大津野学区健康づくり 中級コース/体育コース/シルバーコース
 
2007/7/5(木)・7/7(土)・7/15(日) 広島県福山市大門町

行程:距離7.5km
龍王社→辻の堂→八幡神社→銀河学園→大津野保育所→春日神社→潮崎神社→

厳島神社→三角公園→賀茂神社→辻の堂

大門町(旧大津野村)は広島県の東南端に位置し、岡山県笠岡市と隣接し、広島県の東の入口にあたる。

文禄4(1595)年豊臣秀吉が諸国の検地を行い、国、郡、村の3等級に分け、地方行政の基本としたとき、深安郡の村域、
村名が定められ、当時大津野村は大門村、津之下村、野々浜村の3ヶ村に分かれ、深安郡に属した。

明治22年:門村、之下村、々浜村の3ヶ村が合併し、その頭文字をとって大津野村と称した。

昭和30年:大津野村、春日村、坪生村の3ヶ村が合併し、深安町が発足、昭和36年深安町と福山市が合併、
福山市大門町となる(幕山、大谷両町内会が昭和53年大門町より分離)

旧大津野地区は江戸時代以前は東、西、北の三方は山に囲まれ、南は海に面している。海は奥深く湾入していて、
今日の東谷にある真明寺下あたりまで海であり、丘陵地帯がそのほとんどを占め平野の少なかったが、
江戸期に入ると水野、阿部両大名による干拓事業が行われ、田が増加した。

瀬戸内気候の典型で、夏は高温で湿度高く、冬は比較的温暖だが、雨量は極度に少ない。
年平均1000mm程度の降水量で、幕末ころから塩田が創設された。

燧灘から打ち寄せる潮は、左手に牛の首、右手に防路の鼻を見て大津野湾に入り、鶴島と亀島の磯を洗い、

郷頭山、明知山、烏帽子山を臨み、大門貝塚の磯まで豊かな海の幸を運んでくれ、山は緑におおわれ、
多くの山の幸を与えてくれた。烏帽子山の山裾には割れ目に太い根をはる海岸特有の姥女樫の老大木が見える。

地名では、舟かくし、浜、浜のお堂、帆出の渡し、月の浜、横津、津之下、南浜、北浜、沖、浜などが残っている。





白石島・北木島・真鍋島と南北に一列に並ぶ列島、西側の鞆を起点に仙酔島・走島・宇治島が南に並ぶ。

その中間に大飛島・小飛島・六島・三崎半島にと列をなす島々、この中央の島の線と大門湾を結ぶ南北の線が、
瀬戸内海の潮の干満の分岐線なのである。

この潮にの流れに乗って航海した原始時代、そして中世近世にいたっても、当時の航路が中国地方、
山陽よりにとられる場合に、九州方面から上げ潮に乗って航海する船が、ぴたりと止まるのは福山湾内であり、
京の都から同じように上げ潮に乗って下る船も、笠岡沖に達するとぴたりと止まってしまう。

ここに一泊して、やがて分岐線を越え、引き潮を待って東西に上り下りして行かねばならなかった。

九州方面から上ってくる大陸文化を運び、近畿から下る中央文化を伝えて、
福山湾岸に文化の花をさかせたのも当然なことである。

津之下・深津・奈良津・吉津・鞆津と船の出入の港を名乗る津の地名が多く存在する。

龍王社から初日

龍王社

むかし雨乞いの祈りを捧げたところ
ここからの眺めは素晴らしい

辻の堂

笠岡街道沿いにあります
桜がきれいに咲きます

大津野小学校

明治4年啓蒙所が設置
明治6年剛山小学校
明治9年大門小学校と改称
明治24年深安郡大津野村立大津野尋常小学校と改称
明治41年大津野尋常高等小学校
昭和16年大津野国民学校と改称
昭和22年大津野村立大津野小学校と改称
昭和30年深安郡深安町大津野小学校と改称

上之坊

天文3(1534)建立

神原酒造

 

蓮池・神原酒造・上之坊

正面の山が枝広城跡

浜の堂

大門のほぼ中心の笠岡街道沿いにある

昔は四つ堂があった

惣堂神社

烏帽子山東小丘にある

境内に古松繁茂して

この松に船を繋いだと伝えられる

 

八幡神社

烏帽子山城跡

銀河学園

小学校を建設中でした

大津野保育所

園舎新築中、近くに仮園舎あります

仲富池

桜の名所

春日神社

亀島にあります

大津野湾

魚釣りここから船に乗ります

内海

スッポンが捕れた

 

潮崎神社
厳島神社

鶴島にあります

三角公園(大津野石樋公園)
賀茂神社

 

健康づくり 体育コース  07/7/7(土)七夕

比和山峠の北向地蔵さん
英数学館


光円寺

海雲山浄土宗大谷派末寺。

光円寺の庭園

元禄時代の作庭

樋の上・亀島・鶴島を見る

津之下からの眺望

2007/12/31
樋の上からの展望


亀島・皿山・津之下を見る

 

07/7/15(日)台風4号 通過した翌日

健康づくり シルバーコース

昭和43年7月
皿山展望台より皇太子殿下
NKKを視察される

瀬戸内海の眺望素晴らしい
写真撮影禁止場所。

グランド サッカー・陸上

左の丘には皿山展望台

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