山手一里塚跡〜松永」西国街道を歩く 広島県福山市 2004/6/13(日)

行程 約8km。

山手一里塚跡→湯伝稲荷神社→旧一本松跡→三島明神社→津之郷道標→足利義昭御殿畑・惣堂神社

→田辺寺(でんべいじ)→水越峠→イコーカ山古墳→赤坂の石の曼荼羅→赤坂八幡神社→間の宿

→赤坂の大石→赤坂一里塚跡→今伊勢宮→JR松永駅。

台風4号去り 爽やかな風あり この時期として過ごしやすい。17人の旅人達。

山手一里塚跡

バス停「山手江良」下車。

榎の木・・・幹の周り2・1m、高さ10.5m  

 湯伝稲荷神社
宇賀御魂(うがのみたま)・・五穀豊穣を司る神。この神は
農耕民族の我が国では、お稲荷さんとして各地に祀られて
います。言い伝えによると、承応年間(1652〜1655)水害に
より流出後、京都伏見稲荷の分社として再建されたといわれ
ています。この社殿がある湯伝山は、山手・郷分の平野部で
唯一の丘です。(地元の歴史解説)
 津之郷の一本松
中国行程記にもこの位置に一本松 描かれている。

三島明神社
一本松跡から南側に こんもりした丘にある。
足利義昭を祀ってある。
昭和58年社殿焼失、昭和60年に再建された。

街道は わき道で生活道路 車多い。

三島明神社 
   04/6/13(日)
津之郷道標  
小林酒店の角にあった。

06/8/30(水)
「右 ふく山道  左 大坂道」 
倉庫の中にありました。
酒屋のあるじ
「来年(07年)春に、本来の位置にあった所に建てます」
「道標 今から300年前の作と聞いている」 

07/6/2(土)
本来の位置で御影石で守られています

07/9/1(土)
トラックに当てられ危ない 移動 
道標は取外され古い店の中に納まっていました。
御影石の上にはペリカン便広告ありました。
 

08/1/15
店の中にあったもの 再度移転
本来の位置からトラックなど車に当てられない所

三叉路を南へ、福山へ向かう道(尾道街道) 

 

07/6/2(土)津之郷の道標 

本来の位置で御影石で守られています
 

 08/2/9(土)津之郷の道標 
本来の位置はペリカン便の所です










 トラックに当てられ移動 危ない 家の方へ移動

西国街道 大坂へ 
  行程記にある

福山道

 
村境に地神 

 山手村・津之郷村  

 街道から北へ
本谷(ほんだに)弥生遺跡 津之郷小学校の中にある
津之郷の平野の北部に位置し、
かってはこの近くまで海でした。
昭和18年ここから弥生土器にまじって中国のお金である
「貨泉(かせん)」が発見されました。

貨泉は2000年前の中国の新(しん)の時代につくられた物です。
朝鮮半島から伝わったものでしょう。
中国と行き来していたと思われる港にしか出てきません。
だから2000年前昔の弥生時代には津之郷は港であったと
分かります。
また縄文土器や土師器、須恵器も出てきました。
縄文時代の後期から人が住みつき、弥生時代に大きな集落をなし、
古墳時代にも集落があったことがわかります。
地元の健康ウォーキングロードになっている。
津之郷 弘法大師〜親水公園コース

 足利義昭 津之郷御殿場屋敷跡


本谷遺跡の前から 北に上がる。惣堂神社がある。
将軍足利義昭を祀ってある。


足利義昭が鞆から京都に帰るまで2年間居住した
(天正13年から15年)御殿場屋敷跡がある。

眺めはホッとするような景色である。

地主さんが休憩中 

「掘っても何も出なかった」 小高い丘には柿の木植えている。

 
御殿場屋敷跡からの眺め

ホッとするような景色  

惣堂神社がある。

将軍足利義昭を祀ってある。  
備陽六郡志
「将軍義昭(足利幕府最後の将軍)を祀っている。
御神体は黒装束・烏帽子姿の
義昭と御台所の像である」と書かれている。

天正元年(1573)織田信長に追われた義昭は、紀州・由良から
鞆に逃れ、山田一乗城主・渡辺氏
庇護されます。その後津之郷へ移り、
御殿畑に居住したと伝えられています。

   足利義昭像(東京国立博物館蔵)
麒麟(きりん)がくる 大河ドラマ2020(令和2)年1月〜
足利義昭役  俳優:滝藤賢一
鞆幕府とは
戦国時代、織田信長によって擁立された室町幕府第15代将軍の足利義昭は、
やがて信長と対立。1573年に京都を追われ、流浪を重ねながら最終的に
毛利輝元を頼り、鞆に身を寄せます。
一般的に義昭が京都を離れた時点で室町幕府は滅んだとされますが、
義昭はその後も征夷大将軍の地位にあり、1576年に鞆で政権を構えました。
また毛利輝元を副将軍に据え、幕府直轄下の寺院を支配して援助を得るなど、
将軍としての影響力をもっていました。近年の研究では、諸説ありますが、
義昭が鞆を去る1587年までの11年間の政権を「鞆幕府」と呼んでいます。

   室町幕府最後の将軍 足利義昭とは
父は第12代将軍・足利義晴。兄の第13代将軍・義輝が暗殺され、
その後信長に擁され上洛し、第15代将軍になりました。
やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を形成。
一時は信長を追い詰めるも、京都から追われ、鞆に身を寄せました。
鞆から京都に戻った後は翌年に将軍職を辞して出家。
朝廷から准三后という高い位を受け、
1万石を拝領。晩年は御伽衆(おとぎしゅう)
として秀吉の話し相手を務めていました。

鞆では各地の大名に御内書(将軍が発する文書)を下すなど精力的に活動。
鞆の浦を一望できる鞆城を居館としたほか、いくつか周辺を移転しており、
1582年頃は鞆近くの常国寺に滞在しました。常国寺には御内書をはじめ、
義昭の遺愛品などが数多く残されています


足利義昭木造(惣堂神社)
廃和光寺塔の中心礎石は広島県重要文化財

和光寺は、

出土瓦等から奈良時代後期〜平安時代初期の古代寺院、

永禄5年(1562)再興して田辺寺と称するようになった。  

田辺寺(でんべいじ)


室町幕府最後の将軍 

足利義昭と九州征伐に向かう豊臣秀吉が対面した寺。

由緒ある古刹。


義昭は織田信長から追放以来 京都への上洛が叶いました。

新幹線の高架下を通り 街道に戻ります。  

水越(みのこし)峠

大潮の時海水がこの峠を越した記されている。


津之郷村と赤坂村との間に可屋村に水越峠があった。


上り坂続き 街道の趣きある 作り酒屋ある。


峠には四つ堂がある。  

峠には四つ堂 
2017/2/16
辻堂は主に西日本で見られるが、福山には特に多く、
四方の壁がない形態が目立つという。これまで市内で
260程度を確認。建て替えや補修をして引継がれてきた
ケースが多いという。江戸期の儒学者茶山が地誌
「福山志料」で、辻堂を「憩亭」と表現。当時の福山藩に
約600あると記している。旧街道沿いに多く、
「旅人の休み所として活用され、今も昔もコミニュティーの
場」と見られる。今回の調査は2017年度、日本遺産申請を
目指す福山市が、ストーリーづくりのため
進める歴史文化基本構想策定事業の一環。
  備後赤坂遊園

スベリ岩一号古墳入口標柱

赤坂・津之郷には多数の古墳がある

 
  08/5/6 スベリ岩一号古墳
「徒歩約10分標識」行きました

 

 昼食は古墳の上で食べました。
イコーカ山古墳 この古墳は津之郷町加屋から南に派生する丘陵
の先端部に築かれ直径約10mの円墳である。内部主体は未発掘
のため明らかでないが外部に二重の円筒埴輪をめぐらすていねい
な造りをし、平野のどこからでも望める場所に立地する古墳である。
古墳の周囲が削り取られ旧来の地形を変えるが南西に続く丘陵に
は4基の古墳からなる地下山古墳があった。また北部の赤坂・津之
郷には多数の古墳が確認され、この一帯が早くから文化が栄えたこ
とを物語っている。なお、この古墳の西裾にある宝篋印塔(ほうきょう
いんとう)は相輪を欠く室町期の形式を備えたものである。
赤坂学区案内板には
室町幕府最後の将軍足利義昭の供養塔と伝えられる。しかし、
義昭は毛利氏を頼って備後に来り、津之郷に隠棲中、天正15年
(1587)3月、西下した豊臣秀吉に赤坂のこの地で対面し、5月に
上洛している。なお、18世紀半ば、毛利藩の有馬喜惣太記述の
「中国行程記」では、池奉行の墓と記されている。現在、相輪は
欠けているが、室町時代のものと思われる。
赤坂の石の曼荼羅
高さ2m超、長さ4mの大きさ。
右側1.3mの円形に梵字の種子(しゅうじ)曼荼羅。

左側の長方形の中に漢字が読みとれない。

光明真言字輪といわれる。

説明書き 若奥さんに頂き 冷たいドリンク御接待 

そして素晴らしい庭を見せて頂きました  

赤坂八幡神社
常夜燈の角を右に曲がると赤坂八幡。
祭神は応神天皇、神功神后、三女神。
承和7年(840)創祀、建久2年(1191)の再建。
天正8年(1580)神辺城主杉原盛重により再興、
社領18貫(米110石ぐらい)を付与した。
当時の赤坂、早戸、可屋、津之郷の氏神であったが、
明治6年赤坂村社と改む(赤坂村史)。
古くは鍬前(くわさき)八幡ともいわれ、
中江(なかごう)八幡とも呼ばれる。 
境内の東側の丘の上に宝篋印塔は南北朝時代の作。

花崗岩製で、高さ2.3mです。基盤の四面には格狭間
(こうざま)が刻まれ、塔身(とうしん)には判然としないが
梵字のようなものが薄肉で彫られています。

相輪の形状と全体の均整が程よく整った、

完形の美しい塔です。銘はありませんが、

笠などの形状から南北朝時代の作と考えられています。

福山市重要文化財  

備後赤坂に間の宿

赤坂の大石ありました。  

赤坂一里塚跡


行程記「備後尾道より三里 備中板倉から十四里」。


今は何の跡もない。

古老の話しからそして 明治の地図から名残りあった。  

   今伊勢宮


応永33年(1426)鎮座。


伊勢信仰が盛んとなり各地にもある。


行程記には「此所諸大名籠立」「茶店」


諸大名この神社参拝した。



内宮 外宮が鎮座。

醤油醸造の匂い

たまご醤油の寺岡有機醸造株式会社

 
   08/5/6 (振替休日)歩きました

何時も閉まっています 

祭りだそうだ 

挨拶して拝みました。

  08/5/6(振替休日)歩きました

馬頭観音堂  


松永
江戸時代、塩田産業で栄えていた松永町において、下駄づくりが発達したのは、塩積み船の帰りに
安価な木材を持ち帰っていたことや、塩田用の海水の水路が木材運搬に、また遠浅の海が貯木適した
ことなど好条件に恵まれていたからです。そんな下駄に関する歴史や、1200点にも及ぶ世界各国の
珍しいはきものを、旧下駄工場を利用した日本で唯一のはきもの専門の博物館、
「日本はきもの博物館」で紹介しています。
日本はきもの博物館2013年11月24日(日)で閉館。

福山市松永はきもの資料館(愛称:あしあとスクエア)として
2015年(平成27年)7月4日にオープンしました。


塩の田んぼ〜塩田〜

松永の塩の歴史は古く、最も古い製塩の遺跡は6・7世紀頃のものといわれています。
福山藩に帰藩していた本庄重政は干拓事業の指導をし、1656年〜1667年にかけて柳津新田、
高須新田、松永新田に広大な塩田を完成させ、松永の塩の地盤を築きました。
以後300年、松永の塩は福山藩を豊かにし、地場産業として栄えてきましたが、塩業の
近代化と外国塩の輸入に押され、昭和30年代、塩田の歴史は幕を閉じました。

松永〜「塩」のまちから「はきもの」のまちへ
松永、はきもののまちとして有名ですが、近年までは塩田のまちとしても名を広めていました。
江戸時代、遠浅の海を干拓してはじめた塩つくりは、長い間松永の中心産業でしたが、時代の流れの中で
その歴史を閉じました。明治時代初期、塩を煮詰める薪材の利用から下駄つくりを始め全国に先駆け機械化で、
日本一の大産地となりました。松永の下駄は、手頃な大衆下駄として親しまれてきましたが、
生活様式の変わる中で今ではその技術をサンダルやスリッパに生かしています。
はきものを作り続ける松永は、日本人の足のふるさとです。



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関連サイト

神辺〜今津 散策

「塩」の町から「はきもの」の町