岡山 足守(あしもり)町並み ぶらり散策 岡山市足守 2007/2/4(日) 立春
6時間 108km ドライブ。
足守には江戸時代、豊臣秀吉の正室北政所の兄にあたる木下家定が足守藩をつくり木下家代々の
藩主によって、陣屋町として栄えてきました。
関ヶ原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護し中立を
採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。
ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったが、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって
藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。
「城郭」と「陣屋」の相違はどこにあるでしょうか。
双方とも有するものは堀です。
享保2年(1717)の『武家諸法度』には、
「城主は石塁・石壁の壊れたときは奉行所に達し、その指図を受ける。
櫓・塀・門以下は(届許可の上)先規のごとき補修してよい」
とあり、塀と櫓が城郭と陣屋を分かつものだということが分ります。
つまり石垣の上に塀と櫓があればそれは城、なければまず陣屋といっていいのです。
近世以前の豪族、そして戦国大名は実力にふさわしい拠点に城郭をもち、それを
本城として領内の要害・要点に小城、出城を築いて武将たちを配置しました。
徳川政権が確立し、泰平の世となりますと、全国大小の城郭はかえって天下の
不安の材料に変じます。元和元年(1615)幕府は世に言う「一国一城」を発し
原則として主城以外は廃城にしています。
大名とは「五万石以上にして一城の主」と定義していたように読めなくもない。
一万石以上五万石未満の、城をもたない陣屋クラスの者は、場合によって「小名」
と記すこともあります。
11時15分
駐車場 13時30分 遠い昔の暮らしを想いながらのんびりそぞろ歩き。 |
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足守商家藤田千年治邸 | |
内部は往時の醤油工場の様子再現。 | |
足守藩侍屋敷 | |
足守藩侍屋敷
一の間 |
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木下家陣屋跡 | |
木下利玄「1886(明治19〜1925(大正14)」 生家 14代当主。5歳で上京。学習院等で勉学に励む かたわら、歌に道へも精進を続け、 のちには武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌 「白樺」を発刊。明治・大正・の文学史におおきな 足跡を残しました。 |
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近水園
吟風閣 |
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吟風閣から
園内の池泉に浮かぶ鶴島と亀島は、 |
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吟風閣 | |
大光寺 山門 | |
大光寺
足守藩主木下家の菩提寺で、藩主の遺筆など貴重な |
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足守小学校 マラソン大会していた。 旧木下権之助屋敷表門 |
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足守歴史庭園 | |
緒方洪庵「1810(文化17)〜1863(文久3)」 誕生地 江戸で蘭学を学び、のちに蘭学塾「適塾」を開きました。 ここには、日本における西洋医学普及の基礎を築き、 幕末・維新のリーダーたちを育てた。 碑と像が建立されています。 |