2007 茶山祭2007/11/3(土) 広島県福山市神辺町川北(山陽道の三日市〜七日市)

菅茶山(かん ちゃざん)は、
江戸時代後期の儒学者・漢詩人。名は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中(たちゅう)。幼名は喜太郎、百助。
備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。

経歴
延享5年(1748)2月2日、神辺東本陣を勤めた菅波樗平の長男として生まれる。
茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、
神辺(お酒の燗と鍋)に酒飲む人は多いけれど、本読む人はちろり(酒燗をする器・ちっとも)ともなし
皮肉った菅茶山賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、
19歳の時京都の那波魯堂(なばろどう)らに儒学を学び、故郷に帰り、1781年(天明元年)34歳の時、
神辺(現在の福山市)に私塾「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」(後の「廉塾」を開いた。

皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。
塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾(れんじゅく)と名が改められた。
茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。
文化・文政期(1804-1829)の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。
当時「当世随一の詩人」と称され、その後の詩風を一変させたと言われています。
その詩文集『黄葉夕陽村舎詩』は、当時ベストセラーとなり、多くの文人墨客の来訪をうながしました。

文政10年(1827)8月13日、80歳で病没し、川北村網付谷に葬られました。

廉塾の門人には、頼山陽(らいさんよう)・北条霞亭(かてい)などがいる。


神辺高校の校庭に駐車しました。
菅茶山墓前際 午前10時から11時

茶山墓所 吉野山公園の麓にあります
墓所は神辺川北 網付谷(あみつけたに)

左にある
菅茶山の墓は広島県史跡に指定 昭和15年(1940)

 

廉塾茶山ポエム祭り 午前11時から15時まで

神辺町川北七日市

 「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は
昭和28年(1953)に国の特別史跡に指定された。
廉塾 菜園と寮舎
模擬店

郷土料理 うずみ

模擬店

コーヒー・ソフトクリームなど食券を買って食べます

 

マツタケが2枚入っていました

備後神辺 郷土料理「うずみ」 300円
しょう油味の汁に、小えび、鶏肉、マツタケ、ごぼう、にんじん、
などを入れ、炊きたての新米をのせて食べるもので、
1619年(元和5)、神辺城主水野勝成が倹約政治を敷き、
ぜいたく品とされた鶏肉、えびなどを食べるため、
庶民が具をご飯で隠したのが始まりとされ、
福山、府中市、新市町などにも伝わったとされています。

茶山を偲ぶ 絵画展・絵手紙展
廉塾 入口

絵手紙展

 

アトラクション 13時から14時 特設ステージ

神辺高校吹奏楽部

アトラクション

笠踊り

養魚池
廉塾 菜園
廉塾 公開
菅茶山旧宅
玄関 

「茶山の像」 「墓所の写真」 展示。

講堂内部  公開

「茶山の像」 「墓所の写真」 展示。

 

屋敷内を流れる用水路の北側にあって、
3室20畳が細長く続いています

講堂内部

福山藩を中心に、北は奥羽、南は九州から、常時10人〜30人
あまりの塾生が、藩の枠や身分を越えて集まり、
2〜3年にわたって学んでいました。

茶山とともに藤井暮庵(ぼあん)、頼山陽(らいさんよう)、
北条霞亭(かてい)ら都講(塾頭)による四書五経を中心とした
講釈がなされていました。

お茶席・詩吟など

筆洗場

竹と板を組み合せた濡れぶち

ザクロと生花の飾り

菅茶山記念館
菅茶山 銅像
塾生は筆や硯を洗ったといわれる 筆洗場

イメージして作られた池に睡蓮の花

是より西九州道
是より南ふく山道
「是より東上方道」

中国行程記に記されている

茶山の直筆の道標 移設され記念館にあります

 

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