府中市 八尾城跡 八尾山頂(346m) ハイキング 2003/5/16(金)
健康への道100選 4.0km
府中公園→憩いの池→府中八幡神社→八尾城跡・八尾山頂(346m)→
歴史の小径→大戸直純墓→首無地蔵→府中公園
全コース歩いた場合のエネルギー消費量 138kcal(50kg) 165kcal(60kg)
ごはん軽く一杯(110g) 160Kal
ケーキ1個 (80g) 270Kal
ビール小びん1本(334ml) 130Kal
午前中は曇り 昼から薄日がさし 蒸し暑い一日でした。約2時間のハイキング。
新緑の池にはアヒル・古代ハス。文学の小道。美味しい水。
八尾城跡からの眺望。石鎚神社。大戸直純の墓。
「出口郷愛会」の案内板が詳しく説明してあり歴史を感じた。
写 真 | 記 録 |
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府中公園 大賀ハス 1951年、大賀一郎理学博士が千葉県検見川の 泥炭層から約2000年前 の古代ハスの実を発見、 その発芽に成功し研究者の名にちなんで 「大賀ハス」と命名。 1991年武蔵の府中(東京)と「友好都市」 親善交流を行うことになり、 友好の輪を「ハスの花」に託して 根付かせようとの思いから、 記念として「大賀ハス」を譲り受けました。 憩いの池は大戸直純が灌漑用の池を造る (むすび池 別名 大戸池) |
遊園地・野球グランド・野外音楽堂・ 碑文などありました。 |
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府中八幡宮 境内は文学の道 「たたなわる 備後山なみ 白み初め 明けの鳥よもに ひろごりゆけり」杉原茂 「出口川水清よりて ほたる飛び |
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社殿の裏山にある「官の壇」(天狗松ともいう) といわれる場所に八尾城 の守護神として祀られました。 創立は芦品郡誌によれば 嘉吉三年(1443年)山名持豊の目代(もくだい) 宮田備後守政輝が 八尾城に赴任して建立しました。 天分七年(1538年)八尾城主 杉原理興が神辺城に移ったため、 神社は一時さびれたが 承応二年(1653年)郷民相い計り社殿を この羽中山に移しました。 寛文十二年(1672年)府中市の 庄屋河面市右衛門直賢が願主となり、 元禄五年現在の末社天満宮の 社殿を八幡神社の本殿としましたが 寛保二年(1742年)更に新たな本殿を造営、 昭和36年焼失、 昭和44年現社殿が再建されました。 末社には天満宮を始め府中の 産業である家具建築の神、 鉄工の祖神などが祀られています。 坂がキツイ、美味しい水が力をくれた。 「妙見山」鳥居過ぎたら八尾城跡へ。美味しい水 |
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八尾城跡からの眺め素晴らしい。 八尾山(346m)は千畳敷がある。 ご婦人が八尾城跡の回り清掃中。 「七ツ池」への案内標識ある。 |
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歴史の小径 石鎚神社 祭神 石土毘古神(イワツチビコノカミ) 石鎚権現ともいわれ、明治十四年(1881年) 四国の石鎚神社より 勧請して祀られています。梶田佐吉、森川篤三郎氏ら93名が 昭和6年4月21日五十年祭を行っています。 又羽中の山名氏が勧請した とも伝えられています。昭和2年頃までは参詣人も大変多く 7月1日から7月10日までの間、山開きのある 四国石鎚山に登るため 中間の行をする場所でもありました。 ここより少し離れて不動明王が 祀られています。不動明王を一心に拝むと 大ローソクの蝋が流れて 竜神の形になり上部に頭ができると登り竜 として吉兆といわれています。 大戸直純の墓 寛延二年(1749年)に生まれ、27才にして 出口村の庄屋となり人情 厚く村民から尊父慈母の如く慕われていました。 向学心に燃える郷党 の若者のため楽群館という学塾を開設したり、 天明の大飢饉の時に おきた百姓一揆の後、農民のため米麦を出資して 備後で最初の社倉を 造り一朝有事に備えました。 又府中八幡神社の下に灌漑用の池( むすび池・別名大戸池ともいう)を造るなど 多くの功績を残し、 文化三年(1806年)57才で没しています。 碑文は福山藩の 儒者菅茶山、筆跡は頼春風のものであります。 |
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