「塩」「はきもの」の松永町から「びんご畳表」沼隈町を歩く 
                                   福山市松永町〜沼隈町  2005/1/19(水)

かつての塩田の町 から 履物の町 名残り跡 そして 縄文貝塚跡(馬取遺跡)まで 散策しました。

JR松永駅の東側、松永湾に流れる羽原川沿い 昔ながらの風景を感じる。

行程
05/1/19 クリーク跡→JR松永駅南口→日本はきもの博物館→承天寺→潮崎神社など神社・寺→馬取貝塚

05/2/4 立春 馬取遺跡→岡本池→四つ塚→浄土真宗西光寺→寄の宮八幡宮→地蔵さん→唐樋門

05/2/8(火) 沼隈の巨木 訪ね歩き びんご畳表の里へ。

南泉坊モッコク→光照寺→金江町本谷 大ムロの木→大田神社 大クスノキ

 

「ぶどう」と「造船」の町として知られる沼隈町

古くは山南庄、春辺郷などと呼ばれ、昭和30年(1955)3月31日に上山南、中山南、下山南からなる「山南村」と

常石、草深、能登原からなる「千年村」の合併により沼隈町が誕生。

05/1/19

JR松永駅 南口広場

「松永開祖 本荘重政」像ありました。

ランボーのように大砲を腰留めに構えて天草の乱で活躍したかと思うと、
その測距儀の技術を測量に生かして塩田開発、火薬を使って花火を
残し、承天寺を開いて自ら彫像を残した。平櫛田中氏も絶賛する
彫像のギョロ眼はカッと見開いて常に前向きに好奇心を追い器用に
自然の理法にも探求の視線を注いだ。

 
松永の地は萬治3年(1660)
福山藩士本荘重政により干拓の工が起こされ
7年の歳月を経て四十八浜の塩田を完成し
その名も松寿永年の願いをこめて塩の里として生まれたのである

町は七島、入江の枝に、四十八塩田の、あれや塩烟(しおけむり)
歌われた。干拓された七つの島の間に縦横に走る10本の川が
巡らされ、48もの塩田が並んで塩を焼く煙を盛んに漂わせていた
光景が詠まれている。
爾来 重政はこの地に留まり殖産および民生の発展を計る 
松永の今日在るはその鴻業による塩田の完成によって松永湾
の東部には村が出来村人は”本庄村”と呼ぶようになったが
重政は「”本庄村”では功績を私一人が独占した感じになる。 
松寿永年”(しょうじゅえいねん)というめでたい言葉があるの
で松永村にしよう
」と幕府に届け出たという 
 沼隈町山南の長谷川新右衛門は弘治年間(1555〜57)に、それまで捨てて
顧みられなかった短い藺草(いぐさ)を利用して中継表という畳表の織り方を
発明し、畳表の生産を飛躍的に伸ばした。
日本一伝統を誇る びんご畳表の里
JR松永駅南口の前 碑が広場に建っています国産の畳、中国産や新建材に押さ
れ、窮地に立たされている。昭和40年代ごろまで畳表の材料となる、藺草(いぐさ)
の生産が盛んでした。主な畳の産地 最盛期の半分以下に減った宮城・・ワラ床の
生産日本一広島・・備後畳の産地 農家数35大分・・琉球畳最後の産地 農家数
27熊本・・イグサと畳表の産地奈良・正倉院に「御床畳(ごしょうのたたみ)」という
聖武天皇が使った畳ベットがある、平安時代は板の間に敷く置き畳が、江戸時代
中期までは高貴な人が使った。庶民の間に広く普及したのは戦後だ。室町時代中
の「大乗院寺社雑事記」に、「備後筵(むしろ)」の名称が見られ、他の地方より
も質的に高い評価を受けていたことが分かります。織田信長が安土城に「備後表」
を使った
記録も残っています。藺草(いぐさ)は11月から12月ごろ苗を植え、梅雨明
けに刈り取ります。全国的にその名を知られている地域ブランド商品育成のため、
特許庁には地域名と商標を表した「地域団体商標制度」があります。
びんご畳表」「福山琴」登録されている。岡山県倉敷市児島にある
江戸時代後期に一代で日本の塩田王となった、野ア武左衛門の旧宅。中座敷と
表書院には、備後産の
中継表が使われています。

中継ぎ表
2020/2/8(土)備後ふくやま伝統産業展
ものづくり交流館(エフピコRIM7階)
中継ぎ表
い草の先や根を取り除き
中央の良質な部分だけを使った畳表
 備後畳表の歴史
畳の歴史は古く古事記に記載があり、この頃は現代の筵(むしろ)のようなものだった。
現在の畳の形式になったのは平安時代である。用途としては、高貴な方々の
置き畳として用いられていた。したがって縁(ふち)の色彩が一般では使用できないもの
もあった。一般に普及し始めたのは江戸時代、元禄の頃であった。
備後畳表の歴史
1191年(建久 2)後白河院が備後国河北荘へ畳の献納を命じる。
1460年(寛政 元)「大乗院寺社雑事記」に、はじめて「備後畳」の
         記載がみられる。
1579年(天正 7)安土城行幸の間に備後畳表を使用する
1600年(慶長 5)この頃、山南村の長谷川新衛門が中継ぎ表を
         発明し、生産量が飛躍的に伸びる。
1622年(元和 8)幕府が畳表9千枚を買い上げる。
1647年(正保 4)幕府への献上が毎年旧沼隈郡内の村々に割り当てられる。
1700年(元禄13)この頃から一般の民家で畳の敷き詰めが行われることとなった。
1935年(昭和10)い草栽培面積が最高となった。(1528ha)
1937年(昭和12)松永に広島測候所松永支所が設けられた。
1946年(昭和21)県下のイ草作付面積は42haに減少した。
1965年(昭和40)備後畳表の年間生産量が、1000万枚に達した。
1976年(昭和51)この年をピークに生産枚数がゆるやかに減少した。


 
2013/8/26
日本はきもの博物館が、11月24日で閉館した(公益性の有無の判断から
法人税などがアップする)公益法人改革についていけないため市は市議会文教経
済委員会で、土地建物と展示品を引き継ぎ、2015年度の再開を目指す方針を
示した。明治11年(1878)初代丸山茂助が下駄づくりをはじめて100年日本一となっ
た松永下駄産業100年を記念して設立。
日本はきもの博物館   日本郷土玩具物館

09/12/6(日)子供と一緒に久し振りに鑑賞しました。
   「日本はきもの博物館コーヒーハウス」はもともと商店として利用されてい
た国登録有形文化財に福山市内での登録第1号になっています。

閉館した
日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館が,
福山市松永はきもの資料館(愛称:あしあとスクエア
として2015年(平成27年)7月4日にオープンしました。 
   
甦る水100選  よみがえるクリーク

縦横に張り巡られたクリーク(入り川)は江戸時代、
塩田に海水を引き入れるために造られた。

塩田の廃止後も、
げたの原木を運ぶ輸送路の役目を果たしてきた。

一部は浸水対策の雨水幹線としてよみがえり、
周辺に遊歩道が整備されている。
住宅地 商店街 道路など整備中

 
遊歩道に

塩田のモニュメント 

 史蹟 本荘重政墓 右端四角台八角墓碑
本荘重政墓は慶長12年尾張に生まれ 
寛永13年島原の乱に武功をあげ 
岡山藩主池田光政にかかえられる

のち憐情と号し福山藩主水野家に身を寄せ
領内所々の干拓をなす

特に寛文7年(1667)当地に塩田新涯を完成し
松永の地ここにはじまる

承天寺開塞 
延宝4年(1676)2月15日没 享年70 

松永塩田の跡 本荘重政はどう思うだろう。
承天寺に墓があります

本荘重政
自分で刻んだ40cmたらずの木像がある

 
羽原川に大木ありました 下駄の原木になるでしょうか
かつて 羽原川の両側に多くの下駄工場あった。
セピア色の写真が似合う 風景です。

松永のげた
製塩業が盛んだった松永地区で、1878年にきりげたの製造を

始めた丸山茂助が、塩をたく燃料の材木を使って安価なげた
作りを考案。1907年ごろ、全国に先駆けて機械化に成功した。
ピークの55年は、189工場が全国の6割に当たる5600万足を
製造。その後、需要の衰退などで業態転換や廃業が相次いだ。
広島県はきもの協同組合などによると、松永地区では年間30
万―40万足を製造。げたの卸は3業者、1工場で、下請けの
7業者が塗りなどを担当している。05/2/18 中国新聞  

  松永町から柳津(やないづ)町

柳津
岸辺の柳に船を繋いだ所から柳津の地名が生まれた
昔はこの付近海でした
神社・お寺 辺りに多くあります。

潮崎神社
本荘重政が松永塩田を開発したとき、社殿をこの地に移し
塩浜の守護神とした。

 四つ堂
金江町


馬取遺跡

松永湾の東部にある龍王山(221m)からはりだした丘陵が
南にのびたその末端部
海抜10mのやや平らな台地上にある。
少し分かりにくい場所 近所のお母さん教えてくれる
時々 子供達が見学に来るそうだ。

 
縄文貝塚跡

ガラス窓 少し開いていました
ドアは鍵 施錠。

 
馬取遺跡はガラス窓で囲いしてあります

小雨降る ここまで 帰りました。

 

05/2/4 立春 馬取遺跡→岡本池→四つ塚→浄土真宗西光寺→寄の宮八幡宮→地蔵さん→唐樋門

05/2/4  県道鞆松永線歩く
JR松永駅南口で「千年橋」行きの鞆鉄バス乗車
バス停「新池」で降りる
「馬取遺跡」辺りの畑にはイグサが肥やしになっていた
 
  菅茶山の足跡を訪ねて(6)岡田池の碑  
 歴史散歩 広報ふくやま2023年9月号
  備後赤坂に行くバス路線 藁江(わらえ)という地名
岡本池の説明
この池は岡本池と呼びその名は池を私財で作った山路右衛門七重敏
の屋号から付けました。池が出来上がったのは1818(文化15年)3月で
その時の
福山藩主阿部正精は重敏の功績をほめ褒美に着物を与え尚
池を実際に指導監督し成功させた番頭の松兵衛にはお金を
下さいました。
藩主は長く功を残すため藩の学者菅茶山先生に池の来歴
書かせ石碑にし池の中島に文政2年春建てました。
今は堤にあります池の水がかれない様
弁才天が島に祭られ村人達に祈って喜びました。
この池を作った昔の人の恩を忘れず、汚さず壊さず大切にしましょう。
昭和58年3月 松永湾郷土史会 
  福山少年自然の家から園芸センターの間にあります。
小さな案内板あります、ウォークラリーのコースになっている。

岩田山 山頂のミカン園付近 40〜50基の古墳口あいている

 

四つ塚

 
 
   
 ミカン園

金江町の古代人がなぜこれだけの財力を持ちえたのか?

  西の塚古墳


 
祭祀遺跡

立岩 (高さ約3.4m 幅約3.3m自然石)
天津磐境(あまついわさか)
巨岩の下を一直線に割ってそのもとに二個の舟状の石をかまして
 人工でこの岩を立てている。
何のためにこんな立石をしたのでしょうか。
古墳群地帯といい 原始信仰につながる遺跡か
平岩の前では祭が営まれていたでしょう。  

   金江町

備後畳表が倉庫にありました

県道鞆松永線 山南川沿い 歩きます

福山市沼隈町下山南

浄土真宗 北光山「西光寺

   

  銅鍾 広島県重要文化財 昭和54年3月26日指定

この銅鍾は、天文13年(1544)に、造られた沼隈町最古の鐘である。

古記録や鐘の銘文によると、この鐘は、当時の守護大名・大内義隆
が施主となり、厳島神社の外宮、地御前神社(廿日市市)に寄進され
たものである。その後、宝暦5年(1755)神社が火災となり、
この鐘は使用されなかった。
西光寺では、江戸末期のペリー来航によりそれまでの鐘を供出し
無鐘となっていたので、明治の中頃、
この流転の鐘を広島で求め西光寺の什宝物となった。
 平成5年2月 沼隈教育委員会

 
 沼隈町草深 町の中心地

草深城跡(標高30m)
中世戦国の頃、入江であった。水軍城であった。
寄(より)の宮八幡宮が祀られている
神功(じんぐ)皇后が瀬戸内海航行の途中、
ここに船を寄せたことに由来する。

寄乃宮

天歴年間(947)の草創と伝えられ宝治元年(1247)天文8年
(1539)慶長元年(1603)と再修理されたことがわかっている。
現在、社殿のあちこちに、
室町時代の面影を残す美しい蛙又が使われている。
参道の両脇にある常夜燈は、
文政7年(1824)の作で刻まれた文字は、頼山陽の直筆とも
いわれている。
享保7年(1722)に書かれた三十六歌仙は特に素晴らしい宝物
のひとつである。
沼隈教育委員会 
室町時代の美しい蛙又
境内には全国唯一の畳表神社が祀られている 
地蔵さん  沼隈町草深

地蔵さん 正徳四 甲午之年 七月十九日
きれいに飾ってあります。頑丈な屋根でした。
地域の子供達を見守っていた。

 
唐樋門  沼隈町のバス路線、新川線「千年橋」バス停で下車。
幅4.6mの水路には、用水を調節するための「樋門」

草深の唐樋門   


唐樋門 創建当時のままに 県史跡

草深の唐樋門は、江戸時代初期の寛文年間(1661〜1672)に
磯新涯が干拓造成されたのに伴って造られたものである。
樋の堂と呼ばれる建物とその床下の樋門の部分
からできており、当初は木造りであったが、
元禄9年(1696)と安永3年(1774)の二度にわたる大がかりな
修理によって、樋門の門扉以外は石造に改められた。
樋の上の地名をもたらした由緒ある唐樋門は、
瀬戸内海沿岸の干拓造成の歴史を研究する上で大変貴重な
産業遺跡である。
沼隈教育委員会

 
  4mх4.6mの本瓦葺で切妻屋根の「樋之堂」と呼ばれる建物
50haの干拓が行われ、造成された新開地へ。
巻きろくろによって農業用水を調整した施設。
建築から300年余り、草深一帯の田畑を守り続けてきました 
貴重な産業遺跡。 

05/2/8(火) 沼隈の巨木訪ね歩きました

南泉坊モッコク→光照寺→金江町本谷 大ムロの木→大田神社 大クスノキ

浄土真宗

北峰山 南泉坊

境内に長谷川新右衛門の墓碑は祀られていある。

弘治年間(1555〜57)に、
それまで捨てて顧みられなかった短い
藺草(いぐさ)を利用して
中継表という畳表の織り方を発明し、
畳表の生産を飛躍的に伸ばした恩人である。

 
   北峰山 南泉坊

モッコク(木斛) ツバキ科 
別名 あかみずき 樹齢凡そ500年

浄土真宗 北峰山 南泉坊
境内に長谷川新右衛門の墓碑は祀られていある。

 

 

中継表という畳表の織り方を発明し、
畳表の生産を飛躍的に伸ばした恩人である。

 
光照寺  「山南(さんな)農協前」バス停 南側の山の中腹浄土真宗は
鎌倉時代に起こった仏教宗派の一つで西日本には鎌倉時代末ごろに広
まりました。浄土真宗の中国地方における中核的な寺院として知られている。
親鸞に託された明光(みょうこう)が山南の地で布教活動をした。備後・安芸・
出雲・石見・長門まで西国布教の拠点として重要な役割を果たしました。
創建について元応2年(1320年)、関東の鎌倉から備後国沼隈郡山南に入った
明光(みょうこう)上人らによって建立され、以降ここを中心に布教活動に努めた
とされている。暦応元年(1338年)、本願寺より存覚上人を招き、備後守護の前
で法華宗と対論し、これに打ち勝ったのを契機に布教が進められ、その勢力は
中国地方一円にまで拡がった。明光(みょうこう)上人はその後、隠居して宝田院
を開いた。室町時代から江戸時代には本願寺に畳表を寄進するなど地域の特色
がみられた。境内をはじめ寺院内には文化財や貴重な資料が多く残されている。
広島県指定重要文化財
山門、鐘撞堂、親鸞聖人絵伝一幅、法然上人絵伝三副、
聖徳太子絵伝四副
平成16年10月 沼隈町教育委員会 
 山門
切妻造り本瓦葺・四脚門・円柱・竹や虎を透かし彫りにした
美しい蛙股が見られます。慶長18(1613)年の棟札があり
意匠的にも優れた近世初期の代表的な建築物。
県重要文化財に指定。

鐘撞(かねつき)
昨年(04年)の台風 被害屋根に 白いシートかかっていました。

山門と同じ慶長18年建立。入母屋造り本瓦葺
四方吹放し4本柱の建物。県内で最も古い鐘楼ので、
県重要文化財に指定。
保存修理工事を行い、創建当初の姿によみがえりました。
07年2月 広報ふくやま歴史散歩NO.162より

   梵鐘は慶長18年(1613)9月、

福島正則が奉納したもので、和鍾と朝鮮鐘を備えている
市重要文化財
鶴2羽・亀1匹の文様が浮き彫りされていることが分かった。

  金江町本谷

金江の大ムロの木

 

藤江町 福山市天延記念物

大田神社の大クスノキ

根回り9.15m 樹高23m

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関連サイト

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「今津〜尾道高須」西国街道を歩く

能登原お弓神事

阿伏兎観音

旧山陽道を歩く 「今津宿」松永の史跡を訪ねて