福山城伏見櫓 見学会 広島県福山市 2005/11/12(土) 2018年8月19日(日)
                  2020年11月3日(火)2021/7/24(土)2022・11・3(木・祝日)2023/11/3(金)

2024/11/3(日)秋の文化財特別公開!~国重要文化財 福山城伏見櫓~

福山市内歴史的建造物国宝指定期成同盟会結成式を開催します!
 掲載日:2024年10月28日更新
 本市には数多くの歴史的建造物が継承されており、特に国重要文化財に指定されている福山城伏見櫓及び筋鉄御門
吉備津神社本殿沼名前神社能舞台はこれまでの調査成果に加え、福山城築城400年記念事業や近年の
保存修理事業に伴う様々な調査によって、さらにその価値と魅力が明らかになってきています。
 本市では、これらの福山市が誇る歴史的建造物を地域の宝として将来に継承し、市内外に広く発信するため、
国宝指定をめざす取組を進めています。
 本取組について、関係機関への要望活動を行うとともに、市民の皆さまと上記4棟の価値と魅力を共有し、
国宝指定に向けた取組を一緒に盛り上げていくため、この度「福山市内歴史的建造物国宝指定期成同盟会」
を結成します。 ついては、次のとおり福山市内歴史的建造物期成同盟会結成式を開催しますのでお知らせします。





2023/11/3(金)秋の文化財特別公開!~国重要文化財 福山城伏見櫓~



田村淳(たむらあつし)さんの福山城名誉城代就任を記念して国重要文化財伏見櫓を
3日間限定で公開
します!

日時:2023年(令和5年)3月24日(金)10:30~15:30
             25日(土)10:00~15:00
             26日(日)10:00~15:00



内容:合計1,000名の方がボランティアガイドや文化振興課職員による歴史や魅力の解説を受けながら伏見櫓の内部を見学します。

2月22日、大阪市内で委嘱式があり枝広直幹市長から委嘱状を受け取った。

田村淳さん
「ぼくがおじゃましたとき、市長に『ぼくに広めるための仕事やらせてくださいよ』と言ったら、市長、その場で即決してくれたんですよ。
福山城もたくさんの人に来てもらえるように、ぼくも力を尽くしたいと思います」

福山市 枝広直幹 市長
「(今後も)福山城周辺を年間を通じて盛り立てていくと。田村さんに加わってもらえると、さらに歴史的な福山城の価値がクローズアップ
されるような気がしますね」

福山市は、今後も城を活用したさまざまな事業に取り組む予定で、
継続してPRを進めようと「新たな視点」や「発信力」を持つ田村さんに依頼しました。

国重要文化財 福山城伏見櫓とは?
伏見櫓は福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されて
いました。築城時に伏見城から移築された櫓の一つです。
外観で特徴的なものは、柱形(はしらがた)長押(なげし)を漆喰で塗り出し、
「真壁造(しんかべつくり)と呼ばれる一階と二階の外壁の意匠です。その意匠は
古式と評されますが、城郭建造物では数が限られます。同じく伏見城から移築された
と伝わる月見櫓は、「大壁造(おおかべつくり)」であり、伏見櫓は別格であったこと
がうかがえます。
1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1993年(昭和8年)に
筋鉄御門(すじがねごもん)と御湯殿(おゆどの)とともに国宝に指定。また筋鉄
御門や鐘櫓とともに、1945年(昭和20年)8月8日の福山大空襲を免れ、現在は
国の重要文化財になっています。
1951年(昭和26年)から行われた修理の際、二階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」
刻字が見つかり、伏見城からの移築された伝承を持つ建物はありますが、文献や刻字に
よって立証される全国唯一の現存建物であり、日本城郭史においても極めて重要で
貴重な存在です。

福山城伏見櫓の歴史

1592・93年(文禄元・2年)  指月山に豊臣秀吉の隠居座敷を建築 
1594・95年(文禄3・4年)  豊臣秀吉が屋敷を大改修し豊臣期指月城を築城 
1596年(慶長元年)  大地震「慶長伏見地震」により倒壊 
1596・97年(慶長元・2年)  指月城北東の木幡山に新城豊臣期伏見城を築城 
1598年(慶長3年)   豊臣秀吉死去 徳川家康入城


福山城の歴史

1620~22年(元和6~8年)  水野勝成が福山城を築城 
1871年(明治4年)  福山藩を廃して県となる 
1875年(明治8年)  本丸が福山公園となる 
1931年(昭和6年)   天守が国宝に指定 
1933年(昭和8年)  伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門が国宝に指定 
1945年(昭和20年)   8月8日福山空襲により天守・御湯殿が焼失 
1950年(昭和25年)  伏見櫓、筋鉄御門が重要文化財に指定 
1964年(昭和39年)  国の史跡に指定される 
1966年(昭和41年)  市制施行50周年記念事業として天守、
月見櫓、御湯殿を再建 
 1973年(昭和46年) 鏡櫓を再建 
1979年(昭和54年)  鐘櫓が市重要文化財に指定 
 2022年(令和4年) 築城400年     

 現存唯一の伏見城の遺構
2階梁に「松ノ丸東やく(ら)の刻字(陰刻)が見られます。
これにより、伏見城からの移築であることが立証され、全国で唯一
の明確な伝来を持つ櫓としてその価値を高めています。

 謎に包まれた移築年代
柱や梁などには古材が多く転用されています。中には、太さが
1尺を越える天守級の柱も使われており、どの時代に建てられた
伏見城の移築なのか、未だ解明されていません。

 最古の形式でつくられた櫓
伏見櫓の造りは「望楼型三重三階」と呼ばれています。一番下の
初層と真ん中の二層は、「総二階造」といわれる同規模の構造を
持ち、その上に独立した構造の小さな望楼が乗っており、これは
慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓であることがわかります。
また、下の二層が東西方向に棟を付けているのに対し、三層は
南北方面を向いた入母屋屋根が付けられているのも大きな特徴です。
現存する三重櫓12基のうち熊本城の宇土櫓と並ぶ最古級の櫓となります。
※望楼(ぼうろう)…遠くを見渡すための櫓のこと
※入母屋屋根(いりもややね)…屋根の上部が切妻屋根の形で、下部が
寄棟屋根の形をした屋根

4 伝統建築としての美しい外観
四方に入母屋破風を見せ、二層目の南北に千鳥破風を付けた姿は、
日本の伝統建築としての美しい景観を担っています。1、2階の
外壁は白漆喰で塗られ柱が見えている真壁造(しんかべつくり)
に対して、3階の外観は柱・長押をすべて塗りこめた大壁造(おおかべ
つくり)になっています。
※破風(はふ)…屋根の妻側の造形のこと
※入母屋破風(いりもやはふ)…屋根の両端に付いている三角形の破風
※千鳥破風(ちどりはふ)…屋根の流れ面に起こした三角形の破風のこと
※長押(なげし)…窓上下に渡した水平材のこと

 400年以上前の職人技を味わう加工痕
内部の柱には、鉋(かんな)や手斧(ちょうな)などの大工工具
で加工したような、様々な細かい凹凸の痕跡が多くみられます。
伏見櫓の部材に残された400年以上前の工匠(こうしょう)たちの
技工による成果や、伏見櫓の建造経緯などを感じることができます。

 城を守る優美な石垣
櫓台石垣の角には、直方体の石材が長辺と短辺で交互に組み合う
「算木(さんぎ)積み」がみられます。また、石垣には扇の勾配が
つけられており、石積みを強固にする役割や防御効果を高めています。
伏見櫓の石垣は福山城でも随一の勾配と美しさとともに、全国的に
見ても最も完成度の高い石垣といえます。

 



2022・11・3(木・祝日)国重要文化財 福山城伏見櫓・筋鉄御門特別公開
福山市ではこれまで伏見櫓の学術的な調査を様々な方面から続けてきました。
福山城築城400年を記念して,11月3日の特別公開にあわせて,
これらの学術調査の成果の一部を実際にみていただける場を設けることから,
見学者の追加募集を行うものです。
 約30分間,ボランティアガイドや文化振興課職員による解説を受けながら内部を見学します。
 伏見櫓の学術調査の成果の一部を次のとおり公開します。
 (1)建造物内の墨書銘赤外線調査
 (2)櫓台石垣3D測量調査
 (3)構造材(柱・梁など)加工痕調査 など



1階
伏見城の部材に残された400年以上前の工匠さん(いわゆる大工さん)
たちの活動の成果を感じていただければと思います。






2階
現時点で確認されているもので261点の墨書が発見されました。墨書には、中心の線を書いた墨付け線や、
いわゆる落書き
のようなものもありますが、特に注目されるのが、「番付」です。番付は、建物を解体移築する
際などに、元の場所を示すため大工の棟梁が書きつけるものであ
り、伏見櫓には、複数の種類の番付が確認できます。

番付には、番号の付け方が、いくつかの種類があります。その例として、パネルにありますように、
「時香番付(じこうばんつけ)」という、順番が蛇行しながら
順につけられて行くものや、組み合わせ番付のように、
二組の文字または数字を用
いて、座標的に表示するものがあります。伏見櫓には、この時香番付が一部見られます。

この番付は、古くから存在していましたが、16世紀以降の桃山時代の城郭建築が多く建てられる時代に、
最も使われるようになり、江戸時代以降には、民家な
どでも一般化していったと考えられております。
この伏見櫓に用いられた番付は、
これらのものと同じ性質ものと考えられ、複数のものがあることから、
何度か、番
付が付けられ、移築や修理が行われたと考えられます。




墨書は、「いろは」と「数字」によって位置を表す「いろは番付」(通り番付)
「時香番付」(折り返し番付)

「まわり番付」として伏見櫓の北西隅の柱を「一」、それから時計回りに番号を振る







   

3階

 



櫓台




オルソ写真
オルソ画像は、写真上の像の位置ズレをなくし空中写真を地図と同じく、
真上から見たような傾きのない、正しい大きさと位置に表示される画像
に変換(以下、「正射変換」という)したものである

段彩図
等高線や等深線による地形表現を見やすくするため、段彩(グラデーション)をつけた地形図。


結城水野家 茨城県結城市
結城水野家は、水野忠重の嫡男勝成を祖とする家で、水野宗家、水野嫡流家とも呼ばれます。
5代目勝岑が早逝し、福山藩10万石の所領と福山城は幕府に没収されてしまいますが、勝成の
曾孫勝長が跡を継ぎ、能登国1万石の大名として存続します。1700年に、1000石が加増され
結城へ転封し、その後7000石の加増と、結城城の再築が許可され、幕末まで結城を治めました。
結城城跡には、水野勝成を祭神とする聰敏神社が鎮座しています。


2021/7/24(土)伏見櫓特別公開
京都伏見城からの移設とされている、国重要文化財伏見櫓をガイド付きで特別公開。
2021/7/24(土)は、福山城が築城400年を迎える2022年8月28日の400日前です。


1600年 関ケ原の戦い
1601年 福島正則が安芸・備後領主として広島城に入る
1603年 江戸幕府の成立
1615年 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡)武家諸法度
1617年 福島氏改易
1619年(元和5年)水野勝成56歳 備後福山藩領主として大和郡山より入封
    伏見城廃止する
1620年 福山城築城始まる
1622年 8月28日福山城の完成を幕府に報告、地名を「福山」と名付ける


2020年11月3日(火)文化の日
秋の褒章の受賞者
スーパーボランティア:尾畠春夫さん

共和党トランプ大統領と民主党バイデン前副大統領が争う
米大統領選挙選投票が始まった


新型コロナウイルス感染症の影響を受け、事前申込制で普段見ることのできない
国重要文化財 福山城伏見櫓特別公開 10時~15時
定員:80名(1回あたり10名、全8回)

福山城伏見三層櫓及び
筋鉄御門修理銘

福山城は水野勝成が江戸幕府に請ひ、
元和六年備後の國深津野上村に築城
し新に福山と構え、神辺城から移った
のに始まる。その後領主は松平、阿部
と替り明治維新に至り國有となった。
福山城の天守は昭和六年一月十九日、
御湯殿、筋鉄御門、伏見三層櫓は昭
和八年一月二十三日それぞれ國法保存
法によって國法に指定された。昭和二
十年八月八日の空襲に際し、天守及び
御湯殿は焼夷弾によって焼失したが、
伏見三層櫓、筋鉄御門は共に災を免か
れ、昭和二十五年八月二十五日文化財
保護法の制定で重要文化財となった。
近年に至り破損が甚しくなったので、
本委員会の直営工事として、昭和二
十六年度から保存修理に着工し、昭和
二十八年度で完成した。
伏見三層櫓は豊臣秀吉の築城した伏
見城から移したものと傳えられ、今回
の修理でも、二階南入側中央の繋梁東
面に「松の丸東やくら」の刻銘が発見
された。

工事概要
筋鉄御門は全部解体の上修理を
施し、門の北側石垣の東面隅を積
直しを行った。
 伏見三層櫓は一・二階の軸組を
のこして解体の上修理し、北側土
台下石積の一部及び内部東石の据
え直しを行った。
伏見三層櫓の二階内部の間仕切
壁及び一階出入口外壁両脇の羽目
板は、近年設けられたことが明ら
かになったので、昭和二十八年十
一月専門審議会に諮って、取除く
ことに現状変更した。

着工 昭和二十六年十二月一日
竣工 昭和二十九年三月三十一日

工事費 九百六十万貮千圓也
 昭和二十九年三月三十一日
  文化財保護委員会

重要文化財
福山伏見櫓保存修理工事(災害復旧)
平成十六年度屋根(部分)。壁(部分)修理

 


よみがえる福山城伏見櫓高精細CGで福山城のさらなる魅力に迫る。

福山城伏見櫓、筋鉄御門の国宝化に向けて調査開始
伏見櫓と筋鉄御門の一般公開・樹木整備作業の安全祈願祭
⇒日時 2018年8月19日(日)
⇒場所  福山城公園天守閣広場(筋鉄御門付近)
⇒内容 9:00 安全祈願祭
9:30 専門家による伏見櫓と筋鉄御門の説明
10:00 伏見櫓と筋鉄御門の公開
12:00 終了(予定)

05年11月12日 14時~見学会 300名

04年台風23号で被害 
鯱一基落下、瓦はがれ 壁のしっくいも傷んだ 伏見櫓復活(費用1870万円)










(なげし)とは、日本建築に見られる部材で、
柱を水平方向につなぐもの。鴨居の上から被せたり、
柱間を渡せたりするように壁に沿って取り付けられる。

方杖(ほうづえ)とは、
柱と横架材の取合部に斜めに入れる部材。

とは、建物の短手方向を表す用語です。

桁行は、長手方向を表す用語です。

柱形(はしらがた)壁から突出して、半面だけ見せている柱。

懸魚(ゲギョ)
屋根の破風板につけ、棟木や桁の木口を隠す飾り。

伏見城は京都市伏見区桃山町に所在した平山城。1592年秀吉は造営を開始。1596年大地震で倒壊する。
1600年関ヶ原の戦で落城。1601年家康によって再建。1623年廃城。

福山城伏見櫓 昭和8年(1933)国重文指定
桁行(けたゆき)8間、梁間(はりま)3間、三層入母屋造、本瓦葺。北を正面に建てられている。
この櫓は元和8年(1622)藩主水野勝成の福山城築城にあたり将軍徳川秀忠が伏見城の一部を移築させたという。
昭和29年(1954)の解体修理の折、梁の陰刻に「松の丸東やぐら」とあるのが発見され、移建の伝えが明らかになった。
櫓は初層と二層は同じ平面の柱割りとして、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、
南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開き、
初層・二層を柱形・長押形を表した白亜塗りとし、三層を塗籠めとしている。
これらの構造や手法は、城郭建築史上、初期の様式を残す慶長年代の城郭建築のひとつの典型として貴重である。
また伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。

鯱(しゃち)
鯱はシャチホコと読むのが正式で、頭が虎のような獣、体が魚という想像上の動物です。
天守の屋根の頂に上げて飾ります。天守の象徴の一つで、火伏せ(火災を防ぐ)の霊験あるといわれています。
鯱が最初に城に使われたのは、安土城天守で、金箔を押した瓦製の鯱があったらしく、その破片が発見されています。
有名な名古屋城天守の金鯱はヒノキ材の寄木造の木芯の表面に金の板を貼り付けたものでした。
(創建時には215kgの金、戦災後は88kgの金が使われました)
一般の天守の鯱は瓦製で、中は中空に作られており、そこに木の棒を通し、大棟下に通る棟木に差し込んで固定しました。
つまり、瓦の鯱の中に、木の骨が通っているようなものです。
現在の伏見櫓の鯱は昭和28年の解体修理の際に作られました。

櫓(やぐら)
櫓は矢倉や矢蔵とも書き、平時は武器庫であり、有事に際しては物見と攻撃の拠点になりました。
近世城郭の櫓は天守を小型化したものといえます。現存する櫓はそのほとんどが江戸中期以降の再建のものなので、
江戸初期に建てられた伏見櫓は最も古い最高格式の櫓ということができます。

漆喰(しっくい)をつくる
①糊材(ぎんなん草・・海草) 漆喰材の伸びや水持ちをよくする
②缶にぎんなん材と水を入れて煮る 強い粘りのある液ができる
③ぎんなん草を煮た液をふるいにかけ、こし、こし汁をとる。
④水をはったフネに、こし汁と水に浸したすさを入れよくかき混ぜる。
  すさは塗り壁が乾燥し、収縮した際におこるヒビ割れをつなぎ役となり防ぐ
⑤石灰を入れ、混ぜる。 すさの間に石灰が入りように何回にも分けて混ぜ、練りこむ
⑥漆喰のできあがり

壁を補修する
①台風被害により亀裂が生じた3重の壁
②壁を解体。骨組み(下地)があらわれる。
③木舞(こま)をかく 木舞には直径1寸(約3cm)の竹を割ったものを使う。これを縄でかき、壁の下地とする。
④荒壁塗り、むら直し。十分乾燥させる。
⑤中塗り
⑥上塗り(漆喰仕上げ)

細長い一階平面  一階と二階が同大
二重目の入母屋造の屋根に直交して三重目が載る
一階と二階の外壁に柱と長押(なげし)の形を見せる
窓が大きい(上下の高さが大)

山城国伏見城諸国古城之図/浅野文庫所蔵



福山駅新幹線ホームから見た伏見櫓(やぐら)        伏見櫓の二階内部、梁(はり)に
                                   「
松ノ丸ノ東やくら」の刻銘がある


伏見櫓
細長い1階平面 1階と2階が同大
二重目の入母屋造の屋根に直交して三重目が載る
一階と二階の外壁に柱と長押(なげし)の形を見せる
窓が大きい(上下の高さが大)

櫓としては、熊本城宇土櫓と並び現存する最古の櫓である。
武器庫として用いられたようようであるが、明治時代になると、
ビリヤード場や骨とう品売場などに使われた。 
算木積(さんぎつみ)
隅石(すみいし)
石垣の出角部分(隅石)の積み方である。
慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、
城郭の石垣に見られる。長方体の石の長辺と短辺を
交互に重ね合わせることで強度を増している。 
 石垣の反り 高さ1/2ぐらいから反り始め
扇の勾配 清正交(せいしょうこう)流  
武者返し 

 慶長後期から強くなる 10m超え
 矢穴(やあな) 矢:鉄製のクサビ
大きさ:1寸×4寸:17世紀前期 1寸×2寸:18世紀~
 矢穴(やあな)
予定の位置で割れなかった例 
 瓦松 石垣の間に生えている

植物「つめれんげ(爪蓮華)」の古名。
 石垣には刻印
刻印は、石を選定し、切り出し、城で積むそれぞれの過程で付けられた
目印で、それぞれ担当した石工集団の識別のため付けられた
 石垣の表面

はつり 
 石垣の表面

すだれ 
 江戸時代の軍学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)著
『鈐録外書(けんろくがいしょ)』でこのように分類  城の石積みは
野面積(のづらづみ) 自然石をあまり河口しないで使う 
天正期(1573~1592)に「穴太積み」として完成
打込接(うちこみはぎ) 採石場で割りとった石を使う石を少し加工して
                 接合面をふやす
切込接(きりこみはぎ) すき間なく石を接合する
亀甲積( きつこうづみ ) 亀の甲羅のように六角形に整形した石材を積み
               上げていく
谷積 落し積    石材を斜めにずらしながら積み上げるものです 
            谷積では高石垣はできない 19世紀中期~
乱積(らんづみ)横方向に目地が通らない
布積(ぬのづみ)一段ずつ並べる横に目地がある


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