備後福山「石鎚山(いしづちさん)273m 2006/10/15(日)広島県福山市森脇町 山手町

秋晴れの一日。5時間半 ハイキング疲れました。

「道しるべ」がしっかり整備されていたら、絶好のハイキングコースである。
送電線の位置、所々に目印「テープ」・「火の用心」をたよりに登る。
何回か迷った。

行程
森脇橋→石鎚山(273m)フライトエリヤ→八反田→中国自然歩道分岐点→展望台(東屋)→フライトエリヤ
西国街道(郷分八幡神社→首塚→常夜灯→芦田川旧土手→大渡し跡)→中津原ゴルフ場

国連安全保障理事会は14日午後(日本時間15日未明)、
核実験を発表した北朝鮮に対する制裁決議案を理事国全15カ国による全会一致で採択した。



水野勝成は福山の城下町を水害から守りました。

1.芦田川の福山側の土手より郷分側の土手を低くする
2.小田川を井原で堰き止めて、福山へ流れてくる水量を少なくする平成30年7月豪雨
3.森脇と中津原境へ砂堰を造り、洪水の時はそこを切って岩成沖や神辺沖を遊水地とする

江戸時代の羽賀の乗越え堤(のりごえつづみ)堤防を築いた時、94mだけ土手を築きませんでした。

明治時代になって、土手の低い部分に砂を盛り上げて水が溢れるのを防ぎました。これを砂土手(砂堰)

明治38年(1905)調停された 砂土手の高さ


2022/7/27
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福山平野の発達と開発 福山市史 地理編 2010年
福山平野は、山陽自動車が芦田川を横切る場所にあたる幅0.6kmほどの狭い峡谷(郷分峡谷)
を境に、北部の神辺平野と南部の福山三角州に分けられる。いつから、なぜ、この狭い場所を
流れるようになったのかはよくわかっていない。峡谷付近で合流する高屋川は東の小田川と谷中分
水界をなしており、高屋川は運搬土砂の少ない排水河川、無能河川となっている。高屋川の上流
が小田川に争奪された地形とみることができ、争奪前には、井原よりも上流(さらに下流の一部)
の小田川が高屋川を経て、福山に流れ込んでいたと考えられ、峡谷の起源は古くにまでさか
のぼれる可能性がある。峡谷部周辺の堆積物や小田川流域の地形環境の復元などが問題を解く鍵
となるだろう。
神辺平野の微地形
峡谷より北に位置する神辺平野は、平均傾斜約440分の1と緩やかな流れとなっている芦田川の
氾濫原と、その支流である神谷川・有地川・服部川・高屋川などの諸河川が谷底や平野に砂礫を
埋めて形成した扇状地状の地形からなる。芦田川の左岸の江良から下岩成、徳田を結ぶ線よりも
北には、緩く南に傾く地形が広がっており、小規模ながら複合扇状地の様相を呈する。万能倉から
駅家付近に広がる服部川の扇状地が最も大きく、地形図でも同心円状の等高線を読みとることができる。
一方、峡谷部のすぐ北の御幸町付近は、峡谷で芦田川の川幅が狭くなるために排水がスムーズ
におこなわれないことによって、勾配0.2%とほとんど水平な低湿な地域(氾濫原)となっている。
神辺平野は、『日本書紀』の記述を手がかりに、かつて海であったとする「穴の海」伝説の舞台である。
神辺町中条で海の魚である鰯が捕れたとする「中条鰯」など、海との関わりを示す伝承がいくつか
知られる。しかし、森脇付近のボーリングでは、静水域で堆積したと考えられる粘土層が地下7.5m
まであり、その下には6m程度の砂礫が認められる。神辺小学校付近でも同様であり、海の底に堆積
したと考えられる地層は見出せれていない。また、この付近の標高は10m程度とかなり高いことから、
排水不良な沼沢地が広がり、芦田川の狭窄部を経て海に続くようにみえたことから、このような
伝説がつくられたと考えられる。

中条鰯と人魚 「備後神辺」
元亀・天正の頃(1570〜78)中条に佐貫坊という1人の修験者がいました。
佐貫坊は諸国を遍歴して信州(長野県)に至り道に迷って山深く入り、そこに
あった老婆の家に一夜の宿をもとめました。老婆はいぶかしげに「あなたは備後の
人でありませんか」というので、「どうしてそれがわかるか」という「あなたの
言葉には備後なまりがありますよ」といって、なつかしげに家にひき入れてくれました。
その夜、老婆は「わたしも生まれは備後ですが、あなたは何村ですか」と問うので、佐貫坊は
「中条という田舎者です」と答えると、老婆ははたと膝をうって「中条ですか、わたしも中条
ですが、村を出てあら久しいので大分かわっているでしょ、鰯はよくとれますか」と、しみじみ
なつかしがりました。佐貫坊は妙なことをいう老婆じゃと思い、「海もないところで何で鰯が
とれますか」といえば、老婆は怪しんで「さてはあなたは中条ではない、中条は海に面した
海人の里で、南には八尋や千田の網代(あじろ)があり、五箇手島(要害山や山王山)は舟つき
の漁り場で、中島や鵜飼、網引は西にあって、鰯はとくによくとれて中条鰯と世間ではいっています。」
と申しました。そこで佐貫坊は「それはちがう、中条は三里も南でないと海はない」と半ばくしましたが、
老婆はなかなか信ぜず「さては海が変じて桑田になるたとえのように、わたしが国を出て幾百年
になるので、そんなにも変わったものか」嘆息し、そして「わたしが娘であったとき人魚といって、
胴より上は人の形をし、尾は魚である怪しげなものを捕った人がありました。奇体な魚もあるものだ
と海に捨てようとするのを、わたしの知るべの人がもらって帰り、この魚を食えば長生きすると
昔からいう、煮て食べなさい。酒を買ってくるからといって出て行きました。わたしも不思議に思いながら
煮て食べてみると、とてもおいしくて、しらずしらずのうちに皆食べてしまい、その人にはほかの
魚をとりかえて出しました。わたしは百年たっても老いもせず、死にもせず、子も孫も身よりの
皆死んでしまい、頼る人もなくなりましたので、国を出てあちこちまわっているうちにここへ足を
とどめました。それからはや何百年にもなるので故郷へ帰る気もせず年を過ごします。」
と、夜もすがら話しつづけました。佐貫坊は中条へ帰ってこの不思議な話をしましたが、もとより
誰もその老婆を知るものはありませんでした。この奇妙な話は村中にぱっとひろがったということです。

@
石鎚山(いしづちさん)
273m

電波塔 見えます

マイカーを
河川敷の駐車場に。

 

A森脇橋を渡ります

送電線の下に登山道から
入口は標識なく
分かりづらい

中国自然歩道
(山野峡・加茂ルート)30.5kmへ続きます

B平ヶ峠(ひらがたお)
から急坂を登ります

峠の頂上に
妙見信仰の「北辰庵跡」あります。

ロープあります

立ち木など方向わかりません
テープの目印がたよりです

送電線の位置 頼りになります

C下山守石鎚山大権現社

やっと登りました。

C山頂には電波塔

点検用の(H16・3)道路整備されている

C石鎚山273m
フライトエリア

山頂からの眺望すばらしい

福山市の副都心
フジグラン・ビッグローズ
平成大学がよく見えます。

中津原方面は
山影で見通せません

C芦田川河川敷  駅家町

穴の海」神辺、駅家、新市にかけて、
ずっと穴ぐらのように広い平野が拡がっています。
海であれば貝塚があるはずである。
ないので「沼」「湖」の状況であったのではないか

尖った山:福山で一番高い蛇円山

C新市町 府中市

相方城」見えます

C上山守石鎚神社
C芦田川フライトエリア

ベンチで寝転んで読書中の若者
いました

ハンググライダー
ここから飛び立つ

D八反田の道しるべ

八反田の集落 
過疎化が急速に進み
ほとんど空き家となっています。

E中国自然歩道

上岩成尾道境ルート案内図
(23.4km)

F三叉路に道しるべ

弘法の水

G東屋に案内板
G東屋

立ち木で見通し悪い

地王山よりの眺望

Hフライトエリア

瀬戸内海

沼隈の山並み 熊が峰

草戸千軒遺跡  水呑に連なる山々

神島橋・山手橋・山陽新幹線 見えます

芦田川河川敷

Hフライトエリア

福山城 中心市街地

水野勝成が開発した「久松用水跡」
見えます。

Hフライトエリア 地王山(269.8m)

芦田川 素晴らしい眺めです。

福山八景の一つです(自称)

Hフライトエリア

山手町 城西中学校見えます

「備後赤坂駅」方向

Hハンググライダーと小さな祠
3人の鳥人は風待ちでした。

飛ぶには 「向い風が良い」と鳥人。

廃寺となった萓野山龍蔵寺
行くには一軒やの前に「犬が吠える」
あきらめました。

下山しました。西国街道へ。

07/10/28(日)
離陸体勢 風待ちです。

「弘法の水」汲んで帰りました。

西国街道 歩きました

採石場の向うに

I赤い社は郷分八幡神社

 

J宮入道光音の首塚
石造屋形の祠

天文21年(1552)
志川滝山合戦がこの地

毛利氏の攻撃で宮氏の志川滝山城(加茂町北山)は落城、
盟主宮光音は敗走の途中
ここで討ち取られた。

K郷分町に常夜灯

山陽自動車道 

背景は「池阪山171.7m

L地神

背景は「池阪山」

M芦田川旧土手

広い自転車道 旧土手跡。

R「平ヶ峠(ひらがたお)」標識ありました。
瀬戸内海で取れた魚を平ヶ峠を越えて府中方面まで運んだ。大渡橋の北詰へ福山の近道で茶店もあった…古老の話し

M大渡し跡
日頃は「歩行(かち)渡り」をし、冬季になると一枚板の仮橋がかけられ、大水の時には渡し舟を出していた。
一本松跡
1945年(昭和20)切り倒された。
「二本松」「三本松」
大正8(1919)年の洪水で堤防とともに
押し流された、地名として残る。

西国街道は芦田川を渡って
中津原一里塚
横尾を通って神辺宿
芦田川郷分側 芦田川大渡し

渡船の安全のため
帰帆燈籠」立っていた。

燈籠に灯りを入れ、
渡船の目じるしにしていた。

 

M大渡橋

明治時代にはこの場所に
土橋が出来ました。
昭和11年(1936)木造から鉄筋コンクリート橋。平成10年(1998)取り壊され新しく架橋された。

左に「池阪山」

N中津原ゴルフ場

不必要と思われる広大な洪水敷
水勢の激突する屈曲部の中津原は
災害防止上の上から必要としている

ゴルフ場、運動会や遠足地として
スポーツや行事に利用している。
放牧された歴史もある。

 

06/12/2 探索した

砂堰三尺の石柱
O森脇八幡神社


「我々芦田川沿岸地方住民の命を守るために、多年悪戦苦闘の古戦場であった羽賀砂土手の由緒あるこの標柱、めまぐるしく変わる世の中、跡形もなく消えてなくなることをおそれ、ここに移築して、祖先の恩を感謝する材料とする」という意味の言葉が刻まれました。

郷分以南福山の町を洪水から守っていた水位が何mに達すると下流部が危険となるので砂土手を切って低地に流す

御幸一帯は泥海となって下流部を救っていた、郷分以南では早く切ろうと中津原森脇下岩成は切らすまいとして対峙すること度々であった

大ゲンカとなり巡査がサーベルを抜いて仲裁に入ること度々ありました
そこで明治38年(1905)7月深安郡長岡田吉顕の調停によって砂土手の高さを決める標柱を建てました。その後芦田川の改修が終わったので昭和8年(1933)8月中旬移建しました。(昭和12年新しい堤完成)
砂堰中央に石柱を埋め立てて水位を計って切り崩すしていたのである
水のひいた後 森脇の人達は元通り砂堰を築く土砂運び毎年毎回繰り返していた
その苦労は察するに余りある

逆井手(さかいで)の門樋石(もんぴせき)  安永2(1773)年の年号が刻してある石柱
川の流れ変えて流れを弱める
水刎(みずはね)
中津原で直角に曲がった場所にあります。
三次浅野藩 三次町 旭堤(近世土木遺産)浅野堤

三原城の和久原川にも水刎あります。

山口県境・小瀬川にも小林三角和久。

P羽賀の乗越え堤羽賀神社からの眺め
水野勝成は城下町を洪水から守るため
芦田川を中津原で直角に曲げ 北岸に
乗越え堤(52間約94mだけまるで切り取ったように土手を築きませんでした)洪水の
氾濫に備えて水を中津原に溢れさせ,
下流
の城下町を救う構造とした。
一種の安全装
置です。明治10年頃 砂を盛って堰きとめ
た(砂堰)砂堰の下流には舟小屋がありま
した。御椀を伏せたような山は片山片山
の発生源である宮入貝の生息地と知ら
れた地域。撲滅の端緒を開いた中津原の
医者吉田瀧蔵であった。
O

中津原のゴルフ場片隅にあります。

羽賀の砂堰跡には

石碑が埋めてあります。

羽賀橋は昔と変わらず同じ場所にある。
コンクリートの潜水橋。

ゴルフ打ちに利用されている
橋となっていた。

O砂堰跡から羽賀橋を見る。

Q石原隧道:駅家町の「七社」から4kmの長さをもつ用水 1.5km下流で芦田川の下をくぐり水野時代からの長い伝統をもつ「久松用水」の源流となる重要なところ。

S岩助土手跡・高張土手跡

芦田川の砂堰が切れても濁流が
森脇村の住宅へ流れ込まないよう
にしていた。岩助という人が造った。
昭和13年御幸小学校地造成のため
盛土をそこへ運びました。

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