西国街道を行く 赤坂〜今津〜東尾道まで 2005/5/22(日)
降水確率50% 午後70% 天候は雨シトシト 傘とカッパで歩きました。
05/6/9 散策ルート地図作成しました。地図作成備忘録
●街道見どころ案内 松永〜「塩」のまちから「はきもの」のまち
福山藩を豊かにした松永塩田は藩士本庄重政が寛文7年(1667)に7年の歳月かけて完成した。松永湾東部に村が出来、村人は本庄村と呼ぶようになったが重政は「松寿永年」というめでたい言葉があるので「松永村」と命名し幕府に届けました。JR松永駅南口に本庄重政の銅像が建っています。塩業の近代化と外国塩の輸入に押され、昭和30年代、塩田の歴史は幕を閉じました。跡地は埋め立てられ住宅地や商店街が建ち並んでいます。塩田に海水を引き入れるクリーク(入り川)は塩田廃止後も下駄の原木を運ぶ輸送路の役目を果たした。浸水対策としてよみがえり周辺に遊歩道が整備されている。JR山陽本線の南側が松永町で中心部は松永に移り、今津は街道沿いの賑わいを失った。今津町等七か町村と合併して昭和29年松永市となり、昭和41年松永市は福山市と合併した。 | ||||
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高須八幡神社 国道2号線今宮西の信号過ぎて右手高台にある。 常夜燈と鳥居を見上げる。 |
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真田橋 藤井川に架かる真田橋が市境である。尾道市高須町から福山市高西町川尻になります。ここから本郷川に架かる吾妻橋まで今津宿の中心に入ります。
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陰陽石神社 街道筋の北側にあります。 普段は陰陽石を見ること出来ないが、 見ること出来ました。
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陰陽石、井戸の中に収まっていました。神霊水効能書きありました。備陽六郡志に「街道より北、田の中にあり。陰石は西にありて、陽石東の方に相臨めり。天地自然の造物、本朝無類の名石なり」とある。
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真言宗 蓮華寺(今津脇本陣跡) 剣大明神の別当寺とし、庄屋河本家の檀那寺でもあった。そうした事から河本家が本陣、蓮華寺が脇本陣の役目をはたしていたものらしい。 |
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高諸(たかもろ)神社 新羅(しらぎ)王子伝説の地。素戔鳴尊と剣比古神(つるぎひこのみこと)を祀り剣大明神とも言います。 松永湾に浮かぶ小島で、手前の池には雁木がある。 満ち潮に参拝し、引き潮で帰る「潮間の市」と呼ばれた。本殿の周りにはかつての海岸を示す大きな岩が重なっている。 |
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今津宿と今津本陣跡 本郷川の東詰めには宿場を防衛するため「鉤辻の道」名残りがあります。今津に宿が設けられたのは江戸初期の慶長7年(1602)の頃庄屋河本家が本陣を営んだ。明治4年の農民一揆で焼き払われ、表門と塀、石垣だけ残っている。 表門は「馬乗り門」と言われた。乗馬のまま乗り込むところからその名がついた。 塩田で今津宿と福山藩に富をもたらしました。「今津に嫁にやれば杖一本で養うてもらえる」と伝えられほど繁昌したという。 |
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真言宗 薬師寺 坂を登ると山門があります、山門は修復中でした。 東方院とも呼ばれ、弘法大師により大同2年(807年)蓮華寺と共に創建された。 |
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芭蕉の句碑が境内にあります。 「今日ばかり ひとも年よれ はつしぐれ」 |
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今津一里塚跡 「備後尾道より2里、備中板倉より15里」 今津町五丁目、何の標識もなく記憶から消えようとしている。郷土史研究家がつきとめられ、明治時代の地籍図に官有地として記載されていた。 |
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神村八幡神社 伝承 石井家が神辺城主であった頃、八重という美しい側室がおり、八重屋敷を設けて住まわせた。そのうちに城主の御成りも遠のき、やがて八重は山伏と人目を忍ぶ仲となった。城主にその事を知られ、八重は蛇を入れた樽に詰められ、蓋の穴から首だけ出して田谷橋の橋詰に晒され、通行人に竹鋸で首を挽かれた。深夜、山伏が忍んで行った時はには既に事切れており、滴り落ちる八重の鮮血を法螺貝に受け、城主に崇あれと吹いた。すると八重屋敷は怪火で焼け、城主は悪夢に悩まされ、遂に乱心したという。後に八重の霊を鎮めるため八重明神の祠を建てたという。
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馬頭観音堂 |
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今伊勢宮 沼隈郡神村(かむら)にあります。行程記には賀村。応永33年(1426年)鎮座。 南側の鏡山に向う参道は国道2号線・JR山陽本線を横切って、石段の上に内宮さらに外宮があります。 |
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金毘羅大権現の常夜燈 農耕の神として大きくて立派なものです。 |
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赤坂一里塚跡 今津一里塚跡と同じく、何の目印もない。 明治の地図に塚木(榎)を示し、古老からの話しで分かる。 |
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石の曼荼羅 駐車場の奥にあります。高さ2m半・長さ横4m 円形に彫り中央に凡字によって、密教の金剛界曼荼羅五佛を種子(しゅじ)配しているが判読できない。 |
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スベリ岩一号古墳 赤坂から津之郷にかけて古墳が多い。 |