津之郷 弘法大師〜親水公園コース 
                                     2006/2/12(日) 広島県福山市津之郷町

津之郷の健康ウォーキングロード。全部で9コースある。
その内の6.3km。 みぞれ・小雪舞う中 歩きました。

行程
JA津之郷支店→坂部四号古墳→本谷一号古墳→本谷川砂留(親水公園)→古池

弘法名水→休堂→惣堂神社→本谷遺跡(津之郷小学校)→田辺寺(和光寺跡)

瀬戸内海の中心に位置し、南に熊が峰を望み北は高増の連山におおわれた天災・地変の災いも無く、
気候風土温暖な恵まれたところ
古代より人が居住し、農耕文化の遺物・古墳等の数々が残されている歴史を秘めた里
であると伝えられていました。

「貨泉」とよばれる貨幣や弥生式土器が出土したり、古墳群もあり先人達の生活の場であったことが
判明しつつあります。

東の紀伊水道、西の豊後水道から海水がずうっとさしてきます。潮がさしてきますと、
鞆と四国の三崎半島(坂出の西側)を結んだ線がちょうど別れ際になるといことです。
そういう所に鞆があり福山があるということご理解願いたいとおもいます。
瀬戸内海の真中に鞆があり福山があるといことは「津之郷」がある。

あたりの山は大半が、花崗岩(御影石)が風化した真砂土で形成された土地が多い。
真砂土が多いということが、昔の文化が非常に栄えた一つの原因になります。
真砂土の中には鉄分が多いので砂鉄が多い。その鉄を利用していろいろな農具ができたり
武器ができたりする条件があるからです。

「穴の海」神辺、駅家、新市にかけて、ずっと穴ぐらのように広い平野が拡がっています
海であれば貝塚があるはずである。ないので「沼」「湖」の状況であったのではないか

「穴」 「安那」でないか
明治の初め頃には「安那」を「ヤスナ」といっていた
「安那」の「安」と南の方の「深津」の「深」をとって「深安郡」
「安那」というのは、朝鮮の南部に任那という国がありました
この任那の国を「伽那(かや)」といっていました
これを津之郷町の「可屋」とを結びつけて考えたくてなりません
可屋のあたりを掘ると大陸から伝わった道具が土の中からたくさんでてきます。
弥生時代に栄えたところの地名と朝鮮の古代国家とが同じ発音をするものが、
日本中あちこちにあります。

巨大な古墳の石組
莫大な人を動員しなければ築造することができません。
莫大な人を動員できる力のある人たちが津之郷に住んでいた

副葬品
権威の象徴 「三種の神器」 鏡 剣 曲玉



 別所砂留を見に行こう!福山のマチュピチュ!?2015/12/6福山初の選奨土木遺産に認定

福山藩の砂留

坂部四号古墳

奥行8.13m、幅1.64m、高さ1.3m南に開口する。
天井石は2個残存する。
現在、石室内に稲荷神社を奉祀してある為に
石室はよく保存されている。
側石は特おくりとなって天井はドーム形に支えている。
坂部四号古墳

石室内に稲荷神社

本谷一号古墳 福山市史跡
この古墳は、盛り土を失っているため、
全体の大きさや形は、不明です。
花崗岩を使用した横穴式石室の規模は、
全長8.85m、幅は入口で1.32m、
奥壁部で1.99m、高さ2.30mです。
奥壁は一枚の石で造られており、
側壁は上になるほど内側にせり出しています。
遺物としては、銀環・須恵器・勾玉が出土しました。

古墳入口には案内木柱
「本谷一号古墳入口 ここより約200m登る」

本谷川砂留

江戸時代の終り1800年ごろにつくられたと推定される
「砂防ダム」の仲間です。福山地方には、このような
砂留がたくさん見つかっていることから、この地方では
土石流災害がたびたび起こっていて、このことは当時の
福山藩にとっても大きな悩みであったと考えられています。
当時は今と違って、コンクリートや大きな建設機械など
ありませんでしたので、大勢の人が力を合わせて大きな
石を運んできてはひとつひとつていねいに積み上げて、
土石流の勢いにも負けない立派な砂留をつくりあげたの
でした。これらの砂留の積み方は、日本独自のお城の石垣
の積み方を応用したもので、砂防事業にこうした技術を応用
した例は世界的にも珍しく、福山地方だけに残る貴重な文化
遺産であるといえます。神辺町には堂々川砂留あります
親水公園
古池
願成寺地区坂部地区は古代より人が住居していて
遺跡も多く早くから水の必要性があったと思われる
築提の時期は定かでないか古文書検地水帳には
元禄13年寛成元年などの記録がある沼隈郡誌には
願成寺池1町1反8畝1.7歩又古池周囲2町30間と
記録されている
現在の砂防工事

砂留でなくコンクリートです

道路沿い 真砂土 掘り起こし
崩れ注意の看板

林道にはこんな看板あります

山火事 痛ましい跡あります

沼隈の山並み 南に熊が峰
中国自然歩道 弘法の水

当地は昔、山伏が人を斬った刀をこの谷川で
洗ったことから、この水を飲むと腹痛をおこし
人々が苦しむのをみた弘法大師が霊水を出して
救ったという伝説があります。この水を「弘法の水」といい
胃の病気などに有効であるとして
昔から土地の人々に広く利用されています。

石鎚山・上岩成尾道境ルートに行きます

弘法の水

水汲み場  

採水料金10ℓ=100円です。

古い 弘法の水
市南部の瀬戸川に注ぐ小田川や河手川にも築き今も
市内20ヶ所に砂留群が残る。
小田川上流の俄山(にわきやま)(291m山手町)頂上近く
からざっと10ヶ所、山火事(06年1月)で露出させ分かった
小田川砂留→俄谷御趣法砂留(俄谷2番砂留)
のこと
2014/11/22探訪
小田川は天井川で短く、上流は急流のため土砂災害
がおこりやすい川です。
砂留の工事は1812(文化9)年以前に行われたもので、
乱層混合の石積みが土砂の流れを防いでいます。
川幅30mの所に砂留が二ヶ所あり、上流の砂留は、
10.2mで三段に積まれ、下流の砂留は、8.4mあります。
大きな石を使った優れた土木工事であった
ことがわかります。
俄谷(にわきだに・にわかだに) 御趣法砂留(俄谷2番砂留)
砂留規模 堤高 8.4m 堤長 60.0m
構造形式 石壁堰堤型式 
江戸時代の山は樹木の伐採などによりはげ山で、
洪水時に土砂が流下し、下流の溜池や田畑に被害
をもたらし、村人は田畑の被害を藩に訴え、砂留の
普請を申請した。文化9年(1812年)の『山手絵図』
に描かれていて、既に存在していたが、土砂災害により
崩壊していた。そこで、藩は文政12年(1829年)に下見積
を始め、工事は天保4年(1833年)に始まり嘉永元年
(1848年)にやっと完成する。御趣法金で築造されたので
御趣法砂留と呼ばれるが、御趣法金は、砂留だけでの
幕府又は藩から出る特別交付金のようなものと思われる。
4段から成る石壁堰堤で、下段にいくほど、積石も大きく
築造当時のもので、最上層は明治以降のかさ上げ増工
と思われる。谷が広いために、堤長が大きく、福山市内の
砂留では最も大型である。
大谷山(401.3m)水系でも砂留
杢原(もくはら)古墳
杢原荒神社の北西隣にあり、横穴式古墳です。
前部は崩れていますが、現在残っている大きさは
横幅1.5m・奥行3.4m・高さ2.0mあり、
山手・郷分町内で確認できる古墳はここだけです。

休堂
惣堂神社
本谷遺跡
小学校校庭及びその北方畑地一帯に弥生時代の
遺物包含層が存在する。
地表下1.2mの地点から弥生時代中後期の土器とともに
貨泉が出土した。
田辺寺(和光寺跡)
JA津之郷支店

出発点 終着点

近くには池神などあり 

参勤交代の西国街道あります

関連サイト

赤坂〜津之郷 歴史ウォーク 

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