大宮遺跡  広島県福山市神辺町新湯野 大宮公園横 2004/5/16(土)  

 

弥生時代の環濠(かんごう)集落跡。弥生時代前期〜中期(西暦前300年〜西暦後100年)  

神辺平野の水田地帯の微高地に立地する弥生時代全般にわたる集落跡。

遺跡は、亀山遺跡などとともに弥生時代前期〜中期前半の環濠集落として有名で、
三重の濠がめぐらされている。

最初に形成された環濠がいったん広がった後 縮小したことが分かる。
長円形 年代順80m・130m・100mくらい。

大宮遺跡では、濠のなかに堆積した土の様子から、

最も内側の環濠の内側に土塁が存在していたことが推定されている。

濠の周辺から見つかる

稲刈りに使われた流紋岩製の石包丁
へらで模様がつけられたつぼ
狩猟に使われたヤジリ
石斧

                               
           

米つくりが本格的に開始された弥生時代は、
環濠集落とよばれる少し変わった形の集落が生み出された時代でもあります。

まわりに濠や土塁・木の柵などめぐらせた集落の形は、
土地の所有権や物資の流通などをめぐって人々の対立や抗争が激しくなった
弥生時代のを象徴する集落の形と考えられています。
広島県内では、神辺町の大宮遺跡や亀山遺跡が環濠集落として有名ですが、
最近、亀山遺跡では濠の外側に土塁が見つかり注目されました。
東広島の助平2号遺跡B区や今年調査された神辺町の御領遺跡などもあります。

調査経過

1937(昭和12)年頃  高垣敏男氏が備後国府=方八丁説を唱える
1940(昭和15)年  大坪川(現在の深水川)の改修工事で、
A地点から多量の土器・石器が出土したことから、
高垣氏が=備後国総社説を発表する
1973(昭和48)年  湯野土地区画整理組合が設立され、
湯野地区で区画整理が始まる 
1974(昭和49)年  広島県文化財専門委員会が神辺町で開かれ、
区画整理に伴い高垣氏の唱える「伝備後国府跡」
の取り扱いが協議される神辺町教育委員会により、
「伝備後国府跡」の確認調査が行われが、
国府に関する遺構は発見されなかった
1975(昭和50)年  大宮遺跡A地点で区画街路の工事中に多量の弥生土器
が発見されたことから、深水川と堂々川に囲まれた地域
(約52ha)が大宮遺跡として線引きされる。
環濠遺跡発見の端緒
1977(昭和52)年〜
1981(昭和56)年
大宮遺跡で確認調査が実施され、A・B・Cの3地点(約4.7ha)
に集落が存在し、A地点で弥生時代前期〜中期にかけての
環濠集落が存在することが確認される 
1984(昭和59)年  国道486号敷地に伴い事前調査(3,800m2)が行われ、
全国的にも珍しい古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)
の豪族居館跡が発見される。
1985(昭和60)年〜
現在
A・B・Cの3地点で、民間開発事業に伴う事前調査(約1ha)
の調査が神辺町教育委員会によって行われる

大宮遺跡発掘調査 現地説明会が3回(10時・13時・15時)行われた。
Mさん夫婦とバッタリ会いました。

『現地説明会資料からまとめ』 

環濠(かんごう)

外敵から村を守るため集落を堀で囲んだ防衛施設。弥生時代に朝鮮半島から稲作
とともに日本にもたらされたとされる。
炭や灰などを多く含んだ層があり、廃棄物処理場としての機能もあったとみられる。

土器片など 
土器

へらで模様がつけられたつぼ  

  石斧

稲刈りに使われた流紋岩製の石包丁
当時の稲が実る順番に穂だけを刈るために
作られた穂摘み具。ほぼ同系のものが中国
でも朝鮮半島でも見つかっていることから
稲作農耕の技術の一部として伝わり
弥生時代後期まで使われていたようです。

狩猟に使われたヤジリ
 

長円形 年代順 2番目(130m)の濠跡の一部

年代順 1番目は長円形80mで大宮公園内

 2番目の濠跡に土器片
   年代順 3番目は長円形(100m)の濠跡
 3番目の濠に土器片
   防衛に利用 自然河川跡 


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