福山城下笠岡道 散策記録   2002/9/18(水)

北吉津→木綿橋→笠岡道の起点→三吉陣屋跡→三枚橋→辻の坂→引野町→日和峠

津之下→大門町   笠岡代官所から鴨方往来で岡山へ

秋晴れの一日。約4時間 10kmの散策。

日朝首脳が初会談した日の翌日、(拉致8人死亡・5人生存)。

元和5年(1619)備後10万石の領主となった水野勝成が築城した 福山城から東へ。

古い地図に笠岡道ある、さまざまな史跡ある  調べて 地図頼りに散策した。

02/11/12 「惣門」のプレート出来たと聞き訪ねる、賢忠寺(水野勝成菩提寺)。

辻堂・お堂・よつ堂
旅人や道行く人の休憩所として水野勝成の流浪時代の便宜発案で作られたとするもの。
死者の供養や疫病の消除祈願のため建てられた等言われている。
元禄検地以前から社寺と同じに免祖地になっていて 
明治になっても官有地として取り扱われた。
辻堂は信仰の場所として、又その地区の共有物保管場所、
集会所、休み場所として利用された。
九尺四方、4本柱、吹き放しで堂の中には石、
又は木造の地蔵尊・お大師像などが祀られている。
かつての主要道路沿い、とりわけ峠の頂上、
坂道の麓。四つ角や村境に多く見られる。

地蔵堂
地蔵とは「母なる大地の如く万物を平等に育成し成就せしめる偉大な力を蔵している」の意
「ありとあらゆるものを助ける」の意から多くは道端にたたずむ。

常夜灯」という言葉はいかにも旅情を誘うもの、道しるべの役割をしていたそうです。
神前への灯火と、照明との役割を 信仰と参宮客の道中の安全を祈願して建てられた。
「金毘羅宮」「象頭山」などの文字が刻み込まれています。
常夜灯は 航海など海の安全を守る神として祀りますが、
五穀豊穣を祈る農業の神として祀っています。
旅人たちの安全や地域の発展を祈った民間信仰の対象であったとも考えられます。
長い間地域のの移り変わりを見守ってきたことでしょう。

地神」と深く刻み込まれた自然石。

地神とは、農地に宿り農作物を豊かに実らせてくれる神のこと。
春、秋の社日(しゃにち)には農作業を休み、地神に感謝をするまつりをした。
社日は土地の神、五穀の神を祀り祝う日で、
春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日をいいます。
五穀の神
五穀とは日本では、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指す。

五角柱の地神
広島県東部・岡山県南部には五角柱の地神があります。
社日(秋分、春分の日に最も近い前後の戊(つちえ)の日の行事として、
往来の道端に五角形の
木を立てて、子(ね)「北」の方向に天照大神(あまてらすおおみのかみ)、
寅卯(とらう)「東北東」に大己貴命(おおなむちのみこと)、
巳(み)「南南東」に少彦名命(すくなひこのみこと)、
未申(ひつじさる)「南西」に埴安姫命(はにやすひめのみこと)、
戌(いぬ)「西北西」に倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の五神を書いて
竹を立て注連(しめ)を引き、五穀を供え
、社稷(しゃしょく)『土地の神(社)と五穀の神(稷)』を祀る事。
秋の社日も同じで村中が半日休息する。

天照大神(太陽の神)・大己貴命(農耕の神)・倉稲魂命(食物の神)
・埴安媛命(土の神)・少彦名命(農耕の神)

明治四年(1871)7月 福山藩を廃止「福山県
          11月 「福山県」を廃し「深津県
明治五年     6月 「深津県」を「小田県」と改称
              県庁も笠岡に変更
明治八年    12月 「小田県」を廃し「岡山県」に合併
明治九年     4月  「岡山県」のうち備後六郡を「広島県」に属す
           6月 「広島県支庁」を福山に置く
          (現在のような広島県の県域になった)





水野家断絶時における所領分割
阿部時代は分割され、阿部藩(10万石)・肥後中津藩(2万石)・天領(3万石)



築城に利用された吉津川御手洗川。
二股公園で三方に分かれる

福山城背の水路網
一つは東へ流れ
吉津・奈良津・蔵王・深津方面の水田を潤す
上井手川
木之庄町の時計台の辺りで南へ分かれ、
城北中学校の西側を南下して「ドンドン池」と
呼ばれる「蓮池」の北端をかすめるように流れています。

蓮池の北東端のうてびから注ぐ清流はこの水路の上を
通って東へ流れ「御手洗川」として福山八幡宮やその
東側へ連なる寺社の門前を緩やかに通っています。

蓮池から東側には現在3本の水路が流れています。
北からの水路は、蓮池の少し北東寄りの場所で水路の
立体交差がなされており、南流し蓮池から東へ放流する
水路と合流して「蓮池川」となります。

御手洗川 吉津御番所跡

 

福山城の北側にある。

妙政寺 2代目城主、水野勝俊の菩提寺

 

03/2/20 水野勝俊まつる、ゆかりの石灯籠2基 
70年ぶりに戻る
昭和4年頃、寺の維持に苦しんだ寺が売却、
三蔵稲荷神社にあったもの。
350年忌を前に引渡し。
ゆかりの石灯籠「中川善右衛門」刻んであった、
宮本武蔵関わり分かったそうだ。
歴史資料 水野藩と宮本武蔵 宮本武蔵の
養子は福山藩士
中川志摩之助の三男(三木之助)である。
宮本武蔵は大阪夏の陣の時水野藩にて
二代水野勝俊(17歳)の護衛として
参戦している。その時中川志摩之助は
(鑓の名手)で武蔵と意気投合している。 

水野勝俊の墓  墓域

 水野勝俊墓域

北吉津町

吉津御番所跡。


現在渡辺神社が祀られている。
宝永7年(1710)に設けられた、
番所の役人はは代々渡辺氏がつとめた。

 

今も残る 福山城の石垣

福山城西外堀跡の石垣  福山城三之丸西御門櫓台跡

福山城三之丸北御門外枡石塁跡
福山城三之丸東外堀内側の石垣遺構

 

 

福山城東三之丸の石垣

福山城東三之丸の外堀に面した石垣の一部で、
福山城の東端を知るうえで貴重な遺構です。

福山城は本丸、二之丸の外側に内掘、三之丸の外側に
外堀を備えた堅固な城郭でした。
しかし、明治以降、本丸・二之丸以外は鉄道・道路・学校用地など
に利用され、その状況は大きく変えられました。

この付近にあった外堀も大正3年(1914)福山府中間に通じた
両備鉄道の駅をつくるために埋め立てられました。

 

三之丸1丁目

05/4/6
福山城の外堀出土・・・・1622年築城時の石垣 

長さ約24m、幅約3m、高さ約2m、0.2m−1m花崗岩。

マンション建設予定地 2月から試掘 調査後外堀石垣は
北吉津町 実相寺に寄贈され再び石垣として築かれた
6月末完成。
福山大空襲(1945/8/8)で焼けた影響と見られる赤い痕跡もある。
4月8日 新聞・TV報道される。4/29 説明会250人集まる。

藩主の邸宅から外堀に掘ったと見られる

排水溝跡

埋められた堀の跡

06/8/24(木) JR福山駅前の駐輪場跡
福山城外堀の石垣出土

城の玄関口にあたる追手御門と二重櫓つなぐ外堀で
水は瀬戸内海につながっていた。
駐輪場跡地東側のタクシー待機場付近が、
二重櫓と船が出入りする御水門の辺りになる。

07/5/12(土) 
福山駅前広場(地下送迎場)に係る発掘調査 現地説明会

08/4/19(土)  同上  第2次発掘調査 現地見学会 

信号機のある四つ角に石柱が立っている。

北吉津町

北吉津町の道標  

 

従是東、京大坂道」 神辺街道へ
従是北、石州道」 旧大峠を越え府中・上下を通る銀山道へ

石州銀山へ福山より三十三里弐拾町余り(約132km)

奈良津、千田を経て神辺の川南で西国街道に

銀山道へ

藪路から森脇に至り 府中・上下を通る銀山道へ
                02/11/12(火)
惣門の案内板できたと聞き、訪ねました。

番所は町奉行支配でしたが、
惣門
は大目付支配下に置かれ町方支配とは別な扱いを受けていました。

惣門は始め本橋の北詰あった。新橋できたことによって新橋筋、
胡町の北詰に移転したため本橋筋がさびれ新橋筋が本通りとして
賑わったといいます。

惣門・胡町辺り

胡町辺りの古い家並み

エキゾチックな煉瓦造りの街並み

大黒町から福山城を見る。

 

ガス灯

   ガス灯    

2014/11/8
城下町「福山」の旧町名を訪ねて 

北吉津から胡・大黒と続く「通り町」

現在の本通り商店街の原型。

今町・笠岡町
にある 本通り

約400年の歴史を刻む結納品販売店
「紀伊国屋」

ふくやま本通商店街さんぽ

     

御舟町1丁目 

バラを植えたロータリーに笠岡道の起点

右上方道かさおか3里玉しま8里をか山16里)」

 

玉島・・・備中松山藩の貿易港

江戸時代、玉島港は高梁川と運河で結ばれ、
備中松山藩の外港として重要な役割を担っていた。

をか山
笠岡代官所から鴨方藩へ鴨方往来で岡山藩に通じる。

 

左九州道尾のみち5里三はら8里とも港3里)

城南では新橋から南へ抜けて西へ

 

町外れの地吹から二つに別れ 

神島橋から西国街道に出る道 尾道街道

鞆街道が南に分岐する。

霞通りはこうして誕生した

寺町の笠岡道

船町 江戸時代、福山城の外堀と瀬戸内海をつなぐ
    入江だった。

木綿橋  京都・伏見城にあった欄干を取り付けた

かつての

木綿橋は俗称で、公式には新橋

備後がすりの材料となる
木綿の市が開かれ、賑わった。

 

天下橋

昭和初期までは、米やミカンなどを運ぶ小舟が
ひっきりなしに往来し、福山初の銀行となった
旧福山銀行本店もここに置かれるなど、
商業中心地として栄えた。

かつての

本橋  天下橋は俗称

150mほど川をのぼったところ

入り江の埋立てで、
1938(昭和13)年までに橋は消滅

戦後は中心市街地の空洞化が進む中、
店も客も減り続けた。

 

寺町4

 
福山城を築城した 水野勝成の菩提寺 賢忠寺
2013/5/12
新住職・大俊覚禅大和尚(水野覚禅さん43歳)
の就任を披露する式典
「晋山式」が執り行われ、稚児など800人の行列が祝った。

賢忠寺は「かなりや幼稚園」。  東へ歩く

 

水野勝成のお墓

 

三吉町南1丁目


三吉陣屋跡 清水の湧き出る大井戸には人々が恩恵を受けた

三吉町南

三枚橋
幅広い大橋であった

 吉津川に架かる橋が「三枚橋」です。

かつては太鼓形の土橋でした。
大正11年(1992)に地元の篤志家、
佐藤吉助が私財800円を投じて
平らな石橋に作り替えた

  笠岡道の道標

「左 かさをかみち」 
   

水辺公園で早い昼食。

薬師川は 吉津川の東部における呼称

 

東深津町7丁目

笠岡道の道標

「左ふく山、右かさ岡」

 

引野1丁目にある常夜灯

引野町北3丁目

天神社

 

天神社の四つ堂
2017/2/16
辻堂は主に西日本で見られるが、福山には特に多く、
四方の壁がない形態が
目立つという。これまで市内で260程度を確認。建て替えや補修をして
引継がれてきたケースが多いという。
江戸期の儒学者茶山が地誌「福山志料」で、辻堂を「憩亭」と表現。
当時の福山藩に約600あると記している。
旧街道沿いに多く、「旅人の休み所として活用され、
今も昔もコミニュティーの場」と見られる。
今回の調査は2017年度、日本遺産申請を目指す福山市が、
ストーリーづくりのため
進める歴史文化基本構想策定事業の一環。

引野東公園

道標「かさをか」「月神社へ北三丁」
大正十年酉十二月

引野町

今もガードに残る山陽鉄道時代の構造物
単線から複線に名残り跡あります

福山駅開業日 明治24年(1891)9/11 

引野町北5丁目

真言宗医王寺

 

国道二号線竹之内口交差点→道々池下→日吉峠
大津野学区健康づくり 中級コース/体育コース 

竹之内 日吉峠  地蔵さんが道中安全を。

英数学館高校→津之下

北向地蔵さんは
「村のはずれのお地蔵さんは  
いつもにこにこ見てござる。
なかよしこよしのじゃんけんぽん。
はい、石けりなわとび かくれんぼ。」

激しい変貌している 農村社会。

地蔵さんは強く生きている。

民衆に守られ折にふれ心の支えとなり、
糧となっている地蔵さん。
日本人の心のふる里。
連帯が生まれ 地蔵が守られてきたのであろう。

 

枝廣城跡

明知山城跡 

大津野湾沖

東に白石島・飛島などある笠岡諸島 
西に鞆の浦がある海域。
立ち木あり見通し悪い 
元旦には初日の出に行く 地元の人。

津之下→大門

大門町大門

銀河学院にある常夜灯・お堂(西谷)

道しるべ「右さくみち 左ふちうみち」

 

大門貝塚跡

国道沿いの修理工場付近。
古代の製塩遺跡。
地域開発で大部分壊されている、地元の人
「案内板があったが今はない」 
2013年3月17日(日)大門貝塚に説明板・石碑設置
縄文時代前期より晩期まで大津野湾奥の西側丘陵に人々が住み、
食べた漁具や動物の骨、
生活道具を捨てた場所(大門町津之下信之江276)
明治23年 初代教師 枝益六が人骨二体を発掘した。
昭和34年国道2号線工事で貝層を失う
遺物は大津野小学校、福山城博物館、
福山市埋蔵文化財収蔵庫他に保管中
出土物
縄文土器片・石器類・貝殻13種・貝輪・石錘
鹿角整釣針・製塩土器片・骨角器・猪骨
土製耳飾・土師質の土鍋と羽釜
石碑は野々浜坂里古墳の天井石を使わせて頂きました。
平成25年3月吉日建立

大門貝塚出土品
4000年〜5000年前の物
大津野小学校にある

お堂(横道)

大津野小学校学童の写生の題材、桜の花きれいだ。

常夜灯と地神(横道)

お堂(野々浜)

常夜灯・地神はため池沿いに

雨乞いの石・神社多い。

 

番所跡

文政九丙戌(1826)
天保三壬辰(1832)刻んだ石標あった。

笠岡市用之江 村境にある

笠岡市用之江

菅原神社・お堂・常夜灯・お地蔵様

そして  金浦へ

笠岡代官所跡(笠岡小学校)から鴨方藩
鴨方往来 岡山藩に通じる

 

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関連サイト

水野藩と宮本武蔵

福山城

福山藩の番所跡

笠岡市内散策