福山・尾道観光ガイド団体交流会 広島県尾道市
2024年(令和6年)2月9日(金)
場所 尾道市役所多目的室(尾道市久保1丁目15-1)
内容 ガイド交流会
グループワーキング
(1)ワーキングテーマ
「地域における継続的なガイド活動」
(2)ワーキングの流れについて
①ガイド活動を始めたきっかけ(経緯)
②新たなガイド仲間を増やす取組や、継続的な活動に必要なこと
③各グループ発表
参加団体 10団体 福山には様々な観光ガイド
鞆の浦しお待ガイド
神辺町観光ボランティアガイド
福山城博物館友の会 ボランティアガイド部会
新市町観光ガイド
平家谷おばちゃんガイド
明王院を愛する会
熊野町歴史ふるさとガイドの会
観光パートナー尾道の会
尾道市シルバー人材センター観光ガイド
因島観光ガイドつれしお会
尾道観光協会
尾道市街地観光案内地図
尾道市街地の観光マップです。古寺めぐりにも便利。
尾道市内ガイドによる尾道ガイド散策観光パートナー尾道の会
千光寺公園駐車場→展望台→文学の小道→千光寺→猫の細道→艮神社→(天寧寺→商店街→)長江口駐車場
日本三大桜子孫樹
日本三大桜
根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみさくら)、山高神代桜(やまたかじんだいさくら)、三春滝桜(みはるたきざくら)
恋人の聖地
さくら名所100選
夜景100選
千光寺公園
千光寺公園(共楽園)は、明治27年に三木半左衛門の発案により、豪商達の協力で作られた西洋式の公園です。
その後、共楽園は、千光寺から尾道市に寄付されました。大正時代には、本多静六による公園の拡張再調整が行われ
、桜の名所として多くの観光客が訪れていました。現在でもおよそ1500本の桜があり、日本さくらの名所百選にも
えらばれた桜の名所です。昭和32年にロープウェイが開通、昭和40年に文学の小道ができました。2022年には新展望台
(ピーク)が完成、尾道城跡にも展望台(視点場)ができました。尾道の人口は平成の大合併で増えましたが、その後
減少を続け、現在は約12万8千人で、広島県では5番目の人口の町です。
番号 | 施設 | |
1 | 港町尾道 | 尾道は平安時代末期の1169年に大田の荘の年貢米の積み出し港として、 後白河院の命で開港された。以来、港町商人の町として続いてきた。 南北朝時代には、明との貿易、秀吉の朝鮮出兵時の兵站港、江戸時代の 北前船による国内貿易港として栄えた。現在、港としての機能は殆どなくなる。 |
2 | 市立美術館 | 昭和55年(1980)に完成、西郷寺を模した建物。2013年に安藤忠雄設計の新館が 完成。尾道ゆかりの小林和作や平田玉雲の絵を所蔵する。美術館を中心に、一般 公募の絵画展「絵のまち尾道四季展」が開かれる。 |
3 | 展望台(ピーク) | 2022年にリニューアルオープンした展望台。回転式で尾道水道、瀬戸内海が一望できる。 尾道の絶景スポット。昭和33年に建設されたロープウェイの駅に直進しバリアフリー で展望台に登れる。 |
4 | 尾道水道 | 向島との間の、長さ9km幅200~400mの海峡、深いところで15m程の水深。干潮の差は 4m近く、潮がみちてるくるときは、西から東へ、引いていくときは東から西に流れができる。 普通、瀬戸内海地方では、海峡は瀬戸、開けた海域は灘と呼ぶ。豊後水道、紀伊水道と 比べと小さい。 |
5 | 瀬戸内海国立公園 | 昭和9年に瀬戸内海国立公園。尾道では、高見山山頂、鳴滝山山頂など、瀬戸内の景色 がよい場所が指定(広島県では、鞆の浦、宮島、弥山、岡山県の鷲羽山、香川県の屋島、 徳島の鳴門海峡)。 |
6 | 尾道大橋 | 兄弟橋、建設は、旧S43年(1968)新H11年(1999)いずれも斜張橋。橋脚のスパンは215m、 高さは76m、海面よりの高さ34m。手前が新尾道大橋で自動車専用道路(しまなみ海道) 尾道大橋は、一般道で自動車、歩行者が無料で渡れる。 |
7 | しまなみ海道 | 平成18年(2006)開通。尾道今治の6島(向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島)を 尾道大橋、因島大橋、生口島、多々羅大橋、大三島大橋、伯方大島大橋、来島海峡大橋 の7橋(正確には10橋)で結ぶ。今治まで60km(¥2950/ETC)。自転車、歩行者は無料。 サイクリング通としては、橋以外は一般道を走るので約70km。 |
8 | 北前船 | 江戸時代に、大阪から瀬戸内海を通り、山陰、北陸、北海道までを航海した。寄港地で 積み荷の売り買いをする。買い積み方式で単なる運輸業では無かった。舟は弁財天と 呼ばれる一枚帆の和船で、低コストかつ大量の荷物が運べるよう工夫されていた。 陸運が発達する前の明治期まで続いた。 |
9 | 西国街道 | 京、大阪と九州を結ぶ街道は、古くは奈良時代の山陽道として整備された。 山陽道は海沿いでは無かったが、時代と共に南に下がり、江戸時代には、 尾道を通る西国街道は、(大久保長安の定めで整備 道幅2間半=4.5m)として、整備された。 西国街道は、現在の商店街。山陰に続く石見銀山街道も含めて尾道は陸路と、 海路の往来の接点だった。 |
10 | 因島・村上水軍 | 古来より海上交通の盛んだった瀬戸内海は、また交易船を狙う海賊の海だった。 尾道と四国今治の間の芸予諸島は島が密集し、海峡が狭いので、海流が早く難所だった。 この島々を接点にしたのが村上水軍で、通行料を渡した船は、水先案内をして安全に航海させた。 海賊行為は秀吉の海賊禁止令が出るまで続けられた。 |
11 | 文学の小道 | 昭和40年観光都市を目指すため、千光寺山頂の展望台と千光寺をむすぶ遊歩道が作られた。 遊歩道には尾道にゆかりのある作者25人の歌碑が、花崗岩の自然石に刻まれている。 貴方は何人を知っていますか? |
12 | 俳句祭り | 尾道観光俳句は尾道商工会議所の主催で行われ、公募の投稿俳句からえらばれまう。 優秀者、入選者には賞品がもらえます。入選句は春の桜の季節に飾られるぼんぼりに書かれます。 ぼんぼりの句を愉しみながらの夜桜見物を行うため、ロープウェイの営業時間も延長される。 一句投稿してみませんか? |
13 | 物外 | 伊予の人で幕末に活躍した。尾道斉法寺の住職。力持ちで拳骨和尚とも呼ばれる。 江戸の古道具屋で碁盤に拳骨の跡を残したり、鞆の酒屋の柱に跡を残したとの話が伝えられている。 伊予は愛媛県、 備後は、吉備の国(備前、備中、備後) |
14 | 志賀直哉 | 志賀直哉は、小説「暗夜行路」で有名な作家です。大正元年から2年にかけて半年ほど、 千光寺山中腹の長屋の1室を借りて暮らした。そのとき、代表作「暗夜行路」の元になった 「時任謙作」という小説を書いた。文学の小道碑には、暗夜行路の一節が刻まれており、 長屋から見えた尾道の情景が描かれています。 |
15 | 林芙美子 | 林芙美子は小学校で、森光子の舞台で知られる「放浪記」の作者。芙美子は大正5年小学校の時、 行商の両親に連れられ尾道にやってきた。才能を見つけた小学校の恩師小林正雄、今井篤三郎など の援助で女学校を卒業して東京に行く20才まで尾道で過ごした。 |
16 | 山口玄道 | 尾道の人、大阪で毛織物輸入の商売で成功し、大正12年尾道の上水道建設資金103万 (数十億円)提供した。明徳商業学校を設立する。尾道名誉市民、京都醍醐寺、神護寺、 大徳寺の塔を寄進。明徳は天からすべての人に与えられた優れた徳 |
17 | 真言宗千光寺 | 大同元年(806年 平安時代)弘法大師の開基、中興は多田満仲(源満仲)と伝えられる 真言宗の寺で、西国寺末寺。大宝山権現院千光寺は標高140m、大宝山の中腹にある。 石段は国道から534段(金毘羅さん785段)中国三十三観音霊場の十番札所 |
18 | 柳原白蓮 | 歌人、大正3美人(九条武子)、大正天皇の従妹(叔母の愛子が明治天皇の側室で大正天皇の母)。 「金襴緞子の帯締めながら・・・」のモデル。「花子とアン」の蓮子さま(仲間由紀恵)。 歌は息子を戦争で失った白蓮が、子供を戦争で亡くした母達の慰問の為に尾道を訪れた時の歌。 武子と共に歌人佐々木信綱の門下。 |
19 | 大師堂・客殿 | 大師堂の大師像は高野山に祀られていた像。客殿には大日如来、弘法大師、愛染明王の三尊が 祀られている。江戸時代、尾道の豪商の接待で、頼山陽、田熊村竹田等文人墨客が宿泊した。 盤石の庭は撫松庵(頼山陽、田熊村竹田等文人墨客が宿泊した。盤石の庭には撫松庵 (頼山陽が名付けた客殿の庭)、ここから月光に照らされた鏡岩を眺めながら、酒を 酌み交わしたとか・・ |
20 | 鐘楼 | 「時の鐘」として名高く、江戸時代、元禄初年より時刻を近郷近海に報じる。「音に名高い千光寺の 鐘は一里聞こえて二里ひびく」と謡われ、近年はテレビ、通じて「除夜の鐘」として親しまれる。 鐘は「観音様の鐘」と呼ばれ、平成8年7月1日、環境庁の選定した「日本の音風景百選」の一つに 選ばれた。広島県で2つ、あと1つは広島平和記念公園の「平和の鐘」 |
21 | 玉の岩 | 周り50m、高さ15mの大岩で、当山第3の巨岩(千畳敷、鼓岩)岩の頂に直径14cm、深さ17cmの 穴は光を放つ宝玉があった跡(玉の岩伝説は暗夜行路にも書かれている)。宝玉は尾道の港を照らす 灯りとして、千年光り千里も光ると言われた(大宝山千光寺の名前の由来) |
22 | 本堂 | 舞台作りの本堂(赤堂)は、貞和3年(1686年)の建築。巨石、三重岩(みかさねいわ)の下に建つ。 本尊 千手観音菩薩が厨子の中に祀られている(聖徳太子作と伝わる)別名「火伏の観音」33年に 一度開帳の秘仏。次はのご開帳は2046年。冬至の日には本尊の正面から日が昇る。弥壇は 室町時代のもの。PayPay支払いでお参りできる。 |
23 | 三重ね岩・石鎚山 | 上の岩が落ちそうだが、下に祀られた御大師様が守っているから大丈夫(備後地方は地震が少ない)。 千光寺の鎮守は熊野権現と石鎚蔵王権現で、鎖場の前の大岩には熊野権現のカラス天狗、 鎖場を上った岩の上に石鎚さんを祀ってある。ここからは遠く四国の石鎚山が望める。 |
24 | 三十三観音堂 | 関西一円の西国観音霊場の各札所の御本尊、観世音菩薩33体が祀られ、ここにお参りすると 西国観音霊場を巡拝したのと同じ功徳がある。桜の木で作られた、数珠を、一周回すと108回 カチャカチャと音がする。1音毎に一つの煩悩すべてを払ってお参りしましょう。煩悩多すぎる方は・・・・ |
25 | 上山英一郎 | キンチョウの創業者、干汐で除虫菊栽培(福沢諭吉の紹介で米人から種子を譲り受け栽培 研究を始める)、明治28年渦巻き形完成(妻の提案)、向島に英一郎を祀る除虫菊神社があり、 毎年5月8日の例祭には社員がお参りする。 |
26 | みはらし亭 | NPO法人「尾道空き家再生プロジェクト」(代表豊田雅子)が借り受け、全国から募金を集めて ゲストハウスとして再生した。大正10年に別荘として建てられ、昭和40年代には旅館として使われたが、 30年間空き家となっていた。2016年3月より営業中。 |
27 | 中村憲吉 | 中村憲吉(1889-1934)アララギ派歌人、三次生まれ。東京帝国大学→毎日新聞→造り酒屋を継ぐ、 正岡子規門下(伊藤佐千夫、北原白秋、斎藤茂吉)昭和9年5月5日亡くなる45歳。病気療養のため暖かい 尾道の別荘が門人達により提供された。 |
28 | 共楽園 | 三木半左衛門(名誉市民)阿波の人、尾道で呉服商。明治27年西洋式公園を発案し作った公園。 明治35年尾道市に寄付。明治35年に完成。銅像は田能村竹田。今は猫の広場になっている。 |
29 | 海雲塔 | 嘉慶2年(1368)建立、元五重の塔。江戸時代初め(元禄5年)に上部が風雨のため老朽化し、 三重の塔に改修、禅宗様(扇垂木、)中に弥勒菩薩。朝ドラ「てっぱん」のロケ地(あかり実母の墓) |
30 | 猫の細道 | 園山園山春二さん1944年フランス生まれ、電通、ヤマハ、大阪万博プロデュース、仏画師。 1997年前尾道に移住。空き家になっていた古民家14棟を買い取り再生した。ふくろうの館 (1500体の梟の剥製展示)、ブーケ・ダルブル、坂バー、小庵、招き猫美術館(福招き猫3000体展示) |
31 | 艮神社 | 806年鎮座 千光寺開祖と同じ年 尾道最古の神社祭神 伊那那岐命 天照大御神 素箋男命 吉備津彦神。艮(うしとら)は、北東(丑の方向と寅の方向の間)。大楠は樹齢900~1000年根周り9.8m 目通り7.6m高さ40m。瀬戸内海では木造船の材料に使われた。 |
32 | 天寧寺 | 1367年(南北朝時代)尾道の商人万代道円発願で建立。2代足利義詮(よしあきら)が父の遺志で 工費を寄進。創建時は臨済宗、現在は曹洞宗、本尊 宝冠の釈迦如。足利3代将軍義満は西国の 威圧のため宮島参拝し、その帰り備後の守護山名氏が宮島に迎えに行き、天寧寺に迎える。 義満は御座船から舟を並べて架けた浮き橋を渡って参拝。 |
33 | 商店街 | 江戸時代の西国街道で、長さ1.6km 約400店舗のアーケードの商店街で、大阪にある天神橋筋 商店街(約2.6km)に次ぐ長さだとか・・。100年を超える店舗も多くある。かつては、近郷の島など からの買い物客も多く賑わっていたが、一時期はシャッターを下ろす店も多かった。最近は若い方が開く、 観光客相手の店も増え活気づいている。 |
千光寺山の頂上展望台 中国新聞に掲載 |
関連サイト
健康への道100選「尾道市立図書館→浄土寺→不動岩→市立図書館」
「尾道~糸崎」西国街道を歩く
鳴滝山
「東尾道~尾道」西国街道
第61回 尾道みなと祭
今津~尾道 散策
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