吉原家住宅見学会 そして高見山へ
広島県御調郡向島町江奥3854 2004/7/11(日)
17世紀の民家、1635年に建てられた。
建築当初の柱や梁がほぼ残っており、当時の建築様式を知ることができる貴重な建物
シンプルな梁組みや書院造りを模した座敷など
建築年が明らかな民家として国内で3番目に古い。現存する農家では国内最古。
1991年 国の重要文化財に指定
文化財愛護シンボルマーク
ひろげた両方の手のひらのパターンによって、日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう)
「くみもの」のイメージを表し、
これを三つに重ねることにより、文化財という民族の遺産を過去・現在・未来にわたり
永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものです。
『斗きょう:斗組(ますぐみ)・組物(くみもの)ともいう。』
屋根の軒を支えるため柱の上部などにつくられるもので、斗・肘木・丸桁(がぎょう)によって構成される。
形式によって様々な種類があるが、寺院建築においては、
一般的に組物が複雑であるほどその建築の格式が高いとされる。
改修工事完了し一般公開。
江戸初期の姿に復元。
04/7/9(金)〜11(日)10時・13時の2回。
1 吉原家住宅の歴史と修理に至る経過
○吉原氏の始祖は、藤原親能(ちかよし)と言われ、源頼朝の外交代表として、
鎌倉幕府草創期を支え、公事奉行に就任している。
親能の父、光能は藤原氏の開祖鎌足から17代目で、
長寛元年(1163)に椙原別宮参詣のため西航した折りに、向島大町に船をとめ潔斎したのが、
向島とのゆかりという。
親能(ちかよし)も、向島大町を訪れ、父の名において潔斎に祠を建てたと伝えられる。
これが今の艮神社のはじまりと伝える。駿河吉原邑を領していたことから、
のち子孫が吉原姓を名乗るようになったといわれる。
○文明年間には藤原親能(ちかよし)が大内正弘の授けにより向島西ヶ丸城に移り吉原親行を名乗る。
その後、傍系一族が引き続き向島に居を構え、江戸時代初期に現在地に移ったと伝える。
○寛永11年(1634)、主屋が火災に遭い、それまでの記録がすべて失われた。
主屋は翌12年(1635)に再建され、これが現在まで伝えられてきた主屋と考えられる
(23代忠正の時、所持文書)。
○18世紀に間取りの大改造。
○天保11年(1840) 納屋(重文)建設(木札)。
○安政7年(1860) 鎮守社建立(棟札)。
○明治18年(1885) 表長屋門再建(棟札、所蔵文書)。
○明治26年(1893) 内蔵建設(所蔵文書)。
○明治27年(1894) 土間大改造(墨書)。
○大正2年 (1913) 離れ座敷、湯殿を建設(所蔵文書)。
○昭和46年(1971) 広島県重要文化財に指定。
○昭和48〜50年(1973〜75) 茅葺葺替。
○昭和51〜59年(1976〜84) 小修理を繰り返す。
○平成3年(1992) 主屋・納屋・宅地が重文指定(附に便所・鎮守社・家相図)。
○平成7〜8年(1995〜96) 納屋・附便所を国庫補助金にて解体修理
○平成9年(1997) 表長屋門を登録文化財に登録
○平成14〜16年(2002〜04) 主屋・附鎮守社を国庫補助金にて半解体修理。
○平成15年(2003) 表長屋門を修理(自費)。
2 修理事業の概要
○工期 :平成14年1月1日〜平成16年6月30日(30ヶ月)
○修理方針:主屋 半解体修理(柱などを一部倒さず修理する)
附鎮守社 屋根葺き替え・部分修理
○事業費 :およそ2億円(国・県・町から補助金をうける)
第20回参院選挙 投開票。中国地方 梅雨明け。尾道大橋 通行料金150円。
10時前に表門で受付。住所と名前。
内見会は無料。 11月から本格公開する。 |
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主屋正面
東 土間側 |
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主屋背面
西側 |
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主屋 南側 | |
主屋
南東 庭から |
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北側に風呂 | |
家相図 | |
天井・梁
建材を巧みに組み 梁はシンプル。 |
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茅を葺き替え | |
土間の梁 | |
土間の梁 | |
土間から座敷を見通す | |
土間に釜戸 | |
中の間 | |
中の間・天井 | |
仏の間 | |
仏の間
ふすまを開ければ仏壇 |
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上の間 | |
帰り
高見山(283m)からの眺望 楽しみました。 |
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手前の町並み 向島の立花。
因島大橋(全長1270m・高さ50m)渡れば因島です。 |
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途中の道路から 尾道水道の眺め にほん縦断 こころ旅 1137日目 広島県尾道市 放送日:2022/11月16日 平原悦子さんのこころの風景 尾道本通り商店街 高見山から出発 平原さんのこころの風景は尾道本通り商店街。 |