福山城北の鉄路跡と水路沿いの史跡を巡る日時:2022年(令和4年)5月29日(日)
広島県内で新型コロナ感染者新たに619人感染。
早川千絵監督の「PLAN75」は特別表彰に選ばれた。第75回カンヌ国際映画祭

気温ぐんぐん 広島最高気温 30.9℃ 日傘さしてペットボトル麦茶飲みます。
福山城北側 出発:9時 
@両備鉄道礎石跡→A天津橋→B新橋→C両備鉄道胡町駅跡→
D土橋・惣門跡→E胡社→F弘宗寺→G土橋→H新橋→I唐犬通り
→J胎蔵寺→K渡辺神社→L妙政寺→M妙政寺墓地→N庚申堂→O艮神社
→P聰敏神社→Q福山八幡宮→福山城北側 11時30分




両備軽便鉄道について  藪路街道・石州街道を歩く

 福寿会館西側駐車場→弘宗寺
 


 弘宗寺→妙政寺墓地
 

1945年戦災概況図

水野藩と宮本武蔵 福山城の北側を散策

 妙政寺→福寿会館西側駐車場
 



城下町「福山」の旧町名を訪ねて 広島県福山市 2014/11/8(土)


コース  4kmほど秋の一日御城下を歩きました。

福山城噴水広場(内堀跡)→(三之丸東外堀内側)→(三之丸北御門外枡石塁跡)→
両備軽便鉄道の痕跡→御手洗川の上水道施設→二代藩主水野勝俊の墓→妙政寺→胎蔵寺→吉津町→
→惣門跡→胡町→徳永製菓(豆徳)→本町→義倉田→大黒町→城見町→今町→笠岡町→
北浜通り(下魚屋町)→天下橋
船町→(神島町→新町→医者町→藺町→福徳町→中町→大工町→奈良屋町)→昭和町→中央公園







丸之内
福山城噴水広場 空襲時の火災で劣化した石垣あります

集合:9時 出発:9時10分

【福山市街地図(昭和9年頃発行)】 『福山城 今と昔』

2枚のマップ片手に説明聞きます。

 福山城三之丸東外堀内側の石垣遺構

丸之内町1丁目4
福山市史跡
福山城三之丸北御門外枡石塁跡 

天神町

両備軽便鉄道の痕跡 御手洗川の上水道施設 あります。
両備福山駅→胡町駅→吉津駅→よこを駅  大峠のトンネル超えて千田に下り三軒茶屋へ
二代藩主水野勝俊の墓
 
北吉津町
 妙政寺
日蓮宗の寺院、福山藩主水野氏と関わり深く、三河国刈谷(現在の愛知県)に創建したものを
水野氏の国替えに伴って福山へ移したものです。2代目藩主水野勝俊の娘万寿が病になった
際にこの寺院で祈祷を行ったことから勝俊の菩提寺となり、1666年(寛文6年)に現在の地に
再興されました。
鐘撞堂があり吊鐘には1656年(明暦2年)の銘が刻まれている。

平成・令和の大改修
妙政寺  本堂 大改修
備後長久山美作守香華院  永聖緋紋白跡中本寺
 胎蔵寺 真言宗大覚寺派
水野氏が福山城築城に際して神辺から移築させ、福山城のある山にあった常興寺の
釈迦如来坐像を本尊にしたと伝えられます。
土橋(水野時代長さ17間・約30m)と惣門跡 

吉津川に土橋を渡ると城下へ入る玄関口。橋の南詰めには惣門と番所を設け監視します。
川幅は狭まれ岸辺はコンクリートで固められている。


惣門と天下橋を結ぶ筋の上にある本町は当初の町人町の中心に位置づけられた。
胡町・大黒町江戸時代から現在まで続く町名。縁起の良い七福神にちなんで名付けた。
クランクの道路残っています。戦災をまぬがれた まなこ壁
町人町 町と町の境は店(たな)裏として、排水溝を通した路地になっている。
人ひとりが歩ける程度の狭い町境路地 いまでも残っている。

明治2年創業
徳永製菓  豆徳  小休憩 土産 豆菓子 ピスタチオ 買いました。
桶屋町 桶職人が居住 昭和40年城見町1〜2丁目となった
上魚屋町
魚棚があった 藩の御用達を務める者もいた 昭和40年城見町1〜2丁目となった
米屋町 米屋が多く居住 米座が許可され津出しの米の取締りなどを独占、城見町・宝町となった
義倉田 義倉田石碑
義倉は飢饉に備えて平常より貯穀し、災害時にはそれを放出して
被災民を救済する組織である。この社会救済事業の原資は
土地の集積によって得られた収益を振り向けた。文化11年(1814)12月、
深津郡中津村(現福山市御幸町大字中津原)に1町余の田畑を、
代銀11貫558匁8分1厘4毛で購入し、これが義倉の土地集積の嚆矢とな
った。田の中央には「義倉田」と深々と掘り込んだ石碑を建立した。
石碑は高さ6尺・幅1尺角で、側面並びに背面には1筆毎の地積収穫高等が記され、
総面積1町1反3畝21歩、収穫高13石5斗8合と刻されている。
昭和4年7月、芦田川改修工事のため義倉田の大部分は買収され、碑も新堤防の
土手下に移設され、無言のうちに義倉の道統を世に語り続けてきたが、平成13年7月、
ゆかりの財団法人義倉がこれを邸内に移設し、末長く昔を偲ぶよすがとすることととした。
平成13年7月吉日 財団法人 義倉理事長 河相典男
今町 もと侍屋敷であったところが後に町屋になった
船町 入川の両岸にあり、船待ちや船宿が多かった
新町 新しい船町の性格をもっていた
めがね 宝石 麻生の前に 天下橋(本橋) 入り江には木綿橋(新橋)
福山築城に際し拝領した伏見城の遺構を用いた、擬宝珠(ぎぼし)付の橋梁4基があり、その中の
一つをここに架けたので天下人太閤殿下の名にちなんだものといわれる。
六歳市には松飾や筵(むしろ)を商った。それゆえ一名を筵橋ともいう。
城下町草創期には、この橋が基点となってまっすぐ北に向けた街路が通じ、そこが本町筋として
賑わった。三代勝貞の頃吉津唐犬町にあった惣門を東に移したため、新しく通り町ができて繁栄を
奪われた。

上魚屋町 入江の浜川は福山城の外堀まで通じ東堀端に船を繋いで商いをした、その喧騒が
城中本丸まで聞こえた。やかましいので勝成は浜川から外堀に入れないよう仕切った。築切りという
下魚屋町 入川に近く魚棚・魚問屋が居住、福山城築城以来の町で、町人町では
        もっとも早く成立。昭和40年今町・宝町・笠岡町となった。

上市公園 

下市・中市・上市・
神島町 笠岡町 城が完成するとともに移り住んできた
大工町 大工職人が多く居住していた 町筋が道の北側のみの片側だった片平町ともいう
奈良屋町 大和郡山より居住
(い) (りん)を販売したことによる、「井町」と記されている 昭和40年昭和町となる
福徳町 最初「上新町」といっていたが、度々火災があったので「サイワイ町」と改名した
江戸時代の痕跡見つけることができる  町の境には 

醫者町当地に町医者の大半が居住していたことに由来、昭和40年霞1〜4丁目・昭和町となる

INDEX