銀の道 ぶらり旅 飯南町・三次市布野町の境 赤名峠〜三次市布野まで
広島県三次市布野町・島根県飯南町 2017/4/22(土)
行程 距離9.9km 14人の旅人
10:05赤名峠国境の石碑・中村謙吉の歌碑→万右衛門殺害場所→熊地蔵・番所跡・一里塚跡→枡屋→日野イシさんの家→
光西寺(11:55〜12:15昼食)→ついもん祠→仏ヶ峠・地蔵堂・大仙神社→15:45三次市布野支所(走行100km・一般道路2時間20分)
23日 朝鮮半島近海へ向けて航行している米海軍の原子力空母カールビンソンと海上自衛隊の護衛艦が西太平洋の海域で
共同訓練を始めた。
赤名峠 島根県飯南町と広島県三次市布野町の境にある峠で標高630m。 日本百名峠。赤名峠の歴史は古く、『出雲風土記』には「三坂(中略)常に あり」と記され、古代より陰陽を結ぶ重要な峠であったことが伺える。 江戸時代、石見銀山から尾道に至る道は、銀・銅を運ぶ銀山街道として 大きな役割を果たしたが、赤名峠は街道中の最大の標高をもち、銀山街道 の難所として知られた。また、出雲大社・伊勢参り道、日本海側から三次方面 への海産物の運搬道(ワニの道)など、物資交流の峠でもあった。斎藤茂吉は 柿本人麻呂の終焉地について自著『鴨山考』で美郷町湯抱の鴨山推定、 「赤名峠通過」を主張している。「人磨のことをおもいて 眠れず 赤名越えつつ 行しきおもほゆ」斎藤茂吉 「君を送りて国のさかひの山越えの 深き峡路にわか れけるかも」中村憲吉 飯南町 |
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史跡出雲街道と藩政時代の国境の碑 広島県と島根県を結ぶ旧国道の赤名峠は、昭和39年(1964)に赤名トンネルが開通 するまで冬季は積雪が多く交通の難所でした。古くは、旧藩時代の広島藩が定めた 規格7尺の道幅で、石見銀山から銀や銅を大阪に運んだ銀の道です。国境を示す 標柱は当初木柱でしたが、享保5年(1720)に石柱に建て替えられ、更に天保3年 (1832)の藩名変更に伴い広島で新調し現地で取り替えられました。それまで出雲路 と呼ばれていた街道は、明治9年(1876)に県道改修工事で一等県道になった時から 出雲街道と改称されています。時を経て明治20年(1887)県道改修工事の際、碑は 旧横谷村瀬戸八幡神社へ移されました。以後120年にわたり神社境内に保管されて いましたが、天保3年に再調した一基を、布野町住民が進める「まちづくりビジョン」 に基づく出雲街道整備の一環として、平成19年6月24日現在地に移設復元しました。 なお、享保5年に作られた初代の石碑は、赤名トンネルから広島方面へ約4km下った 地点の八幡神社境内に保存しております。布野町町づくり連合会 |
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枝垂れ桜 見頃でした。 赤名峠の万右衛門事件 天保三年(1832)7月14日の朝、赤名峠で万右衛門(52歳)という石州の肴売りが殺さ れるという事件が起きました。同じ肴売りの磯五郎(30歳)という男から、万右衛門が 数人の者に取り囲まれて乱暴されるといるという急報があり、国境役人の友十郎(48歳) が現場へ駆けつけたが、犯人はすでに赤名方面に逃亡したらしいということで姿は ありませんでした。重傷の万右衛門を戸板に乗せて番屋まで連れて帰り治療をしまし たが、その甲斐もなく夜8時になりついに絶命しました。万右衛門は石州の羽根村(今は 大田市)から肴やローソク・反物などを持って来ていて地元の人達とも顔見知りでした。 |
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犯人が赤名へ逃げたということで、幕府直轄の大森代官と広島藩が、いざこざを起こす ことになってはと心配されたようです。調べてみると、頭や顔に数か所の傷があり、懐中 には芸州銀札で36匁余りが残っていました。しかし、どうも納得いかないところがあり通報 した磯五郎を調べていたところ、極道もので親との縁も切られ、人別帳からも外されている ことが解りました。調べによると、数日前に作木でバクチに負け、無一文になっていたにも かかわらず、懐には40匁余りの銀札を持っていることが解り、取り調べの結果、万右衛門 を殺したことが明白になり、後日、打ち首の刑となりました。殺されたこの場所は、昔から 「ヘビ喰い往還(街道)」と呼ばれていましたが、何時となく「万右衛門坂」と言うようになり、 訛って「マンネエ坂」と呼ぶようになりました。墓には「釈道証」という戒名が刻まれて、 益田さん宅の裏にあり、今も子孫の方によって供養されています。当時は、平穏なこの 地方では大事件であったとして今も語り伝えられています。 |
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一里塚 赤名峠の歴史は古く、万葉の昔、歌人の柿本人麻呂も通り、江戸時代には幕府直轄の 大森銀山から、銀や銅の運搬に荷駄を連ねた難渋の峠でもあった。曲がりくねった急な 坂をテクテク歩く人・牛・馬の憩の峠の茶屋もありましたが、今は訪ねる人もなく、中国山地 越えの歴史と秘話を物語っています。一里塚とは、今から400年前の慶長3年(1604年)、 徳川家康は、東海道・中山道などの諸街道に江戸日本橋を元票として一里(約4キロ)ごと に塚を築き、これを一里塚としました。広島藩では寛永10年(1633年)2月に村道は広さ3尺 (約90cm)に定めて、国境から尾道に至る官道の一里塚としました。その後、明治10年 (1877年)10月、時の広島県令が交通の不便と耕地の影になるとして取り除くよう命じたため、 今残っているものは少なくなりました。また、旧藩時代には、こうした交通の要所として関所・ 番所(ばんどころ)・木戸という施設が置かれました。その番所跡が、一里塚の前にありました が、今は田んぼになっています。 |
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熊地蔵 伝承によると、この辺りの猟師が熊を生け獲りにし、熊胆を取り出して売っていたという。 命を奪った熊の供養のために、猟師が建立した地蔵さんらしい。熊胆は熊の胆嚢を干した 薬で、腹痛、気付そして強壮剤としてよく効くと、江戸時代には珍重された。 番所跡 赤名峠の一里塚の前に旧藩時代の番所があったと言う跡が残っています。当時は、交通の 要所に関所・番所・木戸という施設が置かれ、国境を越える通行人を見張っていました。 |
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国境を越えるには通行手形(旅行許可証)が必要でその手形の検査や通行人を見張ること が仕事でした。この赤名峠のほかに脇往還(脇道)の真木から吸谷の捨金へ通じる桃の木川の 分岐点にも国境番屋が建てられ番人が置かれました。交通量の少ない捨金に置かれたのは、 旧江戸時代を通じて吸谷川水系ではタタラ製鉄が盛んで、その原料である砂鉄が出雲側に多 くあったため、その取り締まりをするために番屋が置かれたようです。赤名峠と吸谷の番屋には、 それぞれ地元の農民二人が国境の番人に任命され、家族と一緒に住み込んで番に当たってい ました。現在の3月、7月、11月、の3回に分けて扶持米(ふちまい)が1人に年三石(ただし捨金 番屋では二石七斗五升)が三次代官所から支給されました。国境の番人の任務は、ご禁制品を 他の領へ売買する抜荷(ぬけに)や不審者の取締りと領から追放を受けた者への刑の執行、 そのほか隣国の異変の情報収集などでした。横谷村の農民の栄作ほか二人が赤名のタタラへ こっそり炭を売り、六日間の入牢に処せられる事件もありまました。 |
室宿と伊能忠敬 室は昔から陰陽を結ぶ赤名峠と布野宿の中間の宿場として繁盛していました。当時は十数軒 の家が並び、行き交う旅人でずいぶん賑わっていました。日本地図を完成させた伊能忠敬 (1745―1818)も、文化8年(1811)に布野の地図の測量のため、この集落の一軒である升屋 に泊りました。忠敬65歳の時です。伊能忠敬は、上総の国(千葉県)の商人で、50歳を過ぎて から勉強をし、幕府の命を受けて日本地図を作り始め、正確さでは世界最高水準の実測に よる地図を作った人です。文政6年に第7次測量のため、江戸を出発して中山道、山陽道を 経て九州を回り、山陰路に入り石州の大森(銀山)を通って2月29日に赤名宿に到着しました。 一泊したあと、翌日に豪雪の中を国境を越えて室に入りました。当時、横谷村の庄屋広蔵の 記録では下役の6人と草履取り3人の計10人の一行は、残雪で歩くことも困難であったため、 藩の命令を受けて10日前から雪踏みや除雪を行い国境から布野までの一里十八丁三十八間 (約6km)の道を修理して十間ごとに杭打ちをして待ちました。 |
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その時、除雪・くい打ち・接待など に動員された人数は延200人を越えたと言います。伊能忠敬ら一行は幕府の御用として測量 するため、その待遇は当時の升屋の主人幸四郎をはじめ地元では大変だったようです。 升屋には二泊して続いて布野、三次へと測量が進められていきました。実測図を作ったのは 忠敬の功績ですが、その背景には地元の多くの人々の協力がありました。 室谷振興会 DataBaseサービス 伊能測量旅程 7次 測量日記第17巻文化8年閏2月1日(1811年3月24日) 赤名駅より横谷村枝室市を歴て字犀ケ峠迄測る。 大図:163号三次 光西寺如意輪観音 牛馬観音 |
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荷車の歌 小説家 山代巴「荷車の歌」は日野イシさんの体験が元になっている。 まわりに田んぼ田植えの準備です。 |
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相撲取り若林 室宿場に若林という名の相撲取りが実在し、大正4年に60歳で亡くなったが、 弟子たちがその功績を顕彰をして大正9年11月に建立したものである。 もとはこの少し上の道路端にあったが、道路拡張工事で現在地に移ったと される。相撲取り若林は、本名を弓掛他人造といい、商いを生業としていた。 地方相撲では名の出た相当に強い相撲取りであり、また頭取の職を務めたという。 同地区の光西寺寺庭には、他人造が妻ミネと寄付した手洗い鉢が見られる。 |
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ついもん祠 この祠は「ついもんさん」と呼ばれる神を祀ったもので、岩の割れ目には白い蛇が 生息しており、婦人病に効能があると言い伝えられている。「ついもん」と言う意味は 不明であるが、興味深い話として、大田市堂原の銀山街道沿いに「梅雨佐衛門」という 神を祀る岩があり、ここに伝えられている話が、ついもんと同じく、大きな岩の割れ目に 白い蛇がいて下の病に効能があるという。昔、大森から銀を運んでこの岩の前を通った 人が、大森と同じようなこの岩を見て梅雨佐衛門と呼び、時を経てこれが訛って「ついもん」 と呼んだのであろうか。またこのあたりは、タタラ製鉄が盛んな地域でもあり、梅雨佐衛門 と呼ばれる以前に金屋子神社の祠があった可能性もあるが、いずれにしても確証は得ら れていない。 |
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地蔵堂と大仙社 この場所は、仏ヶ峠と呼ばれ古くから道の要所であり、地蔵堂と大仙社の 二つの祠が建っていた。地蔵堂の由来は不明であるが、道行の安全を祈願 したものであろうと思われる。現在二体の牛馬観音が建っている後方に 大仙社の祠があったが倒壊したため、平成27年、周辺の整備の際に現在地 に移設した。牛馬観音は農耕に使った牛や馬の供養をするもので、今では その多くが光西寺の境内に集められている。 |
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古道に綺麗な花ありました。 |
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道しるべ |