備後福山藩の干拓物語(新田開発) 広島県福山市
2011年1月19日(水)・22日(土)2012/2/21(火)・2012年12月8日(土)
2014年4月26日(土)2014年10月31日(金)2016/3/2(水)
発生確率等の評価(地震調査委員会)
領域 | 様式 | 2013年1月1日時点 | |
規模 (M) | 30年以内の発生確率 | ||
南海トラフ | プレート間地震 | M8 - 9クラス | 60 - 70% |
南海トラフト巨大地震 マグニチュード9.1、福山市は最大震度6強、揺れは約4分間続き、
津波の影響が沿岸部に出始めるは約13分後。最大波が到達するのは約4時間30分後で、
最高津波水位は海抜3.3mと想定されています。(被害が最大となる最悪の状況を想定数字)
建物の全半壊約6万8000戸、死傷者約1万2000人と予測。死者の主な原因は津波とされています。
中心部 福山市津波ハザードマップ
ウォーキング 東川口の事跡をたずねて 【川口東公民館~上田玄蕃直次の碑~川口東縁起かつぎコース】
2016/3/2(水)
川口東学区の生い立ち
約340年前,1671年(寛文11年,江戸時代)に芦田川のデルタである野上・多治米沖に川口村として干拓造成され,
以後福山の城下町として綿・桑・野菜・米麦などの生産をする農業を主産業として来ました。
特にねぎが「川口ねぶか」として特産品となり,有名になりました。
近年の転換期としては,昭和38年から始まった土地改良区画整理事業により碁盤の目のように整地された道路・
水路が出来上がりまちの礎となっています。
住民の増加と共に小学校も,1982年(昭和57年)に川口小学校から分離して川口東小学校が誕生しました。
今や2400世帯を超す都市近郊型のまちに変貌しています。
川口ふるさと探訪
30.将棋角(しょうぎかく)
川口村を築成したときの西土手の最南端
を将棋角といいます。今は土手は崩され
て面影はありませんが、土手が直角で
将棋盤の角のようなことから名付けたと
伝承されています。安政6年(1859)、
この近くより汐の干潮時のみ箕島に渡れる
水中道路が出来て大変便利になりました。
川口学区まちづくり推進委員会 2013.8
「正木角」というバス停がある。西新涯町1 信号交差点にあります。
曙町五丁目、曙交番の近くに 塩崎神社があります。 広報ふくやま 歴史散歩 2022年12月 民を思う若き藩主 阿部正方の治世 新涯造成を始めた正方の功績をたたえる文が刻まれています。 阿部正方公墓所 正方は1869年(明治2年)に北本庄の小坂山に埋葬されました。 墓は上部を玉石で覆った土饅頭形の神式墓で, 墓域は2017(平成29)年に福山市史跡に指定されました。 阿部家歴代の藩主の中でただ一人福山に眠っています。 |
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新涯村墾田紀功碑 ~幕末の大新涯開発を記す~ |
碑文に「川口箕島間の海を填め」とあるように、現在の曙町と新涯 町の一帯は、1865(慶応元)年から1867(慶応3)年にか けて、福山藩の新田開発(干拓事業)により造成されました。 当時の福山藩は、開国に伴う全国的な動乱の中で出費がかさみ、 財政がひっ迫している状況でした。この財政難を解決する策が大規模 な新田開発でした。完成すれば土地の売り払いによる利益と農地の 増加による税収増が見込めると考えられたからです。320町歩を 超える面積を埋め立てる「大新涯開発」は、福山藩の財政立て直し の期待を背負った一大プロジェクトだったのです。 「大新涯開発」の 特長として、水路の整備があります。用水は、野上町から五間川を 開削する形で芦田川の水を取り入れて「一の川」・「二の川」に引き、 そこから碁盤目状に各用水路へ流れるように整備されました。また、 上流から流れてくる悪水(飲料・灌漑に適さない水)を効率よく海へ 排出するため、「大悪水」と呼ばれる大きな水路3本をはじめとする 悪水路も整備されています。 同じ境内には「新涯開懇五拾年 祭の記念碑」や「新涯開懇百年之碑」もあり、地域の歴史を刻んで います。 |
崇興寺(そうこうじ) 川口新開の年1671年(寛文11年)に初代丹随法師という人が現在地に 阿弥陀如来を本尊とする惣講庵を開かれ、浄土真宗の寺として開基された。 |
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上田玄蕃直次之碑 水野勝種公の時代の首席家老で川口新涯造成の指揮者。 東川口町1丁目に廿山(はたちやま) 四ツ樋交差点の辺りから一ツ樋までの入り江沿いの間をいう。廿山新涯。 川内村の出身、力持ちの力士名「廿山治兵衛」がいた。 |
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川口一ツ樋の「樋之堂」由来の記 当川口地区は、福山の開祖水野勝成公の曾孫、四代勝種公により、 寛文十一年(一六七一)、福山多治米沖に干拓された。 工事は、東半分 を首席家老上田玄蕃、西半分を次席家老中山外記により、堅固な堤防を 以って築成された。 沖堤・東堤・西堤の内側に、「汐廻し」を造り、堤防の 下に藪を配置した。芦荻生い茂る塩地の内陸に、道路と用悪水路を造り、 芦田川より用水を引き入れ、悪水を「汐廻し川」に集め、「天然樋」又の名 「一ツ樋」より、入江に放流した。此の樋を、覆い且つ支えた建物が、此の 「樋之堂」である。 当時、此の樋門を、管理する土木部会(現在の土地改良 区)の先達と、当面樋蓋を、手廻しロクロで上げ下ろしする、操作員達の仕事 は、実に大変なものであった。 天然樋門(一ツ樋)の大改築は、昭和二十七 年から二十八年に掛けて、県の補助を得て完成された。それに伴って、 住民に親しまれた此の「樋之堂」は、その任務を果して、居所を二転三転した。… 今般、現改良区の役員会に於いて、此の「樋之堂」は、その屋根を補修し、柱・桁 の一部を修復して、本場所即ち、川口八幡神社御旅所である此の地に、末永く、 安置する事に決定を見たのである。 |
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福山市一ツ樋ポンプ場 1時間降雨量42mっまでの大雨にも対応できる能力を備える 汐廻し川一号雨水幹線 完成記念碑 |
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猿猴川 左は農業用水路 右は排水路 |
“深津島山”の戦国時代を訪ねて 福山市王子町・三吉町・西深津町周辺 2014年4月26日(土)
戦国時代の面影を訪ねて、福山市内中央(王子町・三吉町・西深津町周辺)に残る
“意外”な史跡巡り。
福山は江戸時代から発展した城下町。現在の福山市に比べれば、かつては海の中
といった場所が多くあります。国道2号がある王子町周辺もかつて海。
今回訪ねる王子山城跡(現王子神社)は北側以外はが海に接した半島の先にあったそうです。
行程 5.8km
集合:10:00 福山みなと公園
コース:10:10福山みなと公園出発→三枚橋→蔀山(しとみやま)【足利義昭居館跡】→長尾寺→かさおか道の道しるべ
昼食11:45~12:20塩崎神社→薬師寺→王子神社(王子山城跡)→13:30解散 蛙岩 港町公園
10:10 福山みなと公園出発 かつては 千軒土手 国道2号沿いにあった 三枚橋 |
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蔀山(しとみやま)【足利義昭居館跡】 2004/6/18(金) 中国共済病院あった所 今は住宅地に |
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笠岡道の道しるべ 2002/9/18(水) 福山城下~笠岡道 散策した。 |
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潮崎神社 | |
薬師寺 | |
葉隠饅頭 饅頭を食べ登城します。 |
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王子神社(王子山城跡) 築城しようとしたは毛利元康、毛利元就の八男で厚狭毛利氏祖。 毛利元就71歳の子という。 天正19(1591)年に神辺城主になる。 広島市内に架かる元安橋は、 元康にちなんで命名されたものである。 |
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芭蕉句碑 | |
13:30解散 蛙岩 港町公園 |
歴史探訪 福山入り江周辺を歩く 2012年12月8日(土) Am.9:00~12:00
福山市港町・住吉町・三吉町南・入船町
季節風強く寒い日でした。12月8日は日米開戦の日 1941年真珠湾攻撃。
12/7 17時18分頃 東北や関東地方で震度5弱の地震 18時すぎに宮城県石巻市鮎川で最大1mの津波を観測。
プレート境界より沖合で起こるアウターライズ地震と気象庁説明。
<コース>
入船交流広場(集合)→①化学染料発生の地記念碑→②住吉神社→③代官所跡・大井戸→④三枚橋
→⑤千間土手(説明)→⑥かえる岩→⑦四ツ樋→⑧福山市立大学・図書館(解散)
染料工業黎明の地 所在地:福山市入船町1 (日化福山工業記念碑) 現在のポートプラザ日化のある場所は、地元の人に『日化』の略称で呼ばれていた 「日本化薬工業福山工業」が昭和61年に箕島町に全面移転するまであった場所です。 備後絣は、日本の三大絣生産地として繁栄していましたが、第一次大戦によりドイツ からの輸入していた染料が輸入できなくなり大きな打撃を受けました。これを契機に 国産化の努力がなされ、大正五年に府中に「帝国染料製造株式会社」が創立されました。 翌年この入船町に移転し、国産一号と言うべき画期的な「木綿染料、硫化ブラックBX」 を世に送り出しました。これがわが国の染料工業の草分けとして注目を浴びました。 その後、「日本化薬株式会社福山工業」と社名を改め移転までの約70年間当地で 営業を続けました。 |
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住吉神社 所在地:福山市三吉町4 (天神社・五穀神社) 本殿:三間社流造、胴板葺、コンクリート造<昭和63年再建>。境内地は繁華街の中 にあって1,000坪と広い。 併記:昭和20年の戦災までは、住吉神社、天神社、護穀神社の三社の社殿が並び 建っていましたが、近年一殿に合祀されました。 住吉神社 祭神:上筒男命(うわつつのおのみこと)=海(水)の上にすすがれた時に成りませる神 中筒男命(なかつつのおのみこと)=海(水)の中にすすがれた時に成りませる神 底筒男命(そこつつのおのみこと)=海(水)の底にすすがれた時に成りませる神 例祭日:旧暦6月25日 特色:住吉神社は、海の神、航海の神、また和歌の神とされるが、旧暦の6月29日に催される 「そうらえん」と呼ばれた住吉神社の夏祭りが有名でした。 ※同神を祭る神社して、東深津6丁目に鎮座する塩崎神社があります。 |
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【そうらえん】 福山の入江が木綿橋の下をくぐり天下橋のあたりまで入っていた頃、新町の住吉神社 の夏祭りに「そうらえん」の行事があった。『そうらえんえん よいやさっさ』と掛け声をかけて、 炎々と燃えさかる斉灯船を揺さぶり、裸の若者は海に飛び込んではまた、舟にあがって火を 焚き続け、神輿船を先導した。海の住吉さんの祭りは今はなく懐かしまれる夏の風物詩であった。 天神社 祭神:菅原大神(すがわらのおおかみ)=菅原道真命 =天満天神・火雷天神・太政威徳天神 =文道の太祖・諸道芸能の守護神 例祭日:旧暦6月25日 由緒:初代福山城主の水野勝成公の守神であって、慶安元年(1648)福山城背の「松山」に社殿 を造営しました。その後、慶応4年(1868)、長州藩の攻撃に際して境内が胸壁の構築により 掘削されたため、入川沿いにあった「住吉神社」「五穀神社」の南隣に遷座されました。 ※『福山志料』によると、「宗休候刈屋ニオハシトキヨリ身ヲハナサス信仰アリシ」と記され ています。 |
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護穀神社 祭神:級長津彦神(しなつひこのかみ)=風の神 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)=稲霊 水分神(みくまりのかみ)=水を疎通分配する神 例祭日:旧暦3月15日 由緒:福山城主の阿部氏代々の鎮守様で、年々寄付米があった。宝暦7(1757)年の創祀。 護穀神社(護国神社と混同されがち)は、六郡の守護神で、旧暦3月9,13,15日を例祭日とすると 馬屋原呂平重帯の「西備名區」にあります。また、菅茶山の「御質問状答書」では13~15の3日間、 六郡が、1日二郡で分担して担当する。そして『五穀の種をもらう』と記してあります。一般的には 農業の神様として周知されており、5月の田植え前に五穀豊穣を祈る例祭があり、 戦前まで農具・勝手道具の市がたち大変にぎわったようです。 ※五穀とは、古代中国においても色々な解釈があり定まっていませんが、 現代の日本では、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。 |
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住吉町 入川の橋の跡 中央束柱は朽ちて鉄筋がむき出しになっている。コンクリート製の欄干。 入川の排水路に架かった橋であり、かつての入川の中央部分にあたる。 実際の入川の広さが実感できる。 |
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元三吉陣屋・大井戸 所在地:福山市三吉町1 水野氏が、元禄10(1697)年、5代で断絶した後、松平忠雅が元禄13(1700)年に入封する までの城主不在の間、福山藩を統治したのが幕府から派遣された三代官、山本興惣左衛門、 宍倉与兵衛、曲淵市郎右衛門であり、その役所として当時の三吉町に陣屋が設けられ、 「三吉陣屋」とよばれました。三吉陣屋は当時の三代官がいた三年間ですが、領内から厳しい 年貢の取立てをしたそうです。現在、建物はまったく残っておらず、大井戸が名残としてあるだけ です。 |
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清らかな豊かな水の湧き出る大井戸は、 代官はもとより地元住民も水神様のおかげと末永く大井戸の恩恵をうけました。 |
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三枚橋 所在地:福山市三吉町2 福山城下から笠岡代官所へいたる街道が笠岡道(かさおかみち)と呼んでいました。 笠岡道が薬師寺へ到達する直前に吉津川に架かる橋が「三枚橋」です。 かつては太鼓形の土橋でした。大正11年(1992)に地元の篤志家、佐藤吉助が私財800円を投じて 平らな石橋に作り替えたため、通行が便利になりました。この時、橋桁を二つ渡した上に3枚の 石板を繋げて造られたので「三枚橋」の名があります。橋の西詰には、顕彰碑が建てられています。 現在の橋は昭和63年(1988)に架け替えられ元の橋の一部が保存されています。 コンクリート造りでなく、石橋の形態をそのまま残して架橋されています。 |
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千間土手 江戸時代深津湾干拓のため造成された堤。深津高地を中心とした沖積池の形成されたのが 深津村であるが、その近辺は元和ー寛永(1615-44)頃までは海でした。(福山志料) 藩主水野勝成は深津湾から引野村梶間山に向って土手を築こうとしました。 幾度も堤が切れるなどの難工事の末、潮崎大明神に祈願するなどして生保4年(1647)土手 が完成、新涯が成就しました。この王子山から梶間山まで築いた土手を「千間土手」と呼びました。 千間土手は近年までありましたが、国道2号の道路敷として取り払われました。 また国道2号に添って南側に一段低い細い道路が通っていますが、これは以前の堤の右岸(南側) にあたります。国道2号の北側に大型店舗が林立しているのに比べ、南側に大型店がないのは、 一段下がっているその立地条件によるものです。「千軒土手」の名は、バス停にその名残をとど めています。 王子さん 福山市東深津町5 深津高地の先端に王子神社が祀られていることから、地元の人に”王子さん”と呼ばれています。 ここは、戦国時代の末期の天正19年(1591)、安那・深津・沼隈郡一帯を領有支配し神辺城主と なった毛利元康(毛利元就の8男)が、ここに居城を移そうとした山丘です。 |
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蛙岩(かえるいわ) 蛙岩伝説 福山市港町1丁目9 西濱の沖、今は田の中にあり。昔、海路の時、岨にてありしとも言うなり。又、里諺にはこの沖 の蛙岩と云うは、この處に年経たる大蛙なりしが或時大蛇来りて呑まんとす、蛙、迯廻り詮方なく 恐ろしさの一念こつて石となる、大蛇も喰え見れども石となりければ呑むこと出来ず、大いに気を 落とし此処に死したり、其頭は王子山にあり尾は市村山の裾に有りと云ふ。近頃、福山入河を掘し 頃其堀子ともをして、去寺の地中に池を掘らせしに、地中より廻り三尺ばかり、長五尺計りの蛇骨ら しきものを、ほり出せし事あり、是此等の骨にてそ有ぬべし。 深津村 当村近辺、元和、寛永の比迄者海にて、なら津、吉津、徳田、道上の辺迄、船の往来有りて、 蛙岩(御座床の後に有)の峭に舟を乗りかけ、多く破損しけるとそ。薬師寺の辺も西浜とて遠干潟 <補>蛙岩が海に浮かぶ岩礁であったことが分ります。また、この付近が、当時の入り江の 入り口で、「座床」と呼ばれた大型船の船溜りのあった場所であったことが分ります。 |
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四ッ樋 海水の干満に合わせて入川の水位を調整するために堤を貫いて作られたのが樋です。 現存する樋としては沼隈の県指定「草深の唐樋門」があり、樋は三ツあります。 ここ松浜には四つの樋があったので『四ツ樋』と呼んでいます。 川口町には『一ツ樋』『三ツ樋』がありました。 残念ながら四ツ樋は、昔の樋の名残は残っておりません。 新旧のポンプ小屋の下を覗くと四ツ又に分かれた水路と地名にその名残をのこしています。 |
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福山市立大学 港町二丁目19 大学祭の名称「港輝祭」来場者の投票で決定。 2011年(平成23年)設立の生まれたての公立大学です。 知は明日を開く 「知の伝達、知の創造、知の発信」 大学校章デザイン デザインは,福山市ゆかりの世界的工業デザイナーである 栄久庵憲司(えくあんけんじ)氏 の手によるもので,瀬戸内海や山陽道を通じて脈々と繋がる本市の「知の歴史性」と, 「知の伝達,知の創造,知の発信」という福山市立大学の使命を,「知」という漢字を モチーフに表現しています。なお,この「知」の漢字は,書道史上,最も優れた書家で, 『書聖』と称される 王羲之(おうぎし) の書体(「淳化閣帖」)をベースに,大学の校章として の普遍性や高い品位を表現しています。また,文字をかたどる正方形は,大学の場を表しており, 福山市立大学から知の力が拡がる様子を表しています。2013年1月所の精巧な写し(摸本)が 日本国内で見つかり、大変貴重な資料として報道された。 |
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入川は築城以前の芦田川の分流であったか。 福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る 09/10/4(日)第3‐2次発掘調査 砂層の中からは、摩滅した古墳時代の土師器片や弥生土器 片などが出土しました。 芦田川河口一帯に展開した集落が存在していた、 芦田川東岸にも中世集落の存在が想定される。 三階図書館から 福山港の入り江 の眺め。 |
2012/2/21(火)
箕沖地区は「びんごエコタウン構想」の中核拠点 訪ねました。
2012年1月経済産業省より「福山市次世代エネルギーパーク計画」として認定を受けた。
福山市ごみ固形燃料工場 ごみ固形燃料(RDF)工場は 可燃性ごみを「固形燃料化方式」で処理しています。 ダイオキシン類の削減,未利用エネルギーの有効利用等,循環型社会へ 対応した工場 2004年(平成16年)4月稼働 福山リサイクル発電所 広島県,福山市,民間企業などの出資による事業会社です。 参画市町村から集められた固形燃料(RDF)をガス化,燃焼,溶融して, 高効率発電を実現すると同時に, 再資源可能なスラグ,メタルを生成します。 事業開始 :平成16年4月 |
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福山太陽光発電所 最大出力:3,000kW 年間発電電力量(見込み) :約368万kWh (一般家庭約1,000世帯の年間使用電力量に相当) 2011年12月運転開始 |
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太陽電池設置面積:約45,000m2(約320m×140m) (マツダスタジアムの約2個分に相当) 二酸化炭素削減量:2,100t-CO2/年 太陽電池パネル枚数:16,544枚 |
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福山港国際コンテナターミナル2005(平成17年)完成 「海の貴婦人」と呼ばれる世界最大級の帆船「海王丸」一般公開 2013/10/20(日) |
2011年1月19日(水)
芦田川の河口に広がるデルタ地帯で、幾筋かの流れの間に、広大な三角州が広がったところでした。現地探訪しました。
備後十万石といわれていましたが、元禄時代には三万石余石も増えていたといいます。
新田開発とともに、塩田開発や繊維産業の基盤となる綿作の奨励を続け経済力は
飛躍的に高まり福山藩の財政を潤しました。
水野勝成は、福山城を築城に際し城下周辺の干拓を行い、東の三吉村、南の野上新開など
開発されました。正保年間(1644~1648年)になると、土手を築いて干拓を
するというやり方で一層大規模な新田開発が行われました。
こうして17世紀後半までには、蔵王(市村)から手城、沖野上、多治米、川口など
今の福山の町の原型が形成されました。
くわい(慈姑)全国シェアの約40%を占める。日本一の産地。川口町、新涯町、曙町が産地となる。
もともと千田町の沼地に自生していたものを、明治維新を迎えると中級武士は帰農し、福山城の堀に
植えたのが始まりとされる。
水野氏の沢瀉紋 水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから、 武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれた。 曙町のくわい生産のお父さん 「白い花は8月盆前に咲く、クワイのため花は 咲かない方がいい。抜いて新たに植え替える。 クワイが蛭などで傷んだために咲く。」 「鴨が小さいクワイの実食べにくる用心に糸張り 防いでいる。夏はポンプで水やり、施肥大変」 |
水野勝成は築城とともに上水道の整備に力を入れました。
久松用水をたどる(駅家町七社~石原隧道~本庄町高崎)
神谷 治部(かんや じぶ)
三河国(愛知県)刈屋城主水野忠重の神谷新左衛門の2男。水野勝成の移封により、福山に移る。
領内総奉行として、城郭、城下町の整備、領内の諸施策行い「土木の神様」といわれた。
藩主の命で行った干拓を行った、服部大池はじめため池、用水路も多く建設した。春日池改修工事
本荘重政
萬治3年(1660)松永湾を干拓に着手、寛文2年(1662)に松永新涯完成。寛文7年(1667)に約7年の歳月をかけて
本荘重政によって松永塩田開発された。東西約1.7km、南北約1.1kmの塩田の周辺には、塩田で働く労働者や
商人たちが次々集まって新たな村をつくった。松の木のように長く繁栄を続けるという意味の「松寿永年」にちなんで、
この地を「松永」と命名した。
「塩」「はきもの」の松永町から「びんご畳表」沼隈町を歩く
大門沖新開・津之下野々浜新涯を訪ねる
手城島城跡
「五箇の手嶋の城」という古い文書に記述があります。「五箇」は五箇荘(ごかのしょう)
引野、能島、大門、津之下、野々浜の「村」のことで、「手」は番手のこと、番手とは
城に在番する警固の武士のことです。
戦国時代には深津湾を望む所に多くの砦(城)があり、国人(こくじん・在地領主)が守って
いました。「手嶋の城」は番手が固める島の城(砦)ということになります。
周囲は切り立った岩石になっており、容易に船を寄せることが出来ない天然の堅固な要害でした。
深津湾を出入りする船を監視する重要な拠点で、早くから番所が設けられていました。
手城島城跡 周囲は切り立った岩石 |
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入川 瀬戸内海につながる堀割りで、鞆の港で積み替えられた 荷物を運ぶ水の道として機能した。 入江大橋が見えます。 |
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天当神社 手城新開の入植者に農業神として祀る。 本来は「天道様」というところをなまって「天当様」の当て字 |
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福山港 JFEの製品岸壁が見える。 手城排水機場・福山港湾合同庁舎・県営上屋あります |
潮止土手
引野沖浦から手城島、座床(港町)まで伸びています。この土手の北側にある千間土手
造成中しばしば大きな波によって決壊しています。寛文8(1668)年に完し、手城新開が造られ
手城村が生まれ、手城島も陸続きとなりました。海面の干拓地は塩抜きします、干潮時に
樋門を開け塩分を含んだ水を海に出し30年ぐらい繰り返してやっと稲がうまく育つように
なります。手城村や引野沼田、市村沼田、深津沼田などの新田では、綿花栽培が盛んに
行われていました。
梶島山城跡
梶島は深津湾の東に浮かぶ小島でした。梶島には、手城島城とともに海上交通を
監視し、取り締まるための砦(城)が築かれていました。「五箇の手嶋の城」の一つと
言われています。
梶島山の頂上付近に地神さんと金比羅さんを祀っている平地があります。そこが一の郭(くるわ・かく)
で、その西側が平地が二の郭で、さらに西にも郭が広がっていた。
岩竹山普門庵跡 千間土手から梶島山へ上る。石垣を築いた広い平らな所から、 さらに岩場を上がった 平面があり引野西国観音三十三ヶ所32番があります。 |
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正保4年(1647)深津沖新田の干拓では、 深津王子端と引野梶島山を結ぶ大堤防 が築かれました。「千間土手」といわれる堤防で、 今でもバス停にその名が残っています。 1間はふつう6尺(約1.82m)の長さ。田や土地を測る場合は 6尺5寸(約1.97m)。 室内の畳の寸法では6尺3寸(約1.91m)をそれぞれ1間と する場合がある。 |
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梶島山城跡 梶島山の頂上付近に地神さんと金比羅さんを 祀っている平地があります |
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普門庵は、水野勝成の菩提寺賢忠寺4代目住職の 覚海和尚が開いた草庵です。 庵の遺物とみられる萬霊塔の一部も残っている。 梶島山観音堂は平成22年7月顕彰碑あります。 |
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千間土手 東の起点 |
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2014年10月31日(金) 梶島山の道標 |
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石碑が、半世紀ぶりに見つかり、梶島山会館敷地内に移設された。 梶島山の道標(みちしるべ)道標は、石や木に道の方向・ 行き先など書いた道案内です。正確な地図が簡単に手に入らな かった時代に、地域の人々によって立てられました。旅人には、 大切な役割を果たしました。この道標は石樋畷(いしびなわて) 南端にありました。一時所在不明になっていましたが2014年3月 に見つかり、ここに移設されました。花崗岩の角中4面に、 「西 福山ヱ壱里」「北 神辺ヱ弐里」「東 引野海岸拾町」 「大正十一年六月建之 引野村青年団梶島山支部」と刻まれています。 梶島山には、この地に同じような道標が百間土手西詰、 千間土手東詰にもありました。いずれも当時の重要な道路に面し ていました。また、建立者が大正11(1922)年の梶島山の青年団である ことがわかったことも重要です。明治中ごろ、山本瀧之助(千年村)が推し 進めた青年団活動が全国に先駆けて沼隈・福山地域では発展しました。 梶島山でも、若者が時代を切り拓くために熱い気持ちで活動したことが、 この道標からも伝わってきます。 2014年7月 梶島山東・西自治会 |
深津高地を訪ねる。
深津王子神社より手城新開を見る | |
深津王子神社 正保4年(1647)深津沖新田の干拓では、深津王子端と 引野梶島山を結ぶ大堤防が築かれました。 「千間土手」といわれる堤防 |
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深津潮崎神社 「千間土手」大変な難工事、水野勝成が祈願したところ 堤防が固まり完成した。 |
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潮崎神社から深津沖新田を見る | |
近畿中国四国農業研究センターから 市村沖新田を見る |
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綱木に残る舫石(もやいいし) 船をつなぎ留める綱を結ぶ石で、舫石と呼ばれる。 近畿中国四国農業研究センター東側の丘に立つ 惣戸神社の参道脇に置かれています。 |
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元和5年(1619) 8月4日,水野勝成がこの場所に上陸し神辺城に入る 近くにつなぎ保育園 |
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久松用水より取水 上井手川(うわいてがわ) 芦田川の水を市村(蔵王)深津方面の用水として川を作った 当時の綱木の坂の用水路は大工事だった。 |
神辺城跡 登城
坪生(つぼう)古道散策
綱木(つなぎ)に残る舫石(もやいし)
~地名から探る 海の名残~
西日本農業研究センター(西深津町)東側の丘に建つ
惣戸(そうど)神社の参道脇(南蔵王綱木)に、変わった
形をした石が置かれています。これは船をつなぎ留める綱
を結ぶ石で、舫石と呼ばれています。
現在の春日・引野・南蔵王・東深津・手城町などの一部は
かつては海でした。
平安時代、蔵王・深津の一帯は荘園で、古文書には「備後深津地九十五町、
浜六町、山八十九町」と記されています。この「浜」は製塩浜を表し、
惣戸神社東側の田園付近にあったと推定されています。
1600年代、難工事の末に深津高地を掘り切って上井手(うわいで)を掘削し、
芦田川の水を引き込むことに成功しました。これで、深津、蔵王、引野など
へのかんがい用水が確保され、これらの地域の干拓が進み、かつての海は
完全に姿を消してしまいした。現在も残る綱木の地名は、船をつなぎ留めた
ことに由来すると言われ、舫石とともに、ここにかつて港があったことを
今に伝えています。
茶山を訪ねる 11/2/22(火)
かつては多度津へ 福山港旅客桟橋 茶山が釜の周囲を形どり、山の土でかわら焼き やっていてその釜があったので釜屋と呼ばれた 現在は釜谷と書きます。 |
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三吉酒造屋上から一文字土手 JFE製品岸壁 昭和39年 日本鋼管工業用地埋立 昭和41年 福山製鉄所発足 平成15年 JFE西日本製鉄所 |
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三吉酒造屋上から大新涯 農業用水は芦田川の葦陽用水から取水 農産物 新涯:ほうれんそう、 川口・曙:くわい、きゅうり、イチジク |
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鶴の井戸 茶山の三名水のひとつ 和田五郎八(近田屋)という大地主の住んでいた屋敷 跡にある清水の井戸。豊富な水量のため、多くの家から 水汲みに来ていました。 大新涯の飲料水、飢饉の時でも枯れなかったそうだ。 |
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二息さん 二匹の子狐(お稲荷さん)祀られている。 |
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常夜燈 金毘羅大権現 |
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唐樋門と茶山(標高58.1m) |
箕島を歩く 2011/2/19(土)
神辺城に代えて城郭の適地選定の候補地になった。内陸から離れた小島で不適となった。
南浦 ラカンマキ 小畠さん宅の庭にある。 昭和37年3月27日、市の天然記念物に指定。 箕島釣ヶ端:明治初年干拓 麦・サツマイモ から サツマイモ・金時ニンジン ホウレンソウ、トマト、シロウリ、大根 多品目野菜。 平成9年販売高2億円、ホウレンソウ1億円達成。 |
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左は恵比須さん 右は妙見さん 漁業している人多く 大漁祈願、海上安全祈願された。 |
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弁慶の足跡 源平の戦いで逃げる平氏を追って弁慶がこの地に来て 竹ヶ端から対岸の箕島まで一足飛びで渡った時についた のがこの足跡だといわれています。 足跡の長さ 110cm |
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端戸から河口大橋 アサリ・ハマグリの潮干狩りを楽しみました。 水吞漁港 ノリ養殖盛んでした。 工業用水を確保するため 昭和47年河口堰工事始まり、昭和52年完成しました。 |
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箕沖町 1974年(昭和49年)2月埋立てにより誕生。 目印の救世観音。 元旦の初日の名所。 |
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新涯町 福山港 | |
弘元寺 箕島八十八カ所霊場 十一番札所まえ 笠岡の女性 ぬかずいていました。 ここで突然、数珠が切れましたと・・・。 |
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栗木 お釈迦さん 一番札所・八八番札所あります。 四国八十八ヶ所巡礼の道程はとても困難で命がけだった そうです。昭和2年、箕島一円に新四国八十八ヶ所霊場 がもうけられました。 毎年1月の初めの第一日曜日に、朝8時頃出発して、南浦 で昼食をとり、午後3時半頃には帰ってきます。 |
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釜屋樋門 箕島は二つの島でした。昭和14年頃樋門が出来、陸続き となって二つの島はつながりました。 |