新市町の古代ロマン 2005/10/6(木) 2018年3月18日(日) 広島県福山市新市町

2018年3月18日(日)備後一宮〜天領上下町の歴史を巡る
行程
9:40福山駅北口バス駐車場⇒(10:10/11:10出発)備後一宮吉備津神社⇒(11:30/12:30)昼食 恋しき限定メニュー145周年記念ランチ
⇒(13:10/15:00)天領上下町並み散策・ひなまつり JR上下駅→代官所門・旧角倉家外門・本宅・上下キリスト教会(旧財閥角倉家の土蔵)
→真野資料館→上下歴史文化資料館(旧岡田邸)→上下画廊→旧田辺邸→吉田本店→天領代官所跡→翁橋→末広酒造史料館
→翁座→専教寺→JR上下駅

 翁座・専教寺・末広酒造史料館・上下代官所跡・旧田辺邸・上下歴史料館・
キリスト教会・真野資料館・旧角倉家外門⇒(15:00/16:00)自由散策⇒17:30頃福山駅北口




備後一宮 吉備津神社
沿革
当神社の創祀年代は、推古天皇九(601)年や、文武天皇期(697〜707年)、あるいは大同元(806)年などの諸説がある。
また、吉備国を前中後の三国に分国した645年に吉備津神社を三社に分けて祀ったとも伝えられる。
一宮制の制定以降は、備後国の一宮として国中より尊崇を集めた。寛喜元(1229)年11月に火災に罹り、また元弘2(1332)年正月
には南北朝の兵乱に伴い南朝方の桜山四郎入道茲俊が当神社に火を放って自刃している。その後、永和2(1376)年、小野官左近将監
が再建した。鎌倉時代の「一遍上人絵伝」に描かれたように元弘以前の造営は備前備後備中と三宮が並び建つ様式をもち、神社配置の
変遷を知るうえで貴重である。永和再建の時より正宮一宇として現社殿の原形を造りだした。慶安元(1648)年、水野勝成が社殿を造営
し現在に至る。また、天正19(1591)年までは1万6千貫の広大な社領を有したが、毛利氏に削られて300石となり、さらに福島正則に
よって33石1斗5升に削られた。社人社僧も往古は700余人を擁した。毛利氏と福島氏に社領を削られたため衰退したが、それでも寛永16
(1639)年には58人を数えた。なお、境内社の多理比理神社は、当社の本寺堂で、本殿や神楽殿と同時期の江戸時代初頭の建造物である。


いにしえの壮大なロマン 古くは旧石器時代ものなど、歴史的・文化的価値の高い遺跡ありました。

朝鮮式山城跡?
「備後国安那郡茨城芦田郡常城停」・・続日本紀にある(養老3(719)年12月15日)
常城・・・府中市の七ツ池付近から新市の常方面?
茨城・・・福山市の蔵王山?
推定されている。さだかでない。

06/7/2(日)大地(おおじ)2号遺跡発掘調査 現地説明会

神谷川に沿うようにして新市町が広がる。かつて、このあたりの土手には備後絣になる藍染めされた
糸の束が天日干しが広がっていたというが、今はそんな光景はない。

日本三大絣(かすり)。福岡県の久留米絣、愛媛県の伊予絣、そして三つ目が広島の備後絣
備後絣・・・1853(寛永6)年、芦田町の富田久三郎(1828〜1911)が始めた。1960(昭和35)年には
全国の生産量の約7割を占めた。仕事着として重宝された「絣」は洋服に代わられ、備後絣を作る業者は
数えるほどになった。

カイハラのデニム生地。国内シェアの半数を占める。「備後絣で培った染めの技術が生かされています。」



2005/10/6(木)

厚山(こうやま)宝篋印塔(ほうきょういんとう) 南北朝時代
新市町金丸厚山にある宝篋印塔は、
基礎の一面に建立年の紀年銘があることから、
1958年に広島県指定の重要文化財になりました。宝篋印塔は、
中国で三世一切の諸仏の全身舎利を奉蔵するために建立された
宝篋印陀羅尼経を納めるための塔に由来し、
日本には平安時代末期に伝えられ鎌倉時代中期以後は、
供養塔として建立されました。厚山宝篋印塔の銘文には、
「口宗禪定門七周忌を供養して、康暦2(1380)年7月25日に
この塔を建てる」とあります。
金丸は菊栽培 有名です

精興園が開発する切り花菊の国内シェアは約6割を占め、海外市場もリードする。

金丸の菊
多聞寺(たもんじ)百万遍念珠繰り

1月3日、多聞寺で行われる。起源は、1759年。
この地に疫病や虫害が発生し、苦しんだ人々が各々の名前を
刻んだ大きな念珠を作って祈願したところ、
災いが鎮まったと伝えられています。

多聞寺からの眺望

神谷川(穴の海)

宮脇遺跡 県史跡指定 指定年月日・昭和23年9月17日
縄文早期(5000〜10000年前)の遺跡として著名である。
押型文土器とともに石小刀、小刀斧など、発見されており
狩猟生活者の集団が住んでいたことが伺える。
押型文土器の出土は全国で数少なく貴重である。
この一帯は都弥(つな)郷とも呼ばれ津根(つね)とも記した
現在の常はその遺名である。
津根は港の意、
この地が吉備の品遅(治)国呼ばれた奈良時代
「品遅別皇子出雲参詣の時、御舟ここに着く」とも伝えられており
穴の海から神谷川を舟で遡上してここより歩いて山陰に向うのが、
当時の道筋であった。

参考(穴の海は安那(あな)の海とも記される)
(押型文は桍型文とも言う)
金名の郷頭(かんなのごうとう)
江戸時代中期に造られた堰と橋の機能を兼ね備えた石造構築物。
金名川の水流調節のため、
急な流れが方向を変える地点に位置し、
1840(天保11)年、豪雨で上流の切池が決壊したときの大水を
郷頭でくいとめた、との伝承が残る。
橋としては、1900年代の半ばまで府中本山と常金丸を結ぶ
往還(交通路)として利用され、上部はかさ上げされている。
石積みは、打ち込み剥ぎ・谷積み技法が用いられ、
導水(トンネル)部は古墳の横穴石室と
同じ持ち送り技法が使われて
おり、上流に向って張り出すアーチ式ダムとしては、
世界初ともいわれる。
本体の強度を増すために、上流から下流まで栗石を
敷き固めた上に、
直径30〜60cm程度の平石を敷いて川床としている。
崩れやすい花崗岩の谷を維持するための大土木工事であった。
地域の先人が、固有の技法で築造した近世治水技術を示す
文化遺産であるとともに、自然と人為が調和した景観として、
下流の堰とともに整備・保存することが望まれる。
名称について
地域で言い伝えられてきた「ごうとう」の呼び名に、
村の入り口の意味で「郷頭」の字が当てられた。
他に「郷戸」の字が使われる例もある。
尾市一号古墳

石室の平面が十字形

発掘中 ブルーシートは取らないように。

尾市一号古墳(7世紀後半)
従来より芦田川中流域平野縁辺部には、
「終末期古墳」と呼ばれる古墳がいくつか分布している事が
全国的に注目されていました。中でもこの古墳は、
石室の平面が十字形を呈するという全国に類が無い非常に
特異な存在として知られていました。
発掘調査(1984年)の結果、墳丘は明瞭ではないものの
八角形に近い形状である事も分かりました。
石室(厳密に言えば「石槨(せっかく)」)は花崗岩を切つて
組み合わせ、研磨した表面全面に漆喰が塗布されていたらしく、
このように丁寧に築かれた墓に眠る被葬者は、
畿内政権と結びついた特定の個人と考えられます。

途中から案内板なし 近くの人教えてもらう
山の上 眺望は良い
大瀧神社

大滝温泉の名水
神社の境内にある「大滝の名水」は冷鉱泉として名高く、
多くの人々が飲料水として利用しています。

ポリタンク3個 名水汲んで帰りました

吉備津神社

備後の国の「一の宮」と称され、
大同元年(806)に備中の一の宮から勧請したと言われています。
平成13年(2001)には国の重文である狛犬二体が
大英博物館に出展されたほか、市立(いちだて)大祭や
節分祭の例祭が有名です。

吉備津神社

石垣
吉備津彦命を祀っていることから「桃」や「扇」、
宝の山「荷車」の形をした石
が組まれています。
他にも「富士山」や「亀」などが見られます。

寒桜

可憐な花 咲いていました

銀杏の大樹
二代目高田嘉助(かすけ)頌徳碑(しょうとくひ)

1814(文化11)年 駅家町服部で生まれる。
商業を営み、のちに鋳造の技術を習得し、
生涯の職として新市町で起業します。
1851(嘉永4)年
福山藩の大砲の鋳造を行うなど、
その技術は卓越したものでした。
二代目・三代目とも嘉助の名を襲名し、鋳造業に励み、
安価・堅固・高性能な製塩釜を作って特許を取り、
その販路をは大きく広がり、製造品目も100種を超えました。

1923(大正12)年に現新市小学校内に建立されました。

素盞鳴神社

祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)を祭神として祀り、
平安時代中頃より祇園御霊絵(ぎおんごりょうえ)が始まりました。
スサノウ命は農業神・地方開拓の神であり、疫病をまぬがれ、
五穀豊穣を祈るため神輿を担いで集落を回りました。
神輿合わせは交合の象徴であり、生産への祈願です。

毎年7月中旬に行われる祇園祭りの「けんか神輿」が見ものです

神輿です
相方城門

相方城から移築されたと伝えられる2つある城門のうちの1つで、
この城門は薬医門の形式であったものが近代になって
改造されています。

関連サイト

広島県史跡  「相方城跡」
新市〜府中 散策 
相方(さがた)城と備後の戦国時代

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