吉備路を歩く 清音〜吉備津 岡山県総社市・岡山市 2005/10/29(土)
03年11月から2年振りです、10人の旅人 12km 歩きました。
降水確率予報 午前中70% ピンポイント予測では0mm実施しました。
昼から薄日が差し 新しい人の参加など久し振りに再会しました。
JR伯備線清音駅10時16分着の電車で行き、吉備津駅 16時前に着き、岡山駅経由で帰宅。
コスモスの備中国分寺 吉備路歩きました。
吉備地方は、縄文時代の全国的にも早い時期にイネが持ち込まれ、弥生時代には大規模な
集落ができてきます。そして古墳時代には、鉄の生産や加工の技術を得て大きな力を持った
人々が備中に巨大な古墳を数多く作っていきます。
第60回国民体育大会 晴れの国おかやま国体 秋季大会10月27日(木)終わりました。
大津保神社を訪ねました。
石造美術 隣りに地蔵堂 |
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西郡
地神・祠・石灯籠 |
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福山城跡 国指定史跡(昭和11年12月16日指定) 06/3/12 登りました。 備中福山 |
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山手村の一里松跡
道の両側に小丘を作って、目印に松や榎を植えました。 |
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角力取山(すもうやま)古墳(5世紀初頭) 36m*38m、高さ4〜5mの方墳としては吉備最大の古墳です。 推定樹齢400年のクロマツ(県指定)が 頂上に生えてることでも有名です。
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作山(つくりやま)古墳(5世紀中頃) 全長286mの3段築成の前方後円墳。 造山古墳より少し後に作られたようです。 全国9位、吉備では造山につぐ2位の巨大な古墳です。 |
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備中国分寺跡
南大門前にはに古代山陽道があった コスモスと五重塔 有名画伯 写生のポイントあります。 |
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熟した柿と五重塔
昼食と全体写真撮りました 小冊子 新・吉備路のおはなし |
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五重塔の内部公開されていました | |
十二支の彫り物
北―丑・子・亥 西―戌・酉・申 南―未・午・巳 東―辰・卯・寅 |
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備中国分寺
東西約160m、南北約178mという 本堂 |
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総社市 宿 宿場町として栄え、街道沿いには今も当時の名残を とどめる屋号の残る家がたくさんあります。 また、木野山町・戎町・荒神町・金毘羅町・牛神町など お祀りする社の名前のついた町名が今も使われています。 北には備中国分寺や同尼寺跡、すぐ南側には 寺山古墳(全長120mの前方後円墳)があり、 吉備路の中心に位置します。 三宅酒造 |
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「太陽の道」と日時計 春分・秋分の日の、日の出と日の入りの地点を結んだ線を 「太陽の道」と名づけ、古代人は太陽の出没方向を神聖視 していた。楯築遺跡を中心として吉備中山、 江田山を見通して東西にのびる線といわれます。 造山古墳とそれに連なる六基の小古墳群位置は 楯築遺跡は北西30度ちょうど夏至の日没方向にに 当ります。吉備の古代人は、作物の源となる太陽を おそれうやまったのでしょう。 |
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題目石と祠 | |
造山(つくりやま)古墳(5世紀初頭) 全長360mの県下1位、 全国4位の巨大な3段築成の前方後円墳。 頂上には長持形石棺がありますが、 近くの車塚古墳のものといわれます。 吉備の大王の墓と想定されている |
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宝泉寺 | |
鯉喰神社の案内板 吉備の国平定のため吉備津彦命(きびつひこのみこと) が来られた時、この地方の温羅(うら)が村人達を苦しめていた。 戦さを行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、 命(みこと)がそれに従うと温羅はついに、 矢尽き刃折て自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。 すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。 それを祭るため村民達はここへ鯉喰神社を建立した。 |
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楯築遺跡(たてつき いせき)
倉敷市矢部西山の片岡山と呼ばれる小高い丘の上 |
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板倉の町並み | |
板倉本陣跡
鯉山コミュニティーハウス |
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板倉宿 | |
花の名前? | |
晴れの国岡山国体
終わりました |