坪生(つぼう)古道散策 2002/11/2(土)
坪生→春日町浦上→春日小学校→培遠中学校→彼岸堂(日吉台)→国史跡 宮の前廃寺跡→
仁伍の辻堂(蔵王)→醫王寺(いおうじ)→綱木(つなぎ)→衝上断層
福山から坪生まで古道を散策した記録。
気候は冬型・途中冷たい雨に会いました。
巨人松井選手がFA宣言した翌日の日。
「福山衝上断層奈良津露頭」 辺りの地図
2020/2/24
福山市は3月末までに、西日本豪雨で被災した広島県指定天然記念物
「福山衝上断層奈良津露頭(ふくやましょうじょうだんそうならづろとう)」
(奈良津町)の土砂を撤去し、被災した市内17カ所の文化財の応急復旧を全て終了する。
宮の前廃寺跡 地図
写 真 |
記 録 |
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10時 坪生を出発
身代わり地蔵
西山城跡
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10時30分
厳島神社
こんぴら大明神
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10時45分 春日町浦上
浦上八幡神社御旅所
浦上八幡神社
「春日町文化財略図」
春日小学校辺り ため池ある
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11時10分 培遠中学校
日吉台にある
彼岸堂
平成3年9月27日台風19号の被害を受け、
堂の改築
常夜灯
道路も細く海岸沿いの曲がりくねった
磯道で当時は往還と呼ばれ、
昔は海に突き出ていただろう岬とも思える
ところに彼岸堂と常夜灯が祀ってあった。
造成工事により現在地移転。
金毘羅夜燈 氏子中
文化五年(1808)辰10月と刻まれている。
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近くには古墳がある
@千田平ノ前古墳
A千田大迫2号古墳
B千田大迫3号古墳
C千田大迫1号古墳
D蔵王原2号古墳
E蔵王原1号古墳
古くは福山湾の東岸に広がる深津の入江から
神辺平野に通じる交通の要衝に位置している。
深津は、古代には市が栄えていたことが
『日本霊異記』下巻27話に見える。
蔵王町
11時45分
奈良時代前期末か後期初頭
金堂が創建されその後 塔が建てられた。
国史跡「宮の前廃寺跡」
昭和44年国の指定史跡の指定
金堂跡・塔跡
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12時〜12時30分 サンデーサン蔵王店で昼食
蔵王史跡案内図
仁伍の辻堂
伍は奈良時代に地方に置かれた軍隊の組織のことで
一伍は兵5名をもって構成され
その伍が二つあったことから地名となったものと思われる。
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13時
醫王寺(いおうじ)
1127年(大治2年)に崇徳天皇が開いた真言宗の寺で
明王院の末寺、初めは阿弥陀山医王寺と称した。
寺宝として室町時代の作とされる「絹本着色弘法大師像」
県の重要文化財
上井手川と綱木
芦田川から取水され 本庄・木之庄・吉津・奈良津・深津から
蔵王を経て春日吉田から引野に至っている。
水野勝俊の折 かんがい用水を通す大工事
綱木付近は岩盤のため困難をきわめた。
蔵王TV塔
13時35分
福山衝上断層奈良津露頭
木之庄町〜坪生〜岡山県篠坂
総延長14km断層。
断層面に沿って下位の古い地層が岩体が上位の新しい地層や
岩体の上に押し上げられたものいう。
地下構造や動きを総合的に研究するうえで貴重な資料。
深津
海が深く湾入した奥にある船着場のことである。
折り返して帰宅しました。
15時40分 帰宅
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04/6/18(金) 福山市西深津町4丁目 中国共済病院近く
市史跡 伝 足利義昭居館跡 「蔀山(しとみやま)」
室町幕府最後の将軍足利義昭は、織田信長に京都を追われ、天正4年(1576)2月8日、毛利氏を頼って鞆に到着している。
毛利氏は同年5月13日に至って義昭の命を奉ずることを決意し、毛利氏によって鞆に居宅がつくられた。
その後、義昭は天正16年(1588)上洛するまでの間、鞆のほか津之郷にも居館をかまえたと伝えられる。
また、深津の蔀山にも居館があり、義昭がふたたび備後に下って隠退生活を送ったところと伝えている(福山志料)が、
義昭が再び備後に下った確かな証拠がなく、鞆か津之郷在館中の別邸ではないかと考えられている。
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