銀の道広域案内板設置記念ウォーク
(横谷ふるさとセンターから道の駅「夢ランド布野」まで)(11km)令和3年10月10日(日)広島県三次市
10月11日 岸田文雄首相 所信表明演説。
プロ野球の新人選択会議(ドラフト)
くろはら たくみ
黒原 拓未 投手 関西学院大学
もり しょうへい
森 翔平 投手 三菱重工West
なかむら けんと
中村 健人 外野手 トヨタ自動車
新型コロナ緊急事態宣言解除後 2年ぶりのウォーキング 10月なのに暑い。
行程:11km 旅人 27人
集合:道の駅「夢ランド布野」(集合の記念写真撮影)10:00⇒10:36 路線バス赤名行き乗車
「横谷郵便局」下車⇒銀の道 仏ヶ垰分岐⇒ついもん祠⇒11:40~11:50仏ヶ垰(集合の記念写真撮影)
⇒布野の宿⇒13:30~14:05昼食「中村憲吉記念文芸館・図書館⇒福泉坊⇒知波夜比売神社(ちはやひめじんじゃ)
⇒下布野の道標⇒下布野古道⇒15:15真光寺⇒銀の道を離れ 道の駅「夢ランド布野」15:40解散
道の駅「ゆめランド布野」1時間40分 94km 高速 尾道道
銀山街道各パンフレット(PDF)ダウンロード
「石見銀山街道 大森~三次」をダウンロードする(PDF:19.1MB)
「銀山街道 三次~尾道」をダウンロードする(PDF:14.5MB)
道の駅「ゆめランド布野」 10:00集合 記念写真撮影 中村憲吉が ふる里布野の未来を願った檜 中村憲吉は明治22年(1889)三次郡上布野村で生まれました。 明治40年頃の中村家は田畑50町歩、山林五百五十町歩を所有する 広島県北でも屈指の大地主でした。憲吉は斎藤茂吉や土屋文明らと 近代短歌の確立に尽力した歌人ですが、中村家の当主になると広大な 山林に目を向け、檜、杉の植林に取り組みました。この事業では、 山林に赴き植林の指揮を執るとともに、自ら作業に携わった 様子や、その時の気持ちを歌に詠んでます。 |
|
憲吉が植林に意欲を持ったのは、植え付けた苗が50年100年後に 中村家の収益を増やすことでしたが、その時には木材を切り出す人、 運搬、製材、建築など多くに人が携わることになり、布野村が豊かに なることを望んでおりました。展示モニュメントは女亀山の尾根続き、 赤名峠頂上付近の所有山に、昭和4年(1929)憲吉が植林した 樹齢87年余の檜材で作成しました。 八千とせの森にしげれと雲のるる女亀の山に檜を植るまつる うつそみの命さみしきこの山に百世の後の樹を植うわれは 平成30年3月吉日 憲吉檜の活用を考える会 |
4年前に行った
銀の道 ぶらり旅 飯南町・三次市布野町の境 赤名峠~三次市布野まで 2017/4/22(土)
10:36 路線バス赤名行き乗車 「横谷郵便局」下車 銀の道 仏ヶ垰分岐 |
|
ついもん祠 | |
11:40~11:50 仏ヶ垰(集合の記念写真撮影) 中村憲吉が ふる里布野の未来を願った檜 広大な山林に目を向け、檜、杉の植林 に取り組みました |
|
牛馬観音 |
5年前に行った
銀の道ぶらり旅 三次市布野町~三次市三次町 2016/10/15(土)
備後最北端の布野宿
布野宿は寛永10年(1633)広島藩の街道と宿駅整備の藩命により雲石街道が整備され
陰陽を結ぶ交通と商品流通のために設置されました。赤名宿まで四里八丁(16.6km)三次
宿へ三里(12km)の間隔がありました。運ばれる荷物は、幕府大森銀山の運上銀銅、
鈩場の原料や銑鉄、この外商品の魚、塩、乾物木綿などの衣類があり、二十四頭の伝馬が常置し
てました。赤名宿、三次宿からの荷物は、永田初一氏宅の前で、受継がれていました。
布野宿は雲石街道に沿って五十六軒の家が並び、お客屋が二井屋(長岡宅)石州代官の本陣
が平林、旅人宿として阿賀屋、塩屋、小原屋、菅野屋がありました。公用や商用で利用する人達
によりにぎわっていたということです。三次市
中村道しるべ | |
常夜燈 | |
布野の宿 | |
13:30~14:05昼食 「中村憲吉記念文芸館・図書館 中村憲吉記念文芸館 |
中村憲吉
近代日本の代表的歌人の中村憲吉は、明治22年1月25日布野村に生まれま
した。伊藤佐千夫に師事し、アララギ派の有力な歌人として活躍、3,000
首を越える短歌を残しました。憲吉の歌は、ふるさとの山や、想いを詠んだ
歌が多く、東洋的な幽美な調べと新鮮な感覚が特色です。
憲吉の生家
昔のままの姿をとどめる大きな造り酒屋で、憲吉は一時、新聞記者となる
も、帰郷して酒造りをしながら、作歌活動をしていました。室内には、友
人である斎藤茂吉や平福百穂らの歌が残されています。
🔷山こえて雨に来れる檀那でら
昔の塀の百日紅のはな
(布野村真光寺)
毛利尼子古戦場
天文十三年(1544)七月山陰の尼子勢7千余騎と山陽の毛利勢一千余騎がこの一帯で戦う。
旧地名にちなみこの戦いを「山崎合戦」という。戦略にたけた毛利勢も当地特有の深い
霧に阻まれ二度に亘って敗退した。これを吉田物語には「布野くずれ」と書き残されている。
しかし翌日には尼子勢が勝ちにおごって油断しているところを毛利勢 比叡尾山城主
三吉広高の5百騎による奇襲攻撃に敗れ、赤名峠をこえて帰国した。この丘は合戦で討死した両軍の
勇士を埋葬したところで千人塚という。また川向こう北西二粁の丘には、尼子晴久が本陣をかまえ、
弓を松にかけたところから弓掛松の由来がある。三次市 三次広域商工会青年部布野支部
銀の道 | |
毛利尼子古戦場 | |
知波夜比売神社(ちはやひめじんじゃ) | |
下布野の道標 かつては下布野一帯は湿地帯であり 沼地をさけるため街道はここらあたりから 山に入り、三次の山家地区へと向かう。 |
|
檜伐採 あきらめた 隣りに祠 |
|
塞の神 |
INDEX