福山城下 尾道街道を歩く  2006/8/30(水) 広島県福山市

木綿橋(新橋)が近在隣国への道程の原点となった。8/31 オール電化工事。


木綿橋(新橋)から南下して国道2号を船町から昭和町を渡り南本通りを西に曲がるのが尾道街道である。

木綿橋(新橋)〜尾道街道〜津之郷の道標(西国街道)
行程

木綿橋(新橋)→九州道起点→昭和町(南町)→霞町(誠之館跡)→地吹(荒神社)→

泉龍寺→古野上町→神島橋→西神島神社→津之郷→西国街道

A木綿橋(新橋) 城下町の船着き場として栄えた。

両側は北浜、南浜と呼ばれた繁華街が開けていた。

江戸時代、福山城の外堀と瀬戸内海をつなぐ入り江だった。

備後がすりの材料となる木綿の市が開かれ、賑わっていた。

入り江は埋立で1938年(昭和13)までに橋は消滅。

 

二上り踊り
2006年5月  岡本誠
をどり子の
手の舞あしの
ふむ月や
四方にもひびく
京竹のおと


三好 西
@道標

城下の道しるべ
萬延元年(1860)に建設された

「左九州道 尾のみち5里、三はら8里、とも港3里」 
「右上方道 かさおか3里、玉しま8里、をか山16里」 
尾道道・笠岡道の起点。

 

中央公園は藩校 誠之館跡 
中央公園の一隅の生垣の間にあったが
工事中で移動され片隅にありました。

B中央公園は藩校 誠之館跡

「霞町追分の道標」
道標「左 トモツ道」「右 ヲノミチ道」

 

2011年(平成22年)安住の地に設置
霞町の道しるべ 
A庚申堂 野上町1丁目
「井上味噌醸造」道路沿いにあります。
A「庚申道」
殿様が御参拝され通られた道。
江戸時代の大手門に通じた道。
井上味噌醸造で販売

府中みそ「鞆の浦」

C霞町は東西に長い町 福山でも一番長い町

昔は本通りと共に繁栄を競った町であった。

福山市霞町1−3−14(ローズナード霞)
白楽(ハクラク)
飲食店(寿司、天ぷら)創業34年
05/7/30  Mさん送別の集い

 

福山以西・以南の町村の人々は唯一の道路である
霞町を通らねばならなかった。

福山で古い、日本料理店 加寿美荘。 

 

泉龍寺

 

境内に大きな杉の神木があったことから
南一帯「大杉」と呼びました

霞町十字路を北に50m

野上八幡 の跡地は現在はない
福山八幡宮の西側石段下に
一対の石灯籠がある

「奉寄進石燈炉 深津郡野上村八幡宮 
天和三年 水野勝種」刻んである 見にくい。

地域は古宮町と呼ばれている
野上八幡神社(西の宮)は延広八幡神社(東の宮)
と合併し福山八幡宮

道標「左 トモツ道」「右 ヲノミチ道」 
2人の発起人の名前 
森本某 井上角五郎
霞町十字路を左折すると
水呑・鞆・山南・千年へ

C霞町十字路 

西に行くと今津・尾道へ。
池の淵を通って神島橋に至る。

人柱お米(よね)の伝説
元和6年(1620)水野勝成公 福山築城の時、
造成の町割として本庄(池淵)野上村の芦田川の護岸を堅固
にして2つの流れの三角州へ城下町を造りました。
この護岸工事はよほどの難事業であったらしく本庄(池淵)から
古野上に至る間の築提では、お米という女性を人柱に立て
工事を完成させたという伝説があります。
その場所は青竜が淵あるいは米が沖と呼んだ処で
旧陸軍水源地の塔の南方付近と考えられます。
古野上町 福寿会老人クラブ
2006年になかった西霞町追分の道標
霞町4丁目交差点の電柱の麓にあります

 2011年(平成22年)安住の地に設置
D古野上町の水道局東側にある
第八十八番 医王山 大窪寺

福山城築城をなした水野勝成が築城予定地の
常興寺山山麓に住居していた住民を
移転させ換地として与えた最初の城下町

2号線できるまで 古野上町通り 
尾道方面の主要道路

陸軍水源地跡
明治29年7月20日(1896年)岡山17師団所属連隊として福山へ
歩兵第41連隊が移転してから軍用水道として古野上町に
芦田川伏流水を水源として地吹町、野上町、光南町を経て
御門町の連隊まで100mm鉄管1350mを布設して
軍用水の確保を行っていました。

E神島橋の長さは130間(234m)だが水野時代は渡し船である。

渡し船を渡った対岸に西神島町であり、ここが鎌倉から
室町にかけて繁昌した草戸千軒町のあとを受けた港町
古神島である

神島橋(大正初期)当時は現在の橋の東詰より川下、
西詰は西神島町に直結していた。

大正の終わり頃にはコンクリート橋に改築された。

赤い社は草戸稲荷神社見えます
芦田川は神島橋の下流で二つに分かれ
今は廃川になった

福山大水害と古野上
大正8年7月5日(1919年)午前5時30分上流から、
わらぶきの家が流れて来て、古野上堤防にかかっていた
鞆鉄道の木橋の西端にひっかり、激流はこれにさえぎられて
左岸に突き当り、水を含んでもろくなっていた堤防は
ひとたまりもなく突破され、いったんくずれた口はみるみる
上流へ拡大し長さ200mにわたって決壊、
濁流はどっと町中にあふれ出たのです。
(市内の被害)
死者 男性6人 女性11人 計17人

流失家屋 101戸 全壊家屋24戸 半壊家屋97戸 
床上浸水 3423戸 床下浸水1261戸
霞小学校 
大正8年7月の芦田川堤防決壊により運ばれた

多量の砂で埋まった水田の跡地に建てられた。

@決壊場所 草戸町2丁目 三叉路
御題目石
@鞆軽便鉄道の軌道跡

狭く湾曲した道路になっている

艮(うしとら)の鼻から池の淵、野上、五本松にいたる 
野上堤防(約2700m)元和8年(1622)ころ完成
野上堤防跡はバス路線の通りです。

元和9年(1623)ころ 「野上新漄」築成した

@鞆軽便鉄道の軌道橋あった 「古野上南」交差点

第八十五番 五剣山 八栗寺

二基の力士の墓がある
「時津浪寉之助墓 明治二己巳八月二十五没」
「浦の松利太郎墓 明治二十八年旧五月二十二日死」

F西神島神社  万葉歌碑
天平8年(736年)遣新羅使(けんしらぎし)が読んだ歌
当時はここから山手や津之郷辺りまで湾入しており、
この丘陵は海上に浮かぶ小山。
ここで停泊して潮待ちしていた新羅へ向かう船が、
月明かりのなか、引き潮に乗って船出していく様子を歌っている

月よみの 光を清み 神島の 磯廻の浦ゆ 船出すわれは

(つくよみの ひかりをきよみ かみしまの いそまのうらゆ 
ふなですわれは)
F西神島神社

神功皇后の御船が寄泊されたという伝承から
「かむしま」と呼ばれ後に「神島(かしま)」という
村名がつけられました。
元和(1615−1623)の頃までは八反帆船など出入りし
港町として栄えていたといわれます。

「福山志料」には
「古くは草戸や水呑あたりまで神島といわれた」

G瀬戸川
ふくやまラヂオ博物館
岡本館長が死去された為、閉館しました。

近大附属福山高・中学校

を見ながら行きます。

 

H津之郷 小森の地神

近くに
健康ウォーキングロード 案内板。
2.5km 法性寺〜加屋川〜小森コース

 

西国街道につながります

角に小林酒店、 06年12月移転 南へ100m。

福山の名水で作った純米吟醸「弘法清水仕込み」

 

07/6/2(土) 津之郷の道標

07/6/2(土) 四差路 御影石で保護。

  

I津之郷の道標  右 ふく山道  左 大坂道

大きい石柱 「神辺2里30丁」「福山1里8丁」「矢掛8里30丁」
刻んであります。

倉庫の中にありました。

酒屋のあるじ
「来年(07年)春に、本来の位置にあった所に建てます」
「道標 今から300年前の作と聞いている」

 

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