西国街道 三原〜本郷 散策 2003/1/19(日)
三原城跡(JR三原駅)→西町→西之宮一里塚(西宮八幡宮)→頼兼町→
仏ケ峠にある領界石(県立保健福祉大学)→沼田川沿い→荻路→「川向米山寺道」道標
「みたち第3号古墳」復元→「仏通寺道・稲荷道」道標→JR本郷駅
約5時間 7人で散策しました。 備後国から安芸国への旅でした。
低気圧が四国沖を通過する 降水確率が30%、気温9℃の予報。天候気になりました。
曇っていたが 途中薄日も差し 無事終わりました。
いろんな話し情報交換しながら 02/7月オープンした、食事処「Y」で昼食。
広島市長選告示の日。 第8回全国都道府県対抗男子駅伝。
天皇陛下、前立腺がん手術の翌日。
大学入試センター試験2日目。
調べて03/1/20追記しました。
小早川隆景
毛利元就の三男。郡山城で天文2年(1533)生まれる。幼名 徳寿丸
小早川興景の養子として竹原小早川家を継ぎ、高山城に入り新高山城に移り、備後三原城を築いた。
元就の次男元春は吉川家の養子となって小早川家と共に、毛利家を両川で支えたのは有名な話です。
武一辺倒の武将でなく、開明的で風流を解し茶の湯をよくし、太宰府天満宮など神社を修築し、
名島学校を興し、超一流の文化人であった。
慶長2年(1597)三原で死去。64歳。墓は三原米山寺。
写 真 | 記 録 |
にっぽん縦断 こころ旅 2017年春の旅 615日目 4月14日(金)放送 久井(くい)の岩海(がんかい) ここから手紙を読み出発。 小早川隆景が永禄10年(1567)に築城した三原城出発。 「軍師官兵衛」紀行 2014/11/2 放送 広島県三原市はかつて、戦国随一の智将として知られた 小早川隆景が治めていました。 瀬戸内海を制するために隆景が築いた三原城は、 海に浮かんでいるような姿から 「浮城(うきしろ)」と呼ばれました。 生涯毛利家を支えた隆景。初めは如水と敵対関係にありましたが、 やがて互いを認め合うようになります。 聡明で即座に決断する如水に対して、 思慮を尽くすよう助言したこともあったといいます。 1597(慶長2)年、隆景は三原城で息を引き取りました。 如水は「これで日本に賢人はいなくなった」 と嘆いたと伝わっています。 偉大な盟友を失った如水に波乱のときが近づいていました。 山陽路に春の訪れ告げる 神明市(2/7〜2/9)のPR用大とんど作りを駅前で見ました。 小早川隆景がとんど祭りの日を神明祭りと呼んで盛大な 市をたてる祭りにした。 全国から露天商と植木市、ダルマ市が軒をつらねます。 西町にある古い家。 |
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順勝寺山門 築城当時の遺構 三原城内にあった御作事奉行所門。 |
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西惣門跡
西之宮八幡宮の境内に枯死した一里塚松があった。 |
仏ケ峠にある領界石(県立保健福祉大学)
明治10年10月再建した境界石 道路はさんで大正年4月境界石 「従是 備後国 従是 安芸国」 |
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荻路にある神社 境内はJR山陽本線が。荻路バス停辺り 「新市の祗園宮」 沼田に栄えた中世の市場町 時代と共に沼田川沿いに東に下っている。 室町時代には大きな門前町が形づくられていたという。 真南 沼田川をへだてた「本市の祗園宮」があった。 小早川氏の本拠地・本郷に最も近くまで船がのぼれて 積荷上げ下ろしに適した場所が沼田の本市。沼田川は 次第に浅くなり船は次第に登れなくなった。 高山から三原城にへ移したのも水運が 大きく影響したのだろう。 大板にある鳥居 神社は遥か向こうの山に。 |
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沼田川
米山(べいさん)寺 道しるべ |
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古墳の町
本郷町 |
仏通寺稲荷道 道しるべ
JR本郷駅 |
関連サイト