備後 鞆街道を歩く 広島県福山市 野上町〜水呑町 06/9/20(水)彼岸の入り  2012/3/25(日)

2012/3/25(日)36回城下町福山の歴史探訪 旧街道ウォーク 
8km  51人参加 肌寒く風が強い一日でした。ぶらりと地域の歴史いわれを楽しみました。
行程
JR福山駅南口広場9:40出発→福山駅前バス乗り場(福山城遺構)→東桜町→紅葉町→霞町→道三町→荒神社(地吹町)
→草戸大橋(旧鷹取橋・銭取橋)→草戸町(半坂の道標・船板の壁)→法音寺→明王院(昼食)→法音寺橋(草戸千軒遺跡)
→南本庄→能満寺 14:20解散

3/25  2年ぶりの大相撲春場所 関脇・鶴龍を優勝決定戦で破り、白鵬が貴乃花に並ぶ歴代5位 22度目の優勝を決める。

3/26 東京電力 全原発停止(柏崎刈羽原発6号機) 国内の稼働は1基のみ。

キャスパは平成24年1月31日(火)閉店
三之丸町  駅周辺整備は、7年3カ月を経てようやく3/29完了した。
送迎場を含めた広場整備の事業費は、約30億円。計画より2年遅れの完成
 福山駅前バス乗り場(福山城遺構)
福山城外堀(福山駅前)発掘調査 現地説明会  2007年5月12日(土)
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第2次発掘調査 現地見学会  
  08/4/19(土) 
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る  
第3次発掘調査 現地説明会
  09/5/10(日)
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第3‐2次発掘調査
 現地見学会
09/10/4(日)
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第4次発掘調査09/11/21(土)
福山市公会堂 大正15年(1926)市制10周年記念事業で建てられ昭和37年
取り壊される。NHK放送局にあった
米屋町(現宝町)に市庁舎があった 武田五一の作。
NHK福山放送局西側 駐車場には福山一の豪商と言われた「鉄屋(くろがねや)」
があった。
霞町4丁目
 泉龍寺
大きな五輪塔たくさんあります。
荒神社(地吹町)
草戸大橋(旧鷹取橋・銭取橋)
草戸町(半坂の道標)
県名と県庁所在地が不一致なのはなぜ?
藩から県へ変更を行った「廃藩置県」。
徳川幕府から倒幕勢力(明治政府)に移った際に、
徳川幕府に味方した県(藩)と、
倒幕側についた県(藩)をわかり易くするため、
倒幕側は都道府県名に都市名が採用された。
薩摩・長州・土佐・肥後を中心とした倒幕側に味方した県は、
そのまま県名の市を県庁所在地とした、といわれている。
逆に幕府側についた藩においては、
その都市に県庁を置くことが許されなかったため、
県庁と都市名が不一致になった。

草戸町
 壁板伝馬船の船板を再利用した家あります。
草戸町四つ堂
備後福山藩には他藩にはない過ぎたるものがある
地域の絆が強い 四つ堂がある、水野勝成の発案で造られた。
一里塚にも税金の免除があったように四つ堂に税金がかからない。
小休止にはちょうど良い場所、小雨パラパラ雨宿りにも良い。
2017/2/16
辻堂は主に西日本で見られるが、福山には特に多く、四方の壁がない
形態が目立つという。これまで市内で260程度を確認。建て替えや補修
をして引継がれてきたケースが多いという。江戸期の儒学者茶山が地誌
「福山志料」で、辻堂を「憩亭」と表現。当時の福山藩に約600あると記し
ている。旧街道沿いに多く、「旅人の休み所として活用され、今も昔も
コミニュティーの場」と見られる。今回の調査は2017年度、日本遺産申請を
目指す福山市が、ストーリーづくりのため進める歴史文化基本構想策定
事業の一環。
南北に走る細い道 元の芦田川の堤防でしょう
家は石垣を数段築き 土塀で屋敷を囲って水の侵入防いだのでしょう。
草戸町
法音寺

地蔵さん
文政七 申秋 (1824年)   尾道石工 丈助 作と刻まれている。

境内には石碑に年号刻まれている
文久二 壬戌歳 四月・・・1862年「壬戌(みずのえいぬ)」
草戸町
明王院の石垣

ひょうたん 扇 へび 表現している。

参道の脇には寄進者の名が刻まれた石柱が並ぶ。
福山町
藤井与一右衛門  福山一の豪商と言われた「鉄屋(くろがねや)」当主
深津村
石井英太郎   福山誠之館校長(初代)
福山村
河相三郎     衆議院議員

草戸町
明王院 昼食休憩12:05〜12:50 トイレ休憩
庫裏に御雛様
草戸千軒のまちのシンボル。愛宕山の麓に 
鎌倉時代に建立された本堂。南北朝時代に建立された五重塔
二つの国宝あります
鐘楼の刻印
明暦三 丁酉 歳(1657年)とある
草戸町
草戸稲荷神社の鳥居の傍らに
嘉永五年(1852) (みずのえね 壬子)に建てられた
芦田川浅深試石 と呼ばれる石柱(約1m)が残されています。
芦田川の水底にこの石を止め、川底の浅深を試し水害を予知したものです。

刻まれています ■は不明。

蘆田川之水底止於此石之■
刻時嘉永五年壬子也表■
石欲以試佗年淺深之■
法音寺橋から南方向
草戸千軒遺跡 
法音橋から北方向
草戸稲荷神社・神島橋・銀山城跡
眺望できます。

法音寺橋の東詰め土手を下り南本庄5丁目
かつての芦田川 川底の名残り跡あります。

国道2号の北側へ

西町1丁目

能満寺 

もと現在の福山城にあって福山城築城の際
現在の地に移された
西南方向(末申)の裏鬼門の守護寺とした
天和6年(1681)夏 芦田川決壊による大洪水に見舞われた
往時の十分の一の規模となった。
鎌倉時代、備後守護職であった杉原氏と関係が深く、
南北朝の戦乱とも関わった寺である。


鞆軽便鉄道廃線ウォーク 2013/11/10(日)
明王院〜(鞆駅まで駅跡巡り)半坂駅〜妙見駅〜水呑薬師駅〜水呑駅〜葛城駅〜田尻村駅

06/9/20(水)彼岸の入り

霞町十字路(追分)〜鷹取橋・銭取橋〜鞆街道

水呑(みのみ)町の街道

8月30日・9月12日・9月20日 道標など調べ 散策しました。

自民党総裁選挙 安倍晋三氏(52)が選ばれた。

鞆街道はここから始まる

霞町4丁目交差点(霞町十字路)

@霞町追分の道標

道標「左 トモツ道」「右 ヲノミチ道

 

 2011年(平成22年)安住の地に設置
霞町の道しるべ
霞町十字路を左折すると

水呑(みのみ)・鞆・山南・千年へ

 

 

A地吹町の荒神社 パットパットゴルフ楽しんでいる老人会。
水野勝成が福山城を当時の常興寺山に築きます、
その地には荒神さんがあり
その荒神を野上口に勧請 野上八幡を運営します
天和2年(1682) 四代目、水野勝種の代に 
野上八幡が現在の福山八幡に移されたことにより
地元の方が新たにこの地に荒神さんを祀る事になった

「地吹」はもともと地葺(じぶき)と呼ばれていました。
福山城普請の時、板屋根を葺くのに用いる「こけら」を
この地で枌(そぎ)に落としてこしらえた
ことから呼ばれていた。

堤防下を荒神川と呼んだ川。

草戸町五丁目に「五本松公園

五本松目印に城下の荷を積んで
船が鷹取橋に入った。

野上堤防の先端「五本松」、「松か端」の地名 
水野時代 野上土手などへ松を植えた名残りである。

広く知られる道しるべ
五本松の渡し場は鞆道・山田街道から福山城下に入るのに
神島・本庄経由より近道であった。

2016/2/9
 場所は五本松公園の向かい 福山市営競馬場の跡地
野上町交番
設置からほぼ60年たった広島県内最古の交番は南に約1・2キロに

「ひろしま建築学生チャレンジコンペ」の最優秀賞作
屋根がアルミ製のフェンスで覆われ、
将来的には建物全体をつる植物によるグリーンカーテンで覆う計画。
フェンスは、2・5センチ角の4メートルのアルミ柱約800本を
組み合わせているという。
新交番は鉄骨平屋建て約140平方メートルで、
敷地面積は300平方メートル。
現行の野上町交番が移転する形となる。建築費は約4800万円。
沖野上五丁目交差点
小さい五本松 植えてあった。
「五本松道」改修寄付者の碑があります(昭和14年4月)
お堂もあります。

五本松を目印に船が入った」古老の話し
落雷などで二本となり、補植して三本になった。
昭和46年の台風で枝が折れ、近くの民家を壊し「危険だ」との声
で市当局が三本とも切り倒した。

 

芦田川の本流は城近くまで船を入江として利用
鷹取橋の架かっていた流れは海からの
物流運搬に使われていました
多くの積荷は橋げたの下を通ることができず 
高さのある荷物を取って船の上を低くして通っていました。
通称「高荷取」と言われていたのが現在の鷹取になった

芦田川は今の神島橋の少し下流の辺りで
二本に分かれていた。一つは草戸の山並みのすそに沿って
海に向かい、一つは福山の町沿って流れ 今は廃川になった
野上町古池、鷹取橋が架けられていた。

今はないが懐かしい元芦田川(鷹取川)に架けられていた

B鷹取橋の最初の石柱「鷹取橋」と彫られている石が

地吹町の荒神社の

生垣の間に寂しくぽつんと立っている。

もう一つの芦田川に架かった橋が

銭取橋を渡って山田と田尻・鞆へと向ったのである。


銭取橋の長さは53間(95.4m)と記録されている。

今の草戸大橋の前身だ。

B鷹取橋のもう一つの親柱

鷹取中学校 正門入って右側に「た加と里はし」と刻まれた親柱

鷹取橋は芦田川に架けられた大橋で

長さ55間(99m)に及んだ。

 

B鷹取橋跡

地吹町と草戸町の境辺りです

 

芦田川の土手へ
C草戸大橋 東詰め
C草戸大橋(銭取橋)西詰め

木橋であった、昭和7年度鉄筋コンクリート造りのものに
「銭取橋」を改めて「草戸大橋」とした。
昭和41年度 上流片側に歩道ガードレール。

約500m北へ歩きます 

初詣 広島県で2番目多い

D草戸稲荷神社
もと中州にあった小祠を
三代目 水野勝貞が今の地に遷して再建した

草戸:草土とも書いて中世には草井地(くさいち)といって
明王院(旧常福寺)の門前市場で港となっていた。

 

そして

D中国観音霊場8番札所
中道山円光寺明王院 真言宗大覚寺派 があります。

平安時代の大同2年(807)弘法大師が開かれたと伝えている
御本尊:十一面観世音菩薩

中世には常福寺と呼ばれていた。
本堂は元応3(1321)年に、五重塔は貞和4(1348)年
民衆の浄財によって建立されたものである。

 

法音寺橋:木造の潜水橋で出水毎に流出
していた。昭和10年12月石橋、
昭和32年コンクリート造り

草戸千軒町遺跡
明王院前の芦田川には「草戸千軒町遺跡」がありましたが、
河川改修により消滅しました。この町跡は、
江戸時代初期の寛文13年(1673)の大洪水で埋もれたと地誌に
記されていますが、1961年(昭和36年)から1993年(平成5年)まで、
遺跡包蔵中洲の約66000uの発掘調査が行われ、
鎌倉時代から室町時代まで港町・市場町として賑わっていたことが
明らかになりました。
現在の明王院の地には当時「常福寺」という寺があり、
草戸千軒遺跡跡はその門前に栄えた町と考えられています。

最盛期は室町時代で、この時代前半から中頃は、
商業・生産活動が活発に行われ、後半は防御的な要素を持つ
環濠や柵などから戦国時代の世相がわかります。
建物跡や井戸及び、包丁・鍋・漆塗りの椀など日常の生活用具や
装身具、履物、信仰、遊戯具など中世の人々の暮らしぶり
がわかるものや中国陶磁器や古銭といった国内外の流通が
わかるものも出土しています。
E草戸大橋南詰めの道標

南の坂道を上って半坂の峠を越え熊野・山南方面へ向った

 

草戸大橋南詰め E半坂の道標

「右 やまだ さんな道」「左 みのみ ともつ道」

東面には
「東海、南田島、北は城、川上府中、西尾道」

 

F洗谷貝塚

 

縄文時代

大正5年

G洗谷の道しるべ

南 田尻 鞆

北 草戸 福山

右 榮所近?

旧 山田山南道

傍らに法界塔

H松尾神社
I水呑(みのみ)大橋

妙見神社に上がる途中より展望

 

J小水呑橋
K高浦 「南無妙法蓮華経」 石塔法界

最も古い高浦の池の傍らに
正宝三年(1674)建立
尖頭舟形法界石 書体「波揺りの題目」


藩政時代に続発する災害や凶作の苦難から
のがれるため神仏に加護を求めた先人達が
信仰の依代として法界塔を造立祈念したもの
思われる

池から福山方面を見る

Lトンコ川

七つの泉の一つです 他に
小水呑のドーノキ、西のハタ、カイゾーボー、
山之神の明見及び高木、土井の松室

ペットボトルに入れ飲みました。

水の呑まれる村 水の多い村
村名のとおり美味しかった

M片山最上稲荷神社
N貴船神社

 

O鞆軽便鉄道の鉄橋台の名残り

 

O鉄橋を渡ると葛城駅
鞆軽便鉄道 鞆街道とほぼ同じ道にあった

明治44年起工。

1913(大正2)年11月18日開通式

 福山ー鞆間 12.5km。
福山−野上−稲荷−妙見−水呑−葛城−田尻−鞆

ラッキョ汽車」と呼ばれた小型の蒸気機関車などが
54(昭和29)年まで、芦田川や田尻町の急傾斜を黒煙を
上げながら力強く走り抜けた。

鞆駅の風景

田尻町の三分坂
乗客が多いため上ることできずストップ。仕方なく乗客は歩いて
坂を上ったり後から押したりした。坂の上で再び乗り込んで
列車は福山・鞆へ向った。

 

P浜貝塚跡

縄文時代

QJA水呑前から鞆街道

 

法界石塔
法界とは宇宙万物の総称 
仏法の真理、仏道の本体・仏教徒の社会仏門などと
表面に髪文字で「南妙法蓮華経」と御題目が刻まれてある

熊野と水呑は日蓮宗1色である
戦国時代この地方を領有した渡部氏が日蓮宗に帰依して
住民全て法華に改宗せしめたからと伝えられる

R妙顕寺の黒門と法界塔

法界塔は二番目に古い 元禄九年(1696)


寺伝では延文元年(1356)法華一乗妙性の建立
一乗は有力な刀鍛冶「古狐丸」の名刀が寺宝として伝えられる

R妙顕寺の本堂

大きなイチョウの木 幹の周囲2.9m 高さ 22m

妙性が滝

妙顕寺の西裏山50mの処にあり落下8m

水呑(みのみ)の村名が起こったともいわれる
昔だれかが水を飲んだより付けられた

神功皇后三韓征伐の折箕島で清水を飲んだとか

妙顕寺から芦田川大橋 その向うには箕島
水呑小学校の前

鞆街道 徐々に上り坂となります

途中 法界石塔・辻堂 常泉寺跡などあります

S三分坂(さんぶんさか)  向丘中学校校門に木柱 

山分坂から名の起こり

往時は鞆魚売り 魚をかついで福山に至る途中の一大難所となる

遊女がこの坂の上まで篭でなじみ客を送りお礼に
三分の祝儀をもらった名の起こり etc。

「三分坂 上る時は足が疲(ため)うありませんように」
子供 唱す。

向丘幼稚園では運動会の練習中でした

21佐須良池

ゴルフ場 打ちっぱなし

賽の峠へ
22峠に賽の神

その昔
田尻村の賽の峠において賽の神に念じ小魚を供ふ

 鞆街道は 田尻町 から  鞆町 行きます     


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