西国街道ぶらり旅(大野浦〜玖波)広島県廿日市市・大竹市 2006/11/18(土)
山沿いの道を 瀬戸内海の厳島を眺め 印象深い街道 約7kmぶらり旅でした。
紅葉の一日 楽しみました。ぶらり旅人は60名。
四十八坂、石畳の道、残念さん、三県一望の地 曇り空から昼から雨の街道でした。
幕末維新と西国街道 幕末期、慶応二年(1866)六月から八月にかけて安芸国の西国街道を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。 幕府軍と長州軍との間で戦われた長州戦争である。 慶応元年(1865)十一月、幕府は彦根藩以下三十一藩に第二次長州征討のため出兵を命じ、 翌二年五月には幕府軍約一万三千が広島城下に集結した。 六月七日幕府軍による周防大島への砲撃を皮切りに、芸州口・石州口・小倉口でも戦闘が開始された。 六月十四日に開戦した芸州口の戦闘で、長州軍は幕府軍の先鋒である彦根・高田両藩兵を撃退し、 西国街道を東へ進撃する。そして、玖波(現大竹市)から大野(現在廿日市市)に至る 四十八坂で洋式訓練を受けた幕府麾下の諸兵及び和歌山藩兵らと対峙し、 約一ヶ月にわたって戦闘を交え、戦況はは一進一退を続けた。しかし、その後 戦況は長州軍の圧倒的優勢に傾き、八月七日未明、宮内村(現廿日市市) 専念寺と天王社に本陣を置いていた彦根・高田両藩兵からなる幕府軍は、 長州軍の奇襲を受けてたちまち瓦階した。 こうした中で幕府内部から撤兵の機運が高まり、事態は急速に終結へと向かっていった。 長州戦争によって、西国街道沿いの村々及び宿駅である玖波・廿日市は、 家屋が焼失するなどの甚大な被害を受けた。 |
9時45分 JR大野浦駅集合 西へ100mへ @塩屋坂(四十八坂の入口) 鳴川長峠まで大小48の坂や峠が約3km続く。 |
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A向原の石畳
平成3年石畳道調査され埋め戻されている 調査中の写真パネル見ました。 |
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B石畳の道
古代山陽道の案内板 焼けて見にくい |
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B石畳道モニュメントとして残っている | |
C今川貞世歌碑
「浪の上に 藻塩やくかと 見えつるは あまの小船に たく火なりけり」 応安4年(1371)9月21日 |
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C振り返って厳島が見えます | |
D山伏坂
「経小山登山」コース入口 |
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E宮浜温泉 海望の源泉地の碑
平成5年に地下1400mまで掘削、掘り当てた |
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E掘削工事の副産物です。
ボーリングした花崗岩はピンク色 |
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E庭園の宿として名高い「石亭」
「2023日本庭園ランキング Shiosai Project」において、 石亭はランキング5位に選出されました。 街道道から少し離れ 寄り道です。 |
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F京大慰霊碑・旧陸軍病院跡
昭和20年9月17日この地方を枕崎台風が襲い、 |
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西国街道に戻ります
G残念さん道
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G残念社 四十八坂の古戦場と残念社 慶応2年(1866)7月9日、四十八坂を単騎で西に向って 馳やる幕府軍の武士がいた。 これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして、 狙撃してしまった。その武士は「残念」といって倒れた。 後にこの武士は、丹後宮津藩士の依田伴蔵で、 軍史として長州軍営に赴く途中であったことが分かり、 長州軍は遺憾の意を表した。 残念社は、 村人が伴蔵の戦死を悼んで祭ったものである。 |
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H吉田松陰 腰掛岩
安政元年(1854)、ペリー来航の時、 人馬艱(くる)しむ 輿窓(こしのまど)、時に獨(ひと)り笑う |
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赤く紅葉しています
12時5分〜12時50分 手形あらためました 厳島をバックに集合写真 雨がポツポツ降ります |
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I三県一望の地 広島県 厳島
吉田松陰休憩場所は立ち木で見えにくい 広島岩国道路沿いの |
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I三県一望の地
小雨 降り 見通し悪い 大分県 見えますか? |
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I三県一望の地
山口県 |
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J鳴川 長峠
難所と云われた 「四十八坂」 終わります 大竹・岩国のコンビナートが見える |
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廿日市市から大竹市に入ります
K鳴川の石畳
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K石畳を登ると鉾の峠へ
鉾の峠一里塚跡は藪の中、広島から七里。 |
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LJRのトンネルの上を歩きます
「けものみち」荒れた道であったが、地元の人の整備により 通行可能となった。 |
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M玖波隧道 峠の下 明治12年にトンネル作られ国道となった。 小山が「馬ためし峠」は廃道となって通行困難です。 雨が本降り トンネル内で雨宿り 説明聞きました。 |
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N子だくさんの地蔵さん
トンネル出るとあります |
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玖波宿 長州戦争で全てを焼失してしまった O角屋釣井と高札場跡
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O玖波本陣跡
嘉永6(1853)年9月11日 篤姫 御泊まりの由 |
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Oむくり屋根 | |
13時55分 JR玖波駅
14時4分発 上り乗車 |