名城めぐり
「桃太郎伝説ゆかりの
吉備津神社と水攻めされた備中高松城址
                            天守閣をリニューアルした岡山城を巡る旅」岡山県岡山市 2024・3・10(日)

11日で東日本大震災13年。全国で2万2222人の死者・行方不明者(関連死を含む)

派閥による裏金事件を受け、自民党は党大会後に裏金作りに関わった議員を処分する方針だ。
                                             

1 とき 2024年(令和6年)3月10日(日)
2 行先 吉備津神社・備中高松城址と資料館・岡山城

日程
福山城北側バス駐車場入口(7:30出発)⇒吉備津神社(8:45/10:00出発)⇒備中高松城址・資料館・蛙が鼻築堤跡(かわずがはなちくていあと)
(10:15/12:15出発)⇒岡山プラザホテル昼食(13:00/14:00出発)=岡山城(14:05/16:15)=福山城北側バス駐車場(17:45到着予定)

※吉備津神社で10分程度説明受け、高松城址と岡山城は、現地ガイドが案内

土産:岡山名物きびだんご

吉備津神社

14年前に訪れた。
吉備路を歩く 吉備津~岡山駅2006/2/11(土)
西国街道を歩く(備前一宮~岡山城下町)2006/1/15(日)

第10代崇神天皇の御代に、四道将軍として吉備国に派遣された吉備津彦命を祭神として、古来吉備地方の総氏神として崇敬され
ている。現在の本殿及び拝殿は、応永32年(1425年)に完成、本殿は、比翼入母屋造または吉備津造とよばれる。独創的様式の大建築で、
拝殿と共に国宝に指定されている。また、延文2年(1543年)再建の北随神門は、共に国の重要文化財、鳴釜神事の行われる御釜殿は
慶長17年(1612年)の建築で岡山県重要文化財に指定されている。

犬養木堂先生 銅像の説明
犬養毅(木堂)は、安政2(1855)年備中国賀陽郡庭瀬村(現岡山市北区川入)に犬飼源左衛門の二男として誕生。
慶應義塾に学び西南戦争の従軍記者となり、その後政界入り。明治23(1890)年36歳で衆議院議員。
文部大臣、逓信大臣を歴任して昭和4(1929)年政友会総裁になり、昭和6(1931)年に総理大臣に就任。
翌昭和7年に五・一五事件が起こり、有名な『話せばわかる』の言葉を残し海軍将校の銃弾に倒れた。
享年78歳。毅の生家は代々庭瀬藩の大庄屋で、遠い祖先は吉備津神社南随身門に祀られている犬飼健命と伝えられている。

 


備中高松城址・資料館・蛙が鼻築堤跡

14年前に訪れた。
備中高松城/「功名が辻」ゆかり地へ06/4/22(土) 
高松城 水攻め前後のおかやま



高松城水攻攻略史
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城
を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主清水宗治に利をもっ
て降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で、
水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史に
も稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及
ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188
ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。
6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方軍師、安国寺恵瓊
を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を
説かした。宗治は『主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する』と自刃を承諾した。
時に6月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願時の曲舞
を舞い、『浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して』と時世の歌を残して46歳を一期として見事自
刃した。

特設サイト「VRで蘇る 備中高松城の戦い」



備中高松城址資料館

備中高松城の戦い


岡山城
桜の岡山後楽園 散策 2007/4/9(月) 





岡山城の基礎知識
今の岡山城付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。その石山にあった
城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家でした。その子の秀家
は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築きました(1597年天守完成という)。江戸時代の文献
によると、築城は豊臣秀吉の指導によるものといわれます。さらに、多岐にわたる旭川の河道を利用して
、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町
をつくりあげました。こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎と
なりました。その後城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。

岡山城の天守は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城がそうであったといわれるように、外壁は黒塗りの
下見板で覆われていて、烏城の別名があります。また、発掘によると、宇喜多家時代の金箔瓦が用いられ、
豊臣政権下の有力大名である威厳を示していたことでしょう。これにより金烏城とも呼ばれます。
さらに、天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのも特徴の一つで、土台になった岡山の丘の
地盤にあわせたためといわれています。さらに、西側には付櫓として塩櫓が付属し、天守への入口があり
ました。
天守は明治維新後も残る貴重な存在で、昭和初期には詳細な図面が残されましたが、戦災で焼失しました。
しかし、昭和41年(1966)には往時の姿を偲ばせる天守が再建されました。

 宇喜多家 「剣片喰」(けんかたばみ)

小早川秀秋 丸に違い鎌

池田家紋「備前蝶」
図案化した揚羽蝶をモチーフとした「備前蝶」の紋章です


岡山城

西国街道を歩く(備前一宮~岡山城下町) 







築城時の石垣展示
地中から発掘された宇喜多秀家の頃の石垣
豊臣秀吉のもとで大大名となった宇喜多秀家が、天正19年(1691)から慶長2年(1597)まで7年もの
歳月をかけて築城しました。

宇喜多と小早川、境目がわかるかな
本段東側の高石垣

宇喜多秀家が築いた緩やかなカーブを描く石垣の隅に、小早川秀秋が石垣を継ぎたして改修した跡
が観察できます。秀家は安定性の高い大型の石材をきっちり積んでいる(左側)のに対し、秀秋は
丸みの強い石材をおおまかに積んでいます。

関ケ原以前では全国屈指の高さ 石垣の左手側の隅が岩盤に載っている様子
本段南東部の高石垣

宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で加工していない自然石を用いています。左手側は
石垣が3m近くも埋まっていて、本来の高さは15.6mもあります。関ケ原合戦以前の石垣としては全国
屈指の高さです。左手の隅が岩盤の高まりに載っているのも見どころです。

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