銀の道ぶらり旅 銀の道広域案内板設置記念ウォーク
(美郷町粕淵、及び、やなしお道)8km
日時:令和7年(2025)11月30日(日)
集合:美郷町役場駐車場
役場前9:03分 バスで移動 9:18君谷別府着
君谷別府から美郷町役場前までやなしお道を12人で歩く
万歩計:19119歩 14.19km 4時間9分
行き:140km 3時間45分 ルート375 常清滝へ
帰り:137km
2025年 新語・流行語大賞 年間大賞決定
年間大賞
働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相





幕末の本陣(林家)
江戸時代の終わりになると林家も本陣を命じられました。
大森に赴任する代官は前日に林家へ止宿した後、大森へと
向かいました。慶応2年には幕府の第二次長州征伐により
、福山藩主阿部正方(あべまさかた)がここに本陣を構え、
1ヶ月間に渡って駐留しました。当時の佇まいはそのままに、
旅館「亀游亭(きゆうてい)」として現在も引き継がれています。
小原本陣跡(波多野家)
波多野家は慶長の初期に石見銀山のはんえいに伴い相州から
この地に移り住みました。初代惣衛門は初代銀山奉行大久保長安
に召し抱えられ、その後数代に渡り銀山方地方役を務めました。
波多野家は小原宿での本陣を務めまていましたが、母屋はすでに
解体され、現在は当時の土蔵を改修した民家と敷地の石垣だけが
僅かに残っています。
石見銀山街道
この道は慶長8年(1603年)より幕末まで石州灰吹き銀の御用輸送路
であった。そのため多くの人や物資が往来し、文化交流の道でもあった。
灰吹銀の御用輸送路であった。そのため多くの人や物資が往来し、
文化交流の道でもあった。灰吹銀は旧暦10月下旬から11月初旬(現11月下旬
~12月初旬)にかけて大森から尾道まで130kmを三泊四日の宿継ぎで運ばれ
た。行列は各牛馬1頭に灰吹銀の箱2個をつけて、それぞれ一尺四方の白地に
葵の紋を染めた小旗を立てて大森を出発した。堂原(荻原)を経て「箱茂のお松」
より小松村に入り田平谷「米とぎ橋」渡り、ここ「馬場の前」に着く。再び小川を
別府村に入る。このあたりより「やなしお道」と呼ばれたか?緩斜面を登ると
惣森村境に、「十王堂」跡がある。なだらかな尾根道を行けば処々に茶屋も在り
、やがてこの道一番の難所「八名塩坂」に到る。志君川を越え、再度尻無川を渡り
『小原川にて御銀付替り其内昼休』と古文書は伝える。大森から小原(粕淵)まで
四里(約17km)。
やなしお道入口
↓ 5分 200m
十王堂
↓ 60分 2km
七本槙
↓ 30分 1km
大名石
↓ 15分 500m
湯抱別れ
↓ 15分 500m
再進坂峠
↓ 20分 800m
石組み
↓ 20分 800m
古い墓標
↓ 20分 800m
やなしお坂終点
イノシシは頻繁に泥浴びを行うことで知られる。
泥浴や水浴の後には体を木に擦りつける行動も度々観察される。
特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場」
山野草 地域の宝採らずに撮ろう。
ささゆり
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
十王堂と茶屋跡
ここは大森から銀山街道と大田方面からの街道の合流地点です。
この場所は当時十王堂と六観音を安置した小堂が建っていたことから、
「十王堂」と呼ばれています。大森から山陽へ向かう人々、また、
大田市の物部神社と美郷町の天津神社を行き来する人たちで賑わい
を見せ、当時はここで茶屋も開かれていました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
茶縁原 三つのお山が美しい! 親三瓶 子三瓶 孫三瓶
版築工法
この銀山街道は、徳川氏が石見銀山を支配した慶長年間から、尾道への
産銀輸送路として利用されることとなり、初代石見銀山奉行大久保長安の
指揮の下、官道として整備されました。この道には、真砂土と粘土を交互に
層状に塩水を加えて突き固める「版築工法」が用いられたことが邑智北農道
開設に伴う調査で2001年に明らかになりました。
ささゆり
七本槇(しちほんまき)
石見銀山から約11km、振り返ると大江高山など銀山方面の山々が望めます。
標高270メートルの場所ですが太古の時代は湖沼で、周りの地層には丸い石が
確認できます。又、この周辺の小松地村、別府村、惣森村、志君村、湯抱村は
大田市の忍原村と合わせ「炭方六ヵ村」に指定され毎月山林の面積に応じて
銀山へ木炭を供出していました。
七本槇(しちほんまき)に整備されたトイレ
水溜場跡
茶屋屋敷跡 昼食
女三瓶見える
一里塚
銀山街道の時代、この場所には一里塚がありました。現在も当時の黒松
の株と両側には塚の土盛りが残されています。一里塚の整備は江戸時代
日本橋を起点に慶長九年(1604年)から始まり、石見銀山の初代奉行、
大久保長安の指揮の下に行われました。ここは大森から三里、やなしおの道の
ほぼ中間に位置します。

ポウポウ坂
湯抱(ゆがい)温泉に下る別れ道ですが、現在は通行できません。修行の山伏が
ホラ貝をポウポウと吹きながら歩いたこと、湯抱温泉の湯がポウポウと湧いて
出たことかなど名前の由来とされています。湯抱温泉は斎藤茂吉博士の研究により
万葉の歌人、柿本人麻呂の終焉の地であるとされた場所で博士の偉業を讃えた
鴨山記念館もあります。
大名石
湯抱(ゆがかい)別れ(やなしお道)
湯抱温泉へ下る道との分岐点です。銀山街道は尾根沿いに直進ます。約7kmつづく
この尾根道は「やなしお道」と呼ばれ、昔の面影を最もよく残しています。銀の輸送
が始まる江戸時代初期には、初代石見銀山奉行大久保長安の指揮のもとに大規模な
整備が行われました。この整備は交互に真砂土と粘土を層状に着き固めた「版築工法」
が用いられていたこと調査により確認されています。
再進坂峠 やなしお道の最高地点およそ300m
三瓶山展望所
三瓶山を南西側から眺める、左から男三瓶、手前に子三瓶、右に孫三瓶、
男三瓶の標高1126m。麓には三瓶温泉がありイイフロと覚えます。

荷置石

中(なか)の休(やすみ)
ここは、やなしお坂の中間の場所で中の休と呼ばれています。当時は急な坂道の
途中での休憩場所であったためか、付近には「雨寄生堂(あまよけどう)」と呼ばれる
小屋が建てられており、修繕費用も大森代官所から支払われていました。二間×一間ほどの小さな
建物でしたが、内側には腰掛け内縁も備え付けられていました。

やなしお坂
ここから標高250mあたりまで一気に上るつづら折りの急な上り坂は、「やなしお坂」
よばれた銀山街道の難所で、往来する人々や牛馬を苦しめました。江戸時代にはこの坂を
通る荷役に対し、難所のため割増賃金が公認されていました。この坂の途中には旅人が
荷を置いて休んだという「荷置石」や「古い墓標」など残っています。

| 年 | 新語流行語大賞 | 今年の漢字 | 10大ニュース 記録サイト |
| 2025 | 働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相 | 銀の道ぶらり旅 銀の道広域案内板設置記念ウォーク(美郷町粕淵、及び、やなしお道) | |
| 2024 | 「ふてほど」 | 金 | 特別史跡 彦根城跡 |
| 2023 | アレ(A.R.E.) | 税 | 西国街道・安芸の旅・広島から西へ(7回)JR廿日市駅~広電地御前駅 |
| 2022 | 村神様 | 戦 | 開龍寺散策と、白石踊鑑賞がいっぺんにできる欲張りツアー! |
| 2021 | リアル二刀流/ショータイム | 金 | 名城めぐり「日本三大水城今治城と現存一二天守松山城、二重の堀と土塁が残る湯築城を巡る」 |
| 2020 | 3密 | 密 | 名城めぐり「ロープウェイで行く岩国城と広島城を巡る旅」 |
| 2019 | ONE TEAM | 令 | 名城めぐり「平成最後の築城尼崎城と明石城櫓内部見学と赤穂城」 |
| 2018 | そだねー | 災 | 名城めぐり「津山城ご城下と足守を巡る旅」 |
| 2017 | インスタ映え・忖度 | 北 | 西国街道・安芸の旅 西条駅周辺 |
| 2016 | 神ってる | 金 | 古代山陽道の要所「戸手」を訪ねて |
| 2015 | 爆買い | 安 | 西国街道の旅 阪急バス中河原BSから~JR高槻駅 |
| 2014 | ダメよ~ダメダメ 集団的自衛権 |
税 | 大山崎散策 |
| 2013 | 今でしょ! お・も・て・な・し じぇじぇじぇ 倍返し |
輪 | 銀の道 ぶらり旅 別迫東支所~甲山今高野山 |
| 2012 | ワイルドだろぉ | 金 | JRで行く会津若松・松島周遊の旅 |
| 2011 | なでしこジャパン | 絆 | |
| 2010 | ゲゲゲの~ | 暑 | 銀の道ぶらり旅 三成~尾道 |
| 2009 | 政権交代 | 新 | 西国街道ぶらり旅 防府市台道~山口市四辻 松江カラコロ旅情 ぐるっと松江レイクライン |
| 2008 | グ~! アラフォー |
変 | 西国街道(旧山陽道)岡山から兵庫を歩く「三石~有年」 |
| 2007 | (宮崎を)どげんかせんといかん ハニカミ王子 |
偽 | 西国街道 岡山を歩く「岡山市上道~瀬戸内市長船」 |
| 2005 | 小泉劇場 | 愛 | 経ヶ丸山(きょうがまるやま) 281m |
| 2004 | チョー気持ちいい | 災 | 北京旅行 4日間 |