幕末の福山の史跡を訪ねて 広島県福山市北本庄・北吉津町・丸之内 2010/04/03(土)
―御城下の北側―
―御城下の南側―
―御城下の東側―
―御城下の西側―
2021年10月17日(日)城下西側惣構え跡を歩く
冬型寒い 秋晴れ 30人の侍たち 19日 衆院選公示
ふくやま文学館東側駐車場(9:00出発)⇒蓮池⇒用水路の立体交差⇒
定福寺(浄土宗)水野勝成の妻の五輪塔2基(良樹院・香源院)⇒旧古川筋(城下西側惣構え)跡
この川筋で城下(町方)と城下外(村方)分けていた⇒福塩線築堤下水路跡⇒旧古川と下井手川合流地点
⇒龍淵寺(臨済宗)⇒能満寺(真言宗) ⇒弘道館跡⇒西側外堀跡の石垣(旧鞆鉄道三之丸駅)⇒西御門櫓跡
水源は駅家町七社(ななやしろ)の芦田川から取水 久松用水取水
灌漑用水路の立体交差(上側:御手洗(みたらし)川、下側:木之庄の排水)
蓮池の北東端から少し東に寄った所で灌漑用水路の立体交差が見られる。
蓮池のうてび(打樋、上手樋)から流れた水は、福山八幡宮や妙政寺の前を流れる。
このうてびとは、降雨期などで池の水が満水となった時に溢流、流水させる設備のことで、
この御手洗川は大仏川、宮川とも呼ばれる。その水路の下側を木之庄の排水(雨水)が流れて
きてやがて龍興寺の前辺りで蓮池川と合流して東方向に流れる。
大仏川の名前の由来は、江戸時代にこの川沿いに大仏屋という餅屋があったからとされ、現在
胎蔵寺前の橋に大仏橋の名が残っている。
二股公園で三方に分かれる
一つは東へ流れ吉津・奈良津・蔵王・深津方面の水田を潤す
上井手川
木之庄町の時計台の辺りで南へ分かれ、城北中学校の西側を南下して「ドンドン池」と
呼ばれる「蓮池」の北端をかすめるように流れています。蓮池から東側には現在3本の水路が流れています。
北からの水路は、蓮池の少し北東寄りの場所で水路の立体交差がなされており、南流し蓮池から東へ放流する
水路と合流して「蓮池川」となります。蓮池の北東端のうてびから注ぐ清流はこの水路の上を通って東へ流れ
「御手洗川」として福山八幡宮やその東側へ連なる寺社の門前を緩やかに通っています。
定福寺 (浄土宗知恩院派)無量山寿経院
慶長年間(1596年〜1615年)、水野勝成が息女心光院追善のため三河国刈谷(現愛知県刈谷市)
に創建したものを水野家移封の際移転、元和7年(1621年)に現在地に造営された。
阿部家入封後は阿部家の香華院となった。
境内には水野家二代勝俊の生母 香源院於登久(こうげいんおとく)の方
【正保4年(1647年)没】と、勝成正室 良樹院於珊(りょうじゅいんおさん)の方【寛永11年(1634年)没】
の五輪塔が並べて建てられている。
香源院の墓は元は本堂裏にあったが、都市計画のため今の位置に移動安置された。
福山藩の歴史とともにあった 定福寺
旧古川筋(城下西側の惣構え) (西側:本庄町中1丁目 東側:西町3〜1丁目)
水野家三代勝貞時代の福山城下図「諸国当城図」には城下南端に下屋敷が描かれ、城下西側および南側の下屋敷を
囲むように水路が描かれている。この水路が古川で城下南部では道三川と呼ばれていたと思われ、城下西側と南側の
惣構え(城下町の外堀)とされた。阿部時代の藩校「誠之館」の古地図では、道三川(古川筋)と書かれている。また
道三川下流には第一〜第四古川橋の名が橋につけられている。この水路(現在は道路)で城下(西町)と城下外(本庄村)
に分けられた。現在の道路に沿って南下すると、写真のように本庄側の敷地が随分嵩上げされているのが分かる。
これは古川が万一氾濫した時は、城下側を浸水から守るため、村側の土手を低くしてあったものと思われ、余りに低かった
所では新築時に嵩上げしたのであろう。この道路は蛇行しているのがよく分かり、古川筋を築造する時、元々あった
芦田川支流や池・沼などを利用したと思われ、能満池とか池の淵などの地名が残っている。
福塩線築堤下水路跡
福塩線の線路沿いに有料駐車場がある。この駐車場で古川筋と思われる水路を延長してみると、福塩線築堤の
下にぽっかりと穴が空いている所に当たる。これは旧水路跡と思われる。この築堤下をくぐって南側に能満池と
呼ばれる池があったらしい。
旧古川と下井手川合流地点 (南本庄1丁目と西町1丁目)
南本庄1丁目と西町1丁目の境の道路が旧古川筋である。旧西幼稚園(現西公民館)の西側を通り、さらに
旧西公民館の西側を南下すると川筋にぶつかる。この川筋が下井手川で「水野家時代福山城下明細地図」
に描かれている。下井手川はここまで東進してきたが、ここで向きを南に変え国道2号線の下をくぐって
東南方向へ流れる。
墓地に 小砂(こさご)家および吉川経家の娘の墓 |
承天寺(しょうてんじ)跡
能満寺の南側に承天寺があったが寛文8年(1668年)、水野家の家臣本庄重政(500石)が松永に移した。
本庄重政は松永の干拓で知られる。「諸国当城図」では承天寺が描かれているが、
「水野家時代福山城下明細地図」では空地で用地畑となっている。
酒井山城守重隆五輪塔
能満寺 (高野山真言宗) 妙智山普門院
鎌倉時代備後守護職であった杉原氏ゆかりの寺で、元は現在のお城がある所にあったが、
福山城築城時に西南の方向(坤 ひちじさる)の裏鬼門として現在地に移されたといわれる。
寺伝によれば平安時代末期の治承4年(1180年)、高倉上皇の勅願寺として建立されたとあり
福山城下最古の寺院といわれる。福山築城時の地鎮祭では本庄村明王院圓光寺住職宥将が導師、
能満寺住職宥盛が副導師を務めた。
墓地には天正9年(1581年)7月、鳥取城で自刃した吉川経家の元娘の墓石がある。
弘道館跡
福山藩阿部家4代正倫(まさとも)は天明6年(1786年)7月、藩士の教育を目的として福山城の西堀の一角に
藩校弘道館を設立した。現在は結婚式場アーククラブ迎賓館福山となっている所がその場所に当たる。
当時は全国的に大飢饉が起こり、藩財政も窮乏し百姓一揆も頻発したが、多くの学者を儒者に登用して教育に
当たらせ、儒教精神による綱紀粛清を図った。続く5代正精(まさきよ)も受け継いだが思うような効果は
上がらなかった。7代正弘は安政元年(1854年)弘道館を発展的に解消し、外国の圧力に対処できる人材養成を
目的として、西町道三口(旧道三口茶屋・水野時代の藩主下屋敷=現在の中央公園一帯・霞町1丁目)の地に
藩校誠之館を建設した。現在中央公園東南角には昭和13年7月に除幕式のあった「誠之館址記念碑」
が残されている。
西外堀跡の石垣(旧鞆鉄道三之丸駅跡)
市営三之丸駐車場の南西の一角の低地に、福山城外堀石垣の一部が保存され金網越しに見られる。この石垣は
西側の外堀に面した三之丸の石垣で、西御門櫓台跡から南へ延び、東へ折れ、また南へと続く部分を発掘保存し、
見学可能としたものである。またこの辺りは旧鞆鉄道福山駅(省線福山駅まで延伸後、三ノ丸駅と改められる)
があった。この辺りから旧エフピコRIMの方角を見ると道路に段差があるのが分かる。これは城内側が高く設計
されていたことからである。
市史跡 福山城三之丸西御門櫓台跡
新幹線の高架下に解体復元された三之丸西御門櫓台跡がある。この御門は、福山城三の丸の西側外堀を渡る橋の
内側にある櫓台跡で、西御門の南に接して櫓を築き西門外枡形の護りとしようとしたのであろうが、実際には
櫓は建設されず、石塁を築いた櫓台のみが存在した。北御門外枡形石塁とともに城地の西側の構造を推定する
重要な遺構として市史跡に指定された。櫓が建てられなかった理由としては、資金の不足が一番であろうが、
西町(藩士の町)に面していたのであまり必要性を感じなかったのかもしれない。
2020・10・26(月)城下ゆかり地散策
26日プロ野球新人選択会議(ドラフト)
カープ単独1位指名 栗林良吏(りょうじ) 投手:トヨタ自動車
26日第203回臨時国会召集
菅義偉首相は就任後初めて所信表明演説
「温室ガス50年にゼロ」
総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。
特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。
惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。
定福寺 西町の浄土宗・定福寺(じょうふくじ)には 2基の巨大な五輪塔があります。 |
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いずれも水野勝成の妻を葬った墓で、向かって右側が香源院(こうげんいん)、 勝成は福山城主になる前、父忠重から勘当され備後・備中各地を流浪していました。 1597年(慶長2年)備中成羽城主三村家に寄食中、藤井入道斎利直の娘であった 於登久(おとく)と結ばれ、翌年には勝俊が誕生します。 その2年後、父忠重が石田光成一派の加々野江弥八郎に殺されたため、妻子を備中に残し 父の遺領である三河国刈谷に帰り後を継ぎます。 勝成は大和郡山から福山へ移り、勝俊は於登久とともに鞆館(ともやかた)へ入ります。 参勤交代制により、於登久は江戸住まいとなり、1647年(正保4年)に大坂で死去します。 勝俊は母の遺骨を引き取って、香源院として定福寺に手厚く葬りました。 一方、勝成は別に於珊(おさん)を妻に迎えます。備中成羽城主三村家親(いえちか)の 娘であり、生前歯痛に悩まされたようで、晩年「後世歯を病むものあれば、我墓に祈るべし」 と言い残し、歯痛の神とあがめられたといいます。於珊は於登久より13年も早い1634年(寛永11年) に死没し、良樹院とおくりなさました。 |
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左側が良樹院(りょうじゅいん)の墓です。 | |
西町3丁目と長者町 総構えの名残り跡 |
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道路は 総構えの名残り跡 |
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振励館跡地(旧誠之館講堂) 能満寺前 備後福山藩第四代藩主であった阿部正倫公は、天明六年(一七八六年)、福 山城(西堀端に藩校弘道館を創設し、第七代藩主阿部正弘公は、安政二年(一八 五五年)、に弘道館を改編する形で新たに誠之館を創設して。昭和十三年(一九 三八年)、本碑に記される講堂は、青少年錬成道場として西堀端から福山西 小学校校庭に移築され、当時の福山誠之館中学校長福間典海氏により「振励館」 と名付けられた。昭和十八年(一九四三年)振励館はここ能満寺に再度移築 され、以後地域活動の拠点として利用されていたが、昭和六三年(一九八八 年)、老朽化のために惜しまれつつ解体された。 |
とき 2015/3/15(日)
集合場所 福山城天守閣 10時スタート 藩校誠之館玄関 12時解散。
見学コース 福山城天守閣―小丸山先人の森石碑(寺地舟里・江木鰐水・水野勝成寿蔵碑)―旧阿部神社(雄鷹神社)
―旧阿部神社赤門と石碑「捨生取義」―上水道取水口(妙政寺下)―木之庄焼窯跡(大砲鋳造所)―
藩校誠之館玄関(国登録有形文化財)―[帰路]―福山城天守閣前
水野氏の沢瀉紋
オモダカは、池や沢などに自生する水草で。愛らしい花が咲く。その昔、この植物を「勝ち草」といって、
戦いに勝つことにかけていたという。葉の形が矢ジリに似ている、また、沢瀉威の鎧ということばもあって、
「攻めても、守ってもよい」ということから勝ち草とよんだという。
水野勝成(みずのかつなり) 永禄7年(1564)〜慶安4年(1651)
福山水野家初代藩主
永禄7年(1564)三河国岡崎に生まれる。
勝成の父忠重の姉は徳川家康の生母であり、家康と勝成は従兄同士である。
二十歳の時に父の寵臣(ちょうしん)を切って流浪、35歳で徳川家康の仲介により水野家に帰る。
慶長5年(1600)父の死後、刈屋3万石の領主となり、関ヶ原の合戦では、西軍の大垣城を降した
戦功により日向守に任じられ、更に大阪夏の陣、冬の陣での功により大和郡山にて六万石を封じる
こととなる。その後福島正則が改易されたことにより元和5年(1619)勝成56歳の時に福山藩の
初代藩主となる。福山城築城、城下町の設営、干拓、治水工事など福山の礎を築いた他、神社仏閣
の修理や再建にも力を尽くすが慶安4年(1651)3月15日に88歳で死去、寺町の賢忠寺にて葬られる。
寺地舟里(てらちしゅうり) 文化6年(1809)〜明治8年(1875)
福山藩士寺地幸助の次男として生まれる。初め漢方医を学ぶ。19歳のとき京都・長崎で医学を学んだ後
江戸の坪井信道の門に入り、緒方洪庵・川本幸民らと研鑽する。その後福山で蘭方医として活躍、福山で
初めて種痘をおこない、本草学・兵学にも通じた。阿部正弘の命により関籐籐陰らと共に蝦夷地の探索を
行った。明治初頭に福山藩医学校兼病院(現・伏見町の東京三菱銀行福山支店の一帯)を設立してその
院長となった。
江木鰐水(えぎがくすい) 文化7年(1810)〜明治14年(1881)
安芸豊田郡戸野村(現東広島市)の庄屋福原与曽八の第三子として生まれる。篠崎小竹に師事し天保元年
(1829)頼山陽に入門した。天保6年(1835)、江戸の古賀■同(■イ)庵<どうあん>に学んでその塾頭となり、
清水赤城に就いて長沼流の兵学を学んだ。天保12年(1841)、阿部正弘に抜擢されて正式の儒官となり
十人扶持を賜り江戸在勤を命ぜられた。安政2年(1855)1月16日の福山誠之館発会式には、記念の講釈
として「論語」を講じた。誠之館においては、訳書によって西洋兵学を講じ、兵制の改革を建白した。
第一次・第二次長州戦争、函館の戦いにはいずれも参謀として参戦し、維新後は福山にあって治水利水・
殖産計画の実現に力をつくした。明治14年(1881)10月8日、東京で没した。
違い鷹の羽紋
鷹の羽(たかのは)は、猛禽類である鷹の羽根のことで、日本の和弓に用いられる矢の矢羽根(やばね)の材料である。
鷹の羽紋の例(丸に違い鷹の羽)
阿部正方(あべまさかた) 嘉永元年(1848)〜明治元年(1868)(実は前年死去)
6代正寧の三男として嘉永元年(1848)8月21日、江戸藩邸で生まれた。文久元年(1861)5月に兄正教の
遺領十一万石余を襲封し、元治元年(1864)以降、第一次・二次長州戦争に出陣、明治元年(1868)5月
28日(実は前年の11月22日死去)、福山おいて病死と公表された。福山藩は長州戦争に二回参加、とくに
第二次長州戦争では石見国に出陣し大村益次郎(村田蔵六)が率いる長州軍と戦って敗北した。正方は
石州出兵以来病状が思わしくなく福山城で死去する。兄正教・正方時代はわずか十年余にすぎないが、
政局は通商条約の締結、安政の大獄、桜田門外・坂下門ぼ変、文久3年(1863)8月18日の政変、尊王攘夷運動
、二回の長州戦争、大政奉還・王政復古へと激動を極めている。
旧内藤家長屋門と背後には小丸山 西側の外濠にあった 昭和51年(1976)移築。 |
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ふくやま美術館 は内堀跡 ジョージ・蔦川 作の 蓮の泉 噴水が見える 杭谷 一東 作 「敬意(RISPETTO)」(ふくやま美術館前庭) 高橋 秀(たかはし しゅう)1930年(昭和5年)6月30日 - )作の愛のアーチ 広島県新市町(現福山市)生まれ。 絵画作品以外に版画、モニュメント、写真など 多角的に制作する。 抽象的な作品ながら、その印象から「エロスの画家」と言われる。 「エロス」を感じさせる簡潔な線とフォルムの2大要素で表現は高橋秀にとって必要な要素 である。 1961年第5回安井賞を受賞するも’63年より2004年に帰国するまでイタリア、 ローマに滞在した。 1979年には友人の版画家池田満寿夫に請われ池田満寿夫原作、 監督の映画「エーゲ海に捧ぐ」の美術監督を努めた。 日本全国、欧米のギャラリー、 美術館(国公立美術館での個展は多数)での個展、グループ展やモニュメントの制作 などを行う。 2011年より倉敷芸術科学大学名誉教授となる。倉敷市に自宅兼アトリエを 構えた。 |
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小丸山先人の森石碑(寺地舟里・江木鰐水・水野勝成寿蔵碑) | |
2024年8月1日更新 再建された 備後護国神社の石鳥居 福山城の北側、旧水道沿いの道路の東西に、備後護国神社の鳥居が建っています。 西側の大きな鳥居には「昭和十八年九月吉日」、東側のひと回り小さな鳥居には 「昭和十九年十一月吉日」と刻まれています。備後護国神社が阿部神社と合併したのは 1957(昭和32)年で、不思議なことに鳥居の年代の方が早いのです。 備後護国神社は戊辰戦争で亡くなった兵を祀った招魂社が始まりです。福山城本丸の西側にありましたが、 1940(昭和15)年、草戸の広い廃川地に移ることになりました。2基の鳥居はこの草戸の社殿のもので、 大きい鳥居は三菱電機株式会社が、小さい鳥居は個人が奉納しています。 市に誘致された三菱電機は奉納した年に福山で操業を始めたばかりでした。 国際情勢が悪化し、日本が戦争への道を進む中、神社への参拝者は激増していました。 市内の神社7社への参拝道路は町内会や中等学校生徒などの勤労奉仕により建設されていますが、 備後護国神社も「勤労奉仕ヲナサシメ以テ吾等ノ神社ガ吾等ノ手ニテ一日モ早ク竣功相成ル様 格段ノ協力」を指示され、市内外の人々の勤労奉仕によって建設が進められました。 しかし完成を目前にした1945(昭和20)年8月8日、空襲により社殿は焼失しました。 石製の鳥居と神橋は残りましたが、鳥居は破壊されるおそれがあったため、地中に埋めて隠されました。 掘り出されて再建されたのは、西側の鳥居が1961(昭和36)年、東側の鳥居はその約20年後でした。 |
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備後護国神社(阿部神社) 福山城の北側、天神山に鎮座する備後護国神社は阿部神社の鎮座地でもあり、 もとは明治元年(1868)に阿部正垣が幕末から明治にかけて戦死した藩兵を 祀る招魂社としたものに始まる。神殿は本丸鐘櫓北側に建立。 昭和に入り第一次大戦・日支事変などにおける英霊を祀るために 昭和15年(1940)草戸廃川地(現在の福山市体育館あたり)に 備後護国神社の建立が始まるが、完成間近でありながら、 福山空襲の際に焼失したため本丸招魂社に合祀する こととなる。昭和29年(1954)阿部神社を改装し招魂社を移すことが決定、 昭和31年(1956)に遷宮。また阿部神社とはもともとは勇鷹(ゆうおう)神社と称し、 阿部家中興の祖正勝以後歴代の祖霊を祀っていた。明和2年(1765)福山藩 阿部家3代正右が江戸丸山藩邸に創建し、その後5代正精が文化9年(1812)に 現在の城背天神山に社殿を造営して遷座し、勇鷹(ゆうおう)神社と称した。 |
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草戸の備後護国神社跡 2015/4/28訪ねる 大正8年(1919)の福山大水害後、堤防の改修で草戸村内の鷹取川河川敷が廃川地 (現在の福山市体育館体育館・福山市競馬場当り)となっていた。この廃川地(現在の 福山市体育館一帯)に備後護国神社が造営され、完成直前の昭和20年8月8日の 福山大空襲に以上よって焼失した。 護国神社は、従来備後に造営された神社の中では例を見ない最大級の規模だった様で、 戦没者の英霊を祀るため草戸村に創祀された神社で、女子学生まで動員して数年かけて 造営だ進められた壮大な神社であった。 護国神社跡の遺構として見られるのは、体育館北方の旧鷹取川に架かる 「石造太鼓橋(幅8.2m・長さ11.5m)」 |
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旧阿部神社赤門と石碑「捨生取義」 胸壁のような砦があった |
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上水道取水口(妙政寺下) 堰の石には開閉に使用した穴がある。 芦田川から水を取り入れます(久松用水) 御手洗川の上水道施設 福山の城下町は、海を埋め立てて造られたため、塩分を含まない 良質な井戸水を手に入れることが困難でした。このため、初代福山 藩主、水野勝成は築城とともに上水道の整備に力を注ぎました。 芦田川から吉津川に引き込まれた水はどんどん池(蓮池)に蓄え られ、上水道を通して城下町に運ばれて飲料水として利用されたの です。 この石組みの扉門は、かつては御手洗川から上水を取るための重 要な取水口でした。取水口から取り入れられた上水は、吉津町に 埋設された土管を通して各寺院や民家に給水されました。この上水 道施設は城下町の発展に大きな役割を果たしてきた貴重な遺構とい えます。 宮川町内会 |
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妙政寺から福山城を(向き鬼門から)見る 福山城の北側の寺社 水野勝俊墓域 側近家臣殉死、追腹 勝俊の墓前に祀られる |
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木之庄焼窯跡 木之庄焼窯跡とは江戸後期に福山藩の奨励により開かれた窯で、 鞆の保命酒の徳利などに 使われた。しかし幕末になって藩命により反射炉に改造され、 その役割を終えることになる。 昭和50年(1975)ごろ福山市教育委員会により発掘調査が行われた 際に陶片が出土している。 |
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登録文化財 誠之館記念館 安政元年(1854)時の老中筆頭であった福山藩主阿部伊勢守正弘は、文武教育のための 藩校として誠之館を霞町(現・中央公園)に創設した。玄関であったこの建物は、明治5年 (1872)藩校閉校の後、師範学校や明治12年(1879)設立の広島県福山中学校の玄関として 使用された。昭和2年(1927)に県立福山誠之館中学校と改称、昭和8年(1933)には三吉町 校舎(現・合同庁舎)に増築移転し、その歴史をとどめるため誠之館記念館と命名した。 創立百年にあたる昭和28年(1953)、広島県福山誠之館高等学校と改称され、さらに木之庄 校舎の建設に伴い昭和45年(1970)この地に移転したもので、本校の変遷にとって由緒ある 建物である。平成13年(2001年) 誠之館の校名は中国の孔子の孫に当たる子思(しし)が書いた『中庸(ちゅうよう)』(儒教の 経典の一つ)の一節に由来する。「誠は天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。」 誠之講堂のステージ上部にある扁額(横長の額)の「誠之館」という書は、 水戸藩主・徳川斉昭公(徳川第十五代将軍の父)の手になるものである。 |
2010/04/03(土)
コース JR備後本庄駅→阿部正方の墓→円照寺→福山八幡宮→福山城 約6km。
3日:自民党の与謝野氏 自民党離党届 平沼氏と8日新党結成する見通し。
第82回選抜高校野球 興南(沖縄)、初優勝。沖縄勢2年ぶり。
城の背後にあたる北側は、東端に短い堀があるのみだった。堀の代わりに、堀の北辺を東西方向に流れる吉津川や
天神山、小丸山などの小高い山々に囲まれていた。
吉津川には、城内へ通じる橋が架けられ、橋の北岸には黒門が、南岸には赤門があった。
遺族会館の隣の古い門が、この赤門である。
当時とは門が立つ向きが変わっているようだが、藩主だった阿部家の家紋である丸に鷹の羽根の軒丸瓦が、
この門の由来を伝えている。
1868(慶応4)年1月9日朝、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を
攻めるべく福山城下に侵攻した。3日前には京都の鳥羽・伏見の戦いで、薩摩・長州軍などが幕府軍を破った
ばかりだった。
長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃。黒門を突破して吉津川を越えてきた。しかし、
天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃は赤門で
阻止された。
午後になって、当時は石川文兵衛と名乗った福山藩の儒学者、関籐籐陰の巧みな交渉により、福山藩と
長州軍の間で講和が成立。福山城下は戦火を免れることができた。これ以後、福山藩は新政府軍に加わった
のである。
銃弾が飛び交い、福山藩と長州軍がにらみ合う最前線となった赤門だが、多くの人々はその史実を知ることなく、
この門の前を通り過ぎている。
本庄町 四つ堂 |
北本庄 阿部正方公墓所 正方は1869年(明治2年)に北本庄の小坂山に埋葬されました。 墓は上部を玉石で覆った土饅頭形の神式墓で, 墓域は2017(平成29)年11/17(金)に福山市史跡に指定されました。 阿部家歴代の藩主の中でただ一人福山に眠っています。 広報ふくやま 歴史散歩 2022年12月1日 民を思う若き藩主 阿部正方の治世 |
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福山九代藩主正方は 慶応元年(1865)12月11日上下の専教寺で一泊 慶応2年6月3日に益田に入り遠征中に脚気を患い帰城し、 11月22日、福山城で卒去します。 20歳でした。後嗣(こうし)がないため幕府へは喪を隠して 天守閣西北の「小丸山」の竹薮に仮埋葬をします。 慶応2年(1866)6月16日朝 「石州口の戦い」 医光寺 は福山藩の本陣 |
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北本庄 本庄八幡神社 西に芦田川の流れ・山手銀山城跡、南に福山城よく見える位置。 境内に五輪塔の名残りあった。 |
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真言宗 円照寺から1Km先に福山城の眺望 |
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慶応3年(1867)10月「大政奉還」 慶応4年(1868)1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で薩長勝利 長州軍は福山城を目指して1月8日進撃を始めた 円照寺の境内に大砲を据え、福山城を砲撃し、そのうち1発は 天守閣に命中した。 空襲で焼ける前の福山城 大砲の穴があいていた。 北側の城は鉄板があったそうだ。 |
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福山城下へ芦田川の水を引き、どんどん池で浄化した。 久松用水をたどる(駅家町七社〜石原隧道〜本庄町高崎) |
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護国神社から福山城 鉄板ばりの天守 城の北側は塀も築かれず防御に弱かったので、 それを補うために天守北側四層までには鉄板が貼り付けられていました。 鉄板が貼られていたので黒かった。 江戸城天守における黒塗り銅板貼りの事例だけで、 他に類を見ない試みであり工法でありました。 |
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捨生取義の石碑と赤門 最後の福山藩主であった阿部正桓(まさたけ)が「捨生取義」と 大きく篆書(てんしょ)し、福山藩誠之館教授であった濱野章吉の 漢文が刻まれています。 碑の裏面には明治維新前後の戦争で亡くなった福山藩士110人の 名前が記されている。 この石碑は「生を捨てて義をを取る」と読みます。 中国の故事「義に殉じた武士の血は三年経つと碧(みどり)になる」 という言葉がある。 武士は信義を貫くためには、自分の命さえ捨てることを惜しまない。 |
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福山八幡神社から福山城 長州軍は神辺街道から南下、 福山八幡宮のある丘に布陣し、一斉射撃した。 福山藩儒で執政職に就いた関藤藤陰(せきとうとういん)は |
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福山八幡神社 令和2年元旦 初詣 厄年のお祓いした |
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聰敏神社 | |
芦田川の水 城下へ導いた水路 | |
城見町にある 福山城三之丸北御門外枡石塁 城北の防御は自然地形を利用簡略された 福山城の外堀にあった二重櫓や御水門(おみずもん)などの遺構 |
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内堀の石垣 水の城(花崗岩)福山城公園 杭谷 一東(くえたに いっとう、1942年 - )は、 日本の彫刻家である。 広島県世羅郡世羅町出身。圓鍔勝三に師事し、 1962年に日展初入選以来、連続8回入選を果たす。 |
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福山城 桜が満開でした。花見弁当食べました。 |