「東尾道〜尾道」西国街道を歩く 04/10/10(日)  2011/3/20(日) 2015/1/31(土)

2015/1/31(土)
行程
高諸神社(集合)→蓮華寺→陰陽神社→今津村から高須村へ→高須神社→大松の跡→道しるべ→
関の地蔵尊→高須一里塚跡→四つ堂→徳本上人名号石→番所跡→福山・芸州藩境介碑(解散)


04/10/10(日)
行程
JR東尾道駅――大田貝塚跡――高須四つ堂――坊士池(蓮如上人名号石)――防地番所――

藩境の碑――法華塚―――尾道東高校(頼山陽遺墨灯籠)―――浄土寺――西郷寺

尾道中心街(八幡神社、簪灯籠、本陣跡、一里塚跡等)――JR尾道駅  総行程 約8km

うす曇り 天候心配でした 23人の旅人。尾道の古い歴史探訪しました。

江戸時代、約1.6kmの長い商店街はビッチリ廻船問屋等の豪商が軒を連ね、県下随一
の商業地として広島城下に匹敵する賑わいを謳歌したという尾道の町は、中世(南北朝・
室町時代)にその骨格を形成したといいます。

浄土寺では雨降りましたが、趣きありました。

道中は秋色でした。

稲刈り終り、キンモクセイの匂い、ススキ咲き、庭先の塀ぎわ ざくろ実 ピンク色でした。

西条は酒まつりの日。

東京オリンピックから40年、各地で記念行事。

2011/3/20(日) 尾道の街道を歩く 17人の旅人達
          JR東尾道〜尾道駅まで

集合:9時50分
解散:12時30分 尾道 本陣  
 高須八幡神社 社殿 平成18年11月竣工 


恋の水の碑

伊勢音頭の歌詞
「防地下れば 鶴亀山よ きよき泉の恋の水」

大田貝塚跡 尾道市高須町字出口1402字竹之端
この遺跡は大正15年(1926年)に京都帝国大学教授の清野謙治先生が
調査を行い、60体近い人骨を出土したことから有名になりました。
この大田貝塚人は、岡山県笠岡市の津雲貝塚出土の津雲貝塚人とともに、
清野氏の日本原人(原日本人)説のもとを成している。大田貝塚は 松永湾
北西部の小扇状地にある縄文時代前期から後期(約6000〜3000年前)
にかけての大規模な貝塚で 昭和初年から5回にわたる発掘調査で明らか
になった貝塚は往時の海岸線である砂層上に堆積したもので 混貝土質と
有機砂層とからなり混貝土層からはハイガイ テングニシ ハマグリなどとと
もに中期 後期の土器が出土し その下の有機砂層からは前期の土器を
出土し その他に石器 骨 角 貝製品 土製品も出土しているが注目され
るのは貝層下に埋葬された人骨
であり 現在のところ74体以上が確認さ
れている また貝塚の西側では古墳時代のU字溝が明らかにされ多数の
土師器 製塩土器が出土している大田貝塚はこのような縄文時代はもちろん
のこと古墳時代の研究にも重要な位置を占める遺跡であり これらを含めた
約5000m2の範囲を広島県史跡として指定している
高須の四つ堂


「中国行程記」には四つ堂と高札場があった。

四つ堂は昔あった位置から移転されている。  

 浄土宗

南無阿弥陀仏」の名号石と左右に石像


徳本上人が建てた独特の書体

名号石で全国に多く建てられた。


 蓮如上人と浄土寺の話しを聞きました。

   防地番所跡

 
雨漏り対策で前はブルーシート、
「番所保存会」名前入りの白いシートでした


番所下のお父さん「保存しますから」

「新しくなったら また来ます」


番所保存会が立てた案内板がある

   藩境の碑従是東福山領
境界を示す石柱の所在地に「坊寺」という所が多く、もとは牓寺(ぼうじ)からきた
ものだろう。ここの石柱、神辺町上御領の金光教御野分会へ置いてある石柱
、いずれも福山藩のものは石柱が二つか三つに折られている。
府中市斗升・行縢(むかばき)には三つに折れた「従是南福山領」ものがある
明治の初期の備後の百姓一揆は江戸後半の阿部藩政に対する不満が直接
的には庄屋への抵抗として爆発し、隣地と比較してのみじめさを破壊活動とい
う形であらわしたものでないか。

  藩境の碑

「従是西芸州領」

福山藩より大きい  

 峠を下ると

地蔵堂があります

  七曲り 尾道を見る
歌人として著名な今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州探題に任ぜられ、
下向の際に記した「道中記」の『道ゆきぶり』である。
翌年2月都を出発し、港町尾道に着いた。坊地峠の七曲りだろうと推測する。
中世の山陽道は、ほぼ近世の山陽道と同じところだと考えていいようだ。

旅人は尾道の町が見え 急ぎ足となっただろう。

 
日蓮宗

南無妙法蓮華経題目石 宝暦7年(1757)建立  

  東高等学校(旧尾道高女)の門前

林芙美子の記念碑があり、右の句が刻まれています。



巷にくれば憩いあり

人間みな吾を慰めて

煩悩滅除を歌ふなり 
 

林芙美子の記念碑

裏面の川端康成の筆になる題字も見逃せません。

 
  当地方最古の交通標識といえる頼山陽の筆の「往来安全」の石灯篭が
立っています。

頼山陽遺墨燈籠  為往来安全

内海自得建之

内海自得斉は藪内流茶道宗匠なり

頼山陽当地来遊の際題字を得て坊地川の辺に建てしものなり


約140年前のものにて日本最古の安全標識なり  

久保八幡神社

創建 貞観年間(859〜877)

鳥居反りが美しい  10月16日(土)大祭の 張り紙

 
  八坂神社

久保八幡神社の道路はさんで真向かいにあります

花街 お茶子と呼ばれた悲しい逸話があります。  由良や
尾道市十四日元町3-25 
昼食は刺身定食と生ビール  タコの吸盤・・・

 浄土寺

寺の創建 蒙古襲来に備えて建立 弘安元年(1278)


足利尊氏ゆかりの寺 

雨の浄土寺でした 趣きあります

  浄土寺山門
四脚門 切妻造 本瓦葺

室町時代初期までの優れた建築

本堂向拝の軒と同じ規矩をもつ

円柱礎石上に珍しい工法として 

扉の回転軸を受ける唐敷居とよばれる円形に石が使われている

板蟇股に足利の家紋「二ツ引両」を打つ  

  浄土寺 多宝塔

嘉歴三年(1358)再建

 
   浄土寺 本堂

多宝塔と同時期に再建

 浄土寺宝篋印塔(ほうきょういんとう)と石造五輪塔 

宝篋印塔 足利尊氏の墓と伝える 南北朝時代における

中国地方の宝篋印塔の代表作といわれる


石造五輪塔 足利尊氏の弟直義の供養塔と伝える

   浄土寺納経塔と浄土寺宝篋印塔

納経塔 

弘安元年(1278)戌寅十月十四日の刻銘がある 

紀年名をもつ尾道最古の石造物


浄土寺宝篋印塔 貞和4年(1348)戌子十月一日の刻銘がある

 西 郷 寺 さいごうじ 文和2年(1353)足利尊氏の建立と伝えられる。
本堂は創建以来十回も修理された昭和40年代の解体大修理で時宗の
本堂形式としては他に比類なき名建築として復元された。

本堂に上がりました

鳴き龍天井」天井で手を叩く冴えた音を返す。

本尊の「阿弥陀如来」は足利尊氏の軍中の守本尊として、
持ち運びやすくするため、五体分離のできる仏像となっている。

もともと背面にある獅子の如き大岩をもって

「獅子山」「西江寺」と号していたが、維新の際の届け出で

「西郷寺」と誤りその名になってしまった。

  西郷寺山門

室町時代の様式

 
尾道本陣跡

発掘調査により、西国街道両脇の民家、商家の跡地から、唐津焼や肥前
系陶磁器、中国や朝鮮製の陶磁器など多数の土器が発見されています。
これは、尾道商人の豊かさを示すとともに、様々な地域との物資交流が
成立していたことが考えられます。この尾道商人の中から、江戸時代の
尾道に多大の影響と貢献した豪商と呼ばれる人々が誕生することになる
のです。

 
  磯の弁天社

尾道の海岸線あった。

入り江のほとりで市が14日毎に

十四日(とよひ)町の名残り  

  08/5/16 奉行所跡の石垣  
 三井住友銀行

辺りには奉行所あった

平成14・15(2002・2003)年の発掘調査により、現在の本通りの下に中世
から近世にかけての道が残っていることが分かりました。この道は何層に
もわたって堆積し、整地されており、長い間使用され続け、江戸時代になって、
西国街道として整備されています。この道を横断する水路跡がいくつも発見
されており、尾道は道や水路が張り巡らされた町であったと考えられます。
その道や水路の両側には多くの民家や商家が並んでいたことでしょう。

  尾道一里塚跡

広島から19里 備中板倉から17里

 

三原宿JR糸崎駅←/尾道宿/→今津宿

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