藪路街道・石州街道を歩く 福山市北吉津町〜駅家町万能倉 2005/8/28(日)
うす曇りの日 降水確率10% お湿り程度の雨降りました。
行程
福山駅→北吉津番所跡→実相寺(吉津坂)→藪路大峠(やぶろおおたわ)→横尾→新茶屋→森脇三叉路
万能倉の道標→万能倉駅
石州街道へ道のり
福山(五里)府中(五里)上下(三里)吉舎(三里)三良坂(三里)三次(二里)布野(四里八丁)備後・雲州
赤名(一里) 雲州・石州 酒谷(一里半)九日市(二里)浜原(十八丁)小原 ヤナシオ(五里)大森
「石見銀山遺跡とその文化的景観」07/6/28
世界文化遺産への登録を決めた。
ユネスコの諮問機関が登録延期を勧告し、登録見送りが懸念されていたが、
逆転で世界遺産入りが決まった。国内14件目。
石見銀山街道”九日市宿”(ここのかいちじゅく) 「銀の道を歩くたび」
丸の内 ガス灯と福山城 ガス燈と由来 明治43年(1910)4月当時の深安郡福山町 にガス会社を創業し明治の末期その頃の繁華街木綿橋や 福山停車場(現JR福山駅)等にガス燈を設置し町の人々 驚嘆させたと伝えられておりますこの度福山ガス創業80周 年を記念して昔日の面影を偲び青白く優しい光を放つ (二燈用)六基を街路燈として寄贈致しまた 平成2年(1990)5月 福山瓦斯株式会社 |
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両備軽便鉄道の痕跡 両備軽便鉄道が走っていた在りし日、両備福山駅を 発車した汽車は、ここを通り抜け、胡町駅に向かってい ました。下の植え込みの中に、枕木を支えていた礎石の 左端し部分が残っており、その事を物語っています。 この礎石はコンクリート製で、右端までの部分も建物 (美泉堂薬局)の下に埋まった状態ながら、そのいまま残っ ており、廃線跡に残る唯一の礎石と言われています。 両備軽便鉄道はJR福塩線の前進で、福山〜府中を 結んでいました。1914年(大正3年)7月開通。 福山城東堀端の外堀を埋め立てたところに、両備福山 駅があり、横尾駅まで、胡駅、吉津駅、そして奈良津 トンネルを潜り、千田川をまたぐ東廻りでしたが 1933年(昭和8年)国有化で、国鉄(現・JR)に 引き継がれ、福塩線となり、備後本庄駅経由による 現在の西廻りに付け替えられ、東廻りのルートは廃線と なりました。なを奈良津トンネルは、その後切通しにして、 旧・国道182号線(現・国道313号)が整備されました。 |
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北吉津町 吉津御番所跡 現在渡辺神社が祀られている 吉津:港として栄え、良い港を意味。 |
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吉津の道標 道路工事で土中に埋まっていたものを掘り起こし、 往時にあった反対の場所に保存された。 『従是東 京大坂道』 『従是北 石州道』 藪路から森脇に至り 府中・上下を通る銀山道へ |
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吉津坂
実相寺 北吉津5丁目
実相寺の山門は神辺城の大手門を移したもの 他に神辺城の遺構 搦手門は妙蓮寺、惣門は大念寺。 |
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福山駅北口のマンション建設予定地 1622年築城時の石垣が福山城の外堀出土 調査後 実相寺に寄贈され2005年8月 |
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地蔵さん
西側 北美台 東側 高美台 |
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藪路大峠 車多い 街道の面影ある
茶屋・うどん屋があった。やぶろ大垰(おおたわ)。
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藪路大峠(やぶろおおたわ) ここにある「南妙法蓮華経」と刻んだ石塔は、 「法界さん」と呼ばれ、村の出入り口に祀って悪霊の進入を 防ぐ意味で建てられたものです。 またここ藪路大峠は江戸時代より、福山〜上下〜石見国 に通じる石州街道の重要な峠でした。 府中神石の蒔き・米・炭を運ぶ唯一の道で人の往来も多く、積み荷車は天神坂下で待機する「かけ馬」によって 約1kmの坂道をかけ上がっていました。 現在、天神坂には馬像の供養石が四ヶ所あり、 当時の「馬泣かせの急坂」が偲ばれます。 城下を一望でき ほっと一息ついたことでしょう。 享保二年(1717)百姓一揆が寄せてきた道。
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千田藪路天神坂馬供養塔 福山が、城下町として栄えた三百年前から、 横尾地区は城下町の生活物資の集積地になり、 藪路街道はたくさんの馬車でにぎわいました。 大峠を越える急な坂道、重い荷物、馬の疲れもひどく、 いつしか「藪路天神坂、馬殺し」 と言われるようになりました。 こうして城下町の人々の生活を支え、 きびしい労働に倒れていった愛馬の死を悼み、 馬の冥福を祈ったのがこの供養碑です。 この小さな供養碑も藪路街道の昔をしのぶ記念碑です。 (ここから北へ四カ所あります |
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三軒家付近の家並み | |
千田三差路交差点付近 両備軽便鉄道橋脚跡 JR福塩線の前身で、1914(大正3)年、両備軽便鉄道が福山と府中の間に開通した。 横尾駅から発車した汽車は南に進み、奈良津トンネル〜北吉津〜胡町を経て福山駅に到着していた。 1933(昭和8)年 国有化で、国鉄(現・JR)に引き継がれ福塩線となり、備後本庄駅経由による 現在の西回りに付け替えられ、 1938(昭和13)年芦田川沿いの西回り路線の開通により廃止となった。 現在は、廃線跡を拡張し奈良津トンネルの山を切り開いて、旧・国道182号(現・国道313号)として利用している。 |
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両備軽便鉄道橋脚跡 両備軽便鉄道当時の交通を語る貴重な跡となっている。 2014/7/21(月) 1914(大正3)年7月21日、 民間の両備軽便鉄道として開業。 福塩線の内、 南線と呼ばれる府中―福山間(15駅、23.6q)が開通して100周年 |
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横尾町
横尾の家並み |
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横尾町
横尾の家並み |
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横尾あめの製造所 横尾あめ鶴屋本舗 1軒となった。昭和30年代まで30軒 町中にあった。 |
千歳あめ、祭の屋台、正月の飾りあめ。 麦芽飴を煮詰めてショウガを混ぜて練り上げる。 鏡もちのようなあめ 箱の中で「のみ」「つち」でたたき割り さおばかりで量って竹の皮に包んでは売りさばいていた。 |
横尾町 横尾の家並み
「横尾茶屋町」地名
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鶴ヶ橋にあります。
出雲大社道 左の新しい道標 右の道標は江戸時代後期 |
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鶴ヶ橋を渡り 横尾の町を見る | |
新茶屋バス停辺り
正膳稲荷神社に江渡橋柱・・大正11年3月架換
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「藤浪先生功徳(くどく)碑」 「吉田先生頌徳(しょうとく)碑」 片山病撲滅の碑 藤浪鑑・吉田龍蔵先生の功績 江戸時代より深安郡(現神辺・御幸町の一部)内には、 日本住血吸虫による風土病が蔓延していました。 幕末ごろ、沼隈郡山手町の漢方医である 藤井好直(ふじいよしなお)は、この風土病が片山地方 を中心に発生していたことを「片山記」に書き、 この病気の解明のため近隣の医者に協力を呼び 掛けています。 |
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明治になって粟根村(現加茂町)の医師窪田次郎は この病気を「片山病」と名付け、治療法の究明に献身し、 また広島県は「片山病調査委員会」を設置しました。 1901(明治34)年、深安郡中津原村(現御幸町)の医師 である吉田龍蔵(よしだりゅうぞう)は、患者の健康状態 が著しく悪いため解剖研究の必要性を痛感します。 1904(明治37)年5月に京都大学の 藤浪鑑(ふじなみあきら)教授の協力を得て行った 解剖の結果、肝臓内から雌虫を発見します。 これが人体から検出された最初の日本住血吸虫と なりました。 1913(大正2)年、宮入慶之助(みやいりけいのすけ)らが 佐賀県の水田から日本住血吸虫の幼虫の中間宿主 である巻貝を発見し「宮入貝」と命名します。 片山地方にもこの貝が無数に生息していることが分かり、 1918(大正7)年に広島県地方病撲滅組合が組織され、 宮入貝の駆除事業が開始されました。 戦後以降ぼ石灰窒素の散布や用水路の三面コンクリート 化など予防・撲滅対策により、1980年広島県ではやっと 撲滅が確認され、片山病は終息されました。 |
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めずらしい 紙ヒコーキ博物館ありました。 | |
御幸町森脇
森脇三叉路の道標 |
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道標 菅茶山が筆を揮ったといわれる 正面 「右ハふくやま道」 右面 「文政四辛巳天(ぶんせいよんかのとみ 天:年、1821年) 春二月日 施主当所定圓(じょうえん)」 左面 「左ハかみか(が)た道」 と彫ってあります万能倉の道標 |
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岩成橋の交差点
備後の国際的田園詩人『木下夕爾』の句碑。 |