2015「福山市内戦争遺跡巡り2015/8/30  広島県福山市

福山市内に残る軍関係施設・戦争(空襲)の爪あと、石碑等を巡り、平和の大切さを再度確認し、
人権尊重の意義を考える日となることを願っています。

■日 時 2015 年(平成27 年)8月30日(日曜日) 午前9時00 分〜12 時00 分 *集合8 時45 分

■行 程 9:00 人権平和資料館(出発)福山市丸之内一丁目1番1号  参加無料で定員40人 貸切バス使い移動

人権平和資料館→戦没者慰霊碑→捨生取義の石碑→備後護国神社拝殿→萬寶山記念碑文石→防空壕跡→
破壊された安部和助別邸玄関→(バスで移動)→火と熱風で破損した土橋→(バスで移動)→
焼夷弾の命中痕(水野公園)→焼夷弾で焼けた英霊堂の庇(光善寺)→焼夷弾で顔が破壊された石仏(大念寺)
→(バスで移動)→福山聯隊区司令部門柱(現:聖園幼稚園の南角)→
福山市戦災死没者慰霊の像(母子三人像)中央公園・福山遊園地の噴水池モニュメント→
(バスで移動)→萬寶山記念碑台座石(バラ公園内)→福山陸軍・国立病院発祥の地(JA福山・花園町)→
陸軍歩兵第41聯隊跡(緑町公園)→(バスで移動 焼け残った神橋 福山軍用水道跡)→人権平和資料館






AN-M17A1(重量・465ポンド-約211kg)AN-M50型焼夷弾を内蔵した集束爆弾

6角筒で強い貫徹力をもつよう改良されたM50型4ポンド(約18kg)焼夷弾110本を内蔵した集束爆弾。
時限装置により空中でM50型焼夷弾が散開する仕組み。
M50型焼夷弾はテルミットとマグネシウムを原料とし、金属をも溶かす強烈な熱を発するのが特徴。
弾部の中径4.8cm、長さ33cm。福山ではM17型集束爆弾1,666発が、およそ10.5m四方に1発ずつ
落下するように調整され、上空約1,500mで散開した。つまり、110平方m(10.5×10.5)
に110本(1平方mに1本)のM50型焼夷弾がふりそそいだ。福山へ投下されたM50型焼夷弾は約18万本、
1人あたり3本が投下されたことになる。
*集束:(収束)集めてたばねること
*テルミット:酸化鉄とアルミニウムを混合した粉末で、加熱で大きく反応し強烈に熱を出す





2015/8/30 安保法案 国会周辺で最大規模の反対集会 全国で一斉抗議

丸之内1町目
平和資料館であいさつ 
戦没者慰霊碑
廻りに15基の慰霊碑
・ニューギニア方面戦没者慰霊碑
・シベリア抑留者慰霊碑
・義勇軍奉公
・満寶山の碑
・ノモハン戦没者慰霊碑
・メレヨン島戦没者慰霊碑
・第65旅団戦没者慰霊碑
捨生取義の石碑
福山城公園内にある残る防空壕跡

近隣の人々が共同で利用していた
 
萬寶山記念碑文石 
日露戦争の激戦地(萬宝山)で多くの犠牲者を
出した陸軍福山歩兵四十一聯隊の兵士を祀るため、
1935年(昭和10年)福山聯隊営庭に碑が建立された。
現在、台座はバラ公園内に移設されている
碑文石は護国神社南側に移設されている。
駐車場には防空壕跡あります。
福山城天守閣の北側の石垣は熱で変色 空襲で北側に倒壊した跡です。
破壊された安部和助別邸玄関 
安部和助別邸
福山城二之丸下段北側の城米蔵(五千石蔵)があった位置
に建てられている。
福寿会館として使用されている。
丸之内
福山城噴水広場にあります 
空襲時の火災で劣化した石垣
 昭和20年8月8日
空襲の炎で焼けた石垣  案内板
 2021・9・12 
 山陽鉄道 福山駅開通130周年
「福山駅の歴史展」見行く
吉津町 

火と熱風で破損した土橋
福山空襲によって倒れた民家が橋の石柱に直撃したため
火と熱風により被害を受け、破損したまま保存されている。
両備鉄道の「胡駅」が設置され、吉津から胡町、大黒町、
今町、笠岡町、神島町上市、陸軍歩兵四十一聯隊へと繋がる
道として賑わった。
東町 水野公園
焼夷弾の命中痕
福山藩主、水野勝成の墓、福山空襲によって破壊した墓石笠の
部分から台座にかけてM50の焼夷弾が貫通したことが分かる。
 東町 光善寺
焼夷弾で焼けた英霊堂の庇
B29爆撃機91機が飛来し、2種類の焼夷弾を投下した。その一つが
M17収束爆弾である。この焼夷弾は、投下後設定高度に達すると、
収束されている小型焼夷弾M50が散開して落下し、強固な建造物でも
破壊炎上させる。
 寺町 大念寺
焼夷弾で顔が破壊された石仏
境内には、空襲によって顔の一部が欠けている石仏が安置されている。
1570年頃、安那郡(現:神辺町)川北にて創建。当時は「万念寺」と
呼ばれていたが、1622年、福山藩主・水野勝成が福山城築城と同時に、
寺町へと移され「大念寺」と改称されたとされる。
昭和町  聖園幼稚園の南角
福山聯隊区司令部門柱
霞町 中央公園 
噴水池モニュメント
福山初のアール・デコ様式の公園として開園され、広場は種々の博覧会場等
に使用された。噴水池は福山空襲時、多くの人が飛び込んで熱風から身を守った。
公園のシンボルであった噴水部が記念として残された。
花園町 ばら公園内
萬寶山記念碑台座石
日露戦争の激戦地(萬宝山)で多くの犠牲者を
出した陸軍福山歩兵四十一聯隊の兵士を祀るため、
1935年(昭和10年)福山聯隊営庭に碑が建立された。
現在、台座はバラ公園内に移設されている

その台座には焼夷弾が激突発火した跡がくっきりと残っている。


緑町 緑町公園
 
萬宝山記念碑 兵営跡に写真
連隊は10月16日を万宝山記念日として休日とし、営庭には
樋口李一郎・第17連隊長が「万宝山記念碑」を建立して
先輩の偉勲を称えた。
 花園町 JA福山
福山陸軍・国立病院発祥の地 石垣塀は被災当時の姿をとどめる。
2004年(平成16年)国立病院機構 福山医療センターとなる。


*車中案内
陸軍病院門柱(沖野上町)→焼け残った神橋(現:体育館)→ 福山軍用水道跡
 緑町 緑町公園
陸軍歩兵第四十一聯隊(福山兵営)
福山空襲で焼失した官庁・学校・陸軍病院が兵営を使用、
のち広島大学福山キャンパス(現:緑町公園)となった。
41連隊の記念碑移設 2016/3/27除幕式
市制100周年に碑が移ることを評価
陸軍歩兵第41連隊の記念碑を、同市花園町から連隊の兵営があった
同市緑町の緑町公園の北東角に移設した。
「歩兵第四十一聯隊跡」と刻まれている。
建立した1978年当時、連隊跡地は広島大福山分校として使われていたため、
陸軍病院跡のJA福山市(花園町)の敷地に場所を求めた。

緑町 ココローズ 歩兵第四十一聯隊西門 2016/5/21 見に行く
福山兵営跡地
この地は旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」跡地であり、明治41年に歩兵41連隊が
現在の企業誘致の形で広島からこの地に転営し、備後の郷土部隊として福山の発展に
寄与し福山市制施行のきっかけにもなった。
昭和12年、歩兵第41連隊が支那事変に出動後、兵営は41連隊補充隊として応召兵の
教育に使われた。また新たに歩兵第41連隊、歩兵第232連隊がこの兵営で新編成された。
その他この兵営に駐留した部隊は、西部第62部隊、西部第63部隊、船舶砲歩兵第1連隊、
船舶機関砲第1連隊である。中でも歩兵41連隊はマレー作戦をはじめ多数の激戦地に
赴き、東部ニューギニアとフィリピン・レイテ島において2度全滅したことにより、
日本陸軍史上最も酷使された不運の連隊と言われている。

 戦後は福山空襲で焼失した学校、官庁等が兵舎を使用し、後に広島大学福山分校、
広島大学附属福山中・高等学校、福山市役所仮庁舎、緑町公園、そしてサンピア福山
閉館後に「ココローズ」がオープンし、兵営跡地は大きく様変わりした。
しかし、この地から多くの若者が出征し多数戦死したその歴史の延長に現在の福山市
の発展があることを忘れてはならない。
福山市は昭和55年10月19日にレイテ島タクロバン市と友好親善都市提携を結んだが
提携30周年記念に来日されたタクロバン市のクリスティーナ・G・ロマルデス議員に
よりこの「交流発祥の地」に記念植樹が行われた。
なお、この場所に当時は火薬貯蔵庫があり、兵営を囲う石垣の上には鋭い棘のある
「からたち」と、兵営内には「銀杏」が多数植えられていた。
平成22年11月30日
2016/2/9 見に行った。
 
沖野上町
独立行政法人 国立病院機構 福山医療センター
福山陸軍病院の門柱が移築されている。
 門柱が所々黒ずんでいるのは福山空襲で燃えたことを意味する。
つまり数少ない軍関係の戦争遺跡である。

國立福山病院
沿革
年明治41年(1908)年4月1日 福山衛戍病院として創設
                    (現花園町のJAの場所)
昭和12年(1937)年4月1日 福山陸軍病院となる
昭和20年(1945)12月1日 陸軍解体により厚生省所管となる。
                国立福山病院として発足
昭和41年(1966)7月4日、沖野上町に移転
2001年1月6日 厚生労働省所管となる
2004年4月1日 国立病院機構福山医療センターとなる
2008年 病棟の老朽化のため現地建替えを発表。
     12月より着工し2011年初頭の完成を目指す
2011年9月17日 新病棟が完成し記念式典が行われる。
          9月23日より新病棟の運用を開始
2013年9月17日 新放射線治療棟(リニアック・ラルス)の運用を開始
          現在の本館(外来管理棟)を順次取り壊し、
          現地建替えする方針(2016年を目途に完成予定)


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