福山城  広島県福山市   2002/10/13(日)

 

瀬戸内海のふるさと「福山」へようこそ

福山市は広島県の東南端、岡山県に接する県東部の中核都市です。福山の地名は福山城にある
常興寺山が、「蝙蝠山(こうもりやま)」とも言い「蝠」が「福」に通じることから、「福山」の名で
呼ばれるようになったと言われています。福山城の天守閣は、現在、福山城博物館となっており、また、
その西隣にはふくやま美術館広島県立歴史博物館などだが並び、多くの人が訪れます。
また、市内の南に位置する鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、古くから海上交通の
要所として栄え、多くの古寺・史跡が残る港町です。
さらに伝統漁法の「しばり網」も残っており、
瀬戸内海屈指の観光地になっています。このほか、紅葉が素晴らしい山野峡県立自然公園
本堂・五重塔が国宝に指定されている明王院、ばらの花いっぱいのばら公園など、四季を通じて
見どころがいっぱいの「瀬戸内のふるさと福山」です。
福山城と城下町

水野家70年間に随分水田が開発された。備後領内十五万三千石(十万石から)。
治水工事を施して田畑の増大を図っています、その一人は神谷治部で土木水道工事の手腕をふるっています。
芦田川の改修工事 現在の如く山寄せに一直線として中津原から大曲がりに南下する川に直したのも彼の指図
で行ったといわれています。

日本で二番目に水道ができた 本庄二股で上井手と下井手に分けた。
全国で水道を設けている城下町はほとんどなく江戸の神田上水道に次いで日本で二番目に水道ができた。




福山城は、1622年(元和8年)に藩主水野勝成が築城しました。福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山
朱雀院
(すじゃくいん)久松城、またの名を葦陽(いよう)とも言います。福山城より南には芦田川が
形成した三角州が広がり、現在の市街地の中心部は、葦の茂る干潟だったようです。水野勝成は、
この干潟を干拓し城下町として整備しました。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、
すぐ近くまで船が来ました。現在、入江はなくなりましたが、船町・入船町・天下橋などの地名に当時を
しのぶことができます。

鉄覆山(てっぷくさん):天守閣の北は鉄で覆われている。
朱雀院(しゅじゃくいん):南の守護神
久松城(ひさまつじょう):「松寿長久」(しょうじゅちょうきゅう)久しく栄える城

鉄の守りをかため朱雀南方を制し久松は松寿長久の意をこめて名づける

歴代藩主
初代 水野 勝成(1619〜1639)   永禄7年(1564) 
                     三河国(愛知県)の城主水野忠重の長男として生まれた。
                     徳川家康は従兄弟にあたる。
                     慶安4年(1651)88歳で没し菩提寺である賢忠寺に葬られた。
2代      勝俊(1639〜1655)
3代      勝貞(1655〜1662)
4代      勝種(1662〜1697)
5代      勝岑(1697〜1698)

初代 松平 忠雅(1700〜1710)

初代 阿部 正邦(1711〜1715)
2代      正福(1716〜1748)
3代      正右(1749〜1769)
4代      正倫(1770〜1803)
5代      正精(1804〜1826)
6代      正寧(1827〜1836)
7代      正弘(1837〜1857)
8代      正教(1858〜1861)
9代      正方(1862〜1868)
10代      正垣(1869〜

2002年度秋季特別展「水野氏五代展」―築城380周年記念―

福山城博物館へ行きました。

福山藩の国境 訪ね歩き       城下町を水害から守る   鞆道     「久松用水」訪ね歩く

水野藩と宮本武蔵   笠岡道  尾道道・九州道  千田街道・上方へ  藪路道・石州道

幕末の福山の史跡を訪ねて    備後福山藩の干拓物語(新田開発)   城下町「福山」の旧町名を訪ねて

桜さく日本に生まれ男かな
巌谷小波(いわやさざなみ)の句碑

月見櫓南下の二の丸に建てられており、
桜満開で賑わう福山城を詠んだものです。

児童文学の大家。児童文学の開拓者
として業績を残しています

この句碑がある二の丸一帯は、そこに
屋敷を構えていた田中八九郎
(福山製紙創業者)が、大正時代に入り
桜木を植え始め市内でも有名な桜の名所
となりました。



 

 史跡 福山城跡

08/10/26(日)
福山菊花展覧会(10・25〜11・15)
子どもと一緒に久しぶりに天守閣から城下を視察

09/11/7(土)
従兄弟が来福し菊花展へ 又 当たりました。
半券を持って抽選・・小型菊を当たりました。

 

 

2002年度秋季特別展「水野氏五代展」
―築城380周年記念―

元和8年(1622)8月 3年の歳月をかけて完成。

京都・伏見城から海路・陸路を利用して建物移築
伏見三層櫓・月見櫓・御殿・御風呂屋
・大手門・渡櫓・塀180間。

福山城の本丸・・・西側の備えを最も強固にした
西側の脅威に備えた城、西側に三重櫓四、
二重櫓五の計7棟の櫓が並び上段では櫓の間は
全て堅固な渡櫓とされている。

神辺城から多くの櫓移築された。

外堀・内掘を巡らして満潮時海水を入れ 
干潮時には芦田川の水を引き入れていつも満水とした。

福島正則は土地の結びつきのない大名。
徳川氏に協力的な態度をとっていたきた福島氏も出身は豊臣秀吉の子飼いの外様です。広島城無断修築の口実のもとに元和五年(1619)改易に処せられ、信濃国川中島で四万五千石の大名として、身は高井野村に蟄居となり淋しく安芸備後を去っていきました。領地を安芸と備後に分けて、安芸と備北・備西の浅野氏、備南十万石に水野勝成を転封せしめています。
一国一城で城を壊してまでいた時に新しい福山城を建てさせることなど異例なことであります。神辺城は山陽道の上にそびえていますが、海路にほど遠く瀬戸内海の守りに不向きでした。現在の場所に新城を建てる事になるので伏見城建築の一部を移築させ年貢を援助しての大建築工事となったのです。

山陽道(神辺城)と瀬戸内海水路(鞆城)に偏っていてその両方の要地として現在の福山城が選ばれた、軍事的な要衝であった。

天守閣から東方面

 

 


安芸の浅野氏が豊臣秀吉の正室北の政所の出た家、岡山の池田が外様の雄であってみれば両大藩の間に布置された水野は
西国の鎮衙」たる任務であった。

 

 






















福山城鐘櫓


 

 

 

 

 

 

 

福山城伏見櫓 見学会 05/11/12(土)

05/11/12 北側の櫓 見学会

 南側の眺望 05/11/12
2007年5月12日(土) 福山城外堀(福山駅前)発掘調査現地説明会  
2008年4月19日(土)     同上   第2次発掘調査 現地見学会 
2009年5月10日(日) 福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る
第3次発掘調査 現地説明会
2009年10月4日(日) 福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る 第3‐2次発掘調査 現地見学会
2009年11月21日(土) 福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第4次発掘調査 現地見学会 
筋鉄御門(重要文化財)
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付、櫓門、福山城本丸
の正面で福山築城に際して、伏見城から移建した
ものといわれている。柱の角に筋鉄を施し、
扉に数十本の筋鉄をうちつけいるためその名が
生まれたものである。左に渡櫓、右に多門を連接
さしたもので、後代の枡型多門の型をとらない
初期様式のものである。
湯殿 

湯殿
 

月見櫓
黄金水
本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸に
は4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に2ヶ所あった
といわれる。城郭における井戸はその城の良否
あるいは戦闘の際の生命をささえるものとして
重用視され、この黄金水は渇水時にも水をたたえた
すばらしい井戸であった。




先人の森小丸山

明治維新 長州軍の攻撃をうけた
福山藩の動向を決した歴史的な丘である

北の防御は 弱点であった。
慶応3年正月9日の未明、
長州兵が福山城を攻撃開始。
福山藩儒で執政職に就いた
関藤藤陰(せきとうとういん)は
「大義滅親論(たいぎめっしんろん)」を唱え藩論を統一したうえで長州との和議を成立させ、福山城下を戦火から救った。
三吉町の市民図書館跡地にある「藤陰関藤先生碑」は1982年にこうした功績をたたえ建てられました。碑文は盟友だった阪谷朗廬(さかたにろうろ)1822-1881が書いた「吉備之国第一流ノ人」文字が刻まれています。


九代藩主阿部正方は慶応2年6月3日
益田に入り
遠征中に脚気を患い帰城し、
11月22日、福山城で卒去します。
20歳でした。後嗣(こうし)がないため
幕府へは喪を隠して天守閣西北の
「小丸山」の竹薮に仮埋葬をします。

正方の墓は明治2年(1869)10月になって
本庄村小阪山(北本庄三丁目)に改葬され、
神道墓の清楚な墓域が造られた。
廃藩置県に伴い阿部家は東京に移住。
墓地の管理・祭祀は本庄村の田圃
一町五反歩を墓田とします。
ここから得られる利益をもって永く
祭祀の費用に充てられることとし、
関藤藤陰の撰文になる「小阪山墓田碑
が建てられました。
この碑は本庄八幡神社参道上り口に
建てられていましたが、現在は本庄交番
の北西側、四つ堂の隣りに移設
してあります。

 

旧内藤家長屋門

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