水野藩と宮本武蔵 福山城の北側を散策 2003/8/31(日)

北本庄→どんどん池→護国神社(阿部神社)→宮本武蔵腰掛石→三蔵稲荷神社→八幡神社

艮神社→観音寺→妙政寺→胎蔵寺

03/9/14(日) 「水野勝成と宮本武蔵」講演聞く
宮本武蔵が座ったとされる「腰掛石」が、なぜ福山市にあるのか

武蔵の「腰掛石」なぜ福山にある?
福山文化連盟会長:平井 隆夫 が解説
講演会「水野勝成と宮本武蔵」聴講する。NHK大河ドラマ「武蔵」来週21日は『巌流島決闘』放送する。

武蔵32歳、大坂夏の陣、武蔵が水野氏陣中において参陣したことが判明する。
小場家文書の中に記述されている。
宗休様御出語なる文書(これは勝成隠居後における言動を集録したものである。)

武蔵の養子三木之助は水野家の中川志摩之助の三男である。

「腰掛石」は武蔵が勝成の従兄弟(水野家二番家老中山将監)の屋敷に居候していた時期に邸内にあったものらしい。

福山築城と武蔵
石垣の縄張、枡の構成等は、勝成が武蔵より秘伝伝授されたのでないか。
武蔵の秘伝書「新免直心兵法」にある 現在の福山城とまったく同じである。

妙政寺二代墓前の燈篭が三蔵稲荷にあった経緯から
武蔵と勝成のこと古文書から判明していった話しは興味深い。

     

 

四つ堂小阪山の墓田碑
古来より備後地方には、旧道筋の随所に4ツ堂と呼ばれる
辻堂が見うけられます。お堂の起源については、一般的に
福山藩主水野勝成公の時代といわれています。村人や旅人
の休み処であり、信仰の場、憩いの場、社交の場でもありま
した。深津郡本庄村と呼ばれた頃には、5箇所の四つ堂があ
りましたが、現存するのは二股と此の四つ堂のみでです。
かつては本庄八幡神社山裾にありましたのを、昭和59年道路
拡張により現在地に移転されましたが、平成5年9月老朽化の
ため倒壊しました。この四つ堂は町内各位の寄進により、
平成6年12月再建されました。堂内には地蔵尊が安置され、
毎年8月24日には地蔵講が営まれています。
平成6年12月吉日 

小阪山の墓田碑
九代藩主阿部正方は慶応2年6月3日に益田に入り遠征中に
脚気を患い帰城し、11月22日、福山城で卒去します。20歳で
した。後嗣(こうし)がないため幕府へは喪を隠して
天守閣西北の「小丸山」の竹薮に仮埋葬をします。正方の墓は
明治2年(1869)10月になって本庄村小阪山(北本庄三丁目)に
改葬され、本庄村小阪山(北本庄三丁目)に改葬され、神道墓の
清楚な墓域が造られた。廃藩置県に伴い阿部家は東京に移住。
墓地の管理・祭祀は本庄村の田圃一町五反歩を墓田とします。
ここから得られる利益をもって永く祭祀の費用に充てられること
とし、関藤藤陰の撰文になる「小阪山墓田碑」が建てられました。
この碑は本庄八幡神社参道上り口に建てられていましたが、現在
は本庄交番の北西側、四つ堂の隣りに移設してあります。 
  二股公園で三方に分かれる一つは東へ流れ
久松用水をたどる(駅家町七社〜石原隧道〜本庄町高崎) 
吉津・奈良津・蔵王・深津方面の水田を潤す 上井手川
木之庄町の時計台の辺りで南へ分かれ、城北中学校の西側を南下
して「ドンドン池」と呼ばれる「蓮池」の北端をかすめるように流れてい
ます。
蓮池から東側には現在3本の水路が流れています。北からの
水路は、蓮池の少し北東寄りの場所で水路の立体交差がなされてお
り、南流し蓮池から東へ放流する水路と合流して「蓮池川」となります。
蓮池の北東端のうてびから注ぐ清流はこの水路の上を通って東へ
流れ「御手洗川」として福山八幡宮やその東側へ連なる寺社の門前を
緩やかに通っています。 
  蓮池記念碑
1619年(元和5年)戦国時代の雄将水野日向守勝成は備後福山藩主と
して移封を命じられ居城福山城の築造その城下町の形成に大いなる
力をつくした特に壮麗なる天守閣の建築広大な干拓地の造成と共に
城下を水源整備の事業はわが国最古の水道として江戸神田・玉川上水
と共に高く評価されている 上流の高崎に取水口を設け本庄町二股より
この蓮池に水を導き総延長2800mに及ぶ水路は年月を経てなお大干ば
つにも枯れることなく近代水道の敷設されるまで広い地域の農地をうるお
し人々の生活飲料水として豊かな恵みをもたらしてきた今ここ蓮池は新し
い時代のなかで昔日の面影をとどめながら市民の憩いの場として四季を
通じ多くの市民の親しくつどう公園として新しい役割を果たしている 蓮池
と共に歴史を生き 蓮池を守り 蓮池の恵みを受けた幾多の人々に思い
をはせここにありし日の歴史を刻み 永遠に市民に親しまれる川として栄
えんことを願うものである第11代福山市長 三好 章 
三蔵稲荷神社 
水野勝成公が福山城を築城する時に、
三河国刈谷城より移築された。

能舞台
福山八幡宮の境内にあって、老朽化して
取り壊しになるところを、先代宮司が移した。

ミス三蔵稲荷コンテスト
   北吉津町

八幡神社辺り

下の流れ 宮川で水野勝成が施設した旧水道である
久松用水をたどる(駅家町七社〜石原隧道〜本庄町高崎) 

   旧水道跡と石組み
  野上八幡 西の宮(若宮八幡ともいう)

大鳥居の脇 石段下 

一対の石灯籠がある
一時 野上口に移した(古野上町東端 通称大杉の地
奉寄進石燈炉 深津郡野上村八幡宮 
天和三年(1683) 水野勝種公の時代現在地に遷座しいま
のような社殿配置になった。ここは、水野騒動の勝利者家老
上田玄蕃の屋敷があった場所で遷座には上田氏の意向が
深く関わっていたと考えられる。  
八幡神社野上八幡神社(西の宮)、延広八幡神社(東の宮)合併した。
延広八幡神社 神島下市の宮の小路にあった
寛永17(1640)大火で移され、
天和2(1682)現在地に移しました。
もとは惣堂八幡といわれていたが寛文年間の水野家騒動
の後その名を忌みい延広八幡とした。

 令和2年元旦 初詣 厄年のお祓いした

  艮神社 令和4年1月18日TBSのテレビ番組
「マツコの知らない世界」の「開運神社の世界」にて
2022年一番オススメの開運神社としてご紹介を頂きました。
お守りの在庫尽きるにぎわい「マツコの知らない世界」放送後
 
05/1/3
八幡神社 初詣 帰りに鑑賞しました。

04/12/20観音寺本堂 保存修理完工した
桃山様式を再生、建立当時の姿を復元。

組物 金や群青で彩色。

観音寺

 
 
  胎蔵寺 

胎蔵寺釈迦如来胎内施入品の発見

胎蔵寺釈迦如来胎内施入版本大蔵法華経奥書
(貞治三年・一三六八年三月十六日)

日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来像中

・大檀那杉原親光(ちかみつ)が菩提寺常興禅寺に納めた本尊仏
・椙原保の位置特定=常興寺山(現福山城)一帯
→備後の有力国衆杉原氏の本拠地特定
※従来は御調郡の内陸部と想定

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関連サイト

福山城下から笠岡道散策

福山城

福山藩の番所跡