老舗旅館「恋しき」 2007/11/20(火) 2012/11/18(日)2016/10/30(日)
2018年3月18日(日) 広島県府中市府中町
2025/2/13(木)
府中市の「恋しき」で企画展 料亭旅館当時の繁栄や文化人交流を紹介
府中市の歴史
市名となっている「府中」は、「備後国(広島県の
東半分)」に、各国を統括するために設けられた
役所である「国府」が設置されたことに由来し
ています。府中市に国府が置かれた背景として
は、古くから近畿と北九州、山陽と山陰を結ぶ
交通の要衝であり、文化交流の中継点でもあっ
たことによります。奈良時代(8世紀)から平安
時代(12世紀)までの約500年間にわたって地域の政治・経済・文化の中心となり、
情報・物資が交流して多くの人々が関わりをもって場所となっていきました。
当時、紙漉き、筆・墨、木箱、木簡などの生産や、文書を巻物にすることなどが行われ
ており、鍛造や鍛冶のほか、漆を用いた工房があったことがこれまでの発掘調査
から分かっています。その時代の最新の技術や多くの技術者・職人が集まっていた
ことが想像でき、今日につづくものづくりの基礎がこのとき既に整っていたとも考え
られます。
江戸時代には、山陰と山陽を結ぶ石州街道の
宿場町として栄え、単に人々の往来だけでな
く、物資の流通も盛んに行われました。こう
して商品経済が発達する中で、府中周辺の特
産品である木綿、藍、煙草など、また山陰や中
国山地も産物が、石州街道を使って全国に運
ばれていきました。
明治時代に入ると、近畿の政治の中心施設で
ある芦品郡の郡役所(現:府中市歴史民俗資料
館)が市内に置かれ、ここ恋しきも「旅館土生
屋」として創業されました。昭和期には高度
経済成長を背景に金属工業の集積が進み、
今日の内陸工業都市の産業基盤が形成され
ました。
このように府中市では、長い時間を経て培われた地域資源をいかし、品質、生産量
ともに日本一を誇る府中タンス、味噌、備後絣に加え、工作機械、建設機械、鋳鉄など
金属機械工業の集積をあわせてもつ、全国的にもユニークな地場産業都市として発展
してきました。
恋しきの歴史
恋しきは、明治5年に「旅館土生屋」として創業されて以来、街道を行き交う人々の宿泊施設と
して?栄し、犬養毅や岸信介、井伏鱒二や田山
花袋などをはじめとする多くの政治家や文化
人からも、格式の高い料亭旅館として愛されて
きました。
大正時代には、大いに発展した日本の産業同様、府中にも産業が興り栄
えました。これを契機に経済界から社交の場にふさわしい料亭旅館の存在が期待
されるようになると、経済界の支援により建物は3階建に大増築され、また、当時
欧米で流行していたデザイン様式を取り入れて、類まれな雰囲気を醸し出す建物
となりました。
こうした恋しきの歴史的・文化的価値に加え、
近世の石州街道沿いの歴史的町並みを形
成するうえで欠くことのできない建物であ
ることから、平成16年に主屋及び4棟が
国の登録有形文化財に登録されました。
また、庭園は、300坪と広大で泉水築山を
配した本格的な回遊式となっています。この庭
園を囲むように五棟の離れが点在し、それぞれ茶室や控室を備えており、建物の
風雅な外観が木立に見え隠れするという景色は、訪れる者を魅了してきました。
このように、庭園も恋しきの魅力を語る上において重要な要素の一つとなってい
ます。
『料亭 旅館恋しき』の繁栄と交流 に寄せて
明治5年創業の恋しきは、4代118年に渡り土井家により、多くの方をお迎えし
てきました。佇まい、調度品そしておもてなしすべてが一流で高級料亭旅館とし
て政治家や多くの文人墨客、地元の旦那衆に愛されました。
平成2年その役割を終え、廃業後も邸宅として土井家が建物や庭を維持管
理して来られました。平成17年地元の有志や企業により「株式会社恋しき」が
設立され、土井家から受け継がれた恋しきは、複合施設として再生されました。
その前年、平成16年11月には、国登録有形文化財に登録されています。
令和2年に、運営が府中市に引き継がれ、令和3年11月から一般に公開
され、館内や庭園を自由に見学できるようになるとともに、貸館・貸室として会
議や写真撮影、コンサートなどのイベントに利用されています。
また、令和6年4月から、高級料亭旅館を再現するため日本料理店「そ 恋
しき」の営業が始まりました。
今回、料亭旅館当時に実際に使用していた調度品や土井家が大切に保管
されていた書簡、写真などほんの一部ですが、ご覧いただく運びとなりました。
展示品を通じて当時の様子をお伝えできれば幸いです。
かつて、府中に全国的に著名な方が訪れる旅館であった。それは、府中が古
く国府が置かれた時代から始まり、石州街道の宿場町として栄えたこと知る
手がかりになることでしょう。
一般社団法人府中市観光協会
風雅な社交の歴史 石州街道・恋しき物語
恋しきの命名と由来
府中は大化の改新後、備後の国府が置かれた古い歴史を持つ街として発展してきまし
た。かつての石見銀山に通じる石州街道の要衝として栄え、商品経済が発展する江戸
時代には、周辺の特産品(木綿、藍、煙草など)や山陰・中国山地の産物が、この石州
街道を経由し全国に運ばれました。宿駅のあった府中はこうした産品の集散地として隆盛
し、現在のまちの原型ができあがりました。明治5年土生町に住む土井利助は、街の中
心に旅館土生屋を開業。当時周辺に名声を馳せた豪遊財界人延藤雄三郎が旅館土
生屋なんて野暮ったいと「こいしき」と命名しました。利助の子タケが女将となり長女喜久
代と婿秋雄の3人が恋しきを盛り上げ、その存在は世に知れ渡るところになりました。大正
7年、当時のお金で2万円を投じて高僧が3階から指揮し築園したとされる庭園などもあ
り、意匠の違う高欄を配する三階建ての主屋は近郷から見物人が引きも切らず賑わい
ました。庭の池には、外溝より水を引き込み鯉が放たれました。
昭和初期に描かれたと思われる前田虹映の絵はがき「旅館料亭戀しき」が残っていま
すが、往時の庭園を背後から俯瞰したもので庭の泉水を中心に、離れ(桐・さつきの間)、
3階建の主屋などが配され「福塩線随一乃料亭恋しき」と記されているように昭和初期に
はすでに他所に知れ渡った格式の高いシンボル的存在であったことが、この絵はがき1枚
からわかります。先人たちは各地の人々とここを舞台に社交し、情報交換してものづくり
の心を養っていたのでしょう。
恋しきを訪れた人々
「恋しき」を語る時忘れてならないのが先に挙げた犬養毅をなじめとする多くの著名人で
す。全国軟式野球大会(開催地:福山)の名誉総裁であられた高松宮殿下(ふじの間で
の昼食)。選挙応援のために、岸信介元首相、福田赳夫元首相、鳩山威一郎元大臣
などの政界人の宿泊。あるいは戦後吉川英治が音戸の瀬戸を取材し、長期滞在して
「新・平家物語」を執筆、当主夫婦と吉川夫婦の没後まで続いた交際。先代当主と文
化勲章作家の井伏鱒二との交誼。府中出身の彫刻家今城國忠と、その友人関係で週
刊新潮に「おごうさん(喜久代)」を書いた山口瞳。週刊朝日に恋しきを紹介した永六輔な
どの著名作家と府中の出会いの舞台が「恋しき」でした。
桐の間で鯉の絵を描いた金島桂華。大広間で公演した人間国宝の狂言師茂山千作。
備前焼の重鎮人間国宝の陶芸家金重陶陽。商取引のため度々投宿した東洋工業(現
マツダ)社長松田恒次。福山支店時代恋しきに来館して以来交流を深めた野村證券元
社長会長田淵節也などの経済人や数多くの芸能人、スポーツ選手等など多くの人たち
の交流の場として機能しました。
「恋しき」に残る往時の調度やもてなしの品々にそれらを伺い知ることができます。「恋しき」
社交の歴史からは、先人たちの風雅な感性が垣間見えます。
一笑千山青(いっしょうせんざんあおし)
犬養毅(号:木堂)が1913年(大正2年)6月に宿泊の際に残した書
身の回りに振りかかる困難や苦労も笑い飛ばし心の糧にすれば目の前が
開けてくる、という意味
「癸丑孟夏」(きうしもうか):1913年(大正2年)旧暦4月下旬
から6月上旬)
「三層楼」:三階建の立派な建物
「走筆」:走り書き
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2024/4/24(水)
広島県内6自治体では20歳から39歳の女性が2050年までに「50%以上」減少する
「消滅可能性自治体」に県内では、竹原市、府中市、安芸高田市、江田島市、安芸太田町、
神石高原町の6つの自治体が該当しました。
2024年4月3日 登録有形文化財「恋しき」に料亭「そ 恋しき」がオープンしました。
2020/9/22
府中市「恋しき」10月取得 12月に活用検討委発足、指定管理者を2年後選定
府中市は10月1日、旧料亭旅館の複合施設「恋しき」(同市府中町)を取得する。
観光客の本格的な受け入れに向け、活用策を協議する検討委員会を12月に発足。
2年後をめどに指定管理者を選ぶ。保存と活用を進めて、かつて各界の著名人が
利用した施設のにぎわい復活を目指す。
恋しきは、施設自体と同市の歴史や文化、観光資源をPRする目的で、
資料の保存や展示、貸店舗、貸室として利用する。庭園の開放や宿泊、催しも想定する。
入館は無料。1日の使用料は母屋全室5万円、同個室4千円、同大広間2万円、離れ5千円と定めた。
2020年5月29日(金)
府中市は旧料亭旅館の複合施設「恋しき」の取得と活用に乗り出す方針を明らかにした。
各界の著名人がかつて利用するなど文化的価値が高いと評価。
一方で築100年以上の母屋や離れは老朽化が進み、現在の運営会社では維持管理が続けられないと判断した。
建物と土地の取得、修繕にかかる事業費は計2億1200万円と見込む。
市は古民家ホテルとしての再生などを検討する方針。
市長「新型コロナで大変な時期だが、市の発展を図るには観光振興や賑わいづくりも重要。
アフターコロナを見据えて取り組みたい」
多くのお客様に永らくご利用を頂きお世話になっておりました、本館飲食テナントの
「町家Caffe &dining恋しき」は2019年3月31日をもちまして閉店をいたしました。
2018年3月18日(日) 備後一宮〜天領上下町の歴史を巡る 昼食 「恋しき限定メニュー145周年記念ランチ」
銀山街道・三次市甲奴町宇賀から府中出口への旅 2016年10 月29 日(土)〜30日(日)ゴール後2階で昼食
広島県におけるたばこ葉栽培の中心は、江戸時代から近代まで県東部だった。
元和元年(1615年)、将軍徳川秀忠に献上するため備後国神石郡豊松村(現神石高原町)にてたばこ葉栽培が始まり、
後に「備後葉」と呼ばれ神石郡や甲奴郡で栽培された。
また元禄年間(1688年から1704年)から安芸国沿岸部で試植が始まったたばこ葉は、
賀茂郡や豊田郡で栽培されるようになりのち「三原葉」と呼ばれた。
つまりたばこ専売初期においては、備後葉を扱うため現在の府中市に、
三原葉に加え塩の専売と当時商業の中心地であった尾道市に、専売業務の拠点が置かれ、
広島市内には後述の通り当初は出張所が置かれていた。
ちなみに、府中の拠点であったJT府中工場は2002年に閉鎖され、
敷地は現在府中市立府中小学校・府中中学校として活用されている。
百年企業
2014年11月。創業百年を超える100年企業「ハンドレッドクラブ」を結成。55社が参加。
伝統をを守ると同時に環境の変化のなかで生き延びてきた。
「自分のところだけでがよくてもだめです。仕入先、お客さん、従業員をそれぞれ大切にしてきた」
「お客さんが第一。売る物が変わっても『お客さんに喜んでいただくこと』が代々引き継がれている」
「その場限りのことをせず、正しいやり方を貫くことが大切だ」
「ごひいきにしていただくお客さんを大切にしてきた。先々代からは自慢できるものを作ることを言われ、実行してきた」
共通点は先見の明と変化を恐れない決断力。核になる技術力。
ハングリーな土地だったから。自分で道を開き、才覚で生き残ってきた。
府中は備後の国府がおかれた古い歴史を持つ街。石見銀山に通じる石州街道の要衝。
カフェや貸室など設けた市民の交流施設に改修され、17年ぶりの再出発(1990年閉館)
明治5年(1872)創業。3階建ての母屋や本格的な日本庭園を備え、多くの文人墨客が
立ち寄る、備後地方を代表する割烹旅館として賑わった。母屋2階にある44畳の大広間。
犬養毅が宿泊した際に残した揮毫(きごう)額も伝えられている
2012/11/18(日)
恋しきが、リニューアルオープン!!
「町屋ダイニング 恋しき」として竃イ笛との提携により、
新しい和風ダイニングとして再オープン。
2012/7/20
和風レストランとして再出発する恋しきの本館 市内初の常設観光案内所とする。
木造3階建ての本館1、2階延べ717平方メートルを5千万〜6千万円かけて改装し、和風レストラン・宴会場とする。
恋しきは8月より改装工事の後、11月中旬に再オープン。
収益が上がらず、12年3月末で4400万円の累積赤字を抱えている。
「国の有形登録文化財で、中心市街地活性化に役立つと判断した」
「再出発して経営安定化に務める」
「建物や中庭の魅力を生かした店舗にしたい」
04/9/17
国の文化財建造物に登録される
6月から改修工事が進められてきた。総事業費は約2億円。
懐石料理が味わえる料理店や茶室もあり、旅館としての歴史を伝える写真や書画
の展示会など、12月28日まで記念イベントが開かれている。
4年前に歩いた。
人間ドッグ 終わっていきました。
2012/11/18(日)新しい和風ダイニングとして再オープン
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2012/11/18(日) 「町屋ダイニング 恋しき」として リニューアルオープン!! 各部屋 昼食場所として早速利用されていた。 |
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玄関 |
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日本庭園へ |
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1階 畳の間から板の間にテーブルで食事 新しい和風ダイニングとして再オープン |
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1階 和風ダイニング 2階にある44畳の部屋 テーブルで食事中でした。 |
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「恋しき」へ行く前に昼食。 地元の人に紹介して貰いました。 府中焼き 古川 新しい味を追求して50年 ミンチ肉。そば入り。 約40軒のお好み焼き店が営業中。 備後府中焼きを広める会 平成20年4月に設立。 |
07/11/20(火)訪ねる
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3階建ての母屋 古い格子戸似合う |
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3階建ての母屋 |
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行灯「お宿 恋しき」 |
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玄関 |
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玄関 |
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恋しきの下駄 |
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04/9/17 国の文化財建造物に登録される |
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ブランド銘品展
優れた創造性はいつも遊び心から生まれるものです。 「恋しき」で遊び、この地でものづくりをしてきました。 お客様に感動を与え続けていく。一流職人たちの「こだわり」。 |
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多くの文人墨客が眺めた庭
犬養毅・高松宮殿下・岸信介元首相・福田赳夫元首相 |
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木造三階建ての母屋 |
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犬養毅が宿泊した際に残した揮毫額(きごうがく) |
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「一笑千山青」揮毫額 |
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風雅な 社交の歴史展 「鯉一式」と書かれた食器箱などが現存する
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戦後、吉川英治が音戸の瀬戸を取材し、長期滞在して
「新平家物語」執筆。当主夫婦と吉川夫婦没後まで続いた交際。 |
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写真を展示 |
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母屋2階にある44畳の大広間。 |
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恋しきの命名と由来
明治5年 土井利助は土生から出て町の中心に 旅館土生屋 を開業。 豪遊財界人延藤友三郎が旅館土生屋なんて野暮だと |
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旅館名は客をコイ料理でもてなすのにちなんで 「鯉(こい)一式」をもじったと伝えられる。 尾道より山越えで鮮魚等の食材を天秤棒にかついで 誰も忘れること出来ないユニークで粋な名前である |
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本格的な日本庭園 |
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本格的な日本庭園 4棟の離れ 菊の間、桐・さつきの間、竹・萩の間、桔梗の間など。
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本格的な日本庭園
カフェ すいれん・懐石料理 花みずき・茶席・貸室・物産店 展示会・セレモニー・パーティー 新生「恋しき」は、府中の心のふるさと、 |
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ぶな科 柏(はく) 樹齢約1000年 |
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