福山城外堀(福山駅前)発掘調査 現地説明会 
                                            2007年5月12日(土) 広島県福山市

08/9/3(水) 国史跡に追加指定を
県文化財保護審議会の史跡と埋蔵文化財両部会の委員が現地を視察。
「地表から見えるようにしないと史跡指定は難しい」「ここに堀があったと地上から分かるようにすべきだ」

08年9月の広報ふくやま 福山城遺構の保存・活用方針
「現状のまま保存する方針とし、地下に展示スペースを設けるとともに、市民ギャラリーなどとして積極的に活用していく」

08/8/10(日) 福山市長選挙 羽田市長再選された。

08/3/22(土)
福山城はかつて水路で海と連結。荷物を運ぶ船が着く舟入り状外堀が良好な状態で見つかるのは全国的に
数少ないとされる。舟入りは福山城の生命線。潮の干満に注意し築かれた石垣は、当時の土木技術を考える
上で重要。・・・21日:日本考古学協会が視察し見解。・・・・早速、見に行きました。

JR福山駅構内から
発掘調査が進められている遺構を視察

左の3階の建物「繊維ビル」

1961年の完成以来
駅前の顔として親しまれた
「繊維ビル」は5月に取り壊しが始まる

2011/2/19(土)再開発ビル「アイネス フクヤマ」
完工式。4月1日全館オープン。

二重櫓

壁はアクリル製で見えるようになってます

舟入り状遺構

福山城の中核部

 

初代藩主:水野勝成 阿部七代藩主:阿部正弘

    2008年大河ドラマ 篤姫 あつひめ

篤姫の人生をたどることで、幕府の中枢にいた女性の視点から見た
初めての幕末大河ドラマ。

篤姫:宮崎あおい    

わずか27歳で江戸幕府老中首座に就任、第7代藩主 阿部正弘を草刈正雄が演ずる。
人材育成のため自らが治める福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め
身分によらない教育を行いました。

ドラマで篤姫ゆかりの地を紹介する「篤姫紀行」で阿部正弘が紹介される 
6月1日(日)放送。福山城・伏見櫓・鞆の浦・誠之館紹介された。


07年11月23日(金) 福山駅前どうなる??

2012/3/29(木) 5年かけ駅前広場完成  福山城の石垣を約20m渡って復元した


13:00〜13:30  福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る発掘調査 現地説明会 ありました。  

                             福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財発掘調査団

  資料貰いました。 『説明会資料より抜粋

【調査場所】福山市三之丸町(福山駅前)


              



【調査期間】2007年2月15日〜

【遺跡名】福山城跡

調査目的】福山市が設置を予定している地下送迎場の建設工事により、遺跡への影響が及ぶ可能性
がある範囲について、事前に発掘調査した。

調査概要】福山城は、西国をみはる役割をもって1619年(元和5年)に備後に入ったきた水野勝成に
よって築城され、1622年(元和8年)に完成した近世城郭である。水野氏五代、松平一代、阿部氏十代
と続き明治維新に至るまで藩政の中心となった。城郭の形式は、最高所の本丸を中心に、二ノ丸、三
ノ丸がその回りを囲んで配された輪郭式の平山城で、さらに内堀と外堀が二重にめぐらされる。ただ
、城郭の北側には堀はめぐらされず、丘陵や川といった自然の地形を利用して防御としていた。
今回の調査場所は、福山城の正面玄関となる大(追)手門とその東側にある二重櫓の間の外堀と御勘
定所跡の一部である。

  


1.御勘定所跡
御勘定所に関わる屋敷跡等の検出が予想されましたが、度重なる駅前利用により地表面は掘削されて
おり、遺構は確認できなかった。
ただ、外堀石垣の上端から北側約2mの位置で、石垣ラインに沿って一列に円形の穴が9個所検出され
ました。直径1.5m、深さ1mほどのすり鉢状の穴で、その中に直径20cm〜30cmの柱の痕跡が検出
されたことから、柱を立てるための穴と判断された。しかも、石垣に沿って3m間隔で掘られている
ことから、石垣上に造られていた土塀を支える柱(控柱)の跡と考えられた。



知ってる!? 悠久の時が流れる石の島〜海を越え,日本の礎を築いた せとうち備讃諸島〜

日本の建築文化を支え続ける石
日本の近代化が進んだ明治後期から昭和初期にかけて,日本銀行本店本館をはじめ,
明治生命館などの日本を代表する近代洋風建築等が建てられましたが,
そこには瀬戸内海の島々,とりわけ備讃諸島で産まれた花崗岩が使われてきました。
 一方で,我が国が世界に誇る石造建造物である,近世城郭の石垣。その代表が,
大坂城の石垣です。大坂城は,徳川幕府が西国・北国の大名63藩64家を大動員して,
元和6年(1620)から寛永6年(1629)の間に再建しました。大名たちは競うように
巨大な石を運び込み,壮大な石垣を築き上げました。この石垣にも,
遠く離れた備讃諸島から運ばれてきた石材が大量に使われています。

2.外堀石垣
石垣は、外堀の北側の石垣であり、御勘定所の南側の土台となる石垣でもある。検出した範囲は、東
西25m、高さ3mである。石材どうしの接合部をある程度打ち欠いて接合面を増やした「打込み接ぎ
」、長さ70cm前後の石を組み合わせながら積み上げている。石材は花崗岩でほとんどが笠岡沖の島
々のものと考えられる。
多くの石材には石を割る時の矢穴痕が見られ、また約30個の石材には、石工
名や採石場を示すといわれる刻印が残る。石垣の裏側には、排水をよくし、石垣に圧力がかからない
ようにするため、裏込として大量の栗石は詰め込まれている。
石垣の基礎石となる根石は、地盤となる砂上に据えられ、上部に積まれる石材よりやや大きめで、前
面に15cm前後突き出ている。なお、根石の下に胴木は置かれていなかった。
また、石垣の基底部の前面には頭大の石材(捨石)が、幅1.5m、高さ0.5mにわたり乱雑に積み上げ
られていた。これは、石垣の地盤が砂であることから、堀の水の流れによって基礎石下の砂が洗われ
て(洗掘)、石垣が崩壊することを防ぐ役割を果たしたものと考えられる。

 石を割る時の矢穴痕

 石垣の裏側には、排水をよくし、石垣に圧力がかからない栗石

 石垣の基底部の前面には頭大の石材(捨石)

 鉄骨でサポート

石垣の符号は、元寇防塁の石垣に九州9カ国の国名が刻まれたのが始まりだということです。
符号には墨書と刻印があり、大名や普請奉行、工事関係者の氏名、官職、紋、花押、略号が
刻まれています。ほかに石切だし地名、構築年などもあります。


3.出土物
堀内から、藩主水野氏の家紋(おもだか紋)や巴紋などの瓦が出土しています。また、外堀が埋め立
てられた大正期から昭和初期にかけての陶磁器やガラス製品なども出土しています。

 大正期から昭和初期 陶磁器


4.その他
柱穴の存在や多数の瓦の出土、また、城郭図などから今回検出した石垣上には、土塀が構築されてい
たこともうかがえた。

福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第4次発掘調査  09/11/21(土)

第2次発掘調査 現地見学会 08/4/19(土) 

福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第3次発掘調査 現地説明会
2009年(平成21年)5月10日(日)


福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第3‐2次発掘調査 現地見学会  09/10/4(日)

史跡福山城石垣(二之丸西垣上段石垣)の発掘調査現地見学
                 2021年(令和3年)11月27日(土)

 

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