前原遺跡 現地説明会 広島県府中市父石町 2003/2/8(土) 14時〜
03/12/20(土) 14時〜 の現地説明会は中止。
今年は遺跡のまわりを区画する溝が見つかり、特に西側の溝は古代山陽道の側溝の可能性があり、
重要な発見となっています。
荒天(この冬一番の冷えこみ雪ふる)のため説明会は中止。
「駅家」説に新展開 大建物跡 住居?倉なら正倉院級の規模
昼から雨が降り 足元ぬかるみ 説明会 聞きに行きました。古代のロマンを感じました。
【現地説明会資料より】
前原遺跡とは?
1935年の福塩線の工事で、奈良時代の瓦が大量に出土し、遺跡が発見されました。かつては寺院跡と考えられ、
「父石廃寺」や「前原廃寺」と呼ばれていましたが、現在は、「父石遺跡」とか「前原遺跡」と呼ばれ、
遺跡の性格については、「葦田駅(あしだのうまや)」、「葦田軍団(あしだぐんだん)」などと考えられています。
葦田軍団説は、府中高校教諭だった豊元国氏が指摘されたものですが、軍団については制度の実態が明らかでなく、
調査例もないため、当否は明らかではありません。
駅家(うまや)説は、「マエハラ」という地名が「ウマヤ→マヤ→マエ」とつながることや、大量の瓦が出土すること、
瓦の文様の比較から推定されていたものです。
これまでにわかったこと
1994年度に、道路工事にともなって発掘調査を実施し、遺跡の周囲を囲うと思われる溝を確認し、軒平・軒丸瓦、面丸瓦、
鬼瓦を含む大量の瓦が出土しました。文様の特徴はそれまでに採集されていた瓦と同じでした。また、
かつて土馬(どば、素焼きのミニチュアの馬)も出土しており、なんらかの「まつり(まじない)」が行われたようです。
昨年度は、駅家の中心施設(駅館院・えきかんいん)の周囲を巡る築地塀(ついじへい)跡の確認と、内部の建物跡の
確認を目的として調査しました。4ヶ所のトレンチ(試掘のあな、第1〜4)を調査し、第3トレンチで東側の築地塀と推定される
2本の溝と盛土を確認し、第4トレンチでは、掘立柱から礎石建物に改築された、大規模な建物跡の一部を確認しました。
掘立柱建物の柱穴の規模は広島県で最大クラスでした。なお、第2トレンチでは、遺跡を造成する際に一部が壊されたと
考えられる、横穴式石室をもつ古墳を検出しましたが、古墳の霊を鎮めるための土器がお供えされていました。
土器は、飛鳥時代の終わりから奈良時代の初め頃のもので、遺跡が整備された時期を探る手がかりが得られました。
古代山陽道・駅家とは?
駅家とは古代の官道(今の高速道路や国道)に沿って一定の距離ごとに置かれていた施設(いまのサービスエリヤとか道の駅)で、
府中市の辺りは、都と太宰府をむすぶ、外国からの使節が通る最も重要な路線である山陽道が通っていました。駅家には、
規則で乗り継ぎ用の馬が常置されていました。山陽道の駅家は、外国の使節の宿泊所も兼ねていて迎賓館的な性格もあった
ため、瓦葺き、白壁、赤塗りの建物であったと伝えられています。実際、兵庫県龍野市の布勢(ふせのうまや)跡(小犬丸遺跡)では、
大量の瓦のほかに漆喰や赤塗りの瓦が出土しています。芦田駅家の推定地は、前原遺跡のほかに後開地遺跡(土生町)を挙げる
説もあります。
今回わかったこと
今年度は、大規模な建物跡の規模の確認と、北側の築地塀の確認を目的として、3ヶ所のトレンチ(第5〜7)を調査しました。
第5トレンチ
一辺が1〜1.3mの隅丸方形の柱穴が31ヶ所確認されました。深さは、1m前後、50〜60cm、30cm前後の3種類があります。
建物の規模は、東西方向(梁行き)の柱が5本、柱の間隔が2.4mずつで計9.6m、南北方向(桁行き)の柱が7本以上、
柱の間隔が3.6mずつ計21.6m以上の建物であることがわかりました。また、建物の土台(基壇)の跡も出てきています。
東西約12m、南北23m以上です。
また、建物が立てられる以前の溝が見つかり、大量の土器が出土しました。出土した土器から、奈良時代前半ごろのものと
思われます。
《建物の性格は?》
総柱構造の建物は、「くら(倉、蔵、庫)」や住居などの床張りの建物、もしくは厩(うまや)などの仕切りのある建物しか考えられ
ません。現存する古代の倉のなかでこれに匹敵する規模のものは、東大寺正倉院しかなく、倉としたら非常に立派なものです。
住宅だとしたら皇族クラスの者に相当する規模で、可能性は低いと思われます。また、床を支える床束の柱穴が大きすぎる点も気に
なります。厩としては立派すぎますし、通常単列で細長い構造をとり複列は使いにくく、可能性は低いようです。
梁間(東西)と桁行(南北)の柱の間隔が極端に違うというのも、この建物の特徴ですが、総柱でこのような特徴をもつ建物は、
野磨駅家と推定される兵庫県落地飯坂(おろちいいざか)遺跡や近江国丁の東400mにある惣山(そうやま)遺跡などでも確認
されています。現状では、官衙(かんが、役所のこと)に関連する非常に大規模な特殊な建物であるとしかいえません。
少なくとも前原遺跡が寺院である可能性はほとんどなくなりました。
まとめ
前原遺跡では、大量の奈良時代の瓦が出土し、瓦を葦いた基礎石が存在していたのは確実ですが、奈良時代にそのような瓦葺き礎石
建物が建っていたのは、都以外では、寺院や駅家ぐらいしか考えられません.。国府政庁でも奈良時代の終わり頃までは掘立柱建物で
あったと考えられており、現状では前原遺跡=駅家説がもっとも有力だと思われます。
今回の調査では、掘立柱から礎石建物に建替えられた巨大な建物が確認されました。その規模や柱穴の大きさから、
国府政庁(国府の中心施設)に匹敵する官衙施設があったとことが推測できます。このような巨大な建物跡が明らかになったことで、
駅家である可能性はさらに強まってきたといえます。また、大規模な掘立柱建物が、奈良時代の途中で礎石建物に建て替えられるのは、
広島県府中町の下岡田遺跡(安芸駅)や兵庫県龍野市の小犬丸遺跡(布勢駅)と同様のあり方を示しており、前原遺跡=駅家説を補強
するものです。今後は、古代山陽道の解明を含め引き続き調査を深めていくことが必要になると思われます。
一方で、建物に先行する奈良時代前半期の溝が見つかったことで、中心部が整備された時期の手がかりが得られました。
昨年度見つかった横穴式石室が破壊された時期から、遺跡周辺が奈良時代初め頃に広範囲(現地形から推定すると南北約200m、
東西約100mの範囲)にわたってほぼ平坦に造成され、ついで奈良時代中頃以降に中心部(同じく東西、南北とも70〜90mの範囲)
が整備されたと推測されます。
備後国府と前原遺跡
古代山陽道は、当時の政治文化の中心である国府域に近接していたと考えられますが、まだ具体的な位置は明らかになっていません。
前原遺跡を駅家と考えた場合、遺跡の西を山陽道が走っていたと思われますが、地形から考えると、駅家、山陽道とも条件が厳しい
ところに設置されていることになります。備後の各駅家のうち、国府の西の入口にある芦田駅家は特に重要な地点であり、
駅家や山陽道の設置にあたっては、駅間距離や通行の便だけでなく、国府の存在も背景として大きく影響していたと想定されます。
立地条件の悪さは、国府との緊密な関係を表しているといえるでしょう。
【現地説明会資料より】
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