「高屋〜神辺」 西国街道を歩く  2004/3/14(日) 岡山県井原市高屋町から広島県深安郡神辺町
                                                                                             06/3/1 福山市と神辺町合併

2012/2/11(土)建国記念日 3回目の記録
福山市文化財めぐり
近世山陽道を歩こう! PART1
〜備中・備後国境から神辺宿まで〜
2012年(平成24年)2月11日(土・祝日)10:00〜15:00
行程
高屋宿の町並み→上御領一里塚跡→備後国分寺跡→平野一里塚跡→神辺宿の町並み
高屋宿
福山藩領であった時期もあるが、神辺宿との違いは近世山陽道の宿場であった
だけでなく、石州大森銀山道継場として利用されていたことにある

宿場町でありながら、繊維工業を中心として明治・大正期の町家の形態を残すことが特徴

近世山陽道を歩こう!part2(横尾・鶴ヶ橋から備後赤坂まで)

04/3/14(日)
道中は2回目の散策記録となります。 

井原線高屋駅に駐車 約5時間散策。神辺駅で解散、バスで高屋駅。

新たに発見したこと、分かったこと たくさんありました。

見過ごしていたこと そして こういう所あった事思い出したことありました。

神辺本陣と廉塾では 案内板が新しく変わっていました。

寛永十二年(1635)制度化
参勤交代制
は幕府の大名統制の一環で、大名を一定期間江戸に居住させ、あわせて妻子を江戸に
常住させた制度をいい、各藩が江戸屋敷を設けたことにより多数の武士や使用人が江戸に集まること
になり、江戸の繁栄を支えた。さらには、江戸の文化が地方に伝播する一つのきっかけともなった。

参勤
=将軍を拝謁するため江戸にでること交代=江戸から封地に戻ること。

参勤交代は諸大名による江戸守衛の軍務ですから、在所(国許)に帰るのはあくまで「暇」=「休息」と
される。譜代は「在所へ暇下さる」 外様「国許へ暇下さる」という語が使い分けられていた。

一日の行程は約十里(40km)。

「神辺本陣資料」
筑前秋月藩主黒田近江守長義が正条宿(竜野市)から予定変更を報じた追触状を見ると
八月十七日 三石宿泊  三石より七里八丁の藤井宿(岡山市)で昼食後 
八月十八日 板倉宿泊  藤井から四里十二町。
                板倉から六里の矢掛宿、矢掛から五里二十四町下り
八月十九日 神辺宿泊予定と報じている。

参勤交代の大名は交通路が一定していたから休泊する本陣も定宿の形になっているのが多かった。
宿泊の数日前 何の守(かみ)と大名の名を記した大型の木札をかけ 夜は定紋のついた提灯を
つるし 玄関には紫縮緬の幕門には麻幕を張り家臣の宿泊所には名札を準備した。
その頃にはお先荷物といって大名使用の食器から蒲団、風呂桶、便器まで日用品が馬や人足で
運びこまれるのを例とした。

本陣・村役人など土下座をして出迎え場所も四坪位宛の台場といって位置が定まっていた。

高札場・・・庶民の心得べき条項を規定し、主旨を徹底せしめる為に毎年時定めて村民を召集し
       村役人より論示さしのみならず村内適当の場所に掲示して周知。多くは庄屋の門前
       または付近の地を選び、多数の人の群集する市街地に設けた。

問屋場(といやば)
江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、
一般の商品物資などの継ぎ立て業務を行う施設で、まちの重役である宿役人がこれを受け持った。

参勤交代がもたらした交流
参勤交代の制度は寛永12年(1635)三代家光のとき始まっている。したし、秀吉のは
大名を京に呼びつけると、京に屋敷を与え、妻を住まわせることを命じたのである。
徳川幕府もこれを踏襲し、諸大名の妻子を江戸に集めた。もちろん人質としてである。
そして、毎年4月に東西大名が交代で江戸に参勤する制度化した。つまり、西国大名が
3月末に参府すると、それまで江戸にいた東国大名が4月に国元に帰るのである。参勤交代制は
幕府が大名行列によって大名に散財をさせるために制定したという見方があるが、それは
本来の目的ではないだろう(腹の底では経済力削減の意図はあったろうが)。参勤交代は
大名の将軍家に対する服属儀礼である。だから、幕府は大名に対し、従者を減らして無駄な
費用を惜しめともいっている。しかし、大名行列が縮小することはなかった。何故か。大名の
家格に対する見栄である。例えば二十万石の大名は、馬上の従者15〜20騎、足軽120〜130人、
中間人足250〜300人と定められていたが、実際はその数はより多い人数が華麗な拵えで行列
をした。これだけの人数が移動するのであるから、大名行列は一大イベントである。道中は
医者や料理人が随行し、風呂桶なども運んだ。大名が宿泊するのは本陣で、脇本陣には家老
が泊った。本陣と脇本陣は無料。これは大名や重職が泊ることで宿に箔がつくからだ。家臣
は旅籠や庄屋に泊った。こちらは有料である。
他藩の領内を通るときは、その地の領主に挨拶の使者を送り、また領主からはねぎらいの使者
が来た。その際に贈答品の交換もあったであろう。大名行列は軍事示威行動でもあるが、また藩
同士の社交の機会でもあった。情報交換も行われた。さらに、大名行列によって多額の金が
道中に落ち、経済が刺激された。
江戸での大名・藩士の交流
参勤交代によって、江戸は大名や藩士によるさまざまな交流によって江戸の文化が各地へ伝わり、
地方の文化が全国に伝播するきっかけになった。まず大名は、将軍に謁見・勤仕(ごんし)するため、
藩邸に一年間、滞在する。大名の登城日である「年賀・五節句・歳暮・毎月の朔日・十五日など」を
は、かっこうの情報収集日となった。時折、将軍や老中が藩邸に来駕することもあった。また
親しい大名や藩と関係ある町人が来訪することもある。わずわらしいと来客を拒絶する大名も
あったが、そうすると新しい情報は得られないということである。藩士たちは上屋敷、中屋敷、
下屋敷に分かれて滞在する他、町宿に居住したものもいた。藩士は毎日、とくに勤務が忙しい
わけではなく、学問や趣味を通じて他藩士や町人たちとの交流をしばしば行った。蔵書の貸し借り
や飲食ともにすることで、各藩の交遊関係は拡大していった。参勤交代は、こんな交流も生んでいった
のである。

鑓持ちの奴(やっこ)が鑓を投げ合うのは、人目を意識したパフォーマンスだった。


行程

間宿(あいの宿)・・・高屋宿→備後・備中との国境→上御領一里塚→備後国分寺跡→

平野一里塚跡→廉塾→神辺東本陣跡→神辺本陣(西本陣)

 

14日 スペイン総選挙 野党勝利 イラク撤兵を表明

15日 高橋尚子 アテネ五輪女子マラソン代表落選









中国行程記 横尾から神辺


天和参年安那郡川北村絵図
1683(天和3年)に制作された神辺最古の村絵図であり、安那郡川北村(現福山市神辺町川北)の全域
が彩色で詳細に画かれています。廃城となった神辺城の城下町としての機能を残しつつ宿場町として
の機能を高める過程の村絵図であり、当時の川北村の全景をよく表しています。


菅波信道一代記
尾道屋菅波家第11代当主・菅波信道(1792〜1868)が口述筆記により作成した自叙伝。





中国地方の子守唄 発祥の地 井原市高屋町
全国子守唄サミット 7市町村
 ・静岡県沼津市 「この子のかわいさ」
 ・和歌山県岩出町「根来の子守唄」
 ・大分県宇目町 「宇目の唄けんか」
 ・長崎県島原市 「島原の子守歌」
 ・熊本県天草町 「福連木の子守唄」
 ・熊本県五木村 「五木の子守唄」
 ・岡山県井原市 「中国地方の子守唄」

上野耐之(たいし)の生家
「中国地方の子守唄」を山田耕作とともに広めた
「ねんねこ しゃっしゃりませ」の子守唄は古くこの
高屋の地で歌い継がれてきた。高屋町出身の若き
声楽家 上野耐之は、揺籃(ようらん)の頃からこの
子守唄で育まれ、聞き覚えていた素朴で愛情あふれ
るこの子守唄を、昭和3年の春分の日に、大作曲家 
山田耕作のもとに出向き、独唱披露した。山田耕作は、
日本の風土が生んだすばらしい唄として大変感動し、
直ちに楽譜に記し、同年4月4日「中国地方の子守唄」として
世に出し、多くの人々に愛唱されるようになった。明治、大正、
昭和、平成と声楽人生一筋に生きた上野耐之は、母心を
歌ったこの子守唄を故郷高屋の文化として残し、平成13年
6月23日、百歳の生涯に幕をおろした。高屋駅そばに
「華鴒(はなとり)美術館」94年オープン。
神辺町出身の日本画家・金島桂華の作品中心に約500点 
  高屋宿の町並み
宿場町でありながら、繊維工業を中心として明治・大正期の
町家の形態を残すことが特徴

2012/2/11(土)建国記念日 近世山陽道を歩こう! PART1
旧中国銀行高屋支店 1894(明治27)頃建築
織物工場の外観を鉄筋コンクリート構造に改修
 
間宿(あいの宿) 高屋宿
本陣:上野愛兵衛
脇本陣:久保木治平

石見銀山のつなぎ場宿

かつて織物で栄えた
江戸時代、地綿と地藍を使った備中木綿が始まり。
子守唄の里 高屋の案内板の立つ所・・・本陣跡(標識ない)
むくり屋根・・・大塚長六さんの家 タカヤグループ会長
大塚家
親子格子で統一した意匠が大正期の雰囲気を残す

 
2007/1/13(土) 散策しました 特徴的な屋敷があります

膨らみをしたむくり屋根

駒寄せと呼ばれる木の柵

   高屋の家には格子戸と「駒寄せ」
  2012/2/11(土)建国記念日 近世山陽道を歩こう!

明治・大正期の織物工場の中心 
  岡山県から広島県に入る

県境に境界石

 
07/1/13(土) 県境碑 新しくなっていました。
トラックがバックした時 三つに折れたそうだ。
ストアの自販機前に水準点
通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに
約2km間隔に埋設
されており基準となる柱石又は金属
標が設置されている。全ての水準測量の基準となる
日本水準原点
は、1891年東京都千代田区永田町
の国会前庭洋式庭園内に設置されており、この場所は、
かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)
が存在していた。
大地震で高さ変わった
設置当初の原点標高は24.5mだったが、1923年の関東大震災の
地殻変動で86mm沈下し24.414mに改定された。
2011年に発生した東日本大震災によって、24mm沈下したため、
現在、原点標高は24.390m改定された。 
   2012/2/11(土)建国記念日 近世山陽道を歩こう!

旧山陽道子守唄の里ロード
  08/5/2(金)
「上御領上組ふれあいプラザ」の片隅にあります。

三つに折れた県境碑  

   三つに折れた県境碑
   2012/2/11(土)建国記念日 近世山陽道を歩こう!

金光教芸備教会の中を通る街道 
塀際をに狭い街道 車馬自動車往来多かった
  福山藩番所跡 
藩境石
は三つに折られた碑ある。 

福山藩の国境 番所・代官所跡    備後国の国境跡
  上御領八幡神社で休憩  地区の子供会行事
神社巡りのウォークラリーをしていました。

上御領の一里塚跡と四ツ堂
2017/2/16
辻堂は主に西日本で見られるが、福山には特に多く、四方の壁がない形態が
目立つという。これまで市内で260程度を確認。建て替えや補修をして
引継がれてきたケースが多いという。
江戸期の儒学者茶山が地誌「福山志料」で、辻堂を「憩亭」と表現。
当時の福山藩に約600あると記している。
旧街道沿いに多く、「旅人の休み所として活用され、今も昔もコミニュティーの
場」と見られる。今回の調査は2017年度、日本遺産申請を目指す福山市が、
ストーリーづくりのため進める歴史文化基本構想策定事業の一環。

大曲り
真直ぐな道より曲げれば遠くから行列の実体良く分ります。  
四つ堂のとなりにあります。

行程記にも記されている、石の地蔵さん

江戸時代から見守っています。

横を向いた変わった「横向き地蔵」あります。  

   横を向いた変わった「横向き地蔵
菅茶山の碑と一里塚碑

高屋途中」茶山
【大意】
山にかかった雲は半分まだらになって、夕日の光線が筋に
なって漏れている。一里塚の樹木(榎)は霜枯れて物さびしい
10月の気候になった。露店の人が引きとめて蕎麦をすすめ、
竹かごの中には銀色の細い蕎麦が甑(蒸篭)で蒸されていい
匂いがただよってくる。
 

お堂に地蔵さん 
 07/1/13(土)
お堂の地蔵さん 新しいお家に納まっていました
   相撲取りの墓  外ヶ島弥五郎
寛政九年 行年  近村助力
外ヶ島弥五郎
巳七月九日 二十四寂 當村施主

【左側面】安政四巳二月十一日   世話方 若連中
     追善角力ノ一行上建   勧進元 清吉
                 差添人 谷五良
弥五郎は1773(安永2)年 上御領下組の藤井氏に生まれ、幼いこ
ろか稀にみる力持ちであったと伝えらています。その後、鞆の外ヶ浦
という親方に見込まれ、相撲の修行を始めますが、1797(寛政9)年、
巡業中の船中であっけなく亡くなってしまいました。わずか24歳という
若さとその怪力ぶりから、出世を恨んで毒を盛られたのではないかと
いう噂がたったほどです。それから60年後の1857(安永4)年、八丈谷
で弥五郎の追善相撲大会が開かれ、弥五郎の名を刻んだ記念碑が
建てられました。
  御領大石登山道入口 常夜燈
八丈岩鬼伝説(創作民話)
むかし、むかし、御領山一本角の赤鬼ハチ)」とサルが住んで
いました。御領山には、クリの木が、びっしりと生えていて、八とサル
クリを食べたり、高屋川で魚を捕ったりして楽しく暮らしていました。一方、
川を挟んで向かい側にはゴツゴツした大きな岩だらけの権現山があり、
そこには二本角の青鬼ゴン)とイヌが住んでいました。岩ばかりの山
なので食べ物が少なく、権とイヌはいつもお腹をすかしていました。
おもしろくない権とイヌは、自分たちのの山がハチたちの山より少しだけ
高いことを理由にたちをバカにしていました。サルは仲の悪いイヌ
バカにされるのが我慢できず、「権現山の青鬼はクリの実ほしさに御領山
に岩を投げて自分たちを追っ払おうとしている」とにうそをつきました。
怒ったはイガグリを権めがけて投げつけ、それが見事に命中!
怒ったは手当たり次第に岩を拾ってめがけて投げ続けました。
ケンカは3日3晩続き、疲れ果てた2匹はついに寝てしまいました。
数日後、やっと目を覚ましたは荒れ果てたお互いの山を見てびっくり。
「ばかなことをしてしまった」と反省し、仲直りをしました。その後、二匹は
御領山の八丈岩
に座ってクリを食べたり、すもうをとったりして楽しく暮らし
ました。その時の足跡が、今も岩に残っているそうです。 
   2012/2/11(土)建国記念日 近世山陽道を歩こう!

上御領から下御領の境は小川 
   日吉神社

石段は151段

 下御領八幡神社

国分寺の入口付近にあった道しるべ
社殿に向かって右の石柱は約4尺、左の石柱は約3尺の高さです。
【右石柱】左九州をうくはん
     右石州ぎんざん道
     文政十亥中秋 十方助力(じっぽうじょりき)

【左石柱】右かさおか近道
     左かみがた道
     文政十亥中秋 十方助力

文政10(1827)年、山陽道の道案内のため、あらゆる方面の援助を受けて
これをたてたものと思われます。

  備後国分寺跡  ここで昼食 休憩しました
奈良時代に全国66ヶ所建立された国分寺のひとつです。国分寺跡の前に
古代山陽道はありました。741年、聖武天皇は仏教によって民心をまとめ
ようと、国ごとに国分寺・国分寺尼寺を造らせました。備後国分寺は、下御領
にある現在の国分寺の南側に建立されました。これまでの発掘調査によると、
奈良時代の国分寺は現在の参道を中心に約180m四方の土塀に囲まれた広大な
寺域があったようです。土塀の中には、参道をはさんで西に金堂、東に塔が並び、
その北側に講堂、南側の古代山陽道(現在の県道下御領新市線)に面して南大門
があったと考えられています。国家の保護のもとに隆盛を誇った備後国分寺も、
中世には次第に衰退し、戦国時代、神辺城をめぐる戦火で焼け落ちてしまい、
再建後も江戸時代初めの堂々川のはんらんによって流されました。このような
歴史を経て、現在の本堂は1694年に福山城主・水野勝種によって再建された
ものと伝えられています。 
2007/1/13(土)
備後国分寺跡 

古代山陽道 西国街道 交わっています

2007/3/1
国分寺のクロマツは福山市指定保護樹林

高屋川の土手沿い 橋を渡れば古市に入る
三日市・七日市・十日市の三歳市が成立する以前の市場
と考えられています。
古城山城跡
神辺城下形成以前に城があったと考えられ、その麓に
市(古市)が立っていたことが想像されます。
また、室町時代には神辺城の出城として城が築かれたと
伝えられます。
一里塚とは
三十六町ごとに土石を積んで塚としエノキや松を植えた
平野一里塚跡  古市集会所 
一里塚跡碑 荒神社の境内に木柱の碑消えて分からない

神辺宿東惣門跡
道の両側に土塁を築き、その上に竹の柵を設けていました。
西の惣門同様、関札を揚げたと考えられます。 
 
 平野と七日市(なのかいち)の水堰(みずぜき)跡
〜水害に苦闘した人々〜
道の両側に石垣があり、
石垣のほぼ中央には二筋の溝が掘り込んであります。
地元の人によると、これは「高屋川から溢れた水を川北村に入れない
ために堰(せき)を造ったもの」とのことでした。
この両方の溝に板を差し込み、その間に土嚢(どのう)などを詰め、
近世山陽道(きんせいさんようどう)
(市道湯野川北2号線)を遮(さえぎ)る水堰としたのです。
何故このような堰ができたのでしょうか。
この付近の高屋川の堤防などが現在のように整備されたのは
1979(昭和54)年のことで、それ以前は土手が低く、
水が溢(あふ)れると平野村に流れ込んでいました。
また、この場所は、周辺に比べ標高が低かったため、
雨水も流れ込んでいました。これらの水はやがて近世山陽道を通じて
川北村へも溢れ出していたのです。堰から東の平野村にかけては
除々に標高が低くなっており、西の川北村に向けても低く
(堰を頂点になだらかな丘)なっていました。
そのため、平野村で氾濫(はんらん)した水を川北村に流れ込ませ
ないよう、ここに水堰を設けるのが一番効果的だったようです。
水堰がいつ頃造られたかは不明ですが、この堰が設けられたために、
水を早く放流したい平野村と流入を防ぎたい川北村との間で長く
争いが絶えなかったといいます。 ・・・広報ふくやまより
  廉塾ならびに菅茶山旧宅  

菅茶山(1748−1827)は神辺東本陣に生まれました
茶山は6度にわたって京都で朱子学を学び、1781年ごろに
「黄葉夕陽村舎」という塾を開きました。塾の永続化のため福山藩校・
弘道館の郷塾(分校)とする願を藩に提出し、受理されました。これ以降、
塾は「廉塾」とか「神辺学問所」と呼ばれました。また、天明百姓一揆(1786・87年)
の経験と朱子学の理念から、出口村(府中市)や千田村(千田町)・市村(蔵王町)
の有力者を指導して社倉を行わせました。春、年貢を納められない人には
低金利で米を貸し、夏、麦で返却させたのです。
福府義倉」の創設は深津村の庄屋・石
井武右衛門の遺金を千田村庄屋・河相周兵衛、戸手村庄屋・信岡平六、福山豪商
・神野利右衛門、府中の義人・大戸久三郎など銀300貫を拠出し救済組織を作っ
た、この組織を福府義倉と命名した。

 10/11/1
「廉塾」庭の半円形の池確認 研究者は「廉塾の情景を詠んだ茶山の漢詩の
解釈を変える貴重な発見だ」と意義づけている。茶山の1825年当時の日記に
「東池を浚(さら)い、小魚数十を移す。新池に鯉(こい)を放つ」との記述を発見
した。「政酉」と刻んだ養魚池の碑文と考え合わせ、養魚池が造成されたのは
「文政」酉(1825)年と判断。それ以前の茶山の漢詩や山陽の絵図に登場する
池は中庭の池だと結論づけた。
養魚池
池の中には石碑が建てられ「廉塾養魚池 政酉杪冬為」と刻まれています。
これは菅茶山の書と言われており、寛政の酉年(1789)杪冬(12月)につ
くったことが記されています。いつもは養魚に使い、火事の時は防火用にという
茶山の用心深く合理的な考えからつくられたといわれています。
  手水鉢


廉塾の講堂前にある手水鉢は御影石が丸と四角に彫られています。
これは、中国戦国時代の趙(ちょう)の思想家荀子(じゅんし)による
水は方円の器に随う」の言葉を受けています。つまり、水は入れ物によっ
てどんなものにも形を変えます。人も交友・環境によって善悪のいずれにも
感化されると教育の大切さを現しています。

竹と板を組み合せた濡れ縁をもち3室20畳からなる講堂や塾生が寄宿した
寮舎・書庫などの塾施設と居宅が昔の面影をよく残しています。
 

筆洗場


講堂の南に流れる水路には階段が設けられ、ここで塾生は筆や硯を洗った
といわれています。この農業用水は廉塾の中で川北村と川南村に分水して
います。

玄関にブルーシート・・・羽蟻駆除で覆いをしている。
 

  街道てくてく旅 山陽道  神辺(かんなべ)宿 

9月30日(水) 儒学者菅茶山が開いた

         私塾 廉塾(れんじゅく)より 
         朝8:00〜8:15(生放送)

大きな声「おはようございます」・ポーズ練習します。
リハーサル中です。見に行きました。
本番前 1分前・10秒前・・・緊張感
伝わりました。「大丈夫」声かけます。  

  番組終わり ポーズ 撮影しました。 
「みんなにパワー貰っています」

雨の中 取材班・道具準備片付けで大変です。 
  東本陣跡

神辺宿川北七日市の本荘屋菅波家が勤めていた。

文化4年の神辺大火にて焼失し再建。
菅茶山の父の出所であった
文化6年伊能忠敬が泊まった
大きな門らしき建造物平成10年壊され
現在は往時を偲ぶものは何もない

矢掛本陣の資料 篤姫泊る  神辺七日市発とある。

 大河ドラマ「篤姫」
  創業1910年
造り酒屋「天寶一」(てんぽういち)には
小早川文吾旧宅跡」木柱がある  
  高札場
川北村・川南村の村境にあたる場所に、福山藩が定めらた
法令などうぃ木の板に墨で書いて掲げていました。

川北三日市

和牛とコロッケのなかい
まあーねいちゃん コロッケ

季節限定で「クワイコロッケ」  

神辺本陣(西本陣)
神辺宿川北三日市の尾道屋菅波家が勤めていた。
  菅波家は450年前に福島丹波守より「神辺奉行」に任ぜられていた。
当時畠山五郎衛門道元と名乗った。武家を下野し尾道で酒造りを三年修行し
川北三日市に酒造業として居を定めた。尾道で修行したので家号を尾道屋とした。
二代道俊の妻は城主福島直澄の娘である。嫁入りの時に有名な秘仏黒本尊阿弥
陀如来像を持参した。以来菅波家では33年に一度御開帳がある。三代道治のとき
畠山姓から菅波姓と名乗る、11代信道のとき全面的に改築された。
以来250年を経た。信道は菅茶山の門弟であり連島の人であった。現在の敷地
は初めより縮小している、部屋数27、畳 200畳で土蔵は六棟残る。
菅波信道一代記」自叙伝は神辺宿の人々の生活、旅人達の姿を見ることが
出来る、貴重な資料。 電線・電灯は室内に今でもありません、
250年そのままです。
筑前博多黒田藩は定宿とした黒田家の紋 屋根瓦にあります。
平成30年7月豪雨 被災 
建造物が浸水し、土塀やしっくいも一部ではがれ落ちた
 

二の間「千羽鶴図」、御成の間 袋戸棚の襖絵「墨彩四季山水図」は
日本画家 狩野永常(1732〜1787)が描いています。江戸狩野の本流
である狩野永徳(1543〜1590)の弟子狩野山楽(1559〜1635)が京狩野
の祖となり、栄常はその7代目。

黒田家と藤巴紋との関係を語る上で欠かせないのは、
黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんべえ)・如水(じょすい))
有岡(ありおか)城幽閉時のエピソードです。
それは、狭い牢屋(ろうや)から見えた藤の花によって
孝高が勇気づけられ、生きる望みをつないだという

敵の侵入を遅らせるためとか、人の足を止めて賑わいを見せるためとか
諸説がある。クランクの形をした道になっていました。

神辺宿場を防衛のためとされている大曲の道跡

 

今津宿備後赤坂駅←/神辺宿/→七日市宿

関連するサイト

「街道を歩き憩亭を訪ねる」

井原〜神辺の散策 

神辺本陣 動く夢シアタ


山陽道の宿場町 「かんなべ」

神辺は歴史の息吹がいっぱい

八丈岩の鬼伝説

大宮遺跡見学会

神辺城跡

神辺本陣「動く夢シアタ」パートX

 2007 茶山祭 

第21回 茶山ポエムハイク 

TOP