備中玉島港 散策    岡山県倉敷市玉島中央町 2004/2/3(火)

高瀬舟のたまりもあるし、北前船も帆を休める。江戸時代、玉島港は高梁川と運河で結ばれ、
備中松山藩の外港として重要な役割を担っていた。

蔵屋敷が並び、問屋が軒を連ね、仲買人の町もあった。良寛が約18年間修行した有名な円通寺があります。

「玉島町並み保存地区」  新町・仲買町・矢出町 見て歩きました。

イラクに派遣される陸上自衛隊本隊が出発した日。
「・・・武士道の国の自衛官の意気・・・」  日の丸に振られ・・・。  歴史は繰り返す。物分りが良すぎる日本人。

JR新倉敷駅構内にある 千石船

千石船と玉島


(兵庫県室津港)は東に、赤間(山口県下関港)は西、
玉島港はまん中に
江戸中期(1700頃)瀬戸内屈指の商港として
繁栄した玉島港は北国の物資を満載し日本海を廻って入港した
千石船(北前船)で賑わった。これによって富をもたらした玉島の地
に文化の花が開き自然の勝景と相まって文人墨客来遊多くまた
茶道も盛んになり封建制の厳しかった当時においても物資の流通
がたやすく出来る港あったことにより、備中玉島の名は広く各地に
しれわたった。正式には弁才船と呼ばれたものであるが、一般には
千石船 北前船の名称がよく知られ三百石から千五百石の積荷を
運ぶ船の総称でもある。  

 玉島歴史民俗海洋資料館にある千石船
羽黒山(阿弥陀山)から望む新町通り

通りの先は緑に包まれた柏島

良寛ゆかりの円通寺の屋根が見える。

源平水島古戦場跡
1183年(寿永2年)現在の玉島大橋をはさんで乙島に源氏
柏島には平家が陣をかまえ、玉島港を舞台に壮烈な戦い
を演じました。平家最後の勝ち戦さとして知られています。  

旧高瀬通しの終点玉島舟だまり跡松山藩主水谷候が 玉島 阿賀崎
新田を開拓した万治 寛文 延宝にかけての約三百三十年前 高梁川
の水を入れた灌漑 水運両用の高瀬通しが 船穂町水江の堅盤谷から
糸崎 七島を経て 玉島舟だまりまで91粁 巾3.7米〜8.5米まで開通された
一ノ口水門から二ノ口水門へ水を入れた閘門式運河でパナマ運河に先ん
ずること二百四十年前であった 高瀬舟は下りは水棹を用ひ 上りは曳子が
引いて通過した 下り舟には 米 大豆 茶 薪炭 煙草 漆 和紙 鉄 綿 
べんがらなど 上り舟には北海道にしん粕 千鰯 昆布 種粕 雑貨など
積まれた 港の北前船と並んで 江戸期の玉島繁栄の基となった 荷を積み
下ろす舟だまりは 羽黒山東側のこのあたり約十アールの水域であった 
羽黒山北側に延びる水路は新町裏側に通じ 阿弥陀水門から舟は港に出た
明治になってからは港町に地下トンネルが出来 舟はそこからも港に出た 
昭和になって高瀬通しはその機能を失い 道路となり家並みが建ち現代に
至った

 
 かつての高瀬通し 道路となる
 阿弥陀水門の石柱


玉島歴史民俗海洋資料館の駐車場にある石柱は、阿賀崎新田の開発のため
に構築された新町堤防の東端にあった水門の柱です。この水門は、羽黒山が
阿弥陀山と呼ばれていたことからその名がつけられたのでしょう。 
水門が不用
になり、石柱は横倒しの状態で地下に埋もれていましたが、平成3年2月5日、
下水道工事のため掘り出され、再びわたしたちの前に姿を現しました。

   羽黒神社

小学生達清掃していました。

向三宅邸


天保三年(1832)建造の家屋で米屋の分家として作られた。それまで 
この町筋の海側には全く民家は無く二百棟を超える土蔵群が軒を連ね
ていた。  

  旧新町問屋街 案内


寛文十年(1670)松山藩主 水谷候によって 阿賀崎新田新町堤防の汐止
工事が完了し阿賀崎村が独立して堤防上に徐々に問屋が殖え港町が形成
され天領になった元禄の最盛期には東綿屋 大国屋 西綿屋 米屋 
西国屋 関屋など43軒の問屋が軒を並べもたえの港が大いに繁昌した、
問屋
が仲買人を通じて取引した主な商品は北前船による北海道からのにしん粕 
ほしかこれを肥料に必要とした産地からの備中綿であった。新町問屋街の
東西には総門があり海側には船着場と 土蔵の倉庫群が建ち夜は門を閉じて
夜警が廻り町を防護した。ここに建つ元西国屋の土蔵は内側がなまこ壁で
北前船で賑わった当時の繁栄を偲ぶよすがとして永く保存さるべく数少ない
歴史的建造物である、港は明治になってこれまでの賑わいを失ったが豊かな
文化的遺産を残した、この倉は現所有者中野開一氏によって蔵の中コンサート
など有意義な文化活動に開放されている。  

   久米屋


江戸時代中期(1800年頃)の建物で廻船問屋として活躍し備中綿を主に扱い
西廻り航路で北海道の昆布、にしん粕を運び蔵の南側にある玉島港の岸壁
から荷上げをしました  新町ルネッサンス振興会
玉島と綿作
綿は他の作物にくらべて塩分に強いため、干拓当初でも作付けができる作物
です。江戸時代はじめ頃から栽培が盛んになり、玉島港で取り引きされた商品
の中で最も重要な品物でした。

綿花は織物の原料として、また種子は油を絞る原料として利用されました。

仲買町

室屋(越前屋跡)(助太夫)


越前屋は江戸中期 万治二年(1659)玉島港東浜にて開店のちに西浜の
この地に移住明和二年(1765)まで営業しその後むろ屋により引継がれ
明治初年より今日まで紙問屋として当時の建築を今に伝えている  

中国観音霊場 第七番札所

補陀洛山 円通寺 (ふだらくさん えんつうじ)曹洞宗

良寛は安永8年(1779)から足かけ17年この寺で過ごした  

円通寺公園からの眺望

源平水島古戦場跡
1183年(寿永2年)現在の玉島大橋をはさんで乙島に源氏柏島には平家
が陣をかまえ、玉島港を舞台に壮烈な戦いを演じました。平家最後の勝ち
戦さとして知られています。

玉島火力発電所

水島コンビナート  

川崎みなと公園

玉島港にあった常夜灯

 
矢出町

西爽亭(さいそうてい)・・・旧柚木家

 

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