尼子氏の拠点 広瀬町  島根県安来市 2003/9/23(火) 秋分の日

5時間/320kmのドライブ。彼岸の中日 墓参りの日。

 富田城(月山)を散策した記録です。

広瀬町立歴史民俗資料館で尼子盛衰の知識と富田(とだ)城の史跡丁寧に教えていただきました。

富田(とだ)城の概要
富田城は能義郡広瀬町富田に位置し、飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた複郭式の山城であ
る。城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く、防
衛上、軍政統治上も欠くことの出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡とし
て重要視されている。
伝承によれば、保元、平治の頃平氏の武将によって築城されたと云われる。文治元年(1185年)佐々木義清が出雲の
守護として入城以来、それ以後塩谷、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替してい
るが最も栄耀栄華をきわめたのは陰陽11カ国を領有した尼子の時期である。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の歿す
るまで427年に及ぶ間軍政上の一大拠点であった。富田城は、昭和9年1月22日、国の史跡に指定された。

NHK
英雄たちの選択   2022/9月7日水曜  午後8時00分〜 午後9時00分
▽難攻不落!月山富田城 尼子vs毛利史上最大の籠城戦

中国地方の戦国大名・尼子氏の居城として知られる月山富田城。名だたる武将が挑み、武力で攻め落とすことが
出来なかった戦国時代最大級の山城の強さの秘密に迫る。
尼子氏の居城・月山富田城は、その巧みな守りの仕掛けによって難攻不落の山城として恐れられた。第1次の戦いは、
大内義隆が、1万5千の大軍で攻めたが、はねつけられる。次に、中国地方の覇者となる毛利元就が、3万の大軍で、
月山富田城を包囲した。かくして、史上最大の籠城戦が始まった。この後、悲劇の忠臣・山中鹿介が尼子氏再興をかけて、
月山富田城に迫る。城郭考古学者・千田嘉博さんが、難攻不落の山城の秘密に迫る。

出雲 月山富田城(堀尾時代)
【築城時期】室町時代初期
【廃城時期】元和元年(1615)か
【主な城主・城代】尼子経久、尼子義久、吉川広家、堀尾吉晴
【所在地】島根県安来市広瀬町富田

月山富田城は室町初期に尼子氏が築いた山城に始まる。その後、勢力を拡大した尼子氏は、
天文21年(1552)ハか国の守護となった中国地方最大の戦国大名に成長し、富田城は拡張
されて史上最大級の山城に発展。しかし、永禄9年(1566)毛利氏に攻められて落城。天正
19年(1591)毛利一族の吉川広家が入城した。広家は山頂部の曲輪に石垣を築き、天守を創建した。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで新城主となった堀尾吉晴は、中腹部の山中御殿や麓の千畳平などを
石垣造りの曲輪に改修するなど広家が始めた近世城郭化を進めたが、余りにも広大かつ旧式の山城で
ある富田城をついに見限って松江城へ移り、富田城は廃城となった。堀尾城時代の富田城は、山頂部に
吉川時代の姿をとどめ、中腹部以下を新たに改修し、背後の山に散らばる中世の多数の曲輪を廃した
ものだった。麓に広がっていた当時の城下町は、江戸時代の大洪水によって今では川底に沈んでいる。

山中(さんちゅう)御殿
月山正面の中腹に位置している正面のお子守口、
右側の菅谷口、左側の塩谷口と三つの入口が交差
する所で、周囲に堅固な外郭がめぐり、富田城にとっ
て軍事、政治上重要な位置に存在している

月山は標高189m

 

   親子観音

慶長12年富田城内で起こった堀尾家お家騒動の張本人
堀尾河内守とその一子掃部(かもん)の霊を祀った。

  山吹井戸

山の中から吹き出す井戸ということからこの名が
付いている。  

  七曲り

山中御殿から山頂への軍用道。
石畳が往時をしのばせる  

  三ノ丸
月山の山頂部には、最後の砦として本丸、二ノ丸、三ノ丸
という曲輪が造られました。三ノ丸はその入口にあたる
重要な曲輪でした。発掘調査により段状の石垣と、崩れ
落ちた石材が確認されました。戦時に石垣の段状を多く
の兵が通路として利用したり、敵を待ち構えたりするため
に段状に石垣を積んでいたのではないかと考えられます。
また、わざと曲げられた入口通路も、敵の侵入を困難に
するための工夫でした。このように戦国時代の築城には
城を守るための工夫が随所にみられます。

月山 山頂からの眺望
遠くに中海
眼下に飯梨川(富田川) 
  山中鹿介幸盛記念碑

月山 本丸 山頂に建つ  

  尼子興久の墓

経久の三男。
父にそむいた為、父 経久の手によって追放された。  

  山中鹿介幸盛の銅像

主君尼子義久が永禄9年(1566)11月、毛利に敗れた跡、
尼子勝久を擁して富田城奪取、尼子再興を期して孤軍奮闘
の活躍をしたが、天正6年(1578)7月17日、夢ならず備中
甲部川阿井の渡し(岡山県高梁市)において毛利の家臣、
河村新左衛門、福間彦右衛門によって討たれ、34年の生涯
を終えた。  

山中鹿之助の墓が京都の本満寺にあります

福山市鞆の浦
山中鹿之助首塚 があります

  太鼓壇(千畳平)たいこのだん

桜の名所


太鼓壇は尼子経久の頃、この丘に太鼓をつるした建物をたて
時刻を知らせたり、又攻め太鼓として士気を鼓舞した。太鼓の
あった壇というのでかく言うのである。千畳平とは広場の意味で、
尼子時代の「勢揃い場」である。出張った石垣の所は「櫓跡」で、
昔はこの辺に数ヶ所の櫓があり、厳重に城を守っていたので
ある。
 

  この椎の木は樹齢四百年以上のもので尼子毛利攻防時代
からのものと言われています。尼子氏は永禄年間篭城七年を
戦い抜き遂に兵糧攻めによって毛利に降参しましたが、当時
の山城には多くの椎の木を植えその実は食料の足しにしたと
いわれます。この椎の木も当時の名残りをとどめる古木で昭和
の始頃までは毛利の射た鏃が残っていたと言い伝えられてい
ます。この千畳敷(尼子の勢揃い場)はこの木が残っている
ために「椎の木平」とも言われ、長い歴史を無言のうちに見て
来たこの椎の木はここを訪れる人たちの限りない愛着を感じ
させます。 

関連サイト
三日月公園

TOP