「JR糸崎駅〜備後・安芸の国境碑」西国街道を歩く 05/2/13(日) 2013/2/10(日)
最終日の神明市を視察
「バレンタイン・デー」の前日。、「友チョコ」を頂きました。
三連休の最終日。妙正寺の境内には 白梅・紅梅がきれいに咲いていました。
今年は杉の花粉発生多い予想、宗光寺の杉の木 実はパンパンに大きかった。花粉症の人 大変です。
午前中は薄曇り 昼から日が出て暖かい 顔がほんのりと焼けました。
土産:タコボール、ちくわ。
神明市
備後路に春を告げる祭り。だるまや植木、食べ物の露店が並ぶ約2kmの沿道。
東町一帯に九つの神明をまつってこれを順に参拝すれば伊勢神宮に参拝したと同じ御利益を得るものといわれ、
殿様をはじめ、芸予・安芸の島々や奥地から人が多数集まり、それが初市として1年間の相場がここで決められた程、
盛んな市場まつりが行われていました。
行程
JR糸崎駅――東惣門跡――熊野神社――極楽寺――松寿寺――観音寺――東町(神明市)
――善教寺――本陣跡――三原城址――妙正寺――大島神社――峠の地蔵――宗光寺
――大善寺――順勝寺――西宮八幡神社――法常寺――備後・安芸の国境碑――JR三原駅
(総行程 8km)
JR糸崎駅 集合
東惣門跡 旭町の大師堂 |
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神明本殿 | |
2013年 8年振りに行きました。 伊勢神宮に参拝したと同じ御利益を 得るものといわれ |
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神明 翁の面をかぶった人形 開運の御利益。 翁形の祭神を祀り、防災の神である 道祖神に因む大市場祭などを総合する 形態をそのまま伝承しており、わが国の 民族資料としても貴重な注目すべく祭事。 |
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熊野神社/籠恕(かごぬ)神社 元和5年(1619)10月、和歌山新宮城主浅野氏 が熊野灘の荒波にきたえられた熊野水軍をひ きつれ三原城へ入城したとき、熊野水軍が崇拝 していた熊野新宮をこの地にまつったものです。 米田山の麓に住みました。神明市の美味しい匂い 呼び声 聞こえてきます。 |
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極楽寺(浄土宗)本堂(広島県重要文化財) 嘉禎3年(1237)本郷町船木字川西の極楽谷へ、 浄土宗第3祖良忠上人布教の際、阿弥陀仏を 彫刻され開山されました。それから約350年後の 三原城築城の時、糸崎神社裏糸崎谷に移築され、 そして又、城下整備の一環として寛文年間 (1661〜72)城主浅野家の家臣によって現在地に 再度移されました。 |
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福ダルマ
願い事をペタリ貼ってありました。 |
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山門(市重要文化財)
高山城の裏門を移築したものと伝えられ、三原城築城 |
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極楽寺住職が収集した約1000個、達磨コレクター 青山昭美さんのコレクション6000個の寄贈を受け、 開設した。昨年完成した青山コレクション達磨 記念堂も祭りに合わせて、所蔵する全国のだるま 約7000体を特別公開。張り子のほか、土鈴や石造り など大小さまざまなダルマありました。 |
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三原だるま
「願いがなるように」と鳴り物の小石を入れ、 |
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松寿寺(曹洞宗)三原城築城以前の貞治4年 (1365)本町成就寺の後方に創立されましたが、 浅野城主3代忠真の時、妙正寺建立に伴い 寛文9年(1669)来迎寺があったこの地に移された。 隠れキリシタン信仰したキリシタン灯籠ありました 三原城築城以前からあった三原一の長い歴史。 童歌「三原の寺は数々あれど古きが一の松寿寺」 |
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観音寺(時宗) ヤッサ踊りの原形は時宗の念仏踊り 知りませんでした。 |
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神明市東町一帯に九つの神明をまつってこれを順に 参拝すれば伊勢神宮に参拝したと同じ御利益を得るもの といわれ、殿様をはじめ、芸予・安芸の島々や奥地から 人が多数集まり、それが初市として1年間の相場がここで 決められた程、盛んな市場まつりが行われていました。 備後路に春を告げる祭り。だるまや植木、食べ物の露店 が並ぶ約2kmの沿道。「だるま市」とも呼ばれる。家内 安全や商売繁盛を願い、なじみの店で毎年だるまを買い 替える客も多い。 |
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2013年2月10日(日) ダルマ 新しくなりました。 |
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東町
横山大観 愛飲の酒 |
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本陣跡 酒造りを業とする山科屋(現在の富田酒店付近) を本陣としました。現在、わずかばかりの白壁と床下に人 が忍びこめないように作られた密室が当時の面影をとどめ ているのみです。和久原川に神明大橋 館町に入ります。 |
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東町と館町の境にある神明大橋に立って北をみると、 和久原川の左右の土手(道路)の高さが違っているの がはっきりとわかる。西側が高くて、東側が低い。 これは、川があふれたとき水を西の城内に入れず、 東町に向けるためである。そして、水刎の建設もその 意図があった。また、人工的に東町側の土手の石垣を 切るようなしくみも造られていたようだ。士農工商の名残 り跡です。 |
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和久原川水刎(館町) 川岸から川中に向けて三角形に石垣を築き出し、川の流れを弱める役と、 流れの方向を変えて三原城の「東築出」の用地を確保する為に造られた石積みと 考えられます。流水の強く当たる所の大石には、それぞれに穴を開け、鉄棒を通 して連結してあるそうです。このような特技を持った三原石工は、愛知県の宇和島 に呼ばれ、その土地の干拓工事に手腕を発揮しましたが、その優れた技術の故に、 かえって妬まれ、非業の最期を遂げました。これを哀れみ、その供養の盆踊りが 彼の地に残っている由「白松克太三原昔話」。現在水刎は和久原川西岸の東大橋の 川上に一ヶ所、川下に五ヶ所、上流の清水橋の川下にも二ヶ所残っております。 三原志稿には延宝八年(1680年)水刎、塵除を設けるとの記事が見えますが、 これは河原谷川の事かとも解されます。 尚 三次市の浅野堤にも刎が造られていました。 |
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三角形の石垣「水刎(みずはね)」は川の流れ変えて 備後国・福山藩 芦田川の中津原で直角に曲がった場所 |
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館町 九つの神明の一つです。 |
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2013年2月10日 舘町 神明 恋みくじ 健康おみくじ 万福みくじ 幸せ鈴御守 吉兆縁起達磨 |
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三原の銘酒 横山大観 終生愛飲した 昼食は 三原ステーションホテル 2F「きらく」 日替わり定食と生ビール。三原は「タコ」の産地。 タコ料理は「刺身」「天ぷら」「煮物」「酢の物」 「しゃぶしゃぶ」「タコ飯」 |
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三原 他藩から羨ましがられました。 過ぎたるものが三つある それは三万石にはふさわしからぬ大きな城 にっぽん縦断 こころ旅 2017年春の旅 615日目 4月14日(金)放送 久井(くい)の岩海(がんかい) ここから手紙を読み出発。 |
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妙正寺(日蓮宗)三原城主浅野家の菩提寺として、 延宝2年(1674)東町の米田山の麓に建てられました。 当時の山陽道から墓が下に見えるという理由により、 わずか20年ばかりで現在の本町の地に移されました。 当時敵が占拠した場合戦略上不利になると反対があった ほど城と城下を眼下におさめられる要所で、筆影山・ 佐木島などの島々から遠く四国連山まで見える眺望 絶景の地です。 |
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銅鍾
朝鮮式の鐘は天正四年に造られた。 謂われ解説聞きました |
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三原浅野家藩主の菩提寺 | |
大島神社 三原城は大島、小島をつないで作りましたが、 その大島(天主台の位置)にすでにあった 大島稲荷をお城の鎮守としました。 山陽新幹線の窓からも見える朱色に連なる鳥居…。 2020年11月22日 鳥居増えた ずらり67基 参道に連なる鳥居の朱色は華やかで、インスタ映えしそうだ。 事業費は約2200万円 |
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峠の地蔵
NHK大河ドラマ |
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本町
宗光寺(曹洞宗)天正5年(1577)小早川隆景が親の 毛利元就夫婦を弔うため高山城内に建てたものですが、 (雲門山巨^寺)三原城築城の際、城下の西側を守る砦も 兼ね、この地に移されました。山門は小早川家代々の居城 であった本郷町新高山城の城門をここに移築したものと伝え られ、四足門の切妻造り、本瓦ぶきの桃山時代の建築 (国重要文化財)徳川家康 宿泊所小早川隆景の義兄 小早川16代 元平 菩提寺 |
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大善寺(浄土宗) 沼田の高山城の麓にあって、小早川隆景 室(慈光院月渓永知大柿)の菩提所でしたが、三原上築城に 伴い天正8年(1580)この地に移されました。三原には過ぎた るものが三つあると他藩から羨ましがられました。 @それは三万石にはふさわしからぬ大きな城、 A葵の紋所大段幕、 Bそしてすぎたる智者鈴木方衛(なみえ)という 家来がいたことでした。智者鈴木方衛(なみえ)はこの境内へ 特別に葬られています。江戸幕府より日光東照宮の修復を 誰にも出来なかった難工事を10日間で仕上げ 将軍を感嘆 させたという智者。 |
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葵の紋所大段幕大きい宝篋印塔(ほうきょういんとう)が目 |
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西町
順勝寺(浄土真宗) 山門は三原城の御作事奉行所門を移した。 頼山陽の父である頼春水の勉学の寺として知られる。 |
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西宮町
三原八幡宮/一里塚跡 |
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法常寺(曹洞宗)
竹原小早川の菩提所として竹原市新庄木村城の 西側高地に建てられ、天正20年(1592)この地に移された。 小早川隆景が死去したとき葬儀が行われ、 境内において火葬された |
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梅観橋を渡り頼兼町へ
頼山陽の祖先は小早川氏に仕え三原に住んでいた、 備後三原頼兼村から竹原に移住した。 屋号の「頼兼」から「頼」と改めた頼家
新倉町 国境の碑 備後国から安芸国 本郷へ行く人もいました。 引き返して三原駅に行きました 東広島の人と色んな話しする。 17時16分 JR三原駅発 乗車 |
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