宇品界わい

2001/5/31 前日の雨 上がり 御幸橋から宇品港 4時間のすこやか健康ウオ-キング。

「南区魅力発見ブック」片手に行く。

明治の一大事業といわれた千田貞暁による干拓埋め立てによって姿を現した宇品のまち。

広島市の海の玄関口として、また軍港として栄え、今もその名残をとどめています。

広島は日清戦争以降、戦争の後方支援のための基地、軍都としての役割を担った。

現在、平和文化都市。 思う 何が戦争に至った経緯か?  歴史を考える。

1887(明治20)年の「私設鉄道条例」公布により民間の山陽鉄道会社が設立され、神戸〜下関間に山陽鉄道(現山陽本線)の
敷設が計画されます。 1888(明治21)年11月に神戸〜姫路間が開通すると1891(明治24)年3月には岡山、同年9月には福山、
1894(明治27)年6月には広島までレールを延ばします。 もちろん工事は万事順調に進んだわけではありませんでした。
とりわけ難航したのが用地買収です。福山駅の建設では福山藩のシンボルであった福山城の石垣を壊し、路線が町を分断して繁栄
を阻害するなどと反対の声が上がりました。 しかし山陽鉄道の敷設には、日本と清国の関係が悪化するさなかだったこともあり
政府と軍部の強い意志がありました。福山町でも東京から帰郷した学生有志が、町の発展のためには早急に鉄道を敷設する必要が
あるという声を上げ、積極的に支持しました。当時の社会情勢による要請から最短ルートを最短時間で敷設するには、石垣を壊して
内堀を埋め立てる必要があったのです。 日清戦争が始まる2カ月前には、山陽鉄道は大陸への兵たん基地があった宇品港を擁する
広島まで開通します。こうして山陽鉄道は兵員・軍用貨物の輸送を進めるために軍用列車として運行し始め、今日の山陽本線につながります。
 これらのいきさつより福山城は今では「日本一 駅から天守閣が近い城」として知られるようになったのです。

宇品線

 辺りの地図です

生活感あふれ・元気な宇品。わずかな時間で見させてもらった。

途中、親切に場所教えてもらった皆さんに感謝。

10時40分 別宅出発  14時30分帰宅。  2001/6/1 UP


にっぽん縦断 こころ旅
放送日:2017年4月11日 613日目 広島県広島市

スタートは元宇品公園の展望台
宇品ショッピングセンターを通る。
京橋川の土手を北へ・・・。
御幸橋という橋のたもと
広島のソウルフード!!
電車もバスも映っている〜。

千田廟公園。

11時15分

明治の一大事業といわれた広島港の築港(明治22年完成)

この功績ををたたえた公園にある千田貞暁知事の像。  

 千田廟の案内板
11時20分

千田廟公園内にある子規の句碑

 

「行かば我筆の花散る処まで」  

 11時35分 広島市郷土資料館これが御幸通り。宇品御幸2丁目。
資料館の赤レンガ建物 陸軍糧抹支廠の缶詰工場として建設。
「糧抹」(りょうまつ)とは兵士の食糧・軍馬の秣(まぐさ)を意味。
昔の生活にタイムスリップ。
12時 宇品小学校 校庭に二宮尊徳像。宇品御幸4丁目。
桜並木ある。
12時15分かつてこのあたりを路面電車が走っていた。
名残りが所々ある。昭和10年に今の路線になった。
宇品海岸2丁目
12時40分 宇品中央公園にある小学唱歌の記念碑。
作曲 吉田 信太氏  作詞 籏野 十一郎(たりひろ)
空も港も夜ははれて  月に数ます船の影
 端艇(はしけ)の通い にぎやかに
 よせくる波も黄金(こがね)なり
』 
宇品の居酒屋で老人から宇品を歌ったものであるとわかる。
昭和50年7月21日 海の記念日に除幕
唱歌の碑   唱歌「」の由来   歌碑
よく歌った曲が宇品に縁があったとは驚きだ。 
12時55分 宇品波止場公園。
「89海と島の博覧会ひろしま」シンボルタワー パラダイスの塔がある。
パラダイスの塔(「広島がすべてを映す光り輝く都市となるように」)
近くの さこだ食堂で昼食。2品とご飯・味噌汁、缶ビール。
 13時 広島南道路、宇品大橋。
マツダ車は1万トンバースから世界へ

多くの人が利用する広島港県営桟橋。 写真は01/5/7撮影。

03/6/27 新しい「広島港宇品旅客ターミナル」見に行きました。
電車「宇品」乗場。 新しくなり移動されていた。

13時20分 宇品ショッピングセンター。宇品神田5丁目

狭い路地を縦横にいくつもの商店が並ぶ、商店街。

 13時55分

みなみ中通り商店街。

端から端までいろんな店が並んでいる。

機会あったら元宇品へ行きたい。

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