萩城下町 散策 山口県萩市 04/10/15(金)

2015/7月5日(日曜日)午後10時37分に登録が決定しました。
明治日本の産業革命遺産」ユネスコ世界遺産委員会で登録決定!


NHK大河ドラマ花燃ゆ(はなもゆ)は、2015年1月4日より放送される

物語の主役は吉田松陰の末妹で、後に久坂玄瑞の妻となる杉文(後の楫取美和子)である。
主演を務めるのは、大河ドラマ初出演となる井上真央

「花燃ゆ」紀行 2015/1/4放送 文の生家跡(吉田松陰誕生地)

鉄道の日記念 「西日本一日乗り放題きっぷ」 利用しました。

2004年
期間:10月1日〜17日  ミニチュア列車がついて3000円。

行程 
JR広島駅→JR新山口駅→萩バスセンター→萩城下町(自転車利用 3時間)→新山口駅   約15時間。 

長州藩の豪商、梅屋七兵衛は身分を隠して長崎に向かう。藩の密命を帯び討幕の武器を仕入れためだ。
長崎から上海へ渡り、1年半後に七兵衛が持ち帰った英国製の鉄砲千丁は日本の近代をこじ開けた。

 
10月14日は「鉄道の日」です。
1872年の同日、
日本で初めての鉄道が新橋〜横浜間を走り始めた日
にちなんで制定されました
萩往還の起点萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)
の御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。行程は12里
(約53km)ですが、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の
大道として位置づけられました。そのため、利用する人も多く、山口県の歴史
にとって大変意義のある道といえます。しかし、中国山脈を最短距離でこえる
このルートには、険しい坂や峠が多く、道行く人たちにとって苦労の多い旅で
あったと思われます。途中には、石畳が敷かれ、御駕籠建場や御茶屋が設け
られ、復元された建物もあります。遠い江戸につながるこの道を、武士や庶民
そして憂国の志を抱いた維新の志士たちはどんな思いで歩いたことでしょう。
歴史の道を踏みしめて、その鼓動を確かめながら、ゆっくりと歩を進めてください。
唐樋札場跡(からひふだばあと)藩政時代の唐樋は城下町の中心地として
(札場)があり、罪人の晒(さら)しも行った所である。また防長両国の諸所に
通ずる道の基点として重要視され、ここから里程を数えた。慶安古図を見ると、
三角州北東の浮島・渡り口辺りから大きく南に入江が入り込み、泥地(どろち)
の芦原を形成しているのがよく分かる。満潮時には三角州中央部まで浸水し
その逆流を止めるために作った水門が唐樋であり、町名となった。幕末
(嘉永年間)の図に三角州の一部となり、川中の雁島も対岸の一部に吸収されて
幅広かった大川も狭くなり地形が変ぼうして城下町の完成された様子がわかる。
明倫館遺構 観徳門 この門は藩校明倫館の遺構である。
観徳門(かんとくもん)は孔子を祀る聖廟の前門であって、
一間一戸平唐門で両袖塀付、瓦棒銅板瓦である。
明倫館の正門(南門)と聖廟との中間に位置し、
泮水(はんすい)に架かる万歳(ばんせい)橋を渡り、
聖廟を巡らす石垣への入口であった。
全般に木鼻繰形の多い装飾的要素が目立ち、
構造にも大仏様、禅宗様の要素をもつ珍しいものである。

建築年代は嘉永2年(1849)である。  

明倫館遺構 万歳橋 
 江戸屋横丁

木戸孝允(たかよし)旧宅

 江戸屋横丁
 江戸屋横丁

青木周弼(しゅうすけ)旧宅

 江戸屋横丁

円政寺
花燃ゆ」紀行 2015/3/1放送
萩城下の武家屋敷が並ぶ菊屋横町に、
代々毛利家に仕えた高杉家がありました。
高杉晋作は、藩の要職を務める名家の長男として生まれました。
気弱だった晋作は、円政寺にある巨大な天狗(てんぐ)の面
を度々母に見せられ、度胸をつけたといいます。
剣術に打ち込む一方、うたいながら三味線を爪弾く一面もあった
という晋作。
19歳のころに松陰と出会い、志士として開花しました。

 慶安橋すじ

野田家

 菊屋横丁  日本の道 100選

高杉晋作誕生地
高杉晋作の事跡
天保十年(1839)萩藩士 
高杉小忠太(家禄二百石 号春樹)の長男として生まれ、
明倫館に学びのち吉田松陰に師事、
久坂玄瑞とともに松門の双璧と称される。
文久二年(1862)上海に外国事情視察帰国後、
藩の中心となり討幕運動に身を投ず。また身分を問わない
奇兵隊を組織し、藩論を統一する。
薩長連合に力をそそぎ幕府の征長軍を迎え撃って
全軍を指揮し藩を勝利に導く。
慶応三年(1867)維新を知らず下関で病没す。29才


菊屋横丁  日本の道 100選
 
菊屋横丁  日本の道 100選 
呉服町すじ(御成道)菊屋家住宅菊屋家は摂津国(大阪)住吉大社の津守摂津
守国量朝臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を
捨てて町人となった。その頃、山口四十八町の惣町支配を勤め、永禄12年
(1569)大友宗燐の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は四十八町の人を連
れ、高嶺城にててこもって防戦に功があり、毛利元就から感状をうけた。また毛利
輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀が不足していることを
聞いて急場の難を救ったこともある。この頃まで津守姓であったがのちに石川姓・
菊屋姓に改めた。慶長9年(1604)輝元の萩入国に従い、現在地に屋敷地を拝領
して家を建てた。また城下の町割りに尽力し阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための
家を建てて住まわせたのでそれより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。
その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。
また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所・恵民録役所
等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。  
御成門
 庭園
 書院
 柱時計

伊藤博文の初洋行した際のアメリカ土産
英雄たちの選択
明治の行方を決めた政変〜征韓論危機 伊藤博文の決断〜
明治6年、明治政府は崩壊の危機にあった。征韓論を主張する西郷隆盛と内治優先の大久保利通。
キーマンとなったのは伊藤博文。誰よりも近代化ビジョンを持った男の選択は。
明治6年、明治政府は朝鮮への使節派遣をめぐって真っ二つに割れた。
使節派遣を主張する西郷隆盛と内治優先の立場で反対する大久保利通。
その対立の背景には、欧米を視察してきた岩倉使節団と、その留守中に改革を進めてきた
留守政府、さらには長州・薩摩と肥前・土佐の主導権争いがからんでいた。政府崩壊の危機の中で、
キーマンとなったのが若手官僚だった伊藤博文。誰よりも早く近代化のビジョンを持った男が選んだ道は?

萩焼
天樹院墓所

毛利輝元の墓  

萩城天守閣跡敗北の将・輝元 守りの城天下分け目の関ヶ原の戦いの際、
西軍の大将に祭り上げられた毛利元就の最愛の孫・輝元。結果、東軍・徳川家康
に敗れた輝元は中国8カ国120万石の太守から周防・長門36万石の領主に転落
します。広島城を追い出された毛利氏は新城の候補地として防府、山口、萩の3ヶ
所を挙げましたが、徳川幕府が許可を与えたのは所領の外れにあたる萩の地でし
た。慶長13年(1608)、築城に4年の歳月をかけ、萩城が完成しました。萩城が建
てられたのは標高143mの指月城とその山麓。山頂に本丸と二の丸、石垣と堀の
外側には三の丸を置いて阿武川の三角地一帯に城下町が形成されました。さらに
山頂には、海と山を監視するための2基の二層やぐらと5基の単層やぐらが、城の
周囲には三重の堀や櫓門などが造られました。守りに徹した城を造ったのは、幕府
が攻め込んでくることを想定していたとも言われます。 
   萩城模型
 萩城天守閣跡明治維新の原動力
幕末の長州藩があれほどの活躍を見せたのは、
大名の毛利敬親(たかちか)が家臣が何を
言ってきても「左様、そうせい」としか
言わなかったからだと言われている。
家来に「藩を尊王攘夷派にしましょう」と
言われる「そうせい」と言って、尊王攘夷
になり、長州戦争で幕府と戦うことになり、
「幕府に従った方がいいでしょう」と
言われると「そうせい」と答えて、抗戦派の
家老3人を斬首して幕府に渡している。高杉晋作が
登場すると、やっぱり「そうせい」と言って
藩はまた尊王攘夷に変わり、ついには討幕を達成
したのである。だから敬親は「そうせい公」とも
言われている。そして討幕後、敬親は「わしはいつ
将軍になるんだ?」と尋ねてきたという。
  阿保親王
792-842。平城天皇の皇子。薬子の乱に連座し大宰府に流された。
御落胤の大江音人が、毛利家先祖という。
このため長州藩主毛利家は親王塚を元禄4年の850回忌に
改修したりと、皇室の流れを汲むことをアピールした。
毛利家は阿保親王を先祖にもつ、皇室の流れをくむ大名とされ、
古くから京都に屋敷を持ち、朝廷との関係も密だ。安政5年(1858)
には「天朝への忠節、幕府への信義、洞春(毛利元就)以来の忠志を
継いで孝道も大切」との「藩是三大綱」を定めていた。
毛利家紋
萩本藩

徳山藩

長府藩 

清末藩 
二の丸土塀 
指月(しつき)城 
 菊ヶ浜から指月山143m・萩城跡
「花燃ゆ」紀行 2015/5/31(日)放送
萩市の菊ヶ浜に、外国船からの砲撃に備えて土塁が築かれました。
普段は表に出ない女性が台場づくりに参加したことから、
「女(おなご)台場」と呼ばれています。
禁じられていた絹の着物が許されたため、
華やかに着飾った女性たちが集まったといいます。
そのときの作業唄は、民謡「男なら」として、
今も歌い継がれています。
一方、下関では、商人・白石正一郎の屋敷を本陣として、
高杉晋作が奇兵隊を結成しました。
志ある者なら身分を問わず受け入れた奇兵隊。
高杉は、武士以外の力も積極的にいかそうとしたのです。
民衆のエネルギーを背景に、
長州は新しい時代へと踏み出していきます。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 
旧萩藩御船蔵 御船蔵は萩藩の御座船を格納した場所である。
慶長13年(1608)に萩城築城後、まもなく建てられたと思われる。
構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、
前面は木製扉を有している。大きさは桁行き26.9m、梁間8.8m、
高さ8.8m、石壁の厚さは6mである。
現在大船倉が1棟残っているが、享保年間(1716〜35)作成の
萩城下町絵図には3棟、天保年間(1830〜43)作の
「八江萩名所図画」には4棟の船倉が描かれている。
明治初年に北側の1棟、昭和37年に南側の
1棟が取り壊された。現在は明治以降の埋め立てのため川岸から
離れた所になったが、
往時は松本川に面して船が自由に出入りできる場所であった。 

旅行記忘備禄

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