西国街道ぶらり旅 櫛ヶ浜(くしがはま)から新南陽まで
08/09/20(土) 山口県周南市
雨天で2回延期になり6ヶ月ぶりのぶらり旅です。52人の旅人。
30℃超える 残暑が厳しい ペットボトルとアイスクリームでのりきる
行程
10時15分 JR櫛ヶ浜駅出発→西国街道(桜木交差点)→早乙女坂→遠石八幡宮→影向石(えいこういわ)→
念仏坂と一里塚跡→さすりぼとけの碑→徳山藩主歴代の墓(大成寺)→徳山城下町→
浦山一里塚跡→川崎観音堂→音羽橋(川崎橋)→政所(まんどころ)→15時51分 JR新南陽駅上り乗車
秋の交通安全運動は 21日から30日
高速道路 相乗りで櫛ヶ浜まで一緒に行きました
カビが生えるなど事故米の転用問題・中国の牛乳メラニン検出 汚染食品国内に流通か
食の安全どうなってる。
徳山藩
中世のころ、徳山地方は「野上の庄」と呼ばれ、陶家の重臣野上氏が領していた。
弘治元年(1555)陶晴賢の滅亡により「野上庄」は杉元相(もとすけ)の所領となった。
大内一族であった杉元相は、はじめ陶晴賢に従っていたが毛利方に恭順しその家臣となった。
元相の所領を継いだ長男の杉元宣(もとのぶ)は、毛利輝元に仕えて軍功をたてたが、
天正17年(1589)徳山沖で横死し、その子孫も没落した。
毛利輝元は杉元宣の妻を側室とし、後に萩藩主となる長男秀就、徳山藩主となる次男就隆(なりたか)をもうけた。
元和3年(1617)に次男就隆は都濃郡(つのぐん)3万石を分知され、はじめ居館を下松においたが、
慶安3年(1650)に野上に移転して徳山と改めた。就隆は輝元が50歳を過ぎての末子で溺愛され、
長じても手元に置かれていたため、自由奔放、甘えん坊で何かと萩本藩とのいざこざが多かった。
毛利藩は支藩として、長府毛利氏、徳山毛利氏、岩国吉川氏(藩として認知されず)を置いていたが、
その後も本藩と徳山藩のいざこざは続いた。徳山三代藩主元次(就隆の四男)の時、
本藩との間に松ノ木の盗伐事件から領界の論争が生じ、それが端著となり徳山藩は改易にまで発展した。
正徳6年(1716)萩藩主毛利吉元が徳山藩主元次の隠退を幕府に請願し、徳山藩は改易、その所領は萩本藩
に還付し、藩主元次は出羽国新庄藩にお預けという厳しい処分となった。その後、
家臣の奈古屋里人(なごや さとんど)等の奔走により4年後ようやく徳山藩として再興された。
早乙女坂(さおとめさか) JR櫛ヶ浜駅から旧2号線の桜木交差点へ。
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洪鐘(こうしょう) 二の鳥居付近の鐘楼には洪鐘(こうしょう)一口が 保管されている。元暦元年(1184)、源平合戦の際、 平家を追って山陽道を西下してきた源範頼が遠石(といし) 庄で平氏方と武力衝突した。 この時遠石八幡宮の洪鐘が流れ矢によって破損し、 後に鎌倉末期になって鋳直したものと思われる。 元応2年(1320)12月2日の銘がある。 |
旅人全員の写真撮影しました 遠石(といし)八幡宮 推古天皇の時代に宇佐八幡宮の分霊を祀り、 和銅元年(708)の社殿を造営した。 江戸時代は徳山毛利家の氏神として代々敬われた。 祭礼には瀬戸内海の島々からも参拝者が訪れ、 市や芝居小屋も立ち賑わった。
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早乙女(さおとめ)の碑 |
遠石は山陽道の宿場町で約百軒の民家が軒を 連ねていた。 街道の面影 老舗の福原醤油 「遠石の名水」は工事中給水は何時から |
影向岩(えいこういわ) 遠石八幡宮を出て、西に進むと右側に大きな岩が 置かれている。説明文には「推古天皇30年(622)春の夜、 豊前より宇佐八幡大神が神馬に跨り此の地の磯浜に 降臨された。その時神風静まり光明と伴に忽然と現れた 大石に降り立たれ、吾は八幡大神なり、この地に跡を 垂れて国民を守らんため、今ここに現れる。嗚呼遠し」と 神託されたとある。 この石が遠石の地名の由来といわれる。 石の上には蹄の跡が残っているといわれている。 |
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念仏坂と一里塚跡
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さすりぼとけの碑 道路の分岐点の安全地帯にさすり仏の碑がある。 仏の由来は、江戸時代に毛利氏を探っていた隠密を 藩士が見つけて殺したので、村人がそのあたりを恐れて 墓を作ったものだとという。行き倒れ人の墓だともいわれ 諸説があるが、その後、通りかかった旅人が 石をさすったら、脚の疲れが治って評判になった。 難病を避ける力があるとの噂が流れ、大勢の訪れたため、 徳山藩は昼夜番人を置いて警備したとのことである。 |
毛利家紋 萩本藩 徳山藩 長府藩 清末藩 |
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徳山藩の歴史解説 聞きました。
徳山藩主の墓(大成寺) |
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初代の就隆から徳山毛利9代元蕃 一族の墓 |
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大成寺
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国司親相(くにしちかすけ)幽閉賜剣之地
御弓丁公園(澄泉寺跡)で昼食 手形は「影向岩」イメージした押印して貰いました
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東川沿いには桜並木 東川緑地公園から街道へ
JR徳山駅 しばし休憩 水分補給 冷たい抹茶のソフトクリーム 本陣跡は駅前近くにあった 大正時代まであった 駅から450m北西移転した |
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徳山城下町 寛永15年(1638)初代徳山藩主毛利就隆(なりたか)は、 初め居館を下松においたが、慶安2年(1650)に野上村 に移しこの地を徳山と命名した。 旧山陽道と海浜を南に臨む金剛山の山麓の高台に館を 建てた。城の構えはなく「御館」といったが、天保7年(1836) に城主格を認可され、御邸「御城」と呼ぶようになった。 桜馬場から北に家中藩士の屋敷割りを行い、桜馬場から 南に町屋敷を置いた。徳山毛利4万石の城下町である。 旧山陽道は南の本町筋を東西に通り、現在の徳山駅周辺 に御茶屋や目代所、高札場が置かれていた。 野上町 「清水旅館」はかつて本陣を兼ねた御茶屋だった |
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浦山一里塚跡 新幹線のトンネルの横から延びる旧山陽道は、 周南バイパス(国道2号線)と旧2号線にはさまれた 6m幅の生活道となっている。 この街道一帯に街道松が立ち並び風致を添えていたが、 今は民家の石垣に枯根が残るのみである。 このあたりに小瀬川から12里にあたる一里塚があった。
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枯れた街道松の根が残る | |
川崎観音堂 「当国十八番 影清護身観音」の道標から右に折れ、 バイパスをくぐり観音堂に登る。 屋島の戦いに敗れた平家一門が九州に向かう途中、 軍船が徳山沖の黒髪島沖付近で暴風雨に会い数日間島 影にに避難した。その夜、観音菩薩が平景清という 豪勇無双の武士の夢枕に立ち、「われを向うの山にある お寺に安ぜよ」とのお告げがあり、翌朝、平景清が同じ 光景のお寺に、自分の守り本尊の十一面観音を安置する と風雨は収まった。爾来、この観音を念ずれば必ず ご利益があるといわれ、特に安産、眼病、肢体不自由に 霊験がある。12年に一度(子年)開扉される。 |
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音羽橋(川崎橋) 富田橋に架かる川崎橋は12間あった。 石橋に架け替えられたが、何度も洪水で流失している。 この川崎橋は徳山城下への入り口として旧山陽道の ポイントの一つであった。また、冨田川そのものも城の 外濠的な役割を果たしていた。 橋の東詰めに関門があり、役人を置いていた。 この辺りまで海が入り込み、海上航行の船もここの 常夜燈を目標にしていた。 |
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政所(まんどころ) この地は、中世は富田市と呼ばれ、近隣の物資集散の 中心地であった。この時代は富田川は今より西よりを 流れ、古市の港に達していた。港は上方へ荷を積み出す 重要な港で、東大寺の年貢米もこの富田の津から船で 運ばれた。年貢米銭を管理する役所が置かれ、 政所と呼ばれていた。 JR新南陽駅 上り 15時51分発の乗車 |