鐘櫓  
近世城郭では唯一本丸内にある鐘櫓である。当時は鐘撞堂と
呼ばれていたようだ。鳴鐘時刻は、6時・12時・18時・22時と
なっている。
 

 福山城伏見櫓 見学会 05/11/12(土)
2007年5月12日(土)  福山城外堀(福山駅前)発掘調査現地説明会   
2008年4月19日(土)     同上   第2次発掘調査 現地見学会  
2009年5月10日(日)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第3次発掘調査 現地説明会 
2009年10月4日(日)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第3‐2次発掘調査 現地見学会
2009年11月21日(土)  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第4次発掘調査 現地見学会 
 筋鉄御門(重要文化財)
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付、櫓門、福山城本丸
の正面で福山築城に際して、伏見城から移建した
ものといわれている。柱の角に筋鉄を施し、
扉に数十本の筋鉄をうちつけいるためその名が
生まれたものである。左に渡櫓、右に多門を連接
さしたもので、後代の枡型多門の型をとらない
初期様式のものである。
 

 湯殿
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と
風呂の間とにわかれていた。
伏見城から移した建物で以前は国宝指定。

明治時代になると清風楼という料亭に転用された

井伏鱒二 「黒い雨」より抜粋
福山城も空襲されたそうだ。五層の天守閣は三層目の窓から
焼夷弾が入って燃えあがり大きな火柱を挙げて崩れ落ちた。
京都の伏見城から移して来た淀君の湯殿櫓も焼けそれに続く
涼廊も月見櫓も焼け石崖も白っぽく焼けただれている。
残ったのは伏見櫓という三層の櫓とくろがね御門という城門
だけである。
 

 月見櫓

本来は着く人見る「着見櫓」
入江からやってくる人を見るの意味。
藩主等の到着を見極める役割をしていた。
昭和41年天守閣とともに復元された。
   黄金水:黄金と同じくらい貴重で枯れない
本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸に
は4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に2ヶ所あった
といわれる。城郭における井戸はその城の良否
あるいは戦闘の際の生命をささえるものとして
重用視され、この黄金水は渇水時にも水をたたえた
すばらしい井戸であった。
 



 幕末の福山の史跡を訪ねて 2010/04/03(土)
 幕末の福山をたずねて   2015/3/15(日)
先人の森小丸山
福山の発展にかかわった3人をたたえる碑がある
1.福山藩の開祖水野勝成の功績をたたえた「水野勝成寿碑
2.阿部正弘を補佐して幕末の教育改革など励んだ江木鰐水
をたたえた「鰐水江木先生碑
3.1869(明治2)年に西洋医学の学校兼病院の建設に当たった
寺地舟里をたたえる「舟里寺地先生之碑」があります。
明治維新 長州軍の攻撃をうけた
福山藩の動向を決した歴史的な丘である
北の防御は 弱点であった。
慶応3年正月9日の未明、
長州兵が福山城を攻撃開始。
福山藩儒で執政職に就いた
関藤藤陰(せきとうとういん)は
「大義滅親論(たいぎめっしんろん)」を唱え藩論を統一した
うえで長州との和議を成立させ、福山城下を戦火から救った。
三吉町の市民図書館跡地にある「藤陰関藤先生碑」は
1982年にこうした功績をたたえ建てられました。
碑文は盟友だった阪谷朗廬(さかたにろうろ)1822-1881
が書いた「吉備之国第一流ノ人」文字が刻まれています。

九代藩主阿部正方は慶応2年6月3日
益田に入り
遠征中に脚気を患い帰城し、
11月22日、福山城で卒去します。
20歳でした。後嗣(こうし)がないため
幕府へは喪を隠して天守閣西北の
「小丸山」の竹薮に仮埋葬をします。
正方の墓は明治2年(1869)10月になって
本庄村小阪山(北本庄三丁目)に改葬され、
神道墓の清楚な墓域が造られた。
廃藩置県に伴い阿部家は東京に移住。
墓地の管理・祭祀は本庄村の田圃一町五反歩を墓田とします。
ここから得られる利益をもって永く祭祀の費用に充てられる
こととし、 関藤藤陰の撰文になる「小阪山墓田碑
が建てられました。この碑は本庄八幡神社参道上り口に
建てられていましたが、現在は本庄交番の北西側、
四つ堂の隣りに移設してあります。
 

 旧内藤家長屋門
役人の藩邸
身分・格式によって門構えは異なる。200石以上の武士は、
門の両袖が長屋になっている長屋門に住んでいた。

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