西国街道ぶらり旅 木野川(このがわ)の渡し〜玖波宿 
                                            2007/1/21(日) 広島県大竹市木野

この区間(約7km)、広島県の西国街道 完全踏破 となる記念の日です。
足かけ5年かかりました。
02/2/3(日) 節分の日
第11回近世西国街道散策会「広島市己斐〜本通り〜広島駅(猿猴橋)」 からスタートしました。

歴史の散歩道
旧山陽道の一部(木野川渡し跡より亀居城跡まで)を遊歩し大竹の歴史を偲びつつ
レクリエーション・体力づくりを兼ね、歴史を学んでいくために設定したもの。

行程
木野川の渡し場→津屋の本陣→太閤の振る舞い井戸→滕池神社(ちぎりいけ神社)→長州の役戦跡→
×通行止め 苦の坂 × 小方一里塚跡 小方宿 芭蕉の句碑 亀居城跡
通行手形あらため(亀居城石垣) 黒川 称名寺 玖波駅

宮崎県知事選 そのまんま東氏 当選。

宝塚市 カラオケボックス火災で3人が亡くなる惨事。
フジテレビ系「発掘あるある大辞典U」納豆やせ 捏造。
入試センター試験 2日目。第12回全国都道府県男子対抗駅伝は兵庫8年ぶり優勝。

@
10時20分 大竹駅発
 「鮎谷〜大竹駅」

バス乗車多い
タクシー4台で「中津原バス停」へ

「中津原バス停」降ります A
木野川の渡し場

小林三角和久(さんかくわく)から福島堤防を見る

A
木野川の渡し場

川の向うは 周防の国 小瀬

B
太閤の振る舞い井戸
C
長州の役戦跡



幕末維新と西国街道
幕末期、慶応二年(1866)六月から八月にかけて安芸国の西国街道を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。
幕府軍と長州軍との間で戦われた長州戦争である。

慶応元年(1865)十一月、幕府は彦根藩以下三十一藩に第二次長州征討のため出兵を命じ、
翌二年五月には幕府軍約一万三千が広島城下に集結した。
六月七日幕府軍による周防大島への砲撃を皮切りに、芸州口石州口小倉口でも戦闘が開始された。

六月十四日に開戦した芸州口の戦闘で、長州軍は幕府軍の先鋒である彦根・高田両藩兵を撃退し、
西国街道を東へ進撃する。そして、玖波(現大竹市)から大野(現在廿日市市)に至る

四十八坂で洋式訓練を受けた幕府麾下の諸兵及び和歌山藩兵らと対峙し、
約一ヶ月にわたって戦闘を交え、戦況はは一進一退を続けた。しかし、その後
戦況は長州軍の圧倒的優勢に傾き、八月七日未明、宮内村(現廿日市市)
専念寺と天王社に本陣を置いていた彦根・高田両藩兵からなる幕府軍は、
長州軍の奇襲を受けてたちまち瓦階した。

こうした中で幕府内部から撤兵の機運が高まり、事態は急速に終結へと向かっていった。

長州戦争によって、西国街道沿いの村々及び宿駅である玖波・廿日市は、
家屋が焼失するなどの甚大な被害を受けた。

将軍家茂の死により双方に休戦の機運が高まり9月2日厳島 大願寺において休戦協定が成立

C
滕池神社
(ちぎりいけ神社)
D
苦の坂

歴史の散歩道

D
苦の坂の峠

D
がけ崩れのため通行禁止
E
正面に亀居城跡

亀のような格好の城山です。

苦の坂とは同じ高さ

F
小方一里塚跡

この辺りか所在地は不明。

G
小方宿
の町並み

城下を守るカギ形の街道跡。

G
芭蕉の句碑
H
亀居城跡 登城

海上交通も見渡せる絶好の要地。
宮島が見える

H亀居城の石垣

慶長8年(1603)から5年の歳月かけて築城。
慶長16年幕府の一国一城令により廃城となった。

手形あらため「亀居城の石垣」

関ヶ原の合戦に敗れた 
西軍の毛利輝元は防長二カ国を与えられ本城広島をを去り、
東軍に味方した武将福島正則が芸備二カ国を与えられて、
その後に入りました。
広島に入った正則は領国の経営に乗り出す一方、
小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に
城を置いて守りを固めました。

 

H
亀居城から「苦の坂」

正面の谷の所
狭い街道を見とおせる絶好の要地。

福島正則は西の備えとして築城した絶好の要地
よく分かります。

I 称名寺

次回の参加案内ありました

 

街道沿いには

蝋梅咲いてました

小方宿に生花

御庄宿・関戸宿←小方宿→玖波宿

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