本郷宿〜竹原新庄 散策 2003/4/29(火) みどりの日
西国街道 本郷宿〜西条四日市宿はJR山陽本線から離れている、車とバスの移動となる。
行程
横大道→瓦坂峠→サテライト山陽(けいりん場外車券売り場)→日名内→二本松古墳→
貞丸古墳→御手代(みとしろ)古墳→南方村役場跡→梅木平(ばいきひら)古墳→
横見廃寺跡→甑(こしき)天満宮→菅公手掘井戸
「古墳の里」本郷、「歴史の散歩道」全部歩きました。
古代のロマンを 歴史を 感じました。
皆さんとは約3ヶ月振りの再会でした。
約12km、約6時間。
ツツジが赤・白・ピンクがみどりに映える 目に優しい みどりの日に散策。
こいのぼり 元気に泳いでいました。
天気予報は低気圧・前線で降水確率は?50%心配しましたが10%の予報。
天気は良く蒸し暑い一日でした。
瓦坂峠手前では 自動車が小川に脱輪していました。峠道は石畳 新しい物、古い物?
梨和川と尾原川の合流するところでは 今では珍しい光景、子供二人 釣りと泳いでいた。
デジカメを新しく買い使いました。記録メデアは色々あり、私はこだわり変更せず。
28日 日経平均 またまたバブル後最安値 7607円88銭。
広がる悲観論、日本売り。ソニー株・4大金融グループ値を下げる。
新型肺炎が拡大して企業活動に悪影響?
写 真 |
記 録 |
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横大道にある道標(明治32年4月)
地蔵さん
瓦坂峠(竹原市新庄町→豊田郡本郷町)
送電線の下、熊笹あり、倒木もありました。
途中に「横大道古墳群」表示板ありました。
横大道(よこだいどう)の地名
古墳多い、
古代の山陽道がこの辺りを通っていたようだ。
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街道は
「サテライト山陽」の駐車場横から
草木が繁り通行困難な「花むら温泉」辺り
ホテル横 「追分のバス停」辺り
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宗長神社(南方神社)は二本松古墳
福山市にある県立歴史博物館に石棺の実物大の複製がある。
棺の内部は、腐敗を防ぐためや呪術的な意味からベンガラで赤く
塗られています。
石材は兵庫県加古川市で産出する竜山石が用いられており、
当時の有力者同士の政治的繋がりや、流通の様子などを物語っている。
石棺は石材の産出地から瀬戸内海を船で運ばれたと推定される。
竜山石の家形石棺は近畿地方を中心に岡山県(1例)広島県(6例)
山口県(1例)山陽道に運ばれている。
二本松古墳の石棺
石棺にはいろいろな種類があるがこの石棺は家型石棺である。
蓋石の頭部に平坦な面があり、四方に傾斜していた屋根の形を
思わせていることからこの名前がついた。蓋石の長辺に2個ずつの
縄掛突起がついている、身(石棺本体)は側石と低石で合計5枚の
板石を組み合わせて造った組合せ式である。
石材は流紋岩質凝灰岩で兵庫県高砂市産の龍山石であることが
判明しており同じように龍山石で造られた石棺がこの沼田川流域で
6個発見されている。石棺は分解され、南方神社(宗長神社)拝殿の
踏石や手洗い鉢に使用していたが昭和58年12月17日境内
に復元し安置した。
(踏石と手洗いに使用されていたとは)
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貞丸古墳
二号古墳は復旧工事中
01/3/24芸予地震により石室の一部が崩落した為立入禁止
05/1/26 貞丸古墳 円墳 元の姿に
04/4〜修理工事(767万円)
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御手代(みとしろ)古墳
この古墳は、1895(明治28)年国道改修工事により発見された
ものである。特に、この石棺は屋根形で非常に優美に削られている。
この横穴式石棺は6〜8世紀の間に我国で流行したものであり、
7世紀中頃の築造と考えられる。内部から発見された副葬品は
国立東京博物館に収められている。この古墳の主の名前は
現在知ることはできないが、おそらく沼田地方の首長の墓と
考えられる。
南方村役場跡
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梅木平(ばいきひら)古墳
県内では最大規模の横穴式石室をもち、境丘は円墳であった
と推定される。石室は全長3.25m、高さ4.2mの規模をもち
巨石で組まれている。石室の平面形は、中央部両側に石柱が
建てられていることから、両袖式の石棺かあるいは複室をなす
玄室に片袖の羨道(ぜんどう)がついたものと考えられる。
東方200mには白鳳時代の古瓦を出土する史跡横見廃寺跡
があり古代国家成立期にこの地方に高い文化があったことを
示している。
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横見廃寺跡 本郷中学校の隣にある
いわゆる火炎文丸瓦を出土する広島県最古の寺跡として知られて
いる昭和48年以降、広島県教育委員会が行った発掘調査によって、
北側に山を背負った南面する微高地に講堂・塔・築地などの遺構が
残存していることが明らかになった。建物お数が少ないため
不明な部分も多いが、寺域は東西約100m、南北約80m前後と
考えられている。講堂跡は寺域の東寄りに位置し西面する。
基壇は南北28.8m東西19.2mの規模で建物は桁行7間*梁行4間
と推定されている。基壇は平瓦をたてならべて化粧し、この基壇の南側
には回廊がとりつく、講堂の西北方には塔(または北金堂か)の遺構が
検出され、西向きの特異な伽藍配置となる。瓦類は山田寺式単弁
蓮華文軒丸瓦(火炎文瓦)や忍冬唐草文軒丸瓦をはじめとし優美な
白鳳時代のものが多数出土しており特に火炎文瓦は飛鳥地方との
直接的な交流を物語るものとして注目されている。
なお本寺の西約200mには県内最大の横穴式石室をもつ
梅木平古墳(県史跡)があり、さらに西約2kmには切石積の
石室で知られる御手代古墳(史跡)がある。
いずれも畿内政権との交流を示すものであり、当時のこの地域が
畿内と密接に関係していたことがわかる。
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道しるべ
心光寺
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菅公(かんこう)手掘井戸・甑(こしき)天満宮
およそ1100年ほど前、都で右大臣という位についていた
菅原道真(菅公)という人は、朝廷で大変重く用いられていました。
しかし、延喜元年(901)藤原氏の策略のため都から遠く離れた
九州の大宰府に大宰権師として送られまいた。
途中この地に上陸したところ人々は水不足でたいへん困っていました。
みかねた道真が自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が
湧き出し人々を救ったのでした。その後、このご恩を忘れないようにと、
みんなで丘に社を建て甑(こしき)をご神体として祀りました。
これが岸ヶ岡の甑天満宮です。
そのときの井戸が菅公手掘り井戸として大切に守られ、
今も清水をたたえています。
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