雲石街道を歩く 堺町から緑井まで  2004/8/22(日)

西国街道散策会 脇街道を散策するという計画に参加しました。前線の影響 うす曇りで蒸し暑い日でした。

行程:約9km・5時間の散策。横川駅南口 西隣り 幸せを呼ぶ店「トータス」でSさん・Mさんと交流する。

原爆ドーム集合→堺町→十日市町→寺町→横川町→三篠町・大宮→新庄橋→祇園町・長束→古市→緑井

街道沿いは由緒ある神社、寺・趣のある家・謂れのある地蔵さん 説明聞きながら歩きました。

 

アテネ五輪で日本選手が快進撃 前半戦が終わった段階だが、日本選手団が獲得した金メダルは十二個。

(8/29 閉幕。近代五輪発祥の地で108年ぶり開催された。金16個・銀9個・銅12個  感動と勇気をもらった
「日本のメダル獲得総数は37個。ロサンゼルスオリンピック(1984年)時の記録を上回り、史上最多の
記録となったそうです。金メダル単独の獲得数(16個)も、過去最多の東京オリンピック(1964年)の記録に並びました。
こうして、連日、日本人選手の活躍が気になってテレビにかじりついていた“アツイ夏”も終わりました。」
 

第86回全国高校野球選手権大会  駒大苫小牧が13―10で済美を破り、北海道勢としては初の優勝を果たした。 

宮島町合併先は?  廿日市市917票  広島市を上回る(広島市711票)

海田町の合併是非?反対8418票 賛成4437票 広島市と「合併せず」

世界文化遺産

原爆ドーム  前集合  

猿楽町(さるがくちょう)通り周辺


藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師を
はじめ大小の商家が軒を並べていました。復元図は、原爆で
消えたかつての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に
作成されたもので、この一帯が1940(昭和15)年前後を生存者の
情報をもとに再現したものです。

 
  広島市道路元標(広島県里程元標)  元安橋の東詰め
このあたりは陸上交通の主要街道が交差し、また太田川の
水運の利もあって、広島城下の中心となっていた。当時この
地に高札場があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、
御客屋などがあった。したがって、広島からの里程(みちのり)
はすべてこの地点から起算されていた。明治以降、県制施行
にともない、ここに木柱で広島県里程元標が建てられたが、
明治22年(1889)市制施行後は、現在の石柱で広島市道路
元標と改められた。

   

元安橋  

平和公園は中島地区 繁華街として賑わった。

左の建物:レストハウス(旧大正屋呉服店跡)

藩政時代は元康橋と呼ばれていた。  

  本川橋

毛利時代の石組み:干潮時に現われます。  

堺町1丁目3番 坪村家具の前に「道しるべ」あった

「道しるべ」は移動されて空鞘神社の境内にあります。

出雲大社道・石州浜田道 雲石街道の起点です。

 

 
  空鞘神社

天文年間(1532年頃)の創建。

 

   道しるべ

出雲大社道・石州浜田道 雲石街道の起点

横川橋

十日市町 寺町 橋を渡り横川町  

横川胡神社

安永8年(1779)より商売繁盛の神として祀られる  

 JR横川駅

1905(明治38)年に国内で初めて

国産乗り合いバスが走り 「バス発祥の地」

国内最古の路線バス

地元商店主らが中心となってレトロバスを約100年ぶりに復元

三篠神社

永禄年間の創祀

参道入口敷石
被爆した敷石(両側の各2列)
広島信用金庫横川支店の敷石を移した物。  

  道しるべ

石仏地蔵菩薩の隣にありました

出雲大社:41里
石州浜田:25里
可部町:4里  

   太田川放水路に新庄橋 渡れば祇園町

右側の山は武田山
武田山の山頂には銀山城
鎌倉時代末に甲斐より安芸国守護として赴任した
武田氏により築かれたといわれる山城

左の山は「火山」

  蓮光寺の蓮華松

蓮華松は県天然記念物。

安佐南区祇園町長束  

   祇園町下安

投げ石地蔵 別名を「いぼ地蔵」

石は武田山から投げてこの地までとどいた伝説が残っている

  祇園町下安

熊野神社

創建は文化5年(1808)
昔、この辺りに住家を営むとよく火災が生じたので天文年間創建、
火災が起こらなくなった。住民は火防の神として崇敬した。

はいしょうけつ」なに?熊野神社の境内

   

獻燈の台には丸い凹穴:盃状穴(はいじょうけつ)
鳥居、手洗鉢、燈籠、台石など石造物に盃状の穴を人間の手によって
刻まれたもので穴の大きさは様々で大きい物は12cmもあると言われ、
深さもいろいろで8cmもあるものもあるようである。発生は古代から古墳
の葺石にみられる。女性のシンボルをかたどったもので呪術や土俗信仰
と深くかかわっているという。形状から生殖と子孫繁栄への願望を表した
性信仰の象徴であり生産と豊穣を祈る民俗信仰の一つであると言われて
いる。

 
  祇園町下安

医院の2階には凝った彫刻ありました  

  祇園町下安

街道沿いは古い家並みあった

車が多く往来していました  

祇園町下安

安神社
祇園社がその前身で、銀山城の麓にあった。正安元年(1299)
銀山城を攻めてきた厳島神社の平員家(たいらのかすいえ)により
焼かれてしまった。その後、祇園社は武田氏により1303年頃に、
旅所であった現在地に移された。

昼食しました 通行手形「祇園坊柿」(ぎおんぼうがき)です。

太田川上流で栽培されている柿。渋柿なので,干し柿にしたり,
あわせ柿にして食べます。

全員写真 撮りました。  

   安神社境内には

「出雲大社道」の道しるべ移された

  街道沿いに「蔵」があった 
  古市橋

地蔵さんは 薬師如来

JR緑井駅で散会  

関連サイト

可部峠(650m)は石州街道の峠道

雲石街道(緑井〜可部まで)

石見街道ウォーキング「本地〜蔵迫」

可部雲石街道散策コース

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