西国街道を行く 備後赤坂〜神辺 広島県福山市赤坂〜神辺町
2005/9/23(金)秋分の日 秋分の日 30℃を超えるような暑さでした。12km、途中 水分補給 休憩しました。
近世山陽道を歩こう!part2(横尾・鶴ヶ橋から備後赤坂まで)2013/1/27(日)
JR山陽線
備後赤坂駅集合 |
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イコーカ山古墳 未発掘の円墳。
備後赤坂駅から東の所にあります。 |
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古墳の西側 頭部が欠けた 宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。 足利義昭の墓とも供養塔とも |
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福山市津之郷町
真言宗 田辺寺 天正15年(1587) 彼岸の中日 お墓参り 多くおられました。 |
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和光寺の礎石 | |
小高い丘に津之郷惣堂神社
そして居住していた 足利義昭の御殿畑は東側にありました。 |
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津之郷の道標 以前あった所 土地造成中のため 仮置きしてにありました。 |
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07/6/2(土) 津之郷の道標 | |
07/6/2(土) 津之郷の道標 | |
07/9/1(土) 道標は取外され古い店の中に 納まっていました。 御影石の上にはペリカン便広告ありました。 トラックに当てられ移動 危ない |
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津の郷の一本松 昭和60年松喰虫 枯れた 街道は生活道路 バス路線・車の通行多い |
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山手一里塚跡 大きな榎です。
備後尾道より4里、備中板倉より13里 |
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太閤屋敷跡
文禄元年(1592)秀吉が |
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曹洞宗 三宝寺
山手銀山城主杉原氏の菩提寺。 |
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泉学区フラワーロード三本松
芦田川の土手の下 バラの花壇あります |
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「三本松」バス停
対岸の堤防の向うに 左の山は「石鎚山61.9m」 |
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福山市郷分町
郷分土手 芦田川沿いの西の堤防バス路線 |
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二本松に地蔵さん | |
郷分八幡神社 | |
芦田川郷分側 芦田川大渡し
渡船の安全のため |
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福山市中津原
屋号は塚本さん。 |
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福山市中津原
「右ハ尾道」道標 中津原一里塚跡の角にあったが 屋号は塚本さん。 |
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福山市中津原
中津原一里塚跡 水準点ありますが 何の目印ありません。 備後尾道より五里・備中板倉より十二里 |
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新ホロコースト記念館 2007年9月30日の開館 〒720-0004 福山市御幸町中津原815 |
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アンネのバラ園 | |
「アンネ・フランクの形見のバラ」が 植えられてました |
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砂堰(砂土手)三尺の石柱
水野勝成は城下町を洪水 から守るため芦田川を 中津原で直角に曲げ 北岸に乗越え堤 (52間まるで切り取ったように土手を築きませんでした。) 洪水の氾濫に備えて水を中津原に溢れさせ,下流の城下 町を救う構造とした。 郷分以南福山の町を洪水から守っ ていた水位が何mに達すると下流部が危険となるので砂 土手を切って低地に流す。御幸一帯は泥海となって下流 部を救っていた、郷分以南では早く切ろうと中津原森脇下 岩成は切らすまいとして対峙すること度々であった。砂堰 中央に石柱を埋め立てて水位を計って切り崩すしていたの である。水のひいた後 森脇の人達は元通り砂堰を築く土 砂運び毎年毎回繰り返していたその苦労は察するに余り ある |
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逆井手(さかいで)の門樋石(もんぴせき) | 安永2(1773)年の年号が刻してある石柱 |
鶴が橋は高屋川に架かる
出雲大社道の道標 ブラタモリ 放送日:2015年8月22日(土) #15 出雲 〜出雲は なぜ日本有数の観光地となった?〜 旅の舞台は島根県出雲市。縁結びで知られる 出雲大社には、 年間800万以上の参拝客が訪れます。 今や、一大観光地となった出雲ですが、 その名が全国に知られるようになったのは、 実は江戸時代も中ごろのこと。 「出雲が日本有数の観光地になった理由」をテーマに、 出雲大社と出雲の町の秘密にタモリさんが迫ります。 老舗の蕎麦店と庄屋の屋敷に残るお宝とは? 日本で3つしかないという国の重要文化財の駅舎 にタモリさん感激! |
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横尾の町 | |
鶴が橋から高屋川
こんもりした山は片山 かつて |
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福山藩の分かれ道 千田街道 |
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石塔群 |
秋の花など 実りの秋です 思い出写真特集
彼岸花を見ながら歩く | |
稲は実り頭をたれていました
綺麗なピンクの花 |
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コスモスの花 | |
名前? | |
柿はもう少しです | |
クワイ畑 漢字では「慈姑」と書く。 種球の周囲に地下茎が出て、 その先端に芋のつく状態が、 慈悲深いしゅうとめが乳を与えているのに似ている ことから、そう名付けられたといわれているそうだ。 福山市はクワイの生産量が日本一 丸いものから芽が出ることから 縁起物として、一年の一番おめでたい時に、 おせち料理に使われ、食べられるようになった。 単価的、収益が良いなどの理由から、 |