神辺城跡 登城 2007/1/9(火) 広島県福山市神辺町
神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北戦争争乱)で戦功をあげた朝山景連(かげつら)が
備後国守護職に任じられ、建武二(1335)年築城したと伝えられています。
以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・
渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
戦国時代になると、ふもとにあった杉原氏の居館周辺には家臣団が屋敷を構えて常駐するようになります。
最初に神辺合戦のあった1544(天文13)年に毛利元就が部下の功績を褒めるために出した感謝状には
「固屋口の合戦」という言葉が出てきます。現在の県立神辺高等学校周辺は地元では「こやの内」と呼ばれており、
この辺りにあった武家屋敷を中心に激しい戦いが行われたでしょう。
戦国時代には杉原理興(ただおき)・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、
江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。
元和五(1619)年の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築された
といわれています。実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。
『神辺城跡案内板』より
戦国時代になると大内・尼子両氏によって中国地方を巡る覇権争いが起こり、天文7年(1538)に山手銀山城主
杉原理興(ただおき)(大内氏方)が神辺城(尼子氏方)を攻撃し、山名氏を名乗って城主となります。
杉原盛重 は山手銀山城から入城。
08/04/06(日) 登城しました、桜 開花を楽しみました
丁谷(ようろだに)梅林 「茶山山陽餞飲之所」石標が立つ 茶山と山陽が梅の香が漂うなか、ともに詩を読み 酒杯を交わして別れを惜しんだ場所。 1824(文政7年)12月頼山陽が77歳になった茶山の 神辺小学校から東へ約800mのふもとに広がっている |
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神辺城跡 神辺平野を一望することができる場所に築かれた 神辺城跡は、室町時代初め頃に築かれた山城(まじ)で、 山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25箇所確認されて います。郭(る)には建物や土塀が建てられ、 城を守るために造られた石垣や空堀(らぼ)、 井戸の跡も残っています。 神辺城の遺構 神辺城の建物を移築した。 明王院書院・庫裏にあります 大手門:実相寺の門 搦手門:妙蓮寺の門 惣門:大念寺の門 |
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08/04/06(日)
二之丸跡の桜 |
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二之丸跡
昭和51年(1976)に行われた公園整備に伴う発掘調査では、 |
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08/04/06(日)
本丸跡の桜 |
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本丸跡 山城は戦(くさ)の時に立て籠(こ)もる施設で、 城主は日常は麓(ふもと)の平地に館(やかた)を造って 住んでいました。以後、江戸時代の初めまで 約300年間にわたって備後地方南部の拠点として威光を 誇っていました。 にほん縦断こころ旅 放送日:2017年4月18日(火)617日目 岡山県井原市 岡山の旅は満開の桜 神辺城跡から手紙を読み 井原市 明治という里へ |
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中世備後国の守護城として黄葉山(こうようざん)に築かれた。 吉野山公園として四季を通じて多くの人々に親しまれています。 神辺平野を一望 石鎚山(いしづちさん)273m 中津原方面には芦田川河川敷も見えます
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神辺平野を一望
フジグラン・平成大学 |
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神辺平野を一望 尖がった右側の山 福山で一番高い山蛇円山(545.8m) 御幸町・駅家町・新市町方面 古代山陽道(御調−府中−神辺−井原) ・西国街道(井原−神辺−今津−尾道) を見通す絶好の場所です。 旧道と新道の分かれ道の上に城をかまえること 「道の上城」 備後の政治的中心地。 神辺城はその雄姿を誇示した。 |
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神辺本陣・廉塾 見えます。 | |
08/04/06(日) 吉野山公園の桜 |
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神辺歴史民俗資料館あります | |
神辺駅
後方に神辺城跡見る |
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城下町から当別豊姫神社の参道
神辺城跡 天明の福山百姓一揆(1781)の際、 |
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麓には
当別豊姫神社 社殿造営のため石垣として利用され |
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廉塾から神辺城跡見る | |
本陣のいかめしく建つ 三階の望楼をいただく居室も珍しい 望楼と神辺城跡見る |
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神辺城下町遺跡 戦国時代の城下町 (小屋)遺跡から神辺城跡見る 06年10月「こやの内」の発掘調査では、戦国時代から江戸時代初め にかけて掘られた幅4m・深さ1m程の堀が発見されました。堀の中から は瓦類や中国製の白磁・青磁椀などが出土しています。また、 直径1.5m程の丸い穴の中から焼けた瓦や陶磁器類が多量に出土して おり、戦の火災処理のために掘られたものと考えられます。この堀は、 城主居館のものと較べるとやや小規模なことから有力家臣の屋敷を 取り囲んでいた堀と考えられますが、神辺城下町もこの頃から次第に 戦国時代の城下町として形を整えていったことがわかります。また、 福島正則の筆頭家老であった福島正澄(まさずみ)が神辺城代を勤めた 江戸時代の初めには、この堀も掘りなおされ、城下町の整備はいっそう 進んでいくようです。 |
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要害山(95.9m)から神辺城跡見る | |
要害山から神辺平野(穴の海)と石鎚山 | |
城下を視察
なまこ壁の酒屋
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神辺城下町(小屋)遺跡 発掘調査 06年10月 現在の広島県立神辺高等学校のあたりは 古屋(こや)と呼ばれ、 城主の館を中心に武士の屋敷が あったと考えられています。 |
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城下町 | |
本陣 札の間 大名が宿泊・休泊時に前入りした者が持参した関札 を西惣門跡(神辺駅前 中国銀行付近)掲げました。 |
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本陣
御成りの間 殿が寝る2畳は鉄板を敷いた 本陣でロケーション忍者物語「あずみ」 |
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本陣
二の間 玄関から 三の間へ |
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本陣
物見櫓 大名行列がいち早く見える。 |
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本陣北側 休泊大名の緊急避難所として
仏見山万念寺が指定された |
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古い家 | |
外堀があったところ
寛文13年(1673)に外堀は埋められた |
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作り酒屋 小早川文吾旧宅 医者の次男として生まれ、廉塾で菅茶山に学び、後に塾を開きました。 いくつかの文字を合成して作字する事で有名で、日本に立派な国である と賛嘆(さんたん)して作った「アカクニ・アカヒト」があります。 |
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茶山饅頭 | |
廉塾跡 | |
山茶花 咲いていました。 |