茶山ポエムハイク 2012/11/23(金) 2012/4/21(土)  2012・3・10(土) 2011年3月5日(土) 広島県福山市神辺町
                       2013/11/23(土) 2014/4/27(日) 2014/11/22(日) 2016/11/23(水・祝日)2017/4/23(日)

第32回 茶山ポエムハイク 2016/11/23(水)勤労感謝の日
菅茶山ゆかりの地や詩碑(しひ)などを訪ねるハイキングです。
JR 神辺駅東口 8:20 受付開始(8:40 出発~12:00 終了予定)
【 コース 】※総距離約4.0km
① 神辺公民館前(菅茶山詩碑)
② 天別豊姫(あまわけとよひめ)神社
③ 龍泉寺(菅茶山詩碑)
④ 西福寺(菅茶山詩碑)
⑤ 廉塾ならびに菅茶山旧宅 (特別史跡)
⑥ 伝太閤屋敷跡(菅茶山詩碑)
⑦ 萬念寺(菅茶山詩碑)
⑧ 神辺本陣(県重要文化財)
⑨ 光蓮寺(菅茶山詩碑)
★☆この他に神辺城下町の形跡をたどります!!☆★

ぷれすしーど 菅茶山特集




①神辺小学校前の菅茶山詩碑
「丁谷餞子成卒賦(ようろだにしせいをおくりてすみやかにふす)」
數宵閑話毎三更   数宵(すうしょう)の閑話(かんわ)毎(つね)に三更(さんこう)
未盡■離十載情   未(いま)だ尽(つ)きず■離(ひり)十載(じゅっさい)の情
送者停■客頻顧   送者は■(つえ)を停め客は頻(しき)りに顧(かえり)みる
梅花香裏夕陽傾    梅花(ばいか)香裏(こうり) 夕陽(せきよう)傾く
   菅茶山
大意
幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも十年間
別れて過ごした間のつもる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて見
送り、客(頼山陽)は、しきりにふりかえりつつだんだん遠くなる。
そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。

【出典】
『黄葉夕陽村舎詩』遺稿4-14所収     
・丁谷(ようろだに) … 神辺町川南にある谷で現在でも梅が多く植えられており、
その梅林には「茶山山陽餞飲之所」の碑がある
・子成 … 頼山陽(らい・さんよう)の字(あざな)
・三更 … 一夜を五分した真ん中、零時前後
・■離 … 人と別離すること  
② 天別豊姫(あまわけとよひま)神社(神辺大明神)
草創は不明ですが878(元慶2)年には天別豊姫神社の記述があるそうです。祭神は
豊玉姫(とよたまひめ)からその名が付いたとおもわれます。「神辺大明神」と呼ばれ
江戸時代にはその名称が用いられましたが、明治に入り「天別豊姫神社」と呼ばれる
ようになりました。言い伝えでは、昔は網付(あみつけ)谷に鎮座し、後にその奥の
小中山へと移り、さらに備後国守護・朝山景連が神辺城を築城した際、城の守護神
として現在の場所に移したといわれています。代々城主の保護を受けましたが、戦災
に遭うことも多かったと伝えらいます。
③ 龍泉寺(菅茶山詩碑)
老樹移來幾百春  老樹移し来って幾百春(いくひゃくしゅん)
年年麗艶占芳辰  年年麗艶(れいえん) 芳辰(ほうしん)を占(し)む
林東有墓生苔蘇  林東(りんとう)墓有り 苔鮮(たいせん)を生ず
曾是花前闘酒人   曽(かつ)て是(こ)れ花前(かぜん)酒を闘(たたか)わせし人
大意
桜の老樹を移し植えて幾たび春が過ぎたであろう。年々美しくあでやかに、
この春をほしいままに咲きほこっている。林の東には墓があり、
こけが生えている。かつて生前には、よくこの花の前で酒を酌み交わす相手
(蘭水=藤井暮庵の義父・次郎左衛門のこと)であったのに。
•麗艶 … うるわしくなまめかしいこと
•芳辰 … かんばしい春の時節
•苔鮮 … こけ

龍泉寺(曹洞宗)
寺伝によると建武2(1335)年に神辺城を築城した浅山景連(あさやま・かげつら=のち朝山)が、
同時期に菩提寺として丁谷(ようろだに)に建立した「清水山(せいすいざん)雲渓庵(うんけいあん)」
を始まりとしています。代々城主の菩提寺として栄えますが、その後、積雪により大破。
無住となり衰微してしまいます。そして、慶長7(1602)年3月、目黒新左衛門の孫の政貴の願いを
受け、当時の神辺城主・福島丹波(たんば)が再建。この少し前に現在「龍泉寺」のある帰谷
(かえりだに)には、「龍興寺(りょうこうじ)」が建立されており、「雲渓庵」はその末寺とされました。
その後「龍興寺」は、福山藩主・水野勝成により福山城北の吉津(現福山市北吉津町)へと移され、
その跡地に丁谷から「雲渓庵」を移して「龍泉寺」と改称したそうです。
「龍泉寺」の開基(初代住職)は嶺外梵雪(れいがいぼんせつ)和尚と記録にありますが、
これは「龍興寺」の2代住職にあたり、「龍興寺」移転後そのまま「龍泉寺」の初代を務めたようです。
 さらに、「備陽六郡志」によると「龍泉寺」の前には「天徳寺畑」と呼ばれる畑があり、
「龍興寺」の建立前(いつ頃かは不明)には「天徳寺(その後、播州さらに大坂へ移転)」なる寺が
あったとされています。近年の開発でこの周辺からは、古い墓石等が出土されています。また、
菅茶山編纂「福山志料」によれば、奈良の「興福寺(こうふくじ)」から接木として持ち帰った
「車返しの桜」と呼ばれた古木があり、花見の名所として賑わいましたが、1700年代後半には
花の数は減り、衰えたようすを伝えています。
④ 西福寺(菅茶山詩碑)
品茶琢句坐斜陽   茶を品し句を琢(たく)して斜陽に坐し
閑事偏知春日長  閑事(かんじ)偏(ひと)へに春日(しゅんじつ)の長きを知る
暮鳥還棲驚有客  暮鳥(ぼちょう)棲(せい)に還り客有るに驚く
梅花花底小僧房  梅花(ばいか)花底(かてい)小僧房(しょうそうぼう)
大意
茶を楽しみ詩をひねり、夕陽がさすまで座っている。閑暇(かんか)をのんきに過ごす者には、
まったく春の日は長い。小鳥がねぐらに帰ってきて、客(茶山)がいるのに驚いたらしい。
梅の花盛りにつつまれた小僧房の一日に満足した。
•品茶 … お茶の品定めをする
•琢 … 玉をみがくこと
•棲 … すみか・ねぐら
•僧房 … 僧侶の住む建物

西福寺(高野山真言宗)
現在の場所に慶長年間(1596~1614年)に奴可郡(ぬかぐん)中野村(現庄原市西城町)から
「胎蔵寺(たいぞうじ)」というお寺が移されますが、元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が
福山に拠点を移し始めるのに伴い、福山城の鬼門鎮護のために城北の吉津
(よしづ=現福山市北吉津)へと移されました。そして、その跡地へ川南の岩田から
「平等寺(びょうどうじ)」というお寺を移し、その後「西福寺」と改称したといわれています。
 文化4(1807)年の神辺大火によって本堂をはじめとする大部分を焼失し、文化13(1816)年
に本堂、万延元年~文久2年(1860~1862)に庫裏(くり)・客殿を再建します。
神辺大火の際には、本尊と過去帳だけは持ち出して難を逃れ、本尊は再建された本堂に
おさめられ秘仏とされました。寺伝では、山門だけが焼けずに残ったといわれています。
 元禄13(1700)年の「川北村御検地水帳」によると、屋敷地の他に周辺一帯に6反を超える
田畑を有しており、当時の寺域はかなり広範囲に及んでいました。また、天和3年の
「安那郡川北村絵図」には、寺域に水路が流れ、隠居と呼ばれる屋敷や、街道沿いには
西福寺の貸家が画かれています。


⑤ 廉塾ならびに菅茶山旧宅 (特別史跡) 
茶山が34歳の時、地元の神辺に開設した私塾で、
はじめは居宅の南に面する黄葉山(こうようざん)に由来し「黄葉夕陽村舎
(こうようせきようそんしゃ)」と名づけられました。講堂は桟瓦葺平屋建てで、
6畳2室と8畳1室からなる3室を、ふすまをはずし利用していました。
初期の黄葉夕陽村舎は素読(そどく)を教える寺子屋のようなものと考えられますが、
開塾4年後には「金粟園(きんぞくえん)」という別塾を設けるまでに発展し、そこでは他国の
講義も行なわれていました。1807(文化4)年の神辺大火で居宅は全焼し、
その後居宅(現存)も塾の方に移しています。そして、1792(寛政4)年45歳の頃、
末弟の恥庵(ちあん)に家業の酒造業を譲り、この頃から「閭塾(りょじゅく)」と称して塾の経営
に専念しています。そして、1796年10月、茶山は永続の願いから田畑を添えて塾を
福山藩に献上したいと願い出(郷塾取立てに関する書簡)ました。
この願いは、明けの正月に聞き入れられ、塾は藩の郷塾となり、以後「神辺学問所」または
「廉塾」と呼ばれるようになり、「廉塾」という名もこの頃つけられたと考えられています。
江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、1953(昭和28)年3月31日に
国の特別史跡に指定されました。現在でも居宅とともに、講堂・寮舎・養魚池などがよく旧観を
とどめています。
⑥ 伝太閤屋敷跡(菅茶山詩碑) 
「神辺駅」
黄葉山前古郡城  黄葉山(こうようざん)前(ぜん)古郡城(こぐんじょう)
空濠荒駅半榛荊  空濠(くうごう)荒駅(こうえき) 半ば榛荊(しんけい)
一区蔬圃羽柴館  一区の蔬圃(そほ)は羽柴の館
数戸村烟毛利営   数戸の村烟(そんえん)は毛利の営(えい)
大意
黄葉山前は古の城下町、濠の水は涸れ、宿場はすたれて雑木が茂っている。
ひとくぎりの野菜畑はかつての羽柴秀吉の泊まった館の跡、また五、六軒の煙の
たっているあたりは毛利軍の陣営跡だと。
•古郡城 … 昔の城下町
•榛荊 … 榛ははんの木だが、ここでは雑木、荊はいばらでとげのある木の茂み
•蔬圃 … 野菜畑
•羽柴館 … 羽柴秀吉の泊まった館の場所
•毛利営 … 毛利軍の陣営跡
⑦ 萬念寺(菅茶山詩碑) 
垂楊囲繞古書樓  垂楊(すいよう)囲繞(いじょう)す 古書楼(こしょろう)
遮断村聲事亦幽  村声(そんせい)を遮断して事も亦(ま)た幽(ゆう)なり
知是隣房催會講  知る是れ隣房(りんぼう) 会講(かいこう)を催す
亂條陰裏夜吹■  乱条(らんじょう)陰裏(いんり) 夜笛を吹く ■草かんむりに秋・・・ふえ
大意
しだれ柳が古い塾舎を取り囲み、村の物音を遮り断って、すべての営みもまた静かである。
隣の家では寄り合いが行なわれているとみえ、風に乱れる柳の枝の陰のあたりで、
夜にあたって笛を吹く音が聞こえてくる。
•書楼 … 書物を蔵する二階屋(ここでは廉塾のこと)
•隣房 … 隣の家
•会講…寄りあって相談すること


萬念寺(浄土宗)
元亀年間(1570~1573年)の草創といわれる「萬念寺」の前身「見佛山(けんぶつざん)大念寺
(だいねんじ)」は、元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が福山に拠点を移すと、それに伴い
城下の寺町(てらまち)へと移されました。そして、跡地には品治郡今岡(ほんじぐんいまおか=
現福山市駅家町今岡)の萬念寺谷から廃寺であった「萬念寺」を移し、山号を「佛見山」にしたと
いわれています。その後、延享4(1747)年、7世の時に本堂が再建され、さらに安政年間(1854~
1859年)11世の時に修繕、そして平成4(1992)年に再び建て替えが行われました。
 ここには太閤(たいこう=豊臣秀吉)が立ち寄った伝承があり、菅茶山編纂「福山志料」や
「西備名区(せいびめいく)」などの古記録には、太閤秀吉が九州へ向かう途中ここへ立ち寄り、
呂紀(りょき=明の花鳥画家)が画いた鴛鴦(おしどり)の軸を2幅賜え、その後「大念寺」の城下
移転に伴い移されたことが記されています。江戸時代には神辺本陣の立ち退き所に指定され、
文久3(1863)年には、筑前国黒田家一行総勢1,053人の内、「萬念寺」には53人の付添衆が
宿泊したとの記録があります。
「川北村御検地水帳」によれば、元禄13(1700)年には、屋敷地1反3畝に隣接して計1反2畝の
田畑を有していました。

⑧ 神辺本陣(県重要文化財) 
江戸時代の神辺は、備中国矢掛(現岡山県小田郡矢掛町)と、備後国今津(現福山市松永町)
の中間に位置する宿場町として栄え、当時は七日市の東本陣と三日市の西本陣の2軒
がありました。現在では西本陣のみ現存しています。
一般的な宿場町では「本陣(大名とその重臣の宿泊所)」と「脇本陣(家臣の宿泊所)」がありますが
神辺の場合、本陣・脇本陣の関係はなく、三日市の尾道屋菅波家を西本陣、その分家筋にあたる
七日市の本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣については資料が残っておらず
詳細は分りませんが、西本陣は1660年頃、筑前(現福岡県)の黒田家の通行に際して本陣役を務
めたのが始まりといわれ、それ以来、黒田家専用となりました。そして、その他の大名は東本陣を
利用し、東本陣の都合が悪いときには西本陣が黒田家以外の御用も務めたといわれています。
西本陣は、平常の居宅が21畳163畳でしたが、大名の宿泊の際には2階座敷や蔵座敷などを加
え27室200畳余りを使用し、50~70人の大名及び付添衆を収容していたといわれています。
そして、その他の者は周辺の寺院や町家に分泊し、分泊の宿割の勤めも果たしていました。
参勤交代での大名の利用の場合は、わずかな黒字でしたが、その他では赤字であったため、
本陣施設の維持には、本業の酒造業で得た利益で田畑を購入し、そこから出た利米を
維持修復費として備える方法を二度にわたり福山藩に願い出ています。現在、住居と酒造業施設
の一部は消滅していますが、延享5(1748)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、
馬屋や物見櫓にいたるまで、参勤交代の諸候が宿泊した面影をよく残し、当時の貴重な姿を
今に伝えます。
⑨ 光蓮寺(菅茶山詩碑) 
十四日與嶺松師赴鞆浦途中口占」 (十四日嶺松師(れいしょうし)と鞆の浦に赴く途中の口占

牛渚清遊久有期  牛渚(ぎゅうしょ)の清遊(せいゆう)久しく期有り
忽乗新霽試■杖  忽(たちま)ち新霽(しんせい)に乗じて■杖を試みん ■竹かんむりに邛
喜看遠嶺生霞彩  喜び看る遠嶺(えんれい)霞彩(かさい)の生ずるを
明夜陰晴已可知   明夜の陰晴(いんせい)已(すで)に知る可(べ)し
大意
鞆の浦で清遊(月見)をすることは、以前からの約束で期待していた。
急に天気も晴れたので杖をついて探勝に出歩くことにした。遠くの山に美しいもや
がかかっている眺めは格別だ。この分なら明十五日の晴天はもう決まったようなものだ。
•嶺松師 … 光蓮寺住職で茶山の詩友
•口占 … 口ずさむ
•牛渚 … 中国揚子江の月の名所(ここでは鞆の浦の渚での月見)
• ■杖 … 竹の杖で探勝に出歩く  ■竹かんむりに邛
•明夜陰晴 … 明日曇るか晴れるかはっきりしていて、この分なら晴れるに決まっている意

神辺城下町の形跡をたどります

神辺城の鯱(しゃちほこ)出土地点A→堀跡・川北村、川南村村境B→天別豊姫神社C→武家屋敷D→堀跡E→戦国時代の町家・遺物F

「コヤ」細い道が複雑に入り組み、T字路かL字路形に折れ曲がり、まっすぐ通り抜けられる道は皆無である。

路地は畦道のような道幅あります。村境は溝跡です。

神辺城下町遺跡 戦国時代の城下町 (小屋)遺跡から神辺城跡見る
06年10月「こやの内」の発掘調査では、戦国時代から江戸時代初め
にかけて掘られた幅4m・深さ1m程の堀が発見されました。堀の中から
は瓦類や中国製の白磁・青磁椀などが出土しています。また、
直径1.5m程の丸い穴の中から焼けた瓦や陶磁器類が多量に出土して
おり、戦の火災処理のために掘られたものと考えられます。この堀は、
城主居館のものと較べるとやや小規模なことから有力家臣の屋敷を
取り囲んでいた堀と考えられますが、神辺城下町もこの頃から次第に
戦国時代の城下町として形を整えていったことがわかります。また、
福島正則の筆頭家老であった福島正澄(まさずみ)が神辺城代を勤めた
江戸時代の初めには、この堀も掘りなおされ、城下町の整備はいっそう
進んでいくようです。



山陽道沿いの「七日市」には、間口が狭く奥行きの長い、町屋特有の短冊地割がなされている。


第28回 茶山ポエムハイク 2014/11/22(土)いい夫婦の日
衆院が11月21日の本会議で解散され、「12月2日公示―14日投開票」の衆院選へ
【コース】(約6km)
※神辺駅 集合・出発
①神辺公民館(菅茶山詩碑)
②西ヶ崎荒神社
③神辺城址
④福山市神辺歴史民俗資料館
⑤廉塾ならびに菅茶山旧宅(国指定 特別史跡)
⑥萬念寺(菅茶山詩碑)
⑦神辺本陣(県指定 重要文化財)
⑧光蓮寺(菅茶山詩碑)

①神辺小学校前の菅茶山詩碑
「丁谷餞子成卒賦(ようろだにしせいをおくりてすみやかにふす)」
數宵閑話毎三更   数宵(すうしょう)の閑話(かんわ)毎(つね)に三更(さんこう)
未盡■離十載情   未(いま)だ尽(つ)きず■離(ひり)十載(じゅっさい)の情
送者停■客頻顧   送者は■(つえ)を停め客は頻(しき)りに顧(かえり)みる
梅花香裏夕陽傾    梅花(ばいか)香裏(こうり) 夕陽(せきよう)傾く
   菅茶山
大意
幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも十年間
別れて過ごした間のつもる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて見
送り、客(頼山陽)は、しきりにふりかえりつつだんだん遠くなる。
そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。

【出典】
『黄葉夕陽村舎詩』遺稿4-14所収     
・丁谷(ようろだに) … 神辺町川南にある谷で現在でも梅が多く植えられており、
その梅林には「茶山山陽餞飲之所」の碑がある
・子成 … 頼山陽(らい・さんよう)の字(あざな)
・三更 … 一夜を五分した真ん中、零時前後
・■離 … 人と別離すること
 ②西ヶ崎(にしがさき)荒神社
この荒神社は、麓村(ふもとむら)
十日市(江戸前期より川南村十日市=現福山市神辺町川南)
の産土神(土地の守り神)であり、元は紅葉山城
(神辺城)内の鬼門の守護神であったが、
水野日向勝成が城を取り払った際、竹本廣右衛門・
重政六左衛門の上申により
十日市の氏神となった、と言われています。
この場所は、神辺城のあった紅葉山(現黄葉山)の
最西端にあたることから西ヶ崎と呼ばれました。
現在は境内から神辺城址にかけて登山道が
整備されています。
③神辺城跡(別名=紅葉山城・村尾城・道上城・楓山城)
標高約130mの黄葉山(江戸後期まで紅葉山)には、山頂とそこから西と北に延びる
尾根を平坦に削った23の郭が確認され、井戸跡も残っている。1976年の発掘調査では、
礎石を持つ建物跡や、溝・石垣の一部が検出され、瓦・土師器・陶磁器などが出土しています。
1335年、鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」で後醍醐天皇方として功績を治めた朝山次郎
左衛門尉景連が備後国守護に任命され、この地に神辺城を築城したと「備後古城記」
にあります。さらに、1443年には山名氏によって神辺城は建て替えられたとされます。
山名氏は複数の守護を務めていたため、備後には守護代が派遣され、神辺は守護代
の支配下となりました。その後
戦国時代の中国地方は大内氏と尼子氏の勢力争いによって左右される時代へとはいります。
1538年には、大内氏についた山手銀山城主・杉原理興(ただおき)によって尼子氏支配
の神辺城(城主・山名忠勝)は攻略され、理興は支配しやすくするため前城主と同じ山名に
姓を改め、山名理興の名で城主となりました。
その後、大内氏が出雲の尼子氏攻略に失敗
すると、山名理興は尼子方に寝返ったため、1543年~1549年にかけて大内・毛利氏
によって神辺城への攻撃が繰り広げられます。
「神辺合戦」と呼ばれるこの戦いは、大内氏が要害山に砦を築いて平賀隆宗を置き、
高屋川を挟んで対峙することとなりました。1548年6月「神辺固屋口」、翌年2月には「城麓」
、6月には「七日市」での戦いの記録が残っています。激戦の末、山名理興は敗れ、尼子氏の
本拠地である出雲へと敗走し、6年以上の長きにわたる戦いは終わります。その後、大内氏が
滅び毛利氏の支配になると、理興は毛利元就の許しを受け、再び杉原の姓に戻し神辺城主に
返り咲いています。その後毛利氏が直接支配し、1600年「関ヶ原の戦い」に敗れた毛利氏は
大幅に減封され、福島正則が安芸・備後約50万石で入ります。正則は広島城を拠点としたため
神辺城は筆頭家老の福島丹波守正澄が3万石で城主となります。福島氏が改易されると
1619年、水野日向守勝成が備後10万石で領主となります。勝成はまもなく拠点を福山に移し、
1622年の福山城の完成によって神辺城は廃城となりました。 
にほん縦断こころ旅  放送日:2017年4月18日(火)617日目 岡山県井原市
岡山の旅 満開の桜咲く 神辺城跡から手紙を読み 井原市 明治という里へ

南側に数少ない石垣残っています。
堀切跡(通称 毛抜堀跡)あります。

 ④福山市神辺歴史民俗資料館
「私の一品展」開催中 歌川広重 六十余州名所図会 備後阿武門観音堂
西郷南州(隆盛)書「失題 示外甥政直」

神辺城跡(別名=紅葉山城)は紅葉しています。
⑤廉塾ならびに菅茶山旧宅(国指定 特別史跡跡)
「廉塾(れんじゅく)」は1781(天明元)年、茶山が34歳の時、地元の神辺に開設した私塾で、
はじめは居宅の南に面する黄葉山(こうようざん)に由来し「黄葉夕陽村舎
(こうようせきようそんしゃ)」と名づけられました。講堂は桟瓦葺平屋建てで、
6畳2室と8畳1室からなる3室を、ふすまをはずし利用していました。
初期の黄葉夕陽村舎は素読(そどく)を教える寺子屋のようなものと考えられますが、
開塾4年後には「金粟園(きんぞくえん)」という別塾を設けるまでに発展し、そこでは他国の
講義も行なわれていました。1807(文化4)年の神辺大火で居宅は全焼し、
その後居宅(現存)も塾の方に移しています。そして、1792(寛政4)年45歳の頃、
末弟の恥庵(ちあん)に家業の酒造業を譲り、この頃から「閭塾(りょじゅく)」と称して塾の経営
に専念しています。そして、1796年10月、茶山は永続の願いから田畑を添えて塾を
福山藩に献上したいと願い出(郷塾取立てに関する書簡)ました。
この願いは、明けの正月に聞き入れられ、塾は藩の郷塾となり、以後「神辺学問所」または
「廉塾」と呼ばれるようになり、「廉塾」という名もこの頃つけられたと考えられています。
江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、1953(昭和28)年3月31日に
国の特別史跡に指定されました。現在でも桟瓦葺2階建ての居宅とともに、
講堂・寮舎・養魚池などがよく旧観を維持し保存されている、郷塾としては数少ない例です。
・素読…書物や漢文で、内容の理解は二の次にして、文字だけを声を出して読むこと。
・寺子屋・・・僧侶・武士・神官・医者などが師となり「読み・書き・そろばん」を教える
庶民の教育施設。現在の小学校のようなもの。
廉塾の名前の由来
茶山が「廉塾」の名前について記録に残したものは今のところわかっていませんが、
「廉」という字には「倹約(けんやく)をする
・贅沢(ぜいたく)をしない」という意味があり、茶山の教育方針に沿ったものと考えられています。
 ⑥萬念寺(ばんねんじ)菅茶山詩碑
「夏日雑詩」十二首のうち(三)

垂楊囲繞古書樓  垂楊(すいよう)囲繞(いじょう)す 古書楼(こしょろう)
遮断村聲事亦幽  村声(そんせい)を遮断して事も亦(ま)た幽(ゆう)なり
知是隣房催會講  知る是れ隣房(りんぼう) 会講(かいこう)を催す
亂條陰裏夜吹■   乱条(らんじょう)陰裏(いんり) 夜笛を吹く

   茶山老樵

・書楼 … 書物を蔵する二階屋(ここでは廉塾のこと)
・隣房 … 隣の家
・会講 … 寄りあって相談すること
・■  … ふえ(竹かんむりに秋)
大意
しだれ柳が古い塾舎をとり囲み、村の物音をさえぎり絶って、
すべての営みもまた静かである。隣りの家では寄合いが行われ
ているとみえ、風に乱れる柳の枝の陰のあたりで、夜笛を吹く
音が聞こえてくる。

【出典】
『黄葉夕陽村舎詩』後篇八-十九所収 茶山72歳
 ⑦神辺本陣(県指定 重要文化財)
本陣は別名「お大名宿」といわれ、大名・公家・幕府役人などの宿場町のことです。
江戸時代の神辺は、備中国矢掛(現岡山県小田郡矢掛町)と、備後国今津(現福山市松永町)
の中間に位置する宿場町として栄え、当時は七日市の東本陣と三日市の西本陣の2軒
がありました。現在では西本陣のみ現存しています。
一般的な宿場町では「本陣(大名とその重臣の宿泊所)」と「脇本陣(家臣の宿泊所)」がありますが
神辺の場合、本陣・脇本陣の関係はなく、三日市の尾道屋菅波家を西本陣、その分家筋にあたる
七日市の本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣については資料が残っておらず
詳細は分りませんが、西本陣は1660年頃、筑前(現福岡県)の黒田家の通行に際して本陣役を務
めたのが始まりといわれ、それ以来、黒田家専用となりました。そして、その他の大名は東本陣を
利用し、東本陣の都合が悪いときには西本陣が黒田家以外の御用も務めたといわれています。
西本陣は、平常の居宅が21畳163畳でしたが、大名の宿泊の際には2階座敷や蔵座敷などを加
え27室200畳余りを使用し、50~70人の大名及び付添衆を収容していたといわれています。
そして、その他の者は周辺の寺院や町家に分泊し、分泊の宿割の勤めも果たしていました。
参勤交代での大名の利用の場合は、わずかな黒字でしたが、その他では赤字であったため、
本陣施設の維持には、本業の酒造業で得た利益で田畑を購入し、そこから出た利米を
維持修復費として備える方法を二度にわたり福山藩に願い出ています。現在、住居と酒造業施設
の一部は消滅していますが、延享5(1748)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、
馬屋や物見櫓にいたるまで、当時の面影をよく残して保存されています。
1969年(昭和44)年広島県の重要文化財に指定されました。
⑧光蓮寺(菅茶山詩碑)
「十四日嶺松師赴鞆浦途中口占」
(十四日嶺松師(れいしょうし)と鞆浦に赴く途中の口ずさむ)

牛渚清遊久有期   牛渚(ぎゅうしょ)の清遊(せいゆう)久しく期有り
忽乗新霽試■杖   忽(たちま)ち新霽(しんせい)に乗じて■杖(きょうじょう)を試みん
喜看遠嶺生霞彩   喜び看る遠嶺(えんれい)霞彩(かさい)の生ずるを
明夜陰晴已可知    明夜の陰晴(いんせい)已(すで)に知る可(べ)し
   菅茶山
・嶺松師 … 光蓮寺住職で茶山の詩友
・口占 … 口ずさむ
・牛渚 … 中国揚子江の月の名所(ここでは鞆の浦の渚での月見)
・ ■杖 … 竹の杖で探勝に出歩く
・明夜陰晴 … 明日曇るか晴れるかはっきりしていて、この分なら晴れるに決まっている意

大意
鞆の浦で清遊(月見)は、以前から約束しており、にわかに
天気も晴れたので杖をついて探勝に出かけることにした。
遠くの山に美しい霞がかかる眺めは格別だ。この分なら
明夜(十五夜)の晴天はもう決まったようなものだ。

【出展】
『黄葉夕陽村舎詩』前編1-17所収



第27回茶山ポエムハイク     岡山県小田郡矢掛町矢掛 2014/4/27(日)
  ~菅茶山が宿泊した矢掛宿をたずねて~               

菅茶山が、漢詩に詠んだ「高屋途中」「矢掛路上」などの漢詩をもとに、
菅茶山が宿泊した矢掛本陣石井家や宿場町を散策します。
<コース> 2.2km
井原線神辺駅前 (9:00集合・受付) 9:25出発

高屋途中(たかやとちゅう)」
山雲半駁漏斜陽  山雲半駁(さんうんはんばく)して、斜陽(しゃよう)を漏らす
■樹蕭條十月霜  ■樹蕭條(こうじゅしょうじょう)たり、十月の霜
野店留人勸蕎麺  野店(やてん)人を留めて蕎麺(きょうめん)を勸む
一藍銀縷出甑香  一藍(いちらん)の銀縷(ぎんる) 甑(こしき)を出でて香(かんばし)し

【語意】・■…一里塚。・蕭條…ものさびしいさま。
【意味】山にかかった雲は半分まだらになって、
   夕日の光線が筋になって漏れている。一里塚の樹木(榎)
    は霜枯れて物さびしい10月の気候になった。
    露店の人が引きとめて蕎麦をすすめ、竹かごの中には
    銀色の細い蕎麦が甑(蒸篭)で蒸されていい匂いがただよってくる。
【出典】『黄葉夕陽村舎詩』後篇巻二―11所収 ※作詞年代不詳。

※■土へんに侯→ 読みは「こう」

上御領一里塚(神辺町上御領)
一里塚の起源は中国にあり、日本では江戸時代に江戸日本橋を起点として、一里(3.75km)
ごとに全国に設置されていました。道の両側に土を盛り榎や松を植え、旅人の里程や籠賃の
目安としたり休憩所として利用されていましたが、明治以降、交通機関の発達によって、その
必要性は失われていきました。上御領一里塚は、寛永10(16333)年ごろ築かれたと伝わり、
現在も「曲り」、「一里塚」の地名とともに、菅茶山の漢詩「高屋途中」が当時の面影を伝えて
います。

9:58到着 井原線矢掛駅 

矢掛町は町長・議員選挙 投票日。

駅舎はツバメが卵抱いていました。

鯉のぼり元気に泳いでます。

2002/4/29(月)宿場町 やかげ
10:15~10:45やかげ郷土美術館 
水見やぐらが印象的なこの美術館は、平成2年に開館し、
歴史と文化の薫る矢掛の町並みとの
調和を考えて設計されています。郷土出身の
田中塊堂(書家、1896~1976)や佐藤一章(洋画家、
1905~1990)をはじめとする芸術家の作品展示のほか、
淡水魚の「ポケット水族館」も館内に
設置されています。
昨年、文化勲章を受章した高木聖鶴の書展を開催中です。

菅茶山(1748~1827)は、神辺宿七日市の本荘屋第四代菅波久助扶好(樗平…ちょへい)の長男
として生まれました。19歳で学問(漢学)を志して京都へ遊学し、34歳で神辺に私塾「黄葉夕陽村舎」
(のち「廉塾」)を開くまでに、かつての山陽道を通って6回、郷里と京都を往復しました。
さらに、京阪方面へのプライベートな旅や、公務として江戸福山藩邸へ出向いた際には、やはり
この街道を通りました。(※菅茶山47歳の吉野への旅「北上歴」の際には、鴨方、備前を通っています。)
茶山が神辺を出立してから第一日目の通常の行程は、神辺―高屋―七日市(井原市)―矢掛でした。

江戸時代の山陽道(西国街道)は「中国道」と公称され、区間は大坂を起点として下関を経て、海上一里の
大里(現、北九州門司区)に至り、大里から陸路1.5里の小倉を終点とした。ここで長崎路と連結しました。
したがって、摂津・播磨(兵庫県)、備前・備中(岡山県)、備後・安芸(広島県)、周防・長門(山口県)
と九州の豊前(福岡県)の九ヶ国を連結する、西日本の最も重要な幹線道路でした。山陽道の宿駅
の数は尼崎から大里まで約128里、宿駅間の平均距離は約2.5里で、東海道、中山道とほぼ同じ。
中国道の通行所要日数は、西国大名の参勤交代の際の行程で旅をすれば、
一日平均8~9里歩いて14~15日半を要しました。




矢掛路上」(やかげろじょう)
行行幾十里    行きゆきて 幾十里
猶見故郷山   
猶(な)お見る故郷の山
落日浮遠水   
落日遠水に浮かぶ
獨鳥没煙巒   
独鳥煙巒(どくちょうえんらん)に没す
依依背郷樹   
依依(いい)として郷樹に背き
遲遲出郊關   
遅々として郊関(こうかん)を出づ
此行無程限   
此の行程限り無し
思還即得還   
還(かえり)を思えば即ち還るを得る
豈爲覊絆態   
豈覊絆(あにきはん)の態(てい)を為(な)して
濺涙離別間   
涙を離別の間(かん)に濺(そそ)がんや
但爲雙親老   
但(ただ)し雙親(そうしん)の老いたるが為に
離家毎自難   
家を離(はな)るることに毎(つね)に自(おの)ずから難(かた)し
回望宛在目   
回望(かいぼう)宛(さながら)として目に在り
阿嬢別時顔
    
阿嬢別時(あじょうべつじ)の顔

意味
幾十里を行きながら、まだ故郷の山々が見えてくる。
落日は遠い水面に映り、一羽の鳥がかすんだ峰へと消えていった。
名残り惜しい気持ちを背にして、ゆっくりと村はずれの関所を越える。
旅の道のりは限りなく、里心がついたら帰ることにしよう。
どうしてひきとどめようなことをして別れ際に涙することがあろうか。
さて、自分は両親が年老いており、家を離れることは難しいのだが、ふり返れば
別れの時の母の顔が目に焼きついて忘れられない。

【出典】『黄葉夕陽村舎詩』後篇巻1―1所収
【語意】煙巒 えんらん…かすんだ峰。・依依 いい…名残惜しい。
    覊絆 きはん…つなぎとめること。・阿嬢 あじょう…阿は親しみをもって呼ぶ時に付ける語。
    嬢はむすめ、ここでは母のこと。

※作詞年代は不明。詩の内容から茶山が京都へ遊学する際の心境を詠んだものと思われる。


文化11(1814)年、茶山67歳 第二次江戸出府
3月 福山藩主阿部正精が茶山に江戸出府を命じる
5月5日茶山送別の宴が催される

梅天初霽石榴紅  梅天初(ばいてんはじ)めて霽(は)れて石榴紅(せきりゅうあか)し
何限離情一醉中  
何(なん)ぞ限(かぎ)らん離情一醉(りじょういっすい)の中に
恨殺樽前長命縷  
恨殺(こんさつ)す 樽前(そんぜん)長命縷(ちょうめいいる)
不牽君輩與倶東
   君が輩(やから)を牽(ひ)きて與倶(とも)に東(ひがし)せざるを

石榴…ザクロまたはツツジの花
長命縷…長生きと無事を祈るために用いる五色の糸でできたくす玉
大意
梅雨空が初めて晴れてツツジが紅い花を咲かせている。すっかり酒に酔い、
別れを惜しむ気持は終わることはない。ひどく恨めしく思うことは、樽前に
置かれた長命縷のくす玉によって、君たちを引っ張って一緒に東へ向うことが
できないことだ。


文化甲戌のとし藩邸にめされて江戸にいきける時竹の戸を立ちててよめる

たひ衣いくへこえゆく関の戸のとささぬ御代はたちうくもなし

旅人の私は、いくつもの関所を越えて藩邸へと出立しようとしている、どうして気が進まないことがあるだろうか

「甲戌5月6日、晴、晨に塾を発し、帰谷の墓を拝す。家人と古城の端にて、別れ、座間格、頼餘一、藤井弥九郎と國文寺
にて別れ、塾生と上御領にて別る。門田久兵衛、追走して此に至り始めて即別れに及。谷東平、猪木安斎、大家三郎介、
高屋に迎う。上野武十郎父子、高屋駅内に迎え、遂に其の宅に造りて、飲膳少時にして辞す。門前に出ずれば洛陽花殊
に美し。大江三子、河相周兵衛等と高屋駅東に別れ、七日市に抵りて井原令五臓、長野父子(玄叔)東作鼠氏素八、出でて
送り雄神川上に別る。川漲にて輿の濟る状、大猪川の如し。五臓、玄叔追い来たり、今市に抵りて別る。小田にて甲奴仙右衛門
と逢い、出餞して矢掛に抵る。石井源治郎出でて迎え矢掛本陣に宿する。…夜、舟を前川に泛ぶ。」(もと漢文)~菅茶山日記「東征歴」~





(神辺)5月6日出立。
(高屋)谷東平・河相周兵衛らに見送られる
(七日市)五郎・長野玄叔・素八に見送られる。
(矢掛)矢掛本陣石井源治郎に宿泊する。

―川辺―香登―三石―正条―加古川―兵庫―大坂(5月13日)※これより東海道を東上。
―大津―水口―四日市―岡崎―白須賀―袋井―藤枝―興津―原―箱根―平塚―神奈川
―江戸小川町福山藩上屋敷に到着(6月5日)


「小田~矢掛宿」西国街道を歩く 2005/6/12(日)
11:00~11:50 矢掛本陣石井家
旧矢掛本陣石井家(国指定重要文化財)
江戸時代初期(1620年頃)、この地に居を構え、中期以降は代々大庄屋を務めるかたわら、
本陣を兼ねた旧家で、元禄頃から酒造業を営んで繁栄したといわれます。
屋敷地は旧山陽道に面し、間口がおよそ20間(36m)、約千坪(3164m2)あります。
建物は街道に沿って間口12間、奥行4間の平入り入母屋造りの住宅店舗と、その裏の酒蔵、
棟門より奥の本陣部の三つから構成されています。本陣部は全体的に武家屋敷風の書院造りで、
一見、質素なたたずまいながらも、桃山調の金襖や上段の間の欄間にはブドウとリス、
チョウとマクワウリの透かし彫りがほどこされなど、格式の高い美しさがあります。
江戸時代の建築をほぼ完全にとどめており、古文書はじめ資料も数多く残されています。
昭和44年6月に国の重要文化財に指定されています。 

宿札(関札) 三月五日  有馬中務大輔宿  筑後国(福岡県)久留米藩七代藩主。

有馬中務大輔(ナカツカサタイフ)頼僮
二一万石。享保十四年(一七二九)相続。治世五五年。
関流算学の大家。
 宝暦一二年(一七六二)三月五日上り矢掛宿。

裏面記載事項
宝暦一二年午三月五日未刻(午後二時頃)御機嫌克御着遊ばさ
れ候、同六日卯中刻(午前7時頃)御機嫌克御出立遊ばされ候
                          以上

通行大名 有馬中務大輔  参勤時 宿駅の休泊利用状況

下関宿)→5里→吉田(昼食)→4里→船木宿)→5里→小郡(昼食)→4.5理→宮市宿
→4.5里→福川(昼食)→3.5里→花岡宿)→5.5里→高森(昼食)→7.5里→玖波宿)→4里
廿日市(昼食)→5里→海田宿)→5.5里→西条四日市宿)→6里→沼田本郷(昼食)→2.5里
三原宿)→3里→尾道(昼食)→6里→神辺宿)→3里→七日市(昼食)→3里→矢掛宿)→
3里→川辺(昼食)→3里→板倉宿)→5里→藤井(昼食)→4里→片上宿)→3里→
三石(昼食)→8里→宿)→4里→御着(昼食)→8里→大久保宿)→7里→
兵庫(昼食)→5里→西宮宿)→6里→郡山(昼食)→6里→伏見宿

一日平均9.2里歩く。

 本陣の床の間には、菅茶山作の掛け軸が飾られていた。

秋日雑咏十二首のうち一首
鳳僊頗冶嬌哇近  鳳僊頗(ほうせんすこぶ)る冶(や)なれども 嬌哇(きょうあ)に近し
鷄髻雖妍色帶奢 
鷄髻妍(けいけいけん)なりと雖(いえど)も 色(いろ)は奢(しゃ)帶(お)ぶ
此意吾將問蝴蝶 
此(こ)の意(い) 吾將(われまさ)に蝴蝶(こちょう)に問(と)わんとす
不知尤愛在何花
  知らず 尤(もっと)も愛するは何(いず)れの花にか在るを


秋日雑咏十二首之一 晋師

【出典】『黄葉夕陽村舎詩』後篇巻七―九 茶山69歳作詩
【語意】・冶…なまめかしい。・嬌哇…艶っぽく媚びる様。・鷄髻…ケイトウ。妍…美しい。


大意鳳仙花はいかにもなまめかしい美しさで、色っぽく振る舞っているようだ。鶏頭もまた
    美しいが、その色は奢りを帯びている。どちらが美しいか、私は蝶に尋ねてみようと思う。
    私が最も愛する花はどちらなのかを。



※文化12(1815)年2月26日、68歳の茶山は江戸を立って帰郷の途につきました。①は、
東海道より山陽道を下り、3月28日に川辺より矢掛に入った辺りで詠み、②は、神辺に
帰着後の4月1日、江戸出府の復命報告のため、福山へ赴いて登城する際に詠まれたものです。


①「備中道上次岡生韻」(備中道上岡生の韻に次ぐ。)のうちの一首
棣棠躑躅一叢叢  棣棠(ていとう) 躑躅(てきちょく) 一叢叢(いちそうそう)
大路■回山影中  大路■回(たいじえいかい)す山影(やまかげ)の中(うち)
行認黄薇祠廟近  行くいく黄薇祠廟(きびしびょう)の近(ちか)きを
隔林金鐸響丁東  林を隔てて金鐸響丁東(きんたくひびきとうとう)たり

※■エイ・めぐる 榮→冠の中は糸

【出典】「黄葉夕陽村舎詩」後篇六―十一所収
意味】山吹やつつじがあちこちに群がって咲いている。大道が吉備の中山のほとりを
    ぐるりと廻って進む。やがて吉備津のお社が近くなってきた。宮の森の木の間
    から鈴の音がひっきりなく聞こえてくる。


②「帰後入城途上」(帰る後、城に入る途上。)
官驛三十五日程  官駅(かんえき)三十五日程(にってい)
鶯花随處逐春晴  鶯花随所(おうかずいしょ)に春晴(しゅんせい)を逐(お)ふ
今朝微雨家林路  今朝微雨(けさびう) 家林(かりん)の道
筍輿徐穿暗緑行  筍輿徐(じゅんよおもむ)ろに暗緑(あんりょく)を穿(うが)って行く

【出典】「黄葉夕陽村舎詩」後篇六―十一所収
意味】江戸より街道の宿場を下って35日の旅。その間、鳥や花と春たけなわの好時節を
    楽しんできた。やっと帰郷して今朝は小雨の中を林間の道を通って御城下へ向う。
    駕籠はおもむろに青黒いまでの木々の繁みを分けるようにして進んで行く。

 11:55~13:30やかげ町屋交流館昼食・矢掛の町並み自由散策
 
矢掛一里塚跡に寄りました。隣りの
ミヤケスタジオ(写真館)には一里塚の松が残っている写真展示してある。

13:45~14:30 矢掛脇本陣高草家
高草家は、旧街道の北側に間口約18間(33.5m)、敷地面積約525坪(1743m2)の広さで、
本陣に次ぐ規模で、母屋、座敷、表門、土蔵、内蔵、大蔵、中蔵、米蔵、門蔵と
立ち並び、建築年代は安永頃(1772~79)とされています。
道に南向きの表門は旧庭瀬藩の陣屋にあったものが明治初年に移築されたもので、
本陣と同時に国指定の文化財になっています。
 専教寺(臥竜松)
 
土産:柚べし詰合せ

篤姫が御輿入れの際 買い求めた。

15:30井原線矢掛駅出発

16:12井原線神辺駅到着 (解散)


第26回茶山ポエムハイク  2013/11/23(土) 勤労感謝の日 小春日和 アップダウンの山道歩きました。
【コース】約4.2km 中条公民館(集合・受付)→大坊(だいぼう)古墳(広島県指定史跡)→
遍照寺(へんじょうじ)(茶山詩碑)→高居(たかい)松井邸(茶山詩碑)→鶴の供養塔→
中条八幡神社→篁(たかむら)大道(だいどう)の墓→中条公民館(解散)

第33回茶山ポエムハイク 2017/4/23(日)



中条鰯と人魚 「備後神辺」
元亀・天正の頃(1570~78)中条に佐貫坊という1人の修験者がいました。
佐貫坊は諸国を遍歴して信州(長野県)に至り道に迷って山深く入り、そこに
あった老婆の家に一夜の宿をもとめました。老婆はいぶかしげに「あなたは備後の
人でありませんか」というので、「どうしてそれがわかるか」という「あなたの
言葉には備後なまりがありますよ」といって、なつかしげに家にひき入れてくれました。
その夜、老婆は「わたしも生まれは備後ですが、あなたは何村ですか」と問うので、佐貫坊は
「中条という田舎者です」と答えると、老婆ははたと膝をうって「中条ですか、わたしも中条
ですが、村を出てあら久しいので大分かわっているでしょ、鰯はよくとれますか」と、しみじみ
なつかしがりました。佐貫坊は妙なことをいう老婆じゃと思い、「海もないところで何で鰯が
とれますか」といえば、老婆は怪しんで「さてはあなたは中条ではない、中条は海に面した
海人の里で、南には八尋や千田の網代(あじろ)があり、五箇手島(要害山や山王山)は舟つき
の漁り場で、中島や鵜飼、網引は西にあって、鰯はとくによくとれて中条鰯と世間ではいっています。」
と申しました。そこで佐貫坊は「それはちがう、中条は三里も南でないと海はない」と半ばくしましたが、
老婆はなかなか信ぜず「さては海が変じて桑田になるたとえのように、わたしが国を出て幾百年
になるので、そんなにも変わったものか」嘆息し、そして「わたしが娘であったとき人魚といって、
胴より上は人の形をし、尾は魚である怪しげなものを捕った人がありました。奇体な魚もあるものだ
と海に捨てようとするのを、わたしの知るべの人がもらって帰り、この魚を食えば長生きすると
昔からいう、煮て食べなさい。酒を買ってくるからといって出て行きました。わたしも不思議に思いながら
煮て食べてみると、とてもおいしくて、しらずしらずのうちに皆食べてしまい、その人にはほかの
魚をとりかえて出しました。わたしは百年たっても老いもせず、死にもせず、子も孫も身よりの
皆死んでしまい、頼る人もなくなりましたので、国を出てあちこちまわっているうちにここへ足を
とどめました。それからはや何百年にもなるので故郷へ帰る気もせず年を過ごします。」
と、夜もすがら話しつづけました。佐貫坊は中条へ帰ってこの不思議な話をしましたが、もとより
誰もその老婆を知るものはありませんでした。この奇妙な話は村中にぱっとひろがったということです。



8:30 中条公民館出発

12:00  解散 
① 大坊古墳(広島県史跡)
丘陵の東斜面に築かれた大坊古墳は、直径約14m、高さ約5mの
南北方向がやや長い円墳です。横穴式石室の入り口は南東方向に向けて
開いており、石室の長さは、約11.3m、幅・高さとも約2mと大規模なものですが、
昔から入口が開口していたため、残念ながら石室内の副葬品は不明です。
この石室の特徴は、花崗岩の表面を磨いたような石材を使用していること、
それから玄室(遺体を葬る部屋)と羨道(玄室へいたる廊下)が
ほぼ同じ規模で設計されていることがあげられます。また、玄室が床面の中央に
置かれた二個の石によって前後の二室に分けられており、玄室の入り口には
二本の石柱が立てられています。これらの特徴から、大坊古墳は古墳時代も
終わりに近い七世紀の初め頃にこの地方の有力な豪族の家族墓
として築かれたものと考えられています。
休憩しながら 急な山道、杖で登ります

井原放送 撮影。
山門前に水琴窟(すいきんくつ)の瓶
真言宗 黄龍山(おうりゅうざん)遍照寺(へんじょうじ)
創建は、元久年間(1201~1204)といわれ、旧本堂は2005(平成17)年に
建立されました。山号の黄龍山とは、陽の光が日の出から日没に至るまで遍く照らす様が、
寺の本尊である観世音の御心と均しいとして命名されたものです。かつて、
遍照寺の住職であった大空上人も詩僧であり、茶山と連れだってここで詩を詠んでいます。
菅茶山ゆかりの寺院として後世に伝えていきたいと、近年、
個人の方が詩碑三基を建立寄贈されています。
  菅茶山詩碑「歳杪奇大空師」(編照寺境内)
(歳杪大空師に寄せる)
荒歳村居事亦紛 荒歳村居事亦紛たり
隣閭警盗譟宵分  隣閭盗を警(いまし)めて宵分(しょうぶん)に譟(さわ)ぐ
遥知姑射峰頭月 遥に知る姑射峰頭(ほうとう)の月
寺寺經声咽白雲  寺寺の経声(きょうせい)白雲に咽(むせ)ぶ
   菅晋帥 (ときのり)
歳杪・・・年の暮れ   大空師・・・編照寺住職  荒歳・・・飢饉で不作の年
閭・・・村里  粉・・・物騒な  譟ぐ・・・騒ぐ
姑射峰・・・仙人が凄むという山。
【大意】今年は飢餓で村里は事が物騒なことだ。
隣部落では泥棒の警戒に出てこの夜中に騒いでいる。
はるか彼方、姑射峰の上には地上のことには、かかわりなげに
月がかかっている。
寺々の読経の声が白雲にむせぶように聞こえてくる。
【出典】『黄葉夕陽村舎詩』前編1-21所収
 
  ②菅茶山詩碑「黄龍山呈充國」(編照寺山門前)
(黄龍山 充国に呈す。充国此処に遊べるは今を距てる事20年なり、当時
唱和したる者、篁大道、大空上人、松井子■ 諸人今皆在らず、独り河子蘭及び余存す)
長松大石舊林邱  長松(ちょうしょう)大石 旧林邱(きゅうりんきゅう)
二十餘年感壑舟  二十余年壑舟(がくしゅう)を感ず
嘆息當時携手者  嘆息(たんそく)す当時手を携(たずさ)えし者
幾人相對説曾遊  幾人か相対して曾遊(そゆう)を説(と)かん
充国・・・充富充国、長門国の儒医、茶山の弟子。
篁大道・・・茶山弟子、もと高村氏。
河相子蘭・・・西中条村庄。大空上人・・・編照寺住職。
壑舟・・・壑はあな。舟に穴があいて沈むこと。人生の無常のこと。   
【大意】昔遊んだ林の丘や長い松、大きな石を見ていると、二十年以上経った今も変わらない
ことに感慨をおぼえる。だが、当時ともに吟遊した友は、ほとんど亡くなってしまった。
こうして残った幾人かで、昔を懐かしく語り合おう。
【出典】「黄葉夕陽村舎詩」前篇五-二所収 茶山51歳作
※■は王へんに路
遍照寺山城跡 標高170m下ります。

途中には砂留跡あります。

辺りには古墳群多い。

③安光古墳群
古墳時代後期頃(六世紀後半)には群集墳が安光一帯に築かれ、
数基の横穴式古墳があります。
内部の地蔵は後世に祀られたものです。昭和20年頃、
疎開した人が仮住まいとして使用していました。
 ④北面観音
古くは猫山古墳の南面に祀っていましたが、金色に輝きすぎて、
南方の古代山陽道を通行する
旅人が、まぶしくていけないと訴えたため、
この地に移転されたといわれています。
⑤ 高井(たかい)松井邸
菅茶山詩碑
時子■叔姪東遊
(時に子■叔姪東遊す)
村居無判日相求 村居無く日に相求む
喜興群賢此宴遊  群賢と此に宴遊するを喜ぶ
焼砌軽煙花影乱 焼砌軽煙(じょうせいけいえん)花影乱れる
隔簾古木鳥声幽  簾を隔て古木の鳥声幽(かすか)なり
大杯令行誰堪罰 大杯を行ら令む誰が罰(しおき)に堪えんや
窄韻知難還欲鬮  窄韻(さくいん)の難きを知る還た鬮せんと欲す
二元今朝酔何処 二元今朝何の処にか酔わん
春深京洛酒家楼  春深き京洛酒家の楼
※■は王へんに路

【大意】
田舎住まいは話し合える友人も無く、日々相手を求めている。ところが、
ここ都は賢人(文化人)も多く、一緒に宴席に遊ぶことができて嬉しい。
庭や石畳をつつむ春のかすみがおぼろで、花の影が揺れて動いている。
簾を隔てて庭の古木にさえずる鳥の声がかすかに聞こえてくる。
宴たけなわともなれば大杯が回ってくるが、はたして飲みつくすことが
出来るであろうか。引き当てた韻字は字数が少なく詩を作るのが難しい。
もう一度くじを引きなおすことは出来ないだろうか。
二阮(子■・子蘭※子■の姉の子)は今日何処で飲んでいるだろうか。
春も深まる京の街の料亭の離れ座敷あたりだろうか。
【出典】『黄葉夕陽村舎詩』未登録
 
 ※■は王へんに路
   菅茶山詩碑「次子■月夜泛琵琶湖韻」
(子■ 月夜の琵琶湖に泛べるの韻を次ぐ)

天女祠前湖月清  天女祠前湖月清し
湖心乗月棹空明  湖心月に乗じて空明に棹(さお)さす
風来波浪生哀響  風来って波浪 哀響を生じ
舟在琵琶絃上行  舟は琵琶 絃上在りて行く
   茶山旧製
子■・・・松井子■(1753~80)西中条高井の大庄屋。
松井弥治兵衛の末子で医者、茶山と親交が深かった。 
【大意】良夜の湖にひかれ、天女祠前を船で行く。
湖の中ほどに出るころには、月が愈々澄んで、櫓を操るごとに銀波がゆれる。
折りしも一陣の風がたって、舷をたたくもの悲しい水音を聞いていると、
やがて船は琵琶(湖)の舷の上を奏でつつ進むかと思われる。

【出典】『黄葉夕陽村舎詩』後篇2-10所収 年代不詳
※■は王へんに路
⑥鶴の供養碑
嘉永年間の始め(1848~49)頃、今から165年ほど前、当時は鶴の飛来も多く、
ある時この付近の上空を二羽の鶴が舞い飛んでいた。これを見た猟師がその
一羽を鉄砲でねらい、撃たれた鶴はあたりの草むらに落ちていった。しかし、
その場所は不明のままであった。翌年同じ頃、一羽の鶴がこの上空を大きく
弧を描いて飛んでいたが、突然近くの草むらの中に急降下して消えた。探すと
そこには、前年死んだ子鶴と、それを悲しんで自ら命を絶った親鶴の姿があった。
それを哀れんで、村人たちがこの供養塔を建てたものです。
『神辺風土記』菅波堅次著 
○部分拓本 拡大 
四つ堂 中条には27軒ある 
神貝池
水は酒造りに使っていた。

鞆から海産物、東城から木炭など運ぶ中間地。
中条の中心地で賑わった所です。
⑦中条八幡神社
中条の八幡神社は仁和元(855)年、豊後国の宇佐八幡宮より勧進し、
諸説ありますが、湯野小山池あたりにあったとされる国分尼寺の鎮守神として、
艮位(東北)の中条藤森に八幡神を祀っていたといわれています。また、
国分寺の守護神は下御領の八幡神社といわれ、同じく東北に位置しています。
永正3(1506)年、現在地へ遷座され、中条地内の産土神として崇拝されています。
当初は、下御領・湯野・徳田・箱田・中条・道上・山野の八カ村の総氏神
でしたが、当地を治めた毛利氏や水野氏の庇護を受け、
元禄12(1699)年に本殿が再建されたことが知られています。 
 ⑧相撲力士の碑
八幡神社に向って両側に相撲力士の碑があります。
向って左にある「鷹羽作介」は、本名を神原作介、東中条の出身で、明治時代の生まれで
幼少の頃から相撲が強く、大坂で修業に励みました。大坂相撲でも頭角を現し、
得意技は頭突きでした。しかし、そのために相手に多くのケガ人が出て
恨みをかうようになったため、この情勢を心配し、親方はついにその才能を惜しみつつ、
脱走という形で彼を郷里に帰したのです。ある時、友人と山野の観音様に詣でた時に、
粟根あたりの畑に梨の実がたわわになった大木があり、
木の持ち主が「手を使わずに食べればいくらでもあげる」と難題を
もちかけたため、鷹羽は得意の頭突きで無数の梨の実を見事に落とし、
手を使わずに食べたということです。彼はその後も中条で多くの後輩に
相撲を指導したと伝えられています。『神辺風土記』より
単層の欅皮葺建築で四周の蛙股には、十二支の動物があしらっています。 
 本堂脇に陰陽石霊神を祀る御堂があり、
地元では縁結びの神様としても有名です。
   本殿の前には建築と同時に西中条村庄屋の
松井弥治衛が寄進した石灯籠が立ち、歴史が偲ばれます。

たかむら大道だいどうの墓 茶山の弟子

水野平馬の墓訪ねました

12時前 公民館に到着。

10年前にも歩きました。
大坊古墳~陰陽石霊神 散策 

2013/11/23  猪瀬直樹東京都知事が、2012年の都知事選挙の前に、大手医療法人「徳洲会」グループから5,000万円を受け取っていた
         問題 「1億円要求していた」とする一部報道を全面否定
         
         機密を漏らした公務員らに厳罰を科す特定秘密保護法案を巡って「26日衆院通過」巡り与野党攻防

    

第24回 茶山ポエムハイク2012/11/23(金)
【コース】(約6.5km)
菅茶山記念館 8:30集合・出発 12:30解散   参加者:40名ほど  心配した雨降りませんでした。
①湯野山 東福院(菅茶山詩碑)
②掛の宮跡
③佛見山 萬念寺(菅茶山詩碑)
④神辺本陣(県重要文化財)
⑤帰天神社参道入口(菅茶山筆の灯籠)
⑥廉塾ならびに菅茶山旧宅(国特別史跡)
⑦古城八幡宮(菅茶山筆の灯籠)
⑧七日市板樋跡(伝「わくたて」跡)
⑨平野一里塚跡

2012/11/24(土)
サンフレッチェ広島がJ1初優勝 2位仙台敗れ、最終節待たず決定




①湯野山 東福院(高野山真言宗)
「東福院」は、寺伝によると天平16(744)年草創で、現在より北側の
丘陵地上部の「二本松」と呼ばれる地に建立され、「松岡寺(しょうこうじ)」と称されました。
この地は「古寺」とも呼ばれ、近年まで2本の松が生えていたそうです。
延応元(1239)年、戦火により焼失し、現在の場所に移されました。その後の元禄年間(1688~1703年)に「東福院」に
改称したと伝わります。
さらに、正徳年間(1711~1716年)に罹災し再び焼失してしまいますが、当時の住職・映朝の独力により再建されたといわれます。
山号の「湯野山」は、当時この地には温泉が涌いていて、その霊験があることから号したといわれます。
また、本堂には聖徳太子作との伝承がある薬師如来の立像がおさめられ、さらに、明治初期の神仏分離の際には、山王山の
「日枝神社」にあった像3体が、仏体の形をしていることからここに移されています。


【大意】
丘を経て水を渡り、春のたけるを惜しむ。桜の花を見るたびに、何でもそばへ行って見なければ気がすまない性分なので春は
まったくい忙しい。東院の一抹はまさに花の真っ盛り。南の池の三本の樹はもう半分散りかかっている。
【出典】
『黄葉夕陽村舎詩』茶山79歳

②掛宮跡(かけのみやあと)
「掛宮跡」から「掛の橋」にかけての一帯は、いくつかの小字をまとめて通称「かけ」と呼ばれています。
その語源は定かではありませんが、この場所は神辺城下に入るための玄関口のような場所であり、ここで
多くの合戦が繰り広げられたことから、刀や弓を「掛け合った場所」から「かけ」と呼ばれたのではないかと思われます。
掛宮は、吉備津彦命が祀られていましたが、大正3(1914)年3月30日に天別豊姫(あまわけとよひめ)神社に合祀されました。
現在は「掛宮跡」の石柱を残すだけですが、当時は社があったそうです。石柱には次のように刻まれています。

掛宮跡 大正三年三月三十日遷座干天別豊姫神社境内


佛見山(ぶっけんざん) 萬念寺(ばんねんじ) (浄土宗)※菅茶山菩提寺
元亀年間(1570~1573年)の草創といわれる「萬念寺」の前身「見佛山 大念寺」は、元和5(1619)年、水野勝成が福山に拠点
を移すと、それにともない城下の寺町に移されました。そして、跡地に品治(ほんじ)郡今岡の萬念寺谷(現在の福山市駅家町今岡)
から廃寺であった「萬念寺」を移し、山号を「佛見山」にしたといわれています。その後、延享4(1747)年、7世の時に本堂が再建され、
さらに安政年間(1854~1859年)11世の時に修繕、そして平成4(1992)年、再び建て替えが行われました。
また、ここには太閤(豊臣秀吉)が立寄った伝承があり、菅茶山編さんの「福山志料」や「西備名区」などの古い記録には、太閤秀吉が
九州へ向う途中ここに立ち寄り、呂紀(明の花鳥画家)が画いた鴛鴦の軸を2幅賜え、その後「大念寺」の城下移転とともに移されたことが
記されています。
1863(文久3年)の筑前国黒田家一行総勢1053人の内、萬念寺には53人の付添衆が宿泊したという記録があります。

山門前の菅茶山詩碑
「夏日雑詩」十二首のうち(三)
【大意】
しだれ柳が古い塾舎をとり囲み、村の物音をさえぎり絶って、
すべての営みもまた静かである。隣りの家では寄合いが行われ
ているとみえ、風に乱れる柳の枝の陰のあたりで、夜笛を吹く
音が聞こえてくる。
【出典】
『黄葉夕陽村舎詩』茶山72歳



④神辺本陣(広島県重要文化財)
本陣とは、本来戦場において大将が位置した本営のことをいい、それが街道の宿場に置かれた武将の宿泊所
を指すようになりました。別名「大名宿」といわれ、大名・旗本・幕府役人などが利用しています。
原則一般者を泊めることができず、大名が泊った際でも、十分な対価を得ることも少なく、経営難に陥ることも
少なくなかったようです。そのため他の仕事を兼業する場合が多く見られました。
江戸時代の神辺は、主要道が交わる交通の要所で、備中国矢掛と備後国今津の中間に位置し、福山藩内でも
最も多く参勤交代の大名が泊る宿場町として栄えました。当時神辺には三日市の西本陣(現神辺本陣)と、七日市の
東本陣とがありましたが、現在は西本陣だけが残っています。一般的な宿場町では「本陣(大名とその重臣の宿泊所)」
と「脇本陣(家臣の宿泊所)」の役割に分けられていましたが、神辺の場合、その関係でなく、三日市の尾道屋菅波家を
西本陣、その分家筋にあたる七日市の本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣については資料が残っておらず
詳細は分りませんが、西本陣は1660年頃、筑前(現福岡県)の黒田家の通行に際して本陣役を務めたのが始まりといわれ、
それ以来、黒田家専用となりました。そして、その他の大名は東本陣を利用し、東本陣の都合が悪いときには西本陣が
黒田家以外の御用も務めたといわれています。
西本陣は、平常の居宅が21畳163畳でしたが、大名の宿泊の際には2階座敷や蔵座敷などを加え27室200畳余りを
使用し、50~70人の大名及び付添衆を収容していたといわれています。そして、その他の者は周辺の寺院や町家に分泊し、
分泊の宿割の勤めも果たしていました。本陣施設の維持・修復には多くの負担がかかり、酒造業で得た利益で田畑を購入し、
そこから出た利米を備える方法を二度にわたり福山藩に願い出ています。現在、住居と酒造業施設の一部は消滅していますが、
延享5(1748)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、馬屋や物見櫓にいたるまで、参勤交代の諸候が宿泊した面影をよく残し、
当時の貴重な姿を今に伝えています。


⑤帰天神社(かえりてんじんしゃ)参道入口の石灯籠
帰谷は、菅茶山の父・菅波樗平(ちょへい)以前の本荘屋菅波家の墓所でした。樗平の没後、茶山は一時ここに父を葬りますが、
しばらくして西向かいの網付谷(あみつけだに)へと墓所を移しています。茶山も没後、同所へ葬られました。
その後「菅茶山の墓」は昭和15(1940)年に広島県史跡に指定されています。
帰谷の山頂付近には古くから天神社があり、天和3(1683)年の『安那郡川北村絵図』にも描かれています。
その参道入口には茶山筆跡の石灯籠があり、そこには次のように刻まれています。

天満宮 文化丁丑(ぶんかひのとうし) 二月中浣(ちゅうかん)
文化14(1817)年2月中旬に建立されたことがわかります。


天和参年安那郡川北村絵図
1683(天和3年)に制作された神辺最古の村絵図であり、安那郡川北村(現福山市神辺町川北)の全域
が彩色で詳細に画かれています。廃城となった神辺城の城下町としての機能を残しつつ宿場町として
の機能を高める過程の村絵図であり、当時の川北村の全景をよく表しています。


⑥廉塾ならびに菅茶山旧宅(国特別史跡)
廉塾は天明元(1781)年、菅茶山が34歳の時に地元の神辺に開設した私塾で、はじめは居宅の南に見える黄葉山にちなみ
「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」と名付けました。講堂は桟瓦葺平屋建てで、6畳2室と8畳1室の連なる
3室を、ふすまを外して1室として使用していました。初期の黄葉夕陽村舎は素読を教える寺小屋のようなものと考えられ
ていますが、開塾4年後には「金粟園(きんぞくえん)」という別塾を設けるまで発展し、そこでは他国の講義も行われました。
文化4(1807)年の神辺大火で全焼した居宅を塾の方に移しています。寛政4(1792)年45歳の頃には末弟の恥庵(ちあん)
に家業である酒造業を譲り、この頃から「閭塾(りょじゅく)」と称して塾の経営に専念しています。そして、寛政8(1796)
年10月、茶山は塾の永続を願い、田畑を添えて塾を福山藩に献上したいと願い出ました(郷塾取立てに関する書簡)。
この願いは明けの正月に聞き入られ、塾は福山藩の郷塾となり、以後「神辺学問所」と呼ばれ、「廉塾」という名はこの頃、
柴野栗山が名づけたといわれています。施設は講堂・居宅の他に隣接して3棟の寮舎が設けられ、塾生たちはそこで寝泊まり
していました。講堂東側には、円形と方形をわせた手水鉢を設置し、これは「水が器の形に従うように、人も環境や教育、
交流などによって善く悪くもなる」ということを示し教えています。講堂前の中庭には高屋川から分水した水路があり、ここで
塾生たちは筆や硯などを洗ったといわれています。
廉塾の教育方針は貧富や親疎によって塾生を差別せず、分け隔てなく学ぶ機会をあたえるというものでした。漢詩人として
有名だった茶山を慕い、全国各地から集まった塾生は、10~20歳代の若者を中心に延べ2000~3000人と推測されています。
江戸時代の貴重な教育施設として「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は昭和28(1953)年3月3日、国の特別史跡に指定されました。
現在でも居宅とともに、講堂・寮舎・書庫・養魚池などが旧観をよくとどめ保存されている全国でも数少ない郷塾です。


⑦古城八幡宮参道入口の石灯籠
古城山の山頂に建つ古城八幡宮は、鶴岡八幡宮を勧請(かんじょう)(神仏の分霊を招き迎えて奉ること)したものと伝えられます。
古くは古城大明神とも呼ばれ、現在より西の山腹にありました。昭和9(1934)年2月の高屋川改修の際、山頂から築堤用に土砂が
採取され、現在の場所に移されました。この地は自然な地形を利用した古墳であったと考えられ、昭和9年山頂部を削った際に、
石室とその内部から鉄器・土器類が出土したといわれています。また、「古城」の名の通り、古くは城があったとされ、神辺城の
出城跡や、初期の神辺城の築城場所とも考えられています。麓にも今も「古市」の名が残り、「七日市・三日市・十日市」形成以前
に市が立っていた場所と考えられています。現在古城八幡宮の参道入口には茶山筆跡の石灯籠があります。
そこには次のように刻まれています。

献灯 惣産子中 文化癸酉(ぶんかみずのとり)
文化10(1813)年に村から灯明を奉納されたことがわかります。



⑧七日市板樋跡 ※伝「わくたて」跡付近
この場所は、川北村(七日市)と平野村(古市)の村境にあたり、すぐ北には高屋川が流れています。その高屋川ですが、少し東側
(古市側)で大きくねじ曲がり、自然な流れにしては違和感があります。これは、城下形式にあたり人為的にコースが変えられた可能性
が考えられます。菅茶山が編さんした『福山志料』にこの付近のことを「枠立」として、次のように記しています。
【原文】「近此マテモ平野サカヒナル枠立ト云淵ハヨホトノ間藍色ニテ児童ハオソレシ処ナリシカ今ハ浅瀬ナリ」
【意訳】近頃まで平野境の枠立という淵は、よほどの間、深く藍色であったため、児童が恐れる所であったが、今は浅瀬である。



⑨平野一里塚跡
一里塚とは、一里(約3927m)ごとに街道の両側に塚を築き、塚のそばに木を植えて旅人の目印にした標識のようなものです。
古くにもこのような目印は設置されていましたが、慶長9(1604)年に幕府が江戸の日本橋を起点にして、一里塚の設置を命じます。
これにより全国の主要街道に整備されることとなり、約10年かけて完成したといわれています。
全国の一里塚に植えられた木の過半数が榎であったとされ、次いで多い松、杉と合わせると9割以上にのぼるといわれています。これは
どの木も高木で、成長が早く、植樹場所に左右されない適応力を持つためではないかと思われます。
平野の一里塚は山陽道の街道沿いにあり、西は中津原村、東は上御領村の間にあたります。中国行程記にも「平野村一里塚」の名で、
塚と高木がはっきりと描かれています。しかし、残念ながら現在そのようすを見ることはできません。


第23回 茶山ポエムハイク
昨年11月、大雨で流会した同じコース歩きます。
菜の花・アカシア・チューリップ・もくれん等咲き乱れ
昼から雨の予報心配しましたが
薄曇りから晴れてきました。井原放送・山陽新聞の取材ありました。御野小学校グランドに駐車しました。

行程 約8km 井原線御領駅 集合・出発  8時30分から12時30分
①四面地蔵②葛原邸(勾当設計・しげる生家)③蓮乗院・二宮神社④上御領一里塚跡 菅茶山詩碑「高屋途中」
⑤八丈岩登山口道入口 菅茶山詩碑「御領山大石歌」⑥外ヶ島弥五郎記念碑⑦明正寺(菅茶山交遊詩)
⑧下御領八幡神社・近世山陽道の道しるべ
⑨國分寺(備後國分寺跡) 菅茶山詩碑「聯句戯贈如實上人」 菅茶山和歌「訪い寄れば・・・」


①四面地蔵
葛原しげる 晩年になってこの地蔵への愛着と、
ここを行き来する多くの子どもたちが、
立派に成長することを願い、次の詩を作りました。

「四つ地蔵」
石の地蔵様は一本柱  四角四面の短い橋
東向きなのは朝日を拝み 西向きなのは夕日を拝み
北向き地蔵様は八丈岩拝む 南向き地蔵様は何拝む地蔵様
地蔵様四つが背中を合せ 心を協(あわ)せて何祈り祈る
②葛原邸(勾当設計・しげる生家)

茶山饅頭 いただきました。 

かつて葛原家前には松の大木がそびえ立っていましたが、
昭和2(1927)年3月12日の暴風雨により、
幹が裂けて失われてしまいました。かつての姿を偲んで
昭和4年5月に「松樹之碑」(しょうじゅのひ)
が建碑されました。
 毎月第3土曜日葛原邸で二弦琴教室があります。
講師は京都より 指導に来られ

運よく聞くことが出来ました。

部屋には
100年の時をこえてよみがえったオルガンあります。
 葛原家の紋 屋根瓦にあります
古来、琵琶法師には盲目の人々が多かった
元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた
「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、
「座頭(ざとう)」に由来する。
葛原家初代
葛原勾当(1812~1882)
備後地方・生田流筝曲の師
葛原家3代
葛原しげる(1886~1961)
神辺が生んだ 
日本を代表する童謡詩人
 日本の琴(二弦琴)  
少数弦楽器、
二弦琴「八雲琴」は「出雲琴」または「玉琴」ともよばれています。
昔は竹でしたが、現在は桐の材で作られており、
竹の名残が琴面に残っています。
神話に出てくる「天の詔琴」を想像して江戸時代に、
出雲でつくられてましたのが
この出雲琴です。
琴面に絹の弦を2本張(大)(小)の柱を両端に立て、
指に象牙の竜爪(昔は竹または
鹿の角)で絃をはじいて音を出します。
③蓮乗院(葛原勾当・しげる菩提寺)
及び二宮神社 

室町時代中期の応永16年(1409)年の
鰐口(わにぐち)本堂にありました。

鰐口(わにぐち)とは、神社の本殿やお寺の本堂の軒先に
「鉦の緒」
と呼ばれる太紐とともに吊り下げ、参拝者が祈願する際に
打ち鳴らす音響具のことです。
 二宮神社 
 上御領一里塚跡の菅茶山詩碑
高屋途中
【大意】
山にかかった雲は半分まだらになって、
夕日の光線が筋になって漏れている。一里塚の樹木(榎)
は霜枯れて物さびしい10月の気候になった。
露店の人が引きとめて蕎麦をすすめ、竹かごの中には
銀色の細い蕎麦が甑(蒸篭)で蒸されていい匂いがただよってくる。
⑤八丈岩登山口道入口 菅茶山詩碑
御領山大石歌
当時の時勢を嘆いた茶山が、
密かに政治批判を込めて詠んだ詩と考えられています。
⑥外ヶ島弥五郎記念碑
寛政九年 行年  近村助力
外ヶ島弥五郎
巳七月九日 二十四寂 當村施主
【左側面】安政四巳二月十一日   世話方 若連中
     追善角力ノ一行上建   勧進元 清吉
                 差添人 谷五良
弥五郎は1773(安永2)年 上御領下組の藤井氏に生まれ、
幼いころか稀にみる力持ちであったと伝えらています。
その後、鞆の外ヶ浦という親方に見込まれ、相撲の修行を始めますが、
1797(寛政9)年、巡業中の船中であっけなく亡くなってしまいました。
わずか24歳という若さとその怪力ぶりから、出世を恨んで毒を盛られた
のではないかという噂がたったほどです。それから60年後の1857(安永4)年、
八丈谷で弥五郎の追善相撲大会が開かれ、弥五郎の名を刻んだ
記念碑が建てられました。
⑦證林山明正寺(しょうりんざん みょうしょうじ)
菅茶山交遊寺 

江戸時代後期の12世住職・祐教(ゆうきょう)上人は、
当時「学を好み、詩歌を能(よ)くする」と有名で、
菅茶山や頼山陽など文人との親交があり、境内で詩会などを開いています。
茶山は祐教上人の求めに応じ、漢詩「偃松(えんしょう)詩」を贈っています。
この偃松とは、当時境内にあった通称「かこいの松」
と呼ばれた巨松のことで、その枝ぶりは東西27.3m・南北17.3m
にもおよびましたが、
残念ながら慶応3(1867)年に枯死してしまいました。
【大意】
四方の山々を見れば、みな松の樹が生えているが、どうしたものか、
君の家にも松の樹がある。まといつくようなその枝ぶりは普通の種ではない。
虎とも龍とも見える変わった姿をしている。今、あなたは僧侶として日増し
に繁栄を遂げているが、どうして独りでその名誉を得たといえようか。
よく心静かなものたちと論議する中に、良い木はおのずから人
を惹きつけるということがある。流行をあらそって説法を学んだり、
名誉や名声を願うということは、安易に高価なかんざしや
腕輪に群がるようなものである。かりにもその松を培養するものが
あっても、君の家の松とは違うのだから、何を羞じることがあろうか。
⑧下御領八幡神社・近世山陽道の道しるべ
社殿に向かって右の石柱は約4尺、左の石柱は約3尺の高さです。
【右石柱】左九州をうくはん
     右石州ぎんざん道
     文政十亥中秋 十方助力(じっぽうじょりき)
【左石柱】右かさおか近道
     左かみがた道
     文政十亥中秋 十方助力

文政10(1827)年、山陽道の道案内のため、
あらゆる方面の援助を受けて
これをたてたものと思われます。
 
 ⑨國分寺門前の菅茶山詩碑
【大意】
上人は好事家で、花のためには逆立ちしても惜しくない。
ただ立派な花を愛して、
銭には愛着がない。だから、毎年花の奇種を購うために、
山を下り(寺をから里に出て)
衆生に時々銭を乞われる。

好事:珍しい変わった物事を好むこと
 國分寺門前の菅茶山歌碑
【大意】
如実上人を訪ねて國分寺に寄れば、着物の袖が色濃くなるくらい
草花は真っ盛り。萩の花が
映りこんだ垣根の露で着物を染めてしまいようだ。

如実上人:元禄の再建から数えて4代目の住職

國分寺南門に近世山陽道の道しるべ
ありました。 

12時30分 解散。

第22回茶山ポエムハイク
2012・3・10(土)
行程 コース約5km 8:30神辺駅集合
①薬上山 光蓮寺→②佛見山 萬念寺→③神辺本陣(県重要文化財)→④伝太閤屋敷跡→⑤廉塾ならびに菅茶山旧宅→
⑥普門山 西福寺→⑦神辺公民館→⑧養老会館前の鈴鹿秀満歌碑→⑨丁谷梅林


東日本大震災発生から一年の前日 歩きました。


例年は見ごろの時期

今年の冬は寒かった
梅の開花は全国的に遅い 

茶山饅頭、飴の接待受けました。

12時15分 神辺駅で解散
神辺宿 惣門跡(西)
JR神辺駅前(中国銀行付近)の小路出口にあり、江戸時代
両側に土塁と塀があったようです。大名が宿泊・休泊時には
前入りした者が持参した関札を掲げた。
 
薬上山 光蓮寺(浄土真宗本願寺派)

境内の菅茶山詩碑
「十四日嶺松師赴鞆浦途中口占」
(十四日嶺松師(れいしょうし)と鞆浦に赴く途中の口占)
【大意】
鞆の浦で清遊(月見)は、以前から約束しており、にわかに
天気も晴れたので杖をついて探勝に出かけることにした。
遠くの山に美しい霞がかかる眺めは格別だ。この分なら
明夜(十五夜)の晴天はもう決まったようなものだ。
鉄砲町
鉄砲組、鉄砲鍛冶屋の作業場があった場所。
鉄砲小路には鈴鹿秀満旧宅跡がある
② 
佛見山 萬念寺
1863(文久3年)の筑前国黒田家一行 53人の付添衆が宿泊した

山門前の菅茶山詩碑
「夏日雑詩」十二首のうち(三)
【大意】
しだれ柳が古い塾舎をとり囲み、村の物音をさえぎり絶って、
すべての営みもまた静かである。隣りの家では寄合いが行われ
ているとみえ、風に乱れる柳の枝の陰のあたりで、夜笛を吹く
音が聞こえてくる。

神辺本陣(県重要文化財)

平常の居宅 21室163畳でしたが大名の宿泊の際には
2階座敷・蔵座敷等を加え27室200畳余り使用し50~70人の
大名及び付添衆を収容していたといわれます。
庭には蘇鉄あります
弘化3年(1846)春、11代目菅波信道が植樹

安政元年(1854)12月南海大地震によって、
御成門・土塀・内蔵等が半壊し、翌年秋から修理の工事を行う。
礎石は神辺中条の産。
古木に説明板 庭内には古木あります

百日紅

柊木

 

伝太閤屋敷跡前の菅茶山詩碑
【大意】
黄葉山の前は古の城下町、濠の水は涸れ、宿場はすたれて
雑木が茂っている。ひとくぎりの野菜畑はかつての羽柴秀吉
の泊った館の跡、また五、六軒の煙のたっているあたりは毛利
軍の陣営跡だ。

廉塾ならびに菅茶山旧宅

1781(天明元年)菅茶山が34歳の時に開設した私塾
南に見える紅葉山にちなみ「黄葉夕陽村舎」と名付けた。
講堂東側「方円の手水鉢」
「水が器の形に従うように、人も環境や教育、交流などによって
善くも悪くもなる」

普門山 西福寺
境内の菅茶山詩碑
「西福寺賞梅」
【大意】
茶を楽しみ、詩をひねり、夕陽がさすまで座っている。閑暇を
のんきに過ごす者にはまったく春の日は長い。小鳥がねぐらに
帰ってきて、客(茶山)がいるのに驚いたらしい。梅の花盛りに
つつまれた小僧房の一日に満足した。
⑦神辺公民館→⑧養老会館前の鈴鹿秀満歌碑→⑨丁谷梅林
同じ所第21回茶山ポエムハイクに歩きました。

第21回茶山ポエムハイク
2011年3月5日(土)

行程 コース約5km   85名参加。
8:30神辺駅集合→神辺公民館前の菅茶山詩碑「丁谷餞子成賦」→養老会館前の鈴鹿秀満歌碑→丁谷八幡宮→丁谷梅林→
西ヶ崎荒神社→神辺城跡→新宮山龍泉寺→菅茶山の墓→天別豊姫神社→12:30神辺駅

東北新幹線で、新型車両「はやぶさ」運転を始めた。 最高時速300㌔ 東京-新青森を最速で3時間10分で結ぶ。


 8時30分 神辺駅集合  車で参加しました。

21回茶山ポエムハイク 初めての参加です。年2回の行事だそうだ。

参加チェックし資料貰います。



明日は二十四節気の啓蟄。地中に眠っていた虫が動き出す日。
 

神辺小学校前の菅茶山詩碑

丁谷餞子成卒賦(ようろだにしせいをおくりてすみやかにふす)


【大意】幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも10年間
別れて過ごした間のつもる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて
見送り、客(頼山陽)は、しきりにふりかえりつつ、だんだん遠くなる。
そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。
 

養老会館前の鈴鹿秀満(すずきひでまろ)歌碑
この歌碑は、天別豊姫(あまわけとよひめ)神社の神主であり、丁谷梅林のようす
詠んだ和歌です。漢籍を茶山に、国学・和歌を笠岡の小寺清先・清之父子に学んで
います。

わけいれば 袖もたもとも 薫るなり
     よほろの谷の 梅の中道


【大意】 かきわけて入れば、着物の袖やたもと(着物の袖下の袋状の部分)
からも梅が香ってくる。丁谷の梅林の中道で。
 

丁谷(ようろだに)八幡宮
紅葉山城(別名=神辺城・村尾城・楓山城・道上城)の火災を防ぐために、
裏鬼門に建てたものと思われます。
 

丁谷
(ようろだに)茶山山陽餞飲之所
                     (ちゃざんさんようせんいんのところ)

頼山陽(らいさんよう)が廉塾を訪れ、京都へ向かう際に茶山がここまで
見送り、酒を酌み交わした場所で「茶山山陽餞飲之所」と呼ばれています。
当時は「下の梅林」「中の梅林」「上の梅林」と呼ばれ、現在よりも大きな
規模であったと思われます。
   丁谷(ようろだに)梅林
菅茶山の梅好きは、自らを「梅癖」と称するほどで、「梅」を題材にした詩を
数多く詠んでいます。

丁谷梅林は、茶山の自宅から半里ほどの場所にあり、よくここを訪れています。

今年遅い開花です、例年は満開の時期だそうだ。
桃の節句を過ぎて 余寒どころか真冬の寒さ数日続いた。
 
龍興寺(りゅうこうじ)跡の六地蔵尊
竹林の中にあります。水野日向守が転封して入ると、福山城北の吉津に移転
されました。
広川の清水
名高い神辺名水の一つ、麓村(ふもとむら)七日市の「太閤水」(別名「鍵屋水」)
と麓村丁(ようろ)の「広川の清水」でした。

昔から地元では「常に良質にして大雨に漏れず、干ばつに涸れず」
といわれました。中世には龍興寺(りゅうこうじ)の汲み水として利用したと思われ
明治頃まで住民が水桶を担いで水を汲みに集まったといわれています。
  丁谷(ようろだに)梅林から戻り、トイレ休憩し神辺公民館から行きます。

西ヶ崎(にしがさき)荒神社
言い伝えでは、麓村十日市の産土神(土地の守り神)である。元は紅葉山城
(神辺城)内の鬼門の守護神であったが、水野日向勝成が城を取り払った際、
十日市の氏神となる。
   神辺城のあった最西端にあたり、竹の杖たよりに枯れ葉踏みしめて
整備された道登りました。

 

桜の木がある つづら坂をゆっくり登りました。三之丸跡で歴史解説 楽しみました。
神辺城跡(別名=紅葉山城・村尾城・道上城・楓山城)
標高約130mの黄葉山(江戸後期まで紅葉山)には、山頂とそこから西と北に延びる
尾根を平坦に削った23の郭が確認され、井戸跡も残っている。1335年、朝山次郎
左衛門尉景連が備後国守護に任命され、この地に神辺城を築城したと「備後古城記」
にあります。1443年には山名氏によって神辺城は建て替えられたとされます。その後
戦国時代の中国地方は大内氏と尼子氏の勢力争いによって左右される時代へ。
1538年には、大内氏についた山手銀山城主・杉原理興(ただおき)によって尼子氏支配
の神辺城(城主・山名忠勝)は攻略され、理興は支配しやすくするため前城主と同じ山名に
姓を改め、山名理興の名で城主となりました。その後・・・・

標高130m 神辺城跡から 景色は大パノラマです。


にほん縦断こころ旅  放送日:2017年4月18日(火)617日目 岡山県井原市
岡山の旅 満開の桜咲く 神辺城跡から手紙を読み 井原市 明治という里へ

正面の山 茶臼山(要害山) 本陣跡見えます。
・・・大内氏が出雲の尼子氏攻略に失敗すると、山名理興は尼子方に寝返ったため、
1543年~1549年にかけて大内・毛利氏によって神辺城への攻撃が繰り広げられます。
「神辺合戦」と呼ばれるこの戦いは、大内氏が要害山に砦を築いて平賀隆宗を置き、
高屋川を挟んで対峙することとなりました。1548年6月「神辺固屋口」、翌年2月には「城麓」
、6月には「七日市」での戦いの記録が残っています。激戦の末、山名理興は敗れ、尼子氏の
本拠地である出雲へと敗走し、6年以上の長きにわたる戦いは終わります。その後、大内氏が
滅び毛利氏の支配になると、理興は毛利元就の許しを受け、再び杉原の姓に戻し神辺城主に
返り咲いています。その後毛利氏が直接支配し、1600年「関ヶ原の戦い」に敗れた毛利氏は
大幅に減封され、福島正則が安芸・備後約50万石で入ります。正則は広島城を拠点としたため
神辺城は筆頭家老の福島丹波守正澄が3万石で城主となります。福島氏が改易されると
1619年、水野日向守勝成が備後10万石で領主となります。勝成は拠点を福山に移し、
1622年の福山城の完成によって神辺城は廃城となりました。
 
歴史民俗資料館 トイレ休憩  急坂を下山します。吉野山公園で小休止。
新宮山龍泉寺(龍興寺跡)
奈良の興福寺から接ぎ木として持ち帰った「車返しの桜」と
呼ばれた古木があり、花見の名所として賑わいましたが、1700
年代後半には花の数は減り衰えた。
境内の菅茶山詩碑
「龍泉寺櫻」
【大意】桜の老樹を移し植えて、幾たび春が過ぎたであろう。年々
美しくあでやかに、この春をほしいままに咲き誇っている。林の
東には墓があり、こけが生えている。かつては生前には、よくこの
花の前で酒を酌み交わす相手(欄水=藤井暮庵の義父・次郎左衛門)
であったのに。
 目黒新左衛門秋光(めぐろしんざえもんあきみつ)の墓
戦国時代、周防の大内氏と出雲の尼子氏による中国地方の覇権
争いが各地で始まり、神辺城を巡る攻防戦が1548(天文17)年になると本格化します。
尼子氏方であった当時の神辺城主・山名理興(ただおき)は、大内氏方の先鋒の毛利
氏などによって攻められて苦戦を強いられます。
この知らせを聞いた月山富田(がっさんとだ)城主・尼子晴久は、家臣の秋光を救援に
向かわせますが、天文18年9月になると毛利氏方の攻撃に耐え切れなくなった理興は
夜陰に乗じて城を脱出します。秋光が備後へ来援してみると、時すでに遅く、出雲へ逃
げ延びる途中の理興に遭遇します。主君の命を果たせなかった秋光は、面目がたたな
いとして、この地で自刃して果てます。神辺城下の人たちは城を守るため出雲からはる
ばる来援した戦国時代の死を悼み、自刃の日とされる10月15日を命日として供養しま
した。この墓は今も地元の人たちによって祭り続けられています。
 
天別豊姫
(あまわけとよひま)神社(神辺大明神)
草創は不明ですが878(元慶2)年には天別豊姫神社の記述があるそうです。祭神は
豊玉姫(とよたまひめ)からその名が付いたとおもわれます。「神辺大明神」と呼ばれ
江戸時代にはその名称が用いられましたが、明治に入り「天別豊姫神社」と呼ばれる
ようになりました。言い伝えでは、昔は網付(あみつけ)谷に鎮座し、後にその奥の
小中山へと移り、さらに備後国守護・朝山景連が神辺城を築城した際、城の守護神
として現在の場所に移したといわれています。代々城主の保護を受けましたが、戦災
に遭うことも多かったと伝えらいます。江戸後期の神辺西本陣当主・菅波信道が残した
記録には「昔は大社であったが、今は哀れなり」当時衰微したようす記しています。

境内に鈴鹿秀満(すずきひでまろ)の墓があります。

INDEX

2007 茶山祭 

神辺本陣 動く夢シアタ/井原~神辺の散策/

山陽道の宿場町 「かんなべ」

神辺は歴史の息吹がいっぱい

八丈岩の鬼伝説

「高屋~神辺」 西国街道を歩く

大宮遺跡見学会

神辺本陣「動く夢シアタ」パートⅤ